第57話:王子の再臨
ブラジル、サンパウロ。インテルラゴスの空は、いつ泣き出してもおかしくない重苦しい湿気を孕んでいた。
「ボム・ジア! 予選はさらに激しさを増しています! 先ほどモンスターが突如として挙動を乱し、暫定順位が大きく入れ替わりました! 博士、今の異変……どう見ますか?」
「……不可解ですな。だが、今のAGPには論理では説明できない『何か』が混じっている。……おっと、見なさい! モンツァでの屈辱を乗り越え、驚異的なアップデートを遂げたプリンスが、乱菊のインサイドを猛烈な勢いで突きにかかっている!」
かつての「王子様」の面影はどこにもなかった。今のプリンスの走りは、執念深く、泥臭く、勝利という一点にのみ牙を研いでいた。
『あら、プリンス様。随分と情熱的なアプローチですこと?』
(……随分と、いい顔をするようになったじゃない、王子様)
『……以前の僕とは違う。君に、借りを返しに来たんだ』
(……黙れ、乱菊。……あの日、お前に全てを奪われた瞬間、僕は死んだ。……今ここにいるのは、お前を地獄へ引きずり戻すための、復讐の鬼だ!)
交錯する火花。時速320kmの死闘。
乱菊は冷ややかに微笑み、プリンスの心臓部へと、極限のプライベート・リンクを叩きつけた。
――接続―― 0.0001秒のアイソレーション・ガーデン。
そこは、眩いスポットライトに照らされた、孤独なステージだった。
「……またここか。だが無駄だ。今の僕には、どんな精神攻撃も届かない!」
「ふふ。……相変わらず、眩しいわね。……でも、王子様。貴方のその『完璧な自分』という仮面、重たくありませんこと?」
乱菊は、プリンスの足元に広がる影を指差した。そこには、純白の衣装を泥で汚し、醜く這い上がろうとする本性が、ドロドロとした黒い欲望となって漏れ出していた。
「……やめろ。僕は、僕はみんなに愛される、最高の……!」
「……いいえ。貴方はただ、誰よりも『持たざる者』であることに怯えているだけの、強欲な飢えた犬。……ファンに愛されるためではなく、自分を捨てた世界を跪かせるために走っている。……その醜い上昇志向、最高に『人間臭くて』素敵ですわよ」
「……う、うあああああッ!!」
――――強制切断
現実に戻った瞬間、プリンスのマシンは、雨で最も滑りやすい縁石を強引に踏み越え、火花と水飛沫を爆発させて乱菊を抜き去った。タイムは驚異的な暫定トップ。
「ガブリエル、見ましたか!? プリンスが……かつてのスマートな走りを捨て、狂犬のように乱菊を捩じ伏せた! 暫定トップタイム更新!」
「おおおっと! だが博士、見てください! 彼のヘルメット・バイザー越しに見えるアバターの表情が……まるであの爽やかな王子様とは思えない、鬼気迫る形相だ! 全世界のファンが、彼の『裏の顔』に戦慄しています!」
乱菊は、一瞬だけ先行を許したその背中を視て、陶酔したように呟いた。
(……ああ、美しい。……剥がせば剥がすほど、みんな『醜く』なっていく。……次は、あの完璧なカイザーの番かしら)




