旧職能責任、一括退職済
夜勤灯の下で、申請書の文字はやけにきれいだった。
旧職能責任、一括退職済。
きれいな字ほど、ミラはすぐには信じない。
倉庫の棚でいちばん危ないのは、泥で汚れた箱ではない。誰かが丁寧に拭いて、何も残っていないような顔をさせた箱だ。
「旧職能責任、とは何を指しますか」
ミラが訊くと、王都救済準備室の書記は、待っていましたとばかりに胸を張った。
「退職、解除、追放等により所在が移った職能印の残務責任です。返還倉庫を公式化するにあたり、一括で整理し、今後は倉庫側が保管を――」
「保管ではありません」
ミラは言葉を切った。
夜薬を抱えたセナが息を止める。荷運びのカイは、自分の賃金札を胸に寄せた。測量係見習いのリオは、裏口の幅を書いた紙を握っている。
みんな、一括という言葉が何を閉じるか、もう少しだけ知ってしまっていた。
「責任を箱に入れる前に、生活影響明細を出してください」
「生活影響……またですか」
「はい。またです」
ミラは青鉛筆で申請書の余白に四つの欄を作った。
薬札。搬入口。帰宅灯。賃金札。
「旧職能責任が一括退職済になると、今夜の薬札は誰が読んだことになりますか」
書記は唇を動かしたが、答えは出なかった。
セナが小さく手を挙げる。
「読んだことになっているなら、読めない行で患者に渡すことになります。熱の子の瓶です。夜に二回、量を変えるって書いてあるかもしれません」
「では一つ目」
ミラは薬札欄に書いた。
――翻訳責任。一括退職済不可。夜薬二本、読了者名・渡し先・未読行の青点確認まで未完了。
書いた瞬間、返還不要職能印の箱の底で、翻訳印がことりと鳴った。
次に、リオが紙を差し出した。
「裏口です。入庫幅は足ります。でも帰りに車輪を切るには、角の石が邪魔です。申請書だと、搬入口確認済で閉じています」
「入るだけで終わらせると、車も人も帰れません」
ミラは二つ目の欄へ青線を引く。
――測量責任。一括退職済不可。四七番車の入庫幅・帰庫幅・荷下ろし後の通行幅、三点確認まで未完了。
カイがほっと息を吐いた。
「帰る幅まで、俺の賃金札に書いていいですか」
「書いてください。運んだ人が帰れない配送は、まだ完了ではありません」
カイは灯りの下で、震える字で「帰庫幅確認待ち」と書いた。
三つ目は、灯りだった。
書記はそこで少し強い声になった。
「しかし夜勤灯管理印は追放済です。追放者の責任を残すのは不適切です」
「追放者の責任を残すのではありません。追放という言葉で、今夜帰る人の灯りを消させないのです」
返還倉庫予定地の前の道には、もう夜の濃い影が溜まっていた。薬を取りに来た少女が、瓶を両手で抱え、灯りの輪から出られずにいる。
ミラは三つ目を書く。
――夜勤灯責任。一括退職済不可。夜薬受取人一名、臨時荷役二名、水汲み帰宅一名の帰路確認まで消灯不可。
少女が、ようやく一歩を踏み出した。
カイが「俺、途中まで持ちます」と言った。セナが瓶の量をもう一度読み上げた。リオが坂の曲がり角に、余った青札を一枚貼りに走った。
小さな手順が動くと、一括という大きな言葉は、急に重く見えなくなる。
最後に残ったのは、賃金札だった。
申請書には、こう添えられていた。
旧職能責任移管に伴う臨時協力者謝礼、後日精算。
後日。
その二文字を見た瞬間、カイの肩がわずかに落ちた。
「後日って、いつですか」
ミラは書記を見た。
「公式化後、手続きに従い――」
「今夜帰る人のパン代は、公式化後には食べられません」
ミラは四つ目の欄を、いちばん大きくした。
――賃金責任。一括退職済不可。カイ、セナ、リオ、臨時荷役二名の半日賃金と帰宅費、本人名で仮払い。後日精算ではなく、今夜到着条件。
「そんな権限は返還倉庫にはまだ」
「では、返還倉庫を公式化する申請書に、誰の賃金を後日に送るのか書いてください」
ミラは申請書を、灯りの下へ置いた。
きれいな文字の下で、欠けた麦穂印が少しだけ浮いた。
書記の喉が動く。
「……臨時協力者の氏名欄は、別紙です」
「別紙を出してください」
「まだ、届いていません」
カイが笑った。泣きそうな笑いだった。
「じゃあ、俺たちもまだ一括退職済じゃないですね」
「はい」
ミラは青鉛筆で、申請書の中央に大きく書いた。
生活影響明細未添付。旧職能責任、一括退職済――未発令保留。
返還不要職能印の箱が、またことりと鳴った。
今度は四つの印だけではなかった。底布の下に、薄い紙束が隠れている。
リオが慎重に引き出すと、そこには同じ形式の別紙が何枚も綴じられていた。
退職済翻訳官。
解除済測量係。
追放済夜勤係。
処理済在庫係。
そして最後の一枚に、ミラの指が止まった。
返還倉庫予定地、管理責任者仮置き。
氏名欄は空白。
ただし、その空白の横には、欠けた麦穂印ではなく、王都救済準備室長印が押されていた。
ミラは空白を埋めなかった。
青札を一枚、そこへ重ねる。
「管理責任者を仮置きする前に、この場所へ誰が帰ってくるのかを数えます」
夜勤灯の火が、申請書の空白欄を照らした。
空白は、まだ誰にも使わせてはいけない場所の形をしていた。




