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3話「庭は、残るだろう1」

夢を見た。


夢の中で、自分は長い廊下を歩いていた。壁のない廊下。天井もない。ただ足元だけに白い石の道があり、両側は霧か、虚空か、どちらとも知れないものに満ちていた。歩いても歩いても何も変わらない。前も後ろも同じ景色で、自分がどこに向かっているのか、どこから来たのかも分からない。


ふと足元を見ると、石の道が透けていた。透けた向こう側にも虚空がある。自分の足だけが、何もない場所に形を保って浮いている。それが不思議と怖くはなかった。いつものことだ、と夢の中の自分は思っていた。空っぽの器が虚空の上を歩いている。似た者同士だ。


目が覚めたのは、光より先に音のおかげだった。


こぽ、こぽ、と。小さく規則的な水音が、石の壁に反響して耳に届いている。水路の音だ。昨夜は聞こえなかった——いや、聞こえていたのに気づかなかったのかもしれない。眠りに落ちるのが早すぎた。


薄く目を開ける。視界に天井の代わりに石の庇があり、その縁に朝の光が白い線を引いていた。壁の隙間から斜めに射す光の角度で、夜明けからそう経っていないことが分かる。


身体を起こす。草の寝床から細い腰を持ち上げると、乾いた草の欠片がケープの裾にくっついていた。手で払い落とす。スタッフを取り上げ、琥珀の水晶を確かめる。昨日と変わらない淡い光。減っていないのは当然だ。使っていないのだから。


壁の外に出ると、朝の庭がそこにあった。


夕暮れの庭とは印象が違っていた。朝露を帯びた花弁が光を弾き、水路の水が澄んだ煌めきを見せている。石の列柱が長い影を引いて庭を横切り、影と光の境界に花が咲いている。空気はひんやりとして、深く吸い込むと肺の奥まで青い冷たさが沁みた。


フィオの姿は——すぐに見つかった。


庭の端、食用区画のあたりにしゃがんでいる。昨日と同じ姿勢。地面に向かって何かをしている。近づくと、根菜の列のあいだに生えた雑草を一本ずつ抜いているのだと分かった。樹皮に似た指が、雑草の根元を丁寧に摘み、まっすぐに引き抜く。それを隣の小山に積み、次の一本へ。


「おはようございます」


声をかけると、フィオは手を止めずに顔だけをこちらに向けた。


「早いな」


「よく眠れました。ありがとうございます」


「礼はいい。草のベッドなんて寝心地悪かったろ」


「いえ。柔らかくて快適でした」


嘘ではなかった。身体の造りが人間と異なるぶん、寝床の質にはあまり左右されない。硬い岩の上でも眠れるし、柔らかい草の上でも同じように眠れる。ただ、わざわざ草を敷いてくれたことに対する感謝は本物だ。


フィオは一瞬だけこちらを見つめ、それから雑草抜きに戻った。


「朝飯、その辺に置いてある」


示された方向を見ると、昨日の編み籠に果実と、見慣れない平たい何かが数枚載せられていた。近づいて手に取ると——薄い円盤状の焼き物だった。表面にうっすらと焼き色がついて、ほのかに穀物の匂いがする。


「それ、穀物をすり潰して焼いたやつ。味はまあ、素朴だ」


フィオが背中越しに説明した。


一枚を口に運ぶ。歯で噛み切ると、かりっと乾いた音がした。噛むほどにほのかな甘みが出てくる。味は確かに素朴だったが、穀物の風味がしっかりしていて、いい意味で飽きが来ない。果実と交互に食べると、甘さと穀物の香りが口の中で重なって、素朴な朝食が少しだけ豊かなものになる。


「おいしいです」


「……あんた、何でもおいしいって言いそうだな」


「まずいものには言いません」


それは事実だった。お世辞を言うのも、嘘をつくのも苦手だ。おいしいと感じたから口に出す。ただそれだけのことで、それ以上の意味はない。


フィオは何も返さなかった。だが、雑草を抜く手の速度がほんの少しだけ落ちたのを、オリヴィアは見逃さなかった。


--------------------------------------------


朝食を終えたあと、オリヴィアは調査を再開することにした。


「街の中をもう少し見て回りたいのですが、何か気をつけるべきことはありますか」


「崩れかけの建物には近づくな。見た目は立ってても、中の梁が腐ってるやつがある」


「分かりました」


「あと、西側の外れに沼地がある。落ちると厄介だ」


「ありがとうございます。参考にします」


立ち上がりかけたとき、フィオが不意に言った。


「……わたしも行く」


振り返ると、フィオはすでに立ち上がっていた。抜いた雑草を纏めて脇に寄せ、土のついた手を太腿で拭っている。


「案内がないと、あんた、危ない場所に平気で入りそうだ」


それは——否定できなかった。調査に集中すると周囲への注意が疎かになることは自覚している。


「ご迷惑でなければ、お願いします」


「迷惑って感覚がよく分からないけど。まあ、庭仕事はいつでもできる」


フィオが先に歩き出した。オリヴィアがその隣に並ぶ。二人の足音——ブーツの硬い音と、裸足のような柔らかな音が交互に石畳を踏んだ。


--------------------------------------------


昨日は坂道を上る方向に歩いたが、今日は広場から別の通りへ入った。


枝分かれした道の先に、昨日は見なかった区画が広がっている。住居よりも大きな建物がいくつか並ぶ一帯。壁が厚く、窓が小さい。


「ここは倉庫だった」


フィオが短く説明した。


「穀物や干し肉を保管する場所。地下にも貯蔵庫がある」


「今も残っていますか。地下の貯蔵庫は」


「あるけど、空っぽだ。食べ物は全部なくなってる。器と棚だけが残ってる」


倉庫の一つに入ると、確かに大きな陶製の壺が並んでいた。人の胸の高さほどもある壺が、壁に沿って整然と配置されている。蓋は木製だったらしく、朽ちて失われたものが多い。中を覗くと、底にわずかな粉状の残滓があるだけだった。


壺の表面に刻印がある。紋章のような意匠——二つの穂が交差したようなデザインが繰り返し使われていた。


「この紋様は」


「穀物の印だ。穂の数で中身の種類を分けてた……らしい。わたしが見た頃にはもう空だったけど」


「フィオが見た頃には、もう」


言いかけて、止めた。聞き方が悪い。事実の確認ではなく、フィオの過去に踏み込む問いになってしまう。まだ二日目だ。


だがフィオのほうが、自分から続けた。


「わたしが目を覚ましたとき、ヒトはもういなかった」


壺の縁を指で辿りながら、独り言のように。


「ここにはヒトが暮らしてた痕跡がたくさんあった。道具も、食器も、布も。でもヒトだけがいなかった。一人も」


「……目を覚ました、というのは」


「わたしが生まれた——って言うのか——この場所に存在し始めたとき。最初の記憶は、暗い土の中にいて、上に向かって伸びたことだ。芽が出るみたいに」


植物のように。いや、植物そのもののように。


「地上に出たら、誰もいない街があった。建物はまだしっかりしてた。屋根もあったし、扉もあった。でも、どこにもヒトの気配がなくて」


フィオは壺から手を離し、倉庫の出口に向かって歩いた。オリヴィアはその後に続く。


「最初は分からなかった。ヒトっていうものを知らなかったから。ただの建物だと思ってた。でも、見ているうちに気づいた。全部、誰かのために作られたものだった。わたしのためじゃなく、わたしとは違う形をした誰かのために」


通りに出る。日差しが明るい。フィオの肌の緑がかった部分が、光を受けてわずかに深い色合いに変わった。


「ドアの高さ、階段の幅、椅子の形。全部がある大きさの——ある形の生き物に合わせて作られてた。それを想像するようになって、あ、ここにはヒトがいたんだ、って」


フィオが足を止め、通りの先を見つめた。廃墟の白い壁が連なる中を、風だけが通り過ぎていく。


「それから、書かれたものを見つけた」


--------------------------------------------


案内されたのは、通りを抜けた先にある比較的大きな建物だった。


他の建物と違い、入口に石のアーチが架かっている。アーチの頂点には——例の穂の紋章ではなく、開いた本を模した浮き彫りが施されていた。本。つまり、書物と関わりのある場所。


中に入ると、壁面に石の棚が幾段にも刻まれていた。棚の上には——巻物のようなものが並んでいる。紙ではなく、植物の繊維を漉いたような素材。褐色に変色し、端は脆くなっているが、形を保っているものが相当数あった。


「書庫、ですね」


「たぶん。これを読めるようになるまで、長いこと通った」


フィオは棚に手を伸ばし、一本の巻物を丁寧に取り出した。両手で支えながら、ゆっくりと広げる。繊維の表面に文字が並んでいる。昨日墓石で見たものと同じ文字体系だが、ここに書かれた文章は長い。


「読めるのですか」


「ある程度は。完全には無理だ。知らない言い回しや、意味の分からない単語も多い。でも、大まかな内容は分かるようになった」


独力で、失われた文明の文字を解読した。残された痕跡だけを手がかりに、辞書もなく、教師もなく。それがどれほどの時間と労力を要するものか、オリヴィアには想像がつく。魔術理論の文献を読み込んできた経験があるからだ。言語体系をゼロから構築する作業がどれほど途方もないものか。


「……すごいですね」


自然に口をついて出た言葉だった。フィオがわずかに顔を背けた。照れているのだろうかと思ったが、確信は持てない。樹皮に似た肌に紅潮は見えない。


「別に。暇だっただけだ。やることがないと、こういう方向に手を出す」


巻物を広げたまま、フィオが文面に目を落とした。


「これは記録の一種だ。季節ごとの収穫量、水路の修繕記録、生まれた子供の数、死んだ者の名前。そういう実務的なやつ」


「行政記録のようなものですか」


「たぶん。こっちの棚は別の種類だ」


フィオは巻物を戻し、別の棚から一本を引き出した。こちらは文字の並びが先ほどとは明らかに異なる。行の長さが不揃いで、余白の取り方にも規則性がある。


「これは——たぶん、歌だ」


「歌」


「繰り返しの構造がある。同じ響きの言葉が行の終わりに置かれてる。韻を踏んでるんだと思う」


歌を記録していた文明。収穫量と修繕記録の隣に、歌を保管していた人々。


その事実が、不思議な温度を持って胸に届いた。合理的な記録と、非合理的な詩歌が同じ棚に並ぶ。数字と韻律が隣り合わせにある。それはとても人間らしいことのように思えて——自分が人間ではないことを、また静かに意識する。


「意味は分かりますか。この歌の」


「全部は無理だ。でも、いくつかの単語は分かる」


フィオは巻物の一箇所を指差した。


「ここにある言葉は——たぶん、陽の光を意味してる。こっちは、水。そしてここが、子供たち。この単語は繰り返し出てくるんだけど、正確な意味が分からない。文脈から推測すると……帰ってくる、とか、戻ってくる、とか。そういうニュアンスだと思う」


陽の光と、水と、子供たちと、帰ってくるもの。


「収穫の歌でしょうか」


「かもしれない。季節が巡って、実りが戻ってくることを歌ってるのかもしれない」


フィオは巻物を丁寧に巻き戻し、棚に戻した。


「ヒトがいなくなったあと、わたしはこの場所に何度も通って、残された記録を片端から読んだ。そうしたら、ここにどういうヒトたちが暮らしていたのか、少しずつ見えてきた」


フィオはそこで言葉を切り、壁際の棚を見上げた。何百本もの巻物が整然と並ぶ光景を、琥珀の目で見渡す。


「穀物を育てて、家畜を飼って、子供を育てて、歌を歌って、死んだら丘の途中に埋められて。そういう人たちだった」


「……死因については、何か」


「書いてない。少なくとも、わたしが読めた範囲には。記録がある時期までは普通に暮らしてて、ある時点から記録が途絶える。戦争があった形跡もないし、疫病を示す単語も見当たらなかった。ただ——終わってた」


静かに、穏やかに——終わった文明。


いくつかの世界を訪れてきたが、こういう終わり方は珍しかった。多くの場合、文明の終焉には暴力的な何かが伴う。戦争、天災、疫病。原因が明確で、その爪痕が残されている。だがこの街には破壊の痕跡がない。建物は老朽化で崩れたものだけで、焼かれたり壊されたりした形跡がない。


人々はただ——いなくなった。


「フィオは、どう思いますか。何が起きたのか」


フィオは少し黙ってから、首を横に振った。


「分からない。何度考えても分からない。でも——」


言葉を探すような間があった。


「記録の最後のほうに、繰り返し出てくる言葉がある。正確な意味は掴めてないけど——『充たされた』みたいな感じの言い回し。それが何を指すのか、ずっと考えてる」


充たされた。


その一語が、書庫の静けさのなかに残った。

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