第58話:皇帝の亀裂
「予選はついに最終盤! プリンスの叩き出した驚異的なタイムに対し、カイザーが一切の無駄を排したライン取りでセクター2を最速通過! この雨の中でミリ単位の精度を維持する……まさに神の業だ!」
「……ええ、博士。だが、見てください。その背後に、先ほどプリンスに抜かれたはずの乱菊が、ピタリと張り付いている! スリップストリームを吸うのではなく、まるで影のように、カイザーの『思考』に同期しているようです!」
カイザーのコンソールには、雨粒の軌道すらも予測した「透明な正解」が描かれていた。
だが、その冷徹な論理の隙間に、紫の毒――プライベート・リンクが音もなく侵入する。
『あら、陛下。そんなに急いでどちらへ?』
(……計算通りの人生なんて、退屈すぎて死んでしまいますわよ)
『……無駄な通信だ、乱菊。私の最適解を邪魔することは誰にもできない』
(……ノイズを排除しろ。私は、この『正解』の中にしか存在を許されないのだから)
――接続――
そこは、果てしなく続く、真っ白で、音一つない幾何学的な迷宮。
「……計算不能。……乱菊、この領域への介入は規約違反だ。……速やかに接続を解除し、演算リソースをコースへ戻せ」
カイザーの意識体は、感情の起伏を一切見せず、淡々と論理を説く。
だが、乱菊はその無機質な白壁に、そっと指先を滑らせた。
「ふふ。……規約、規約って。……ねえ、陛下。貴方は寂しくありませんこと? ……この、一分一秒の狂いもない『正解』だけの世界。……ここには、何もありませんわ」
「……無意味な問いだ。……私は『最速』という解を出すために存在する。……それ以外に何が必要だ」
「……『敗北』への恐怖、ですわ。……貴方は、計算が合わなくなることを、死ぬほど恐れている。……もし、予測できない『バグ』が目の前に現れたら……貴方はただの、空っぽな演算機に戻ってしまう」
乱菊が壁を強く叩くと、真っ白な迷宮に、一筋の黒い「亀裂」が走った。
それは、カイザーが必死に演算で塗り潰していた、敗北への根源的な恐怖。
「……っ。……消去しろ。……その『ノイズ』を、今すぐっ!デリート……!」
「……ああ、視えたわ。……貴方の仮面の下にある、果てしない空虚。……完璧であろうとするほど、貴方は『無』に近付いていく。……その震える回路、最高に『壊したく』なりますわ」
――――強制切断
現実に戻った瞬間、カイザーのマシンが、最終コーナー手前でコンマ数ミリ、あり得ない「迷い」の挙動を見せた。
「今、カイザーの右フロントがわずかに暴れたぞ! 博士、今のミスは……!」
「……信じられん。あのカイザーが、縁石に対して臆病なマージンを取った。……計算の鬼が、初めて『路面の不確実性』に怯えたのか!? 暫定ポールは、わずかコンマ003秒差で逃した!」
乱菊は、ピットへ戻る漆黒の背中を、愉しげな眼差しで追った。
(……さて。……これで『獲物』たちは、みんな中身が剥き出しになりましたわ。……最後は、あの紳士さんと、……得体の知れない魔法使いですわね)




