1話「誰もいない街で1」
目を開くまでのあいだ、いつも似たような感覚がある。
身体が薄く引き伸ばされて、世界の隙間をすり抜けていくような——あるいは、世界のほうが自分のなかを通り過ぎていくような。どちらが正しいのかは、何度経験しても分からない。ただ、その瞬間だけは自分の輪郭が曖昧になって、自分という器がどこまでも空っぽであることを否応なく思い知らされる。
やがて感覚が戻る。指先から順に、身体の末端から中心へと。重力が足の裏を地面に引き留め、風が頬に触れ、光が瞼の裏を白く染める。
オリヴィアは目を開いた。
最初に飛び込んできたのは、深い青だった。雲ひとつない空が果てしなく広がり、その下を乾いた風がまっすぐに吹き抜けていく。草の匂い。それから、かすかに甘い何かの花の香り。
足元は短い草に覆われた丘の斜面だった。靴底の下に柔らかい土の感触がある。黄土色のブーツが草を踏む小さな音が、やけに大きく聞こえた。
見下ろした先に、街があった。
正確には——街だったものが。
白い石造りの建物が緩やかな谷間に並んでいる。壁は立っているが、屋根を失ったものが多い。蔦が外壁を這い上がり、崩れた窓枠から木の枝が伸びていた。通りだったはずの空間は草に覆われ、遠目には建物のあいだを縫う緑の帯のように見える。
「……静かですね」
呟いた声は風に溶けて消えた。返す者は、誰もいない。
右手に握ったスタッフの感触を確かめる。二股に分かれた先端のあいだで、琥珀色の水晶がかすかな光を宿していた。その上に据えられたひし形のエメラルドは、まだ沈黙したままだ。琥珀の貯蔵量は——多くない。出発前に注ぎ込まれた分だけ。使い所を見極める必要がある。
丘の上に立ったまま、眼下の廃墟をしばらく見つめた。
今回の派遣元を思い返す。名を聞いてもすぐに忘れてしまうような、輪郭のぼやけた神だった。打ち合わせと呼ぶのもおこがましいほど短い対面で、ごくわずかな言葉だけを寄越した。
『ここに人間がいた形跡がある。今は何もない。何が残っているのか見てきなさい』
いつものことだ。神々はそれぞれ関心の向きが違い、説明の丁寧さもまちまちだった。前回の依頼主は長々と背景を語ってくれたが、今回は最低限の指示だけ。不満はない。与えられた情報が少ないなら、自分の目で見て補えばいい。それが調査というものだし、何を見るべきかを決めるのは結局のところ——自分自身の目だ。
風がプラチナブロンドの毛先を揺らした。視界の端で光る髪を手で押さえ、オリヴィアは丘を下り始めた。
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斜面は緩やかで、歩きやすかった。
草のあいだに、かつて道だったらしい石畳の断片が見え隠れする。等間隔に埋もれた石の配置から、整然と敷かれていた名残が読み取れた。
この道を人が歩いていたのは、どれほど前のことだろう。
街に近づくにつれ、建物の細部が見えるようになる。壁面に施された幾何学模様の浮き彫りは、風化しながらもその意匠を留めていた。窓は上部がゆるく尖ったアーチ型。ひとつひとつの建物に同じ様式が繰り返されていて、統一された設計思想が感じられる。計画的に作られた街だ。技術があり、美しさへの意識があった。
石壁のあいだを風が通り抜けるとき、高く細い音が鳴った。笛のような——あるいは吐息のような。建物の隙間が管楽器のようになっているらしい。住人がいた頃には気にも留められなかっただろうその音が、人のいなくなった街では不思議に大きく響いた。
最初の建物のそばを通りかかったとき、開け放たれた入口の奥を覗いた。扉は朽ちて失われたのか、最初からなかったのか。石の床。倒れた棚。棚から落ちたらしい陶器の破片が散らばっている。壁際に暖炉があり、その上の棚にものが並んでいた痕跡が残っていた。
家だ。誰かの家だった場所。
足を止めかけて、思い直す。一軒一軒を見て回るのは後でもいい。まずは全体像を把握するほうが先だ。
通りを歩く。石造りの建物が両側に並ぶ構造は、ある種の共通した都市計画を思わせた。住居らしきものが大半だが、ところどころに広い開口部を持つ建物がある。商店だろうか。ひとつの入口から中を覗くと、石造りの台がいくつか並んでいた。陳列台のようにも、作業台のようにも見える。壁際の棚は空で、何が並んでいたかは今となっては分からない。
その隣の建物には、大きな石窯が据え付けられていた。窯の口は黒く煤けていて、長い年月のあいだ火が焚かれ続けた痕跡が残っている。パン焼き窯だ。傍らに石臼のような道具が転がっている。粉を挽いて、生地を捏ねて、窯に入れて——焼き上がったパンを、窓越しに通りへ出す。
ふと、焼きたてのパンの匂いを想像した。この街にそんな温かい時間があったのだと考えると、壊れた石窯のまえに立ち尽くしてしまいそうになる。
先へ進む。
通りの先が少し開けて、広場に出た。中央に円形の構造物がある。近づいて確かめると噴水だった。水は枯れて久しいが、石の水盤は割れることなく残っている。縁に彫られた装飾は蔓植物を模した浮き彫りで——その上を本物の蔓が這い、彫刻と植物の境界が曖昧になっていた。
噴水の水盤のなかに、花が咲いていた。
小さな白い花。盤に溜まった土と落ち葉を培地にして、自然に根付いたのだろう。五枚の花弁が星形に開き、中心にほのかな黄色がある。
しゃがみ込んで、花を見つめた。名前は分からない。この世界にしかない種かもしれなかった。
——きれいだ。
その感想は口に出さなかった。報告書に必要なのは客観的な情報であって、感傷ではない。けれど胸のどこかが静かに満たされる感覚は確かにあって、それを否定する気にもなれなかった。滅びの跡にも花は咲く。その事実が悲しいのか、救いなのかは——まだ分からない。
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広場から先、通りはゆるやかな坂になって街の奥へ続いていた。
歩きながら目に入るものを丁寧に記憶していく。観察と記録は調査の基本であり、自分がもっとも得意とする作業でもある。街の規模、建物の構造、使われていた素材。石材は近隣の産出だろうか、それとも運搬されてきたものか。道の幅、区画の大きさ、水路らしき溝の跡。
坂の途中に、道をそれる小径があった。
何気なく目をやって——足を止めた。
小径の先に、石が並んでいた。
人の背丈の半分ほどの、板状の石。それが規則正しく——明らかに人の手で——地面に立てられている。列をなして、一定の間隔を保ちながら。数えられる範囲だけで、二十は下らない。
墓だ。
オリヴィアは小径に足を踏み入れ、石の列のそばまで歩いた。
墓石の表面に文字が刻まれていた。読むことはできない。この世界の文字は初見だ。だが文字の配列から、おそらく名前が記されているのだろうと推測できた。上段に短い文字列、下段にもう少し長い文字列。名前と、何かもうひとつの情報。生没年だろうか。
風化の程度はどの墓石もほぼ同じだった。同時期に建てられたのか、あるいは長い年月が差異を均してしまったのか。
墓石のあいだに草が生えている。それ自体は自然なことだ。だが——ふと気づいたことがあった。草は生えているが、墓石そのものは倒れていない。街中の棚や柱は崩れているのに、ここの石は一本も倒れずに立っている。
偶然かもしれない。石の形状や重心の問題かもしれない。
だが、それとは別の可能性も頭をよぎった。
誰かが——立て直しているのではないか。
その考えを保留したまま、墓所を後にした。小径を戻り、坂道の続きを上る。
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墓所を過ぎたあたりから、注意して見ると変化があった。
坂道の石段——幅広の、大人数の通行を想定した堂々とした階段が始まるあたりで、両脇の植え込みに目を留めた。雑草に覆われた植え込みの中に、明らかに人為的な配列がある。三株の低木が等間隔に並び、その根元に小さな花が丸く植えられていた。噴水で見たのとは違う、紫がかった青い花弁の花が、整った形で咲いている。
自然の偶然では説明できない規則性だった。
石段を上りながら、他にも手入れの痕跡を見つけた。階段の隅に溜まった土砂が脇に掃き寄せられている。一段だけ欠けた石段に、代わりの平たい石が嵌め込まれている。小さな修繕。丁寧な——世話。
人間はいないと聞いている。事実、ここまで生きた人間の気配は皆無だった。だが、人間でない「誰か」がいる。花を植え、石段を直し、墓を守っている何者かが。
胸の奥で好奇心がかすかに脈打った。表情には出ない。昔からそうだった。内側でどれほど心が動いていても、この顔はうまく反応を返してくれない。
石段を上りきると、視界が開けた。
広い台地状のテラスが広がっている。かつては石畳で覆われていたのだろうが、今はその多くが土に埋もれ、草に覆われていた。テラスの奥に、列柱を持つ大きな建物が——かつて建物だったものが聳えている。屋根は失われ、壁は半ばまで崩れているが、正面の列柱だけが空に向かってまっすぐに立っていた。神殿か、集会場か。かつてこの街の中心だった場所。
そして、その建物の手前に——庭があった。




