第2話:夏のミッション
遡ること約一年前。
僕は中学受験の勉強をしていた。
これは小六の夏の出会いだ――。
僕は受験勉強のために塾の自習室に来ていた。
隣にはたまたま来ていた桜井穂夏がいた。
そして僕には重大ミッションがある。
昨日穂夏が忘れていた筆箱を渡さなければならないのだ。
自習室に行ったらもしかしたらいるかな?
と思って一応持ってきていたが、普通にいた。
なんて声をかければいいか……。
どんな顔して渡せばいいか……。
普段の僕はおしゃべりな方だけど、いざとなると言葉が詰まる。変に思われたくなくて、頭の中で何度もシミュレーションを繰り返してしまうのだ。
「あ、あのー、桜井さん」
ひねり出した声は、我ながら少し上ずっていた。
穂夏がパチリと瞬きをして、こちらを向く。
「あ、一ノ瀬くん。おはよう」
「おはよう。えっと・・・これ、昨日自習室に忘れてたよ。もし今日も来てるなら、渡そうと思って」
ただ、ただ必死に自然なトーンを装って、筆箱をカバンから取り出した。
このまま普通を装って普通に、普通に渡そうとしていた。
「あっ」
緊張で指先が滑り、筆箱は宙を舞い、反射的にキャッチしようとしたが、届かなかった。
「ご、ごめん! 落としちゃった・・・」
散らばった中身を必死に急いで拾う僕に穂夏は柔らかく笑った。
柔らかく、優しく、嘲笑ったりするトーンではない。
「ありがとう、一ノ瀬くん。わざわざ持ってきてくれたんだね」
穂夏も床にしゃがみ込んで、僕と一緒に消しゴムやらシャーペンの芯やらを拾い集め始めた。
その優しさがプレッシャーでいつも張り詰めている僕の心に、彼女の存在は本当に、本当に温かく染み渡る。
ふと、彼女の机の上に開かれたままの志望校の中学校のパンフレットが見えた。
そこには年間行事のページがあって、『夏季林間学校・レクリエーション』という小さな写真が載っている。
「林間学校でダンスか・・・なんか、そういうのって緊張するよね」
拾い集めた中身を筆箱に戻しながら、僕は本当に何気なく、ただの会話のつなぎとして呟いた。
今の僕には関係のない、ずっと先の話。でも、そのキャンプファイヤーの写真を見た時、なぜか、本当になぜか胸の奥が少しだけざわっとした。
「そうかな? 一ノ瀬くんなら、誰とでも楽しく踊れそうだけど」
「いや・・・僕はそういうの結構抵抗あるんだよね・・・」
僕が照れて誤魔化すと、穂夏はまた僕の目を見て笑った。
「私たち、同じ中学に行けたらいいね」
ふんわりと、本当にふんわりと、彼女はそう言った。
僕はただ、その言葉に純粋に舞い上がっていた。嬉しくて、恥ずかしくて、それだけで胸がいっぱいだった。
(僕はまだこのとき、穂夏のその優しい言葉に救われている自分しか知らなかった。この『ダンス』という行事が、のちに自分の心をどれほど大きく揺るがすことになるのか。そしてこの小さな願いが、どんな形で僕を縛ることになるのか――この時の僕は、本当に何も分かっていなかったんだ)




