公式余剰回収令には、誰の朝も書かれていません
王都から届いた巻物は、赤い紐で結ばれていた。
赤は、緊急を示す色だ。
けれどミラには、その赤が、誰かの夜薬の栓を勝手に閉める紐に見えた。
「朗報だ」
王都商会の男は、旧粉置き場の入口で胸を張った。
「王都救済準備室は、この返還倉庫予定地を、正式な余剰回収拠点として指定する。これでお前たちの小さな札遊びも、公的な管理下に入る」
リタが、焼き上がったばかりのパン籠を抱えたまま目を輝かせた。
「正式ってことは、邪魔されないってこと?」
老婆も北井戸の鍵札を握り直す。
「王都が認めたなら、明け方の水番も安心かね」
ルカは半日賃金札を胸に当て、小さく息を吐いた。
喜びが、入口にふわりと広がった。
ミラも、それを喜びたかった。
返還倉庫という名が、誰かの紙に載った。棚一段から始まった場所が、消されずに残るかもしれない。
けれど、巻物の表題は、返還倉庫ではなかった。
公式余剰回収令。
余剰。
回収。
ミラは、その二つの語の間に、誰の名前も見つけられなかった。
「読み上げろ」
男が言った。
「返還倉庫予定地に所在する未配送品、未帰宅労務、未返還職能印、その他生活関連保管物を、非常時供出体制の補完資産として一括回収し、王都救済準備室の正式処理へ移す」
長い文だった。
けれど、中身は短い。
ここにあるものを、まとめて持っていく。
誰の薬瓶か。
誰の賃金札か。
誰が帰れていないのか。
誰の職能印が、どの生活手順を止めているのか。
何も書かれていない。
「ミラ?」
リタの声から、さっきの喜びが一枚はがれた。
ミラは巻物を机へ置いた。昨日立てた未返還職能印棚の横に、青い保留札を一枚並べる。
「この命令は、まだ発令できません」
「王都の印がある」
男は巻物の赤印を叩いた。
「正式だ」
「正式なら、正式に書いてください」
ミラは筆を取った。
白い紙に、三つの欄を引く。
回収するもの。
動く生活手順。
影響を受ける人の確認。
「補完と書くなら、誰の不足を何で補うのか。回収と書くなら、誰の手元から離れ、誰の朝が止まるのか。正式処理と書くなら、誰が読んで、誰が確認したことにされるのか」
男の笑みが細くなる。
「非常時だ。細かな明細など後でよい」
「後では、今夜の薬は飲めません」
テオが診療所の冷棚札を持って来た。
札には、青い保存瓶二本の番号と、発熱児エリンの名がある。昨日守った夜薬だ。
「この瓶を余剰回収に入れるなら、今夜の二回目の薬が出せません。冷棚確認印も、棚卸仮確認も、受領名も、全部この返還倉庫の机でつないでいます」
老婆が北井戸の鍵札を置いた。
「井戸鍵を非常時供出に入れるなら、明け方の横扉は誰が開けるんだい。水番の名が空いたままじゃ、洗濯屋もパン屋も始まらないよ」
ルカは、前より大きく自分の名を書いた賃金札を出した。
「俺たちを未帰宅労務って書くなら、帰ったかどうかと賃金を払ったかどうかも書いてください。荷物だけ届いたことにしないでください」
紙の上に、三つの生活が並んだ。
薬瓶。
井戸鍵。
賃金札。
どれも、王都の巻物では一括の中に沈んでいたものだ。
ミラは、巻物の余白に触れた。
視界の端が、淡く揺れる。
赤い紐で閉じられた荷車が見えた。
荷台には、青い保存瓶、北井戸の鍵札、賃金札の束、黒い箱に入った職能印が積まれている。
その荷車は王都へ向かう。
途中で、青い保存瓶の中身はぬるくなり、鍵札は「水路備品」と書き換えられ、賃金札は「労務整理済み」の束に入る。
最後に、返還倉庫の看板が外される。
余剰回収所。
そう書かれた新しい板が、同じ釘穴へ打ち込まれる。
ミラは指を離した。
「ここは、余剰回収所ではありません」
声は小さかった。
けれど、パンを冷ます棚の音も、井戸鍵の金具の音も、賃金札を握る紙の音も、その声を邪魔しなかった。
「返還倉庫です。余っているものを集める場所ではありません。まだ届いていないものが、誰の生活へ戻るかを確認する場所です」
「王都命令に逆らう気か」
「逆らいません」
ミラは巻物の表題の下に、青い保留札を重ねた。
公式余剰回収令。
生活影響明細未添付のため、未発令保留。
返還倉庫側受入条件。
一、物品には次の持ち主と用途を添えること。
二、労務には名前、賃金、帰宅確認、次仕事の本人確認を添えること。
三、職能印には責任範囲と、止まる生活手順を添えること。
四、上記が読めないものは、回収済み、処理済み、補完済みのいずれにもできない。
「正式にするなら、こちらも正式な受入条件を出します」
リタが、焼き上がったパンを一つ割った。
湯気が上がる。
「この粉は、明日の診療所粥にも回す分。回収するなら、粥を食べる子の名前まで書いて」
老婆は井戸鍵札の裏に、明け方の水番二人の名を足した。
「水は、飾りの瓶に入れるためじゃない。朝の桶へ行く分だよ」
ルカは賃金札の横に、小さな帰宅確認欄を作った。
「俺だけじゃない。昨夜の洗濯場番と、北門の荷下ろし番も、まだ帰宅確認が閉じてません」
男は、巻物と机の上を見比べた。
王都の赤印は大きい。
けれど、机の上には、薬瓶の名、井戸番の名、賃金を受け取る手、帰る道があった。
大きいだけの印は、そこにある小さな朝を説明できない。
「……一時保留だ」
男は苦々しく言った。
「王都へ照会する」
「照会先も書いてください」
ミラは言った。
「誰が生活影響明細を外したのか、どの台帳で確認するのか。そこまで未発令理由に残します」
男は返事をしなかった。
かわりに、巻物の端から小さな控え紙が滑り落ちた。
ミラはそれを拾う。
非常時供出体制・余剰回収拠点候補。
そこには、返還倉庫予定地のほかに、三つの地名が並んでいた。
白霧港倉庫。
南街道救護棚。
旧北砦労務宿。
どの地名の横にも、同じ欄がある。
生活影響明細。
すべて、空白だった。
そして作成者欄の下には、欠けた麦穂印が薄く残っている。
ミラは青い保留札を、もう一枚取った。
ここで守れたのは、今夜の薬と、明け方の水と、数人の帰り道だけだ。
けれど、空白は他の場所にもある。
余剰と呼ばれて、まだ朝へ届いていないものが、王都へ向かってまとめられようとしている。
「次は」
ミラは、控え紙の地名を見つめた。
「この空白が、どこの朝を止めるのかを読みます」




