第4話:小さな共犯
あの「小さな共犯」から、約一週間後のことだった。
いよいよ冬期講習も大詰めになり、自習室の空気は前よりもさらに重く、息苦しくなっていた。シャーペンの走る音と、誰かがため息をつく音だけが響く空間。
僕はまた、プレッシャーに押し潰されそうになっていた。
そして正直に言うと、あの冷たい夜風の中で二人きりで飲んだ、あのココアの温かさがどうしようもなく忘れられなかったのだ。
「……ちょっと、空気吸いに行かない?」
僕は隣の桜井穂夏に、また小さく囁いた。
穂夏は少しだけ驚いた顔をしたけれど、すぐにふんわりと笑って、小さく頷いてくれた。
二回目となれば、少しは余裕が出る。――なんてことは全くなく、相変わらず僕の心臓は破裂しそうなほどうるさく鳴っていた。
それでも、前回と同じように「トイレに行くだけです」という顔を作って席を立つ。
平然と、平然と。
受付の前を横切り、最大の難関であるトイレの入り口をスルーして、塾の自動ドアを無事に抜ける。
よし。完璧だ。今日も完璧なはずだった。
前回よりも少しだけ遠出をして、僕たちは駅へ向かった。ここの自販機で、また温かいものを買おうと思ったのだ。
駅の連絡通路に上がるためのエレベーターに乗り込み、「閉」ボタンを押す。
扉がゆっくりと閉まりかけた、その瞬間だった。
「おっと、乗るぞー」
スッと、扉の隙間に正体不明の巨大な腕が差し込まれ、閉まりかけた扉が再び無慈悲に開いた。
そこに立っていたのは、片手に財布を握りしめた見慣れた死ぬほど背の高い人物だった。
隣の校舎で主に高校生たちに授業をしているけれど、僕たち中学受験コースの担任のような立場でもある死ぬほど背の高い先生。
いつもみんなの心を癒やしてくれてとしていて面白いから、みんなからめちゃくちゃ信頼されている。そして何より、生徒思いで、僕たちのことなんて「ほぼほぼ何でもお見通し」な、鋭い先生だ。
「……あ」
僕の喉から、人生終了を物語るような情けない音が漏れた。
密室。逃げ場なし。
バレた。完全にバレた。
”積み”だ。
\(^o^)/オワタ
心臓の音が、隣の穂夏にも、目の前の先生にも聞こえているんじゃないかと思うくらいうるさい。僕は固まったまま、ただエレベーターの階数表示と店の紹介を見つめることしかできなかった。
先生は僕たちを二度見して、それからニヤリと、、、、笑った――
「おう、奇遇だな。俺は今から遅い夕飯を買いに行くところなんだが、君たち、随分と『遠いトイレ』に向かってる途中みたいだな?」
終わった。やっぱり、全部お見通しだった。
怒鳴られる。親に連絡される。頭の中で最悪のシミュレーションが駆け巡り、僕は「す、すみません……」と消え入りそうな声を出した。
「まぁ、煮詰まる時期だからな。自習室の空気が重いのはよく分かる」
そう言うとふっと表情を和らげた。そして、エレベーターが一階に着いて扉が開くと、外の冷たい空気を大きく吸い込んで言った。
「お前らだけでウロチョロしてたら、教務主任に見つかって大目玉だぞ。ほら、俺の散歩に少し付き合え。夜風、浴びに行くぞ」
「え……?」
呆然とする僕たちをよそに、先生はスタスタと駅前の広場の方へ歩き出した。僕と穂夏は顔を見合わせ、慌ててその大きな背中を追いかけた。
冬のピリッとした夜風の中を、僕たちは三人で歩いた。
先生は受験の話なんて一切しなくて、「そうめんがコスパ最強」だの「高校生が髪染めていてびっくりした」だの、くだらない話ばかりして僕たちを笑わせた。
途中、自販機の前で立ち止まると、先生はチャリンチャリンと小銭を入れて、温かいココアを二つ買ってくれた。
「ほらよ。絶対風邪ひくなよ」
渡された赤い缶は、前回の「小さな共犯」の時に僕が買ったものと同じだったけれど、大人の手のひらから渡されたそれは、なんだか無性に温かかった。
「……ありがとうございます」
「ありがとうございます、先生」
僕たちが両手で缶を握りしめると、先生は「よし、そろそろ戻るぞ。これ以上は俺が怒られるからな」と笑ってまた歩き出した。
少し前を歩く先生の大きな背中を見ながら、隣の穂夏がふんわりと笑う。
「先生、全部お見通しで、わざと一緒に歩いてくれたんだね」
「うん……ほんと、大人ってすごい。全然敵わないや」
僕の必死な隠し事も、そして張り詰めていたプレッシャーも、あの先生には全部バレていたらしい。
怖かったけれど、バレてしまったけれど。夜の街を歩いたこの短い散歩の時間がどうしようもなく特別で、胸の奥がじんわりと熱かった。
(この時、僕はただ、ココアを両手で包む穂夏の横顔と、前を歩く大きな先生の背中だけを見つめていた。この温かい『特別』な感情が、やがて来る春、そしてその先の未来で、僕自身をどれほど深く縛り付けることになるのか――相変わらず僕は、何一つ分かっていなかった――)




