第3話:冬の逃走劇
小六の冬。
いよいよ受験が目の前に迫ってきたこの時期の塾は、夏の頃とは全く違う、張り詰めた空気に包まれていた。
暖房が強烈に効いた自習室は、みんなの焦りと不安で満ちていて、なんだか息が詰まる。本当に、息が詰まりそうだった。
誰よりも模試の判定に怯えていて、誰よりも空気に敏感な僕は、その空気に耐えられなくなって、ふとシャーペンを置いた。
そして、隣で静かに過去問を解いている桜井穂夏に向かって、小さく、小さく囁いた。
「ちょっと、抜け出さない?」
なぜか流れるように言葉がこぼれた
穂夏のシャーペンがピタリと止まる。彼女が目を丸くして僕を見た。
無理もない。受験直前のこの時期に自習室を抜け出すなんて、ただの自殺行為だ。でも、僕はなんだか、この息苦しい空間から穂夏を連れ出したかった。
「うん」
少しの沈黙の後、穂夏は小さく頷いた。
ここからが本番だ。塾の構造上、外に出るには先生たちが目を光らせている受付の前を通らなければならない。
コソコソ隠れる方が逆に怪しまれる。だから僕は、立ち上がって、あくまで「トイレに行くだけです」という顔を作った。
平然と、平然と。
決して焦るな。普通を装って普通に、普通に歩くんだ。
受付の前を横切る。教務主任の先生がふと顔を上げた気がして、背中に嫌な汗がどっと吹き出した。心臓が破裂して死ぬじゃないかと思うくらいうるさく鳴っている。
バレたら終わる。めちゃくちゃに怒られる。でも、後ろからは穂夏が僕を信じてついてきている。だから僕は、絶対に振り返らず、ただ真っ直ぐに自動ドアへと向かった。
ウィーン、と鈍い音を立ててドアが開き、僕たちは外に出た。
塾の敷地から少し離れた路地に駆け込んだ瞬間、冬の冷たい夜風が、パンパンに熱を持った頭を一瞬で冷ましてくれた。
「ははっ、心臓、止まるかと思った」
僕が肩で息をしながら笑うと、穂夏も「私も」と言って、ふんわりと、本当にふんわりと笑った。
抜け出してきたという強烈な罪悪感と、それを二人で乗り切ったという、小さな共犯者のような特別な感じ。
僕は震える手でポケットの小銭を探り、近くの自動販売機で温かいココアのボタンを押した。ガコン、と音がして、小さな赤い缶が転がり出てくる。
「はい、これ」
今度は絶対に落とさないように、落とさないように。
両手でしっかりと包み込むようにして、彼女に赤い缶を差し出した。
「ありがとう、一ノ瀬くん。……一ノ瀬くんが声かけてくれなかったら、私、ずっと苦しい顔して問題解いてたかもしれない」
穂夏は両手でそれを受け取ると、冷えた頬に缶をぴとっと当てた。
その仕草があまりにも、あまりにも可愛くて、僕は思わず目を逸らしてしまった。
「……絶対、合格しようね」
ココアの熱で少しだけ赤くなった顔で、彼女は僕を見た。
嘲笑ったり、プレッシャーをかけたりするトーンじゃない。真っ直ぐで、優しくて、どこまでも柔らかい声だった。
「うん。僕たち、絶対に同じ中学に行こう」
不安で押し潰されそうだった僕の心に、彼女の言葉とココアの熱が、本当に、本当に温かく染み渡っていく。
そんな話をしながら僕達は夜の街を散歩した。
(僕はまだこのとき、冬の夜風の中で微笑む穂夏のことしか見えていなかった、見ていなかった。この冬を乗り越えたずっと先に、僕の心をぐちゃぐちゃにかき乱す、もう一つの混沌とした感情が待っているなんて――この時の僕は、何も分かっていなかったんだ、何も知らなかったんだ。)




