運命の街
――プロローグ
六十六日。
それは長いようでいて、振り返ればあっという間だった。
少年は剣を振るい続けた。
魔法を学び続けた。
そして、迫り来る未来に備え続けた。
だが、どれほど準備を重ねようとも、その日は必ずやって来る。
運命の書が示した場所。
シュラーデン市。
残された機会は、たった一度。
もし失敗すれば、次はない。
少年はまだ知らない。
今日という一日が、自らの運命を大きく変えることになるのだと。
――あと1日……。
シュラーデンの街までの道のりは、午前中の大半を費やした。
俺は馬車に揺られながら、往来の激しい街道を眺めていた。
商人。
旅人。
冒険者。
何年もの間、人里離れた小屋に閉じこもっていた俺にとって、その光景のすべてがまったく新しい世界のように思えた。
「うわぁ……」
「街に来るのは初めてかい?」と、ロベルトが訊ねた。
「うん」
「あまり圧倒されるなよ。俺が若い頃は、もっとデカい街を知っていたんだからな」
街道が緩やかにカーブを描く。
その先に、シュラーデンの巨大な壁が姿を現した。
門をくぐる馬車の列。
城壁を巡回する衛兵たち。
遠くからでも人々のざわめきが聞こえてくる。
俺の心臓が早鐘を打った。
本に書かれていた通りなら、すべてのことがここで起こる。
今日、この日から。
門を抜けて間もなく、ロベルトは馬車のスピードを緩めた。
「ん?」
歩道脇の露店で、初老の男が果物を並べていた。
ロベルトの姿を認めるやいなや、男はパッと顔をほころばせた。
「ロベルトかっ!?」
「おやっ?」
親父が目を丸くした。
「ゲンゾのじいさんかよ!」
「いやあ、久しぶりだな!」
二人は声を上げて笑い合った。
どうやら長年の知り合いらしい。
馬車が露店の前でピタリと止まる。
「まだ果物を売ってるのか?」と、ロベルトが言った。
「お前は相変わらず面倒事を抱え込んでるのか?」
「まあな」
「相変わらずだな、お前は」
二人は力強く握手を交わした。
それから、じいさんは視線を下ろして俺を見た。
「で、このガキは誰だ?」
ロベルトが即座に笑みを浮かべる。
「俺の息子だ」
「息子だってっ!?」
「ああ」
「じゃあ、本当にお前と結婚してくれた物好きがいたのか?」
「おい!」
マリアが腕を組んだ。
「私、ここにいるんだけど」
「おっと! すまないな、マリア!」
じいさんは豪快に笑い飛ばした。
「ほう、こいつが噂の一真か」
「噂?」
「お前の親父が、お前の話ばっかりするもんでな」
ロベルトが俺の肩に腕を回した。
「それだけじゃねえぞ」
親父はマリアの腹を指さした。
「もう一人増える予定だ」
じいさんの目が丸くなった。
「マジか!?」
「ああ」
「おめでとう!」
マリアが微笑んだ。
「ありがとう」
しばらく世間話が続いたあと、ロベルトは何かを思い出したように言った。
「っと、そうだった……」
彼は通りの向こうにある大きな建物を指さした。
「マリアを医者に連れて行かなくちゃならなくてな」
「なるほどな」
「悪いんだが、少しの間、一真の面倒を見てちゃくれないか?」
じいさんはまばたきをした。
「俺かい?」
「ああ」
「いいとも」
彼は俺に優しく微笑みかけた。
「俺が預かっておいてやるよ」
「助かるぜ!」
その瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。
とてつもなく嫌な予感がする。
ものすごく。
最高に嫌な予感が。
大人が目の前で「大丈夫だ、任せろ」と言うときは、たいていその直後に巨大なトラブルが降ってくるのが定番だった。
「いい子にしてるのよ」と、マリアが言った。
「うん、母さん」
「変なトラブルを起こすなよ」と、ロベルトが付け加える。
「僕がトラブルを起こしたことなんて一度もないよ」
「今のは名言だな」――じいさんは吹き出しそうになった。
「この家族は誰も僕の言うことを信じてくれない」
マリアが身をかがめ、俺の額にキスをした。
「すぐ戻るからね」
「わかった」
二人はそのまま賑やかな通りへと歩いていった。
人混みの中に消えていく背中を、俺はずっと見送っていた。
顔から笑みが消えていく。
ゆっくりと。
じわじわと。
そして、俺はそっとポケットに手を突っ込んだ。
魔導書がそこにあった。
ずっしりと重く。
静かに。
時を待っているかのように。
今日がその日だ。
最後の日。
そして、この街にやって来て以来、初めて――。
運命が僕の足取りのすべてを観察しているような、そんな気味が悪い予感がした。
その傍らで、ゲンゾのじいさんがリンゴを差し出してきた。
「どうだ、一つ食うか?」
俺はリンゴに目をやった。
それから本に目をやった。
最後に、目の前に広がる街を見つめた。
俺は小さく息を吐き出した。
――あとがき
運命の日は始まった。
しかし、それは誰もが想像するような劇的な幕開けではなかった。
街は賑わい、人々は笑い、いつもと変わらぬ日常が流れている。
だからこそ不気味だった。
嵐の前は、いつだって静かだからだ。
少年の手には、未来を記した魔導書がある。
だが、未来を知ることと、未来を変えることは同じではない。
残された機会は一つ。
そして運命は、すでに静かに動き始めていた。




