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2話「誰もいない街で2」

最初に目を引いたのは、色彩だった。


灰色と緑ばかりの廃墟のなかにあって、その一角だけが鮮やかに彩られている。赤、紫、白、黄色。花々が整然と区画ごとに分けられ、そのあいだを低い葉物の緑が埋めていた。仕切りのように配された石の列。建物の壁面を伝って引かれた細い水路から、わずかな水が花壇へ注いでいる。


庭は驚くほど丁寧に作られていた。花壇の隣には、食用と思しき植物の区画もある。豆のような蔓が支柱に巻きつき、根菜らしい太い葉が列をなしている。


死んだ街のなかの、生きている庭。


その庭の真ん中に、誰かがしゃがんでいた。


地面に向かって何かの作業をしている。背を向けているので顔は見えない。


——人間では、ない。


それはほんの数拍で分かった。しゃがんだ姿の背中から肩にかけて、緑がかった何かが薄く覆っている。衣服のようにも見えるが、布にしては有機的すぎる形をしていた。腕の表面には、木の肌に似た質感が混じっている。


足音を立てたつもりはなかった。だが相手は不意に手を止め、ゆっくりと振り向いた。


目が合った。


琥珀色の目だった。木の幹のような褐色の肌に、苔を思わせる緑が斑に混じった顔。口元と鼻はある。髪のように見えるものは細い蔓の束で、肩のあたりまで垂れている。人の形をしていて、人ではない。植物とも違う。どちらの要素も持ちながら、そのどちらでもない存在。


風が花を揺らす音だけが、二人のあいだを流れた。


先に動いたのは相手のほうだった。ゆっくりと立ち上がる。オリヴィアよりも少し低い背丈。全身が植物的な外皮——樹皮のようでもあり、厚い葉のようでもある——に覆われていることが、立ち上がったことで見て取れた。


警戒している。だが、敵意は感じられない。


「……こんにちは」


オリヴィアは、いつもどおりの声で言った。


意味が通じるかどうかは分からなかった。言語体系がまったく異なる世界は珍しくない。だが、声を出すことには意味がある。言葉の内容だけではなく、声の調子、態度、佇まい。それらすべてで、敵意がないことを示す。


加えて、ケープの留め具に据えたエメラルドのブローチに宿る加護が、認識の橋渡しを多少なりとも助けてくれるはずだった。初対面での違和感を和らげ、意思疎通の最初の壁を低くしてくれる。もっとも、今回の依頼主は手厚い加護を授けるような性格ではなかった。最低限の効果があればいい。


相手はしばらく無言で、オリヴィアの全身を上から下まで見た。スタッフ、ケープ、ブーツ。それからもう一度、顔に戻る。


そして口を開いた。


「……あんた。どこから来た」


言葉だった。意味のある、文法を持った言語。加護の補助があるにせよ、こちらの理解と重なる形で聞き取れた。


この存在は、言語を持っている。


「遠い場所から来ました。この世界の外、と言えばいいでしょうか」


嘘はつかない。偽りの情報を与えることは長期的に不利に働く。それに——嘘をつくのは、苦手だ。


相手の琥珀色の目がわずかに細くなった。


「外」


繰り返すように呟く。その一語を咀嚼するように、沈黙が落ちた。


それから、再びこちらを見据えて言った。


「あんた、ヒトじゃないな」


一瞬だけ、胸の奥が揺れた。


見抜かれたこと自体は問題ではない。加護の効きが弱いときや、相手の知覚が鋭いときには、人間でないと指摘されることはある。


揺れたのは——「ヒト」という言葉のほうだった。人間がいなくなった世界で、人間という概念をなお当然のように使っている。それはつまり、この存在が人間を知っていたということを意味する。見たことがあるのか、伝え聞いたのか、あるいは——


「はい。私は人間ではありません」


静かに認めた。


「ただ、害をなすつもりはありません。この場所を調べに来ただけです」


相手は沈黙した。長い沈黙だった。風の音。花のかすかな揺れ。水路を流れる水の囁き。


やがて、すっと力が抜けるように肩を落とした。


「……そうか。調べに来た」


少し間を置いて、付け足すように。


「調べるものなんて、もうあんまり残ってないと思うけど」


声から敵意は消えていた。代わりに残ったのは、疲れに近い響きだった。


「あなたは——ここにずっと住んでいるのですか」


「住んでる、って言うのかな。……いる。ここに、ずっといる」


答えながら視線を庭に落とす。手入れの行き届いた花壇、石の仕切り、細い水路。


「ここにいて、これの世話をしてる。他にすることも、ないから」


「この庭を、あなたが」


「わたしが」


短い返答。だが、庭を見つめるその目には丁寧な温度があった。愛着と呼ぶべきものが、琥珀の瞳の奥にたしかに灯っていた。


改めて庭を見渡す。花は少なくとも七、八種類。食用の作物も数種。水の確保、土壌の管理、日当たりの計算。これだけの庭をひとりで維持するには、相当な労力と知識が要る。


「素晴らしい庭ですね」


お世辞ではなかった。社交辞令でもない。純粋にそう思ったから、そう言った。


相手がわずかに目を見開いた。樹皮に似た肌は人間のように滑らかには動かないが、目の周りの微細な変化から感情が読み取れる。驚き。そして——戸惑い。


「……褒められたの、初めてだ」


それはそうだろう。褒める相手がいないのだから。


その事実の重さが、音もなく胸に落ちた。


「名前を伺ってもいいですか」


「名前」


少し考えるような間があった。蔓の髪の一房を指先でいじりながら、何かを確かめるように。


「フィオ」


「フィオ」


「あんたは」


「オリヴィアと申します」


「オリヴィア」


フィオは二度、その名をくり返した。口の中で音を転がすように、ゆっくりと。


「変わった響きだ。……で、オリヴィア。調べるって何を。何を知りたいんだ」


「この世界のことを、です。どんな場所で、何が起きたのか。何が残っているのか」


「何が起きたか」


フィオの表情が変わった。正確には、目の奥にあった光の質が変わった。


「長い話になる」


「構いません。時間はあります」


「……ふうん」


フィオはじっとこちらの顔を見つめた。表情を読もうとしているのだろう。だが読み取れるものはほとんどないはずだ。自分でもわかっている。この目は半分閉じたように見えるし、この顔は感情を映すのが下手だ。冷たい人間だと思われることに慣れてはいるが、慣れることと気にしないことは違う。


だがフィオは、何かを見つけたらしかった。何を見たのかは分からない。


「……まあいいか。とりあえず座りなよ。ずっと立ってると疲れるだろ」


その言葉は——小さな歩み寄りだった。


「ありがとうございます」


スタッフを脇に立てかけ、フィオが示した花壇の縁石に腰を下ろした。ひんやりとした石の温度が黒タイツ越しに伝わる。座って初めて、自分がそれなりの距離を歩いていたことを思い出した。疲労は感じにくい身体ではあるが、感覚がないわけではない。


フィオはその向かいに、地面へ直接腰を下ろした。座り方はどこか自然体で、大地に根を下ろすような安定感がある。


「あんたが来る前に収穫したやつがある。食べるか」


言いながら、傍らに置いてあった——植物の繊維を編んだ浅い籠から、丸い果実をいくつか取り出した。手のひらに乗るくらいの大きさで、表面は淡い橙色をしている。


食事。


その一語が胸に落ちた途端、身体のどこかが静かに反応した。空腹ではない。空腹でないのに反応するのは——単純に、食べることが好きだからだ。多くは食べられない。けれど、新しい世界を訪れるたびに、そこにしかない味を口にするのは密かな楽しみだった。


「いただきます」


受け取った果実は見た目よりも柔らかかった。指で軽く押すと弾力があり、ほのかな芳香が手に移る。


フィオが自分の分をそのまま齧るのを見て、オリヴィアも口に運んだ。


歯を立てると、果肉から果汁がじわりと広がった。甘さが先に来て、遅れてかすかな酸味がそのあとを追いかける。最後に、花のような——言葉にしがたい芳香が鼻を抜けた。


「……おいしい」


思わず声が漏れた。意図して発した言葉ではなかった。


フィオがこちらを見ている。琥珀色の目が——ほんの少しだけ、柔らかくなった。


「そうか」


短く、だがたしかな満足を滲ませて。


果実をかじりながら、二人は庭に座っていた。背後には崩れかけた列柱が白く空を区切り、見下ろせば廃墟の街が夕方の光を浴び始めている。風が花を揺らし、蔓の髪を揺らし、プラチナブロンドの髪を揺らした。


人のいない世界の、二人きりの庭で。


「ここの花と野菜は、フィオが種から育てたのですか」


「ものによる。もともと生えてたのもある。ヒトが植えたやつの子孫だ」


「人が、植えた」


「ああ。あんたが見てきたろ、下の街。あそこにヒトが住んでいた。ずっとずっと昔のことだ」


フィオは二つ目の果実に手を伸ばしながら、淡々と続けた。


「この庭の場所には大きな建物があった。たぶん、あの柱のある建物の一部だ。崩れたあとに、わたしが庭にした」


「なぜ庭を」


「……さあ。なぜだろうな」


フィオはそこで黙った。答えを探しているのか、答える気がないのか。その沈黙の質が、オリヴィアにはすぐには読み取れなかった。


空が少しずつ色を変えていく。青から、淡い紫へ。


「今日はもう遅い。暗くなると足元が見えなくなる」


フィオが言った。


「あんた、寝る場所はあるのか」


「いえ、まだ何も」


「……この辺で雨風しのげる場所なら知ってる。案内するか」


「ありがとうございます。助かります」


立ち上がり、スタッフを手に取る。琥珀の水晶は変わらず淡い光を保っていた。今日は一度も魔術を使わなかった。使う場面が、なかった。


フィオが先に立って歩き始める。庭を横切り、崩れた列柱の脇を通って、テラスの端の——かつて建物の一部だった空間へ。壁が三方を囲んでいて、残った屋根の一部が庇のように張り出している。地面には乾いた草が敷かれていた。フィオが使っている場所なのだろう。


「ここなら雨が降っても大丈夫だ。わたしはあっちで寝るから」


少し離れた場所を指差すフィオに、オリヴィアは頭を下げた。


「ご親切に感謝します」


「……あんた、固いな」


「よく言われます」


冗談だったのか、純粋な感想だったのか。どちらにせよ、返す言葉は真面目なものになってしまう。昔からそうだ。


フィオは一瞬、何か言いたげに口を開きかけ——やめた。代わりに小さく息を吐くと、背を向けて自分の寝場所へと歩いていった。


ひとりになった空間で、草の上に腰を下ろす。


緑色のケープの裾を整え、スタッフを壁に立てかけた。ポーチの中身を確認する。最低限の記録用具と、いくつかの調査道具。いつもの装備。いつもの手順。


目を閉じると、今日一日の光景が瞼の裏に蘇った。


丘から見下ろした白い廃墟。風の鳴る石壁。煤けたパン窯。枯れた噴水に咲く白い花。倒れない墓石。手入れされた植え込み。


そして——庭。フィオの庭。


あの果実の味を、舌がまだ覚えている。


報告書にはどう書けばいいだろう。『人間文明の痕跡を確認。建造物は石造り、都市計画に基づく集落。現在の住民は確認されないが、非人間の知的存在が一体、廃墟内の庭園を管理している』。そんな要約で、この場所を伝えたことになるのだろうか。


墓石が倒れていなかったことを思い出す。


あの墓所を、フィオは世話しているのだろうか。もういない人間の墓を、人間でないものが守り続けている——そういうことなのだろうか。


だとしたら、なぜ。


問いは浮かんだが、今日は聞かなかった。出会ったばかりの相手に踏み込むのは得策ではない。信頼は時間をかけて築くものだ。


壁の隙間から覗く空が、紫から濃い藍へと沈んでいく。知らない星座が、ひとつ、またひとつと灯り始める。


この世界に降り立って、まだ半日も経っていない。分からないことばかりだ。この街に何があったのか。フィオは何者なのか。人間たちはなぜ消えたのか。


けれど、果実はおいしかった。庭の花はきれいだった。


その二つだけは確かなこととして、今日の記憶の底に沈めておこう。


やがて意識が薄れていく。眠りは必要なものだ——少なくとも、この器にとっては。空っぽの器にも、休息は要る。


最後に浮かんだのは、フィオの言葉だった。


『なぜだろうな』


人のいない世界で、誰にも見せるあてのない庭を作り続ける理由。フィオ自身にも分かっていないのかもしれない。


——それは少しだけ、自分に似ている気がした。


目を閉じる。風の音と、遠くの虫の声だけが残された。


静かな夜だった。

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