売却帳簿の欠けた麦穂印
夜明けのパン窯に火が入る前、パン屋の作業台には一冊の売却帳簿が置かれていた。
表紙には、きれいな字でこう書いてある。
余剰品一括処分簿。
けれど、ミラにはその言葉が、どうしても余剰には見えなかった。
「ミラさん、これ……昨日の黒荷印と同じです」
ルカが、帳簿の右端を指した。
欠けた麦穂。
丸い印の内側で、麦の穂先が一本だけ折れている。古毛布、水車の歯車、無記名の麦袋、空白賃金札。どの紙にも、最後にこの印が押されていた。
帳簿係は、青ざめた顔で両手を広げた。
「それは正規の売却記録だ。品物は処分済み、運搬費も処理済み。君が触っていいものじゃない」
「処分済み」
ミラはその言葉を、声に出して読んだ。
すると作業台の端で、帰宅荷車から降りたばかりのマレナが、濡れた指を握りしめた。
「……私の賃金札にも、同じ言葉がありました」
彼女は夜明け前に洗濯場へ戻れた。弟の水番札も空白にされずに済んだ。けれど、髪にはまだ夜風の冷たさが残っている。
ミラは売却帳簿の最初の行に指を置いた。
古毛布七枚。
売却済み。
搬出者、空白。
運搬費、処理済み。
帰宅確認、なし。
次の行。
水車歯車一。
売却済み。
修繕受領、なし。
運搬費、処理済み。
帰宅確認、なし。
さらに次の行。
麦袋三。
売却済み。
焼き場担当、空白。
臨時運搬費、処理済み。
帰宅確認、なし。
ミラは息を止めた。
品物の行に、人の帰り道が混ぜられている。
「これは、売却帳簿ではありません」
「何を言う!」
「品物を売ったふりをして、運んだ人の賃金と帰宅まで処分済みにしています」
パン屋の女将が、窯口の鉄棒を握ったまま黙った。
テオが診療所の控え札を取り出す。
ルカは自分の仮帰宅札を胸に押し当てた。
ミラは帳簿の紙へ、そっと指を押しつけた。
ざらり、と紙の奥が鳴る。
能力が見せたのは、帳簿全体ではない。
たった一行の、まだ閉じていない朝だった。
――麦袋一袋。粉がこぼれた荷車の底。リタが焼き場で空の粉箱を見つめている。
――灰色の上着を着た臨時運び手。名前札は裏返され、「処理済み」の束に挟まれている。
――帰宅席の番号が、荷物用に塗り替えられる。
――その男が、パン屋の裏ではなく、王都商会の倉庫へもう一度歩かされる。
ミラは目を開けた。
「この行だけ、今すぐ開きます」
「全部を調べるつもりか。そんな権限は――」
「全部ではありません。一人分です」
ミラは麦袋三の行に、青い保留札を置いた。
「この麦袋を運んだ人の名前が分かるまで、売却済みにできません。リタさん、昨日、粉袋を下ろした人を覚えていますか」
焼き場番のリタは、はっと顔を上げた。
「灰色の上着の人です。袋を下ろすとき、左手を痛めていました。名前を聞こうとしたら、帳簿係に『荷物の付属人夫だから不要』って」
「付属ではありません」
ミラは、帳簿の空白欄に仮の線を引いた。
麦袋三。
うち一袋、焼き場未配送予約分。
運び手、灰色上着の男。左手負傷。
半日賃金、未払い。
帰宅席、未確定。
次仕事、本人確認なし。
「人を品物の付属費用にしないでください」
帳簿係の喉が鳴った。
「それは、商会の書式だ。伯爵家の家令様が認めた正式な――」
「正式なら、生活側の到達条件を書けるはずです」
ミラは女将に向き直った。
「この一袋を焼き場未配送予約分として残せば、今朝の粥は足りますか」
「足りるよ」
女将は即答した。
「孤児院の小さい子に薄い粥を出さずに済む。けど、運んだ人の賃金は」
「この行から出します」
ミラは、売却済みの横に小さく書いた。
未完了。
帳簿係が叫んだ。
「売却済みの行へ未完了など書くな!」
「売られていないからです。麦袋はまだ朝へ届いていません。運んだ人も、まだ家へ届いていません」
マレナが一歩前に出た。
「私、北門で見ました。灰色の人、荷車に乗れなくて、王都商会の人に戻されていました。左手、布で巻いていました」
ルカも頷く。
「名前は聞こえなかったけど、商会の人が『もう一件運べば空白賃金を閉じてやる』って」
その言葉で、作業台の周りが静まり返った。
一件運べば閉じる。
つまり、閉じない賃金札を人質にして、次の仕事へ押し出している。
ミラは、青い保留札をもう一枚重ねた。
「この人は未雇用でも未処理でもありません。未帰宅です。左手負傷のまま次の配送へ出すなら、麦袋の売却行ではなく、労務強制の記録になります」
テオが診療所印を押した。
「左手負傷なら、診療所で確認する。治療前の再配送は禁止だ」
女将が粉箱を開け、残りの粉を計った。
「粥は作る。灰色上着の人が戻ったら、朝食も渡す」
リタは焼き場札に名前を書いた。
「焼き場未配送予約分、一袋。受け取りは私、リタです。運んだ人の名前欄は空けて、本人が来たら書いてもらいます」
空白を埋めない。
でも、消さない。
その空白が、まだ帰れていない人の席になる。
ミラは売却帳簿を閉じなかった。
閉じないまま、欠けた麦穂印の横に青い紙を貼る。
品物、未到達。
運び手、未帰宅。
賃金、未払い。
次仕事、本人確認前。
「この一行は、売却済みではありません。生活到達前です」
帳簿係は、唇を震わせた。
「バルト様が黙っていないぞ。家令様は、余剰品を売っただけじゃない。冬越しに余る人手も、商会へ回す約束で――」
言い終わる前に、彼は口を押さえた。
ミラは帳簿の奥付をめくった。
そこにあった題名は、表紙と違っていた。
余剰品一括処分簿。
その下に、小さな別名が記されている。
労務整理費回収簿。
欠けた麦穂印は、品物の売却印ではなかった。
冬を越すための物と、冬を越すために働く人を、まとめて商会へ渡すための印だった。
「余っている人なんて、いません」
ミラは帳簿を抱えた。
「まだ帰れていない人がいるだけです」
窯の火が、ゆっくり赤くなった。
今朝の粥は、少し薄くならずに済む。
けれど売却帳簿の後ろには、同じ欠けた麦穂印が、まだ何十行も並んでいた。
その最下段に、見慣れた品名がある。
追放者携行余剰品。
担当在庫係、ミラ・セリス。
処理済み。




