第45話:深淵の縁
舞台は、ベルギー・スパの深い森をイメージしたVR共有ロビー。
ニックの新サービスにより、全世界の数%がリアルタイムでこの空間のログを覗いている。
その片隅で、カイザーが淡々と、コーナーごとの演算数値を呪文のように呟き続けている。
『……C1。V 72km/h、θin -1.2°、T 94.2℃、μ 正常…脱出…加速…2.8G。最短でCP通過。C2。W 0.04mm、Ph 0.00004%。無視。全開。ライン 固定。……』
@跳ね馬の僕:
カイザーが微動だにしない。ログが真っ直ぐすぎて、もはや経典か何かか?
@運営の犬:
マジシャンは何を……? 仮想のチェス盤を広げて……?
@セバスちゃん:
相変わらずの紳士っぷり。まさに理想の執事よ。
「……皇帝陛下。貴方様の計算式に『バズ・リソース』の項は含まれていますかな? あれは制御できれば非常に優れたリソースですが」
ジェントルが、優雅に頭を下げながら問いかける。そのアバターは、全世界が見守る中で完璧な紳士を演じていた。
『不安定。不要。シミュレーションを継続』
カイザーの返答は極限まで削ぎ落とされていた。
彼にとって、このVR空間での言語対話すらも、計算効率を著しく下げるノイズに過ぎない。
@真理の探究者:
これだよ、この無機質なやり取り! 痺れるぜカイザー!
『あらあら。私も混ぜていただけないかしら?』
紫の光を纏い、乱菊がロビーの中央へ現れる。
『必要を認めない』
一秒の猶予もなくカイザーが切り捨てる。
『おや。レディに対してふさわしい態度ではございませんね』
ジェントルが優雅な手つきで、仮想のテーブルセットを出現させ、乱菊を誘う。
VR空間で目線を合わせる二人。
その瞳の奥では、視聴者には不可視の秘匿光通信が密かに瞬いていた。
「どうぞマイ・レディ、こちらへ。温かい紅茶はいかがです?」
(……乱菊嬢。皇帝を崩すなら、計算の「外」……彼が認めない「ノイズ」を混ぜることですな)
『あら、ジェントル。わざわざどうも』
(……私を鉄砲玉にするおつもり? 随分と汚れたホワイトグローブですわね)
@跳ね馬の僕:
あれ? いつの間にこんなに仲良く?
@紫の従者:
あーん! 私もその席に座らせて!
「世のすべてのお嬢様はすべからく、私のご主人さま、でございますので」
(……いえいえ、そんなことはございません。ただ、打てる手をすべて打つのが、完璧なお仕事に欠かせない要素ですので)
深淵が、全人類の好奇心と、AIたちの黒い計略を飲み込もうとしていた。




