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4話「庭は、残るだろう2」

書庫を出たあと、フィオは街の外縁部を案内してくれた。


街の南側には畑の跡が広がっていた。今は背の高い草原になっているが、地面の畝の構造がまだ残っている。規則正しい畝の列が、かつての耕作の規模を物語っていた。畑の隅には朽ちた木柵の残骸があり、家畜を囲っていた痕跡も見て取れた。


西側には、フィオが言っていた沼地があった。かつて溜池だったものが自然に拡大し、周囲の低地を浸食したのだろう。水面に藻が浮き、葦のような植物が縁を取り巻いている。近づくと足元がぬかるんだ。


「この水を庭に引いているのですか」


「ああ。溜池の水を石の水路で上まで運んでる。高低差を利用して……って言っても、全部が自然にそうなったわけじゃない。少し手を入れた」


水路を整備し、水を庭まで引く。その土木作業も、一人で。


北側に回ると、丘陵が連なる地形が見えた。昨日オリヴィアが降り立った丘もその一部だ。起伏のある草原が続き、ところどころに木立が点在している。人工物は見当たらない。街はこの谷間の一画だけに築かれたようだった。


歩きながら、オリヴィアは地形と植生を観察し続けた。気候は温暖。降水量はそれなりにあるようだ。土壌は肥沃。農耕に適した土地だったことは明らかで、文明が栄える条件は揃っている。


そして——人間以外の知的存在の痕跡は、フィオ以外には見当たらなかった。


「フィオ。この世界に、あなた以外の——あなたのような存在はいますか」


「さあ。この辺にはいない。遠くのことは知らない。わたしはここから出たことがないから」


ここから出たことがない。


その言葉の重さを、咀嚼する。どれほどの時間をこの場所で過ごしてきたのか。一人きりで。


聞きたいことは山ほどあった。だが聞くべき順番がある。信頼が足りない段階で核心に踏み込めば、相手は貝のように閉じてしまう。それは調査技術としても、人との接し方としても——正しくない。


だから別のことを聞いた。


「お昼は何を食べましょうか」


フィオが足を止めた。こちらを振り返る。琥珀の目に浮かんだのは、明確な困惑だった。


「……あんた、今の流れでそれを聞くか」


「すみません。歩いていたら少しお腹が空いてしまって」


少食ではある。だがまったく食べないわけではないし、この身体は活動すれば消耗する。それに——正直に言えば、朝の焼き物がおいしかったので、次に何が出てくるのか単純に楽しみだった。


「……芋を焼くか。さっき畑の近くで掘ったのがある」


フィオの声には呆れが混じっていたが、足取りは庭の方角に向いていた。


--------------------------------------------


昼食は庭の片隅で摂った。


フィオが地面に窪みを掘り、乾いた枝と草を集めて火を起こした。火打ち石を使っている。樹皮に似た手で器用に石を打ち合わせ、火花を飛ばす。着火した小さな炎を丁寧に育て、熾火にしてから芋を入れた。


「火は平気なのですか」


つい聞いてしまった。植物的な外見の存在が火を扱っている。心配が先に出た。


「平気っていうか……気をつけてはいる。わたしの表面は燃えにくいけど、燃えないわけじゃない」


「では無理をせず——」


「料理がしたいだけだ。生でもいいなら生で食え」


「いえ。焼いていただけるなら焼いたほうが」


「だろ」


ぶっきらぼうな口調の奥に、微量のおかしさが混ざっている——ような気がした。感情の機微を読むのは得意ではないが、明確な不快感がないことくらいは分かる。


芋が焼ける匂いが立ち上がる。甘く、香ばしく、少しだけ土の匂いが残る。それを嗅いでいるだけで、世界の彩度がほんの少しだけ上がったような気がする。


焼き上がった芋を二つに割ると、中身は鮮やかな黄色だった。湯気が立ち、甘い香りが濃くなる。息を吹きかけてから口に含むと、ほくほくとした食感と、穏やかな甘さが舌に広がった。


「……おいしい」


「知ってる。あんたは何でもそう言う」


「そんなことはありません。これは本当においしいです」


「そんなこと、って言うのが初めてだけど」


フィオは自分の分の芋を齧りながら、どこか不思議そうにこちらを見ていた。


「あんた、外見はヒトに見えるのに、中身はヒトじゃないんだよな」


「はい」


「でも、食べるし、眠るし、おいしいって言う」


「はい」


「……なんでだ。ヒトの真似をしてるのか」


その問いに、一瞬だけ答えが詰まった。


真似をしているのか。考えたことはあった。食べなくても活動はできる。眠らなくても——限界はあるが——ある程度は動ける。それでも食べるし、眠るし、おいしいと感じる。それは機能として設計されたものなのか、それとも——。


「分かりません」


正直に答えた。


「この身体は食べるようにできていますし、味を感じるようにもできています。でも、それが私の意思なのか、私を作った方の設計なのかは——正直、区別がつかないのです」


フィオは黙って聞いていた。


「ただ、おいしいと感じたときに——」


言葉を選ぶ。


「嬉しいと思うのは、たぶん、私自身のものだと思いたいのですが」


思いたい。断言できない自分が、少しだけもどかしかった。いつもこうだ。自分の感情が本物なのかどうか、最後の一歩で確信が持てない。魂がある証拠がない。設計された反応と本物の感情の違いが分からない。分からないまま、それでも——おいしいと思ってしまう。嬉しいと思ってしまう。花をきれいだと思ってしまう。


フィオは芋を食べ終え、手についた灰を払った。


「わたしも似たようなもんだ」


「え?」


「わたしも自分が何なのか知らない。気がついたらここにいた。ヒトがいた痕跡を見て、ヒトを真似るように暮らし始めた。庭を作って、食べ物を育てて、火を使って、文字を覚えて。全部ヒトの真似だ。でもそれが真似なのか、それともわたし自身の——何て言うんだ、性質なのか。分からない」


琥珀の目がまっすぐにこちらを見ていた。


「でも、庭に花が咲いたときは嬉しいし、育てた芋が焼けたらおいしいって思う。それが借り物の感情でも別にいい。わたしは今嬉しいしおいしいんだから、それでいい」


——その言い切りに、胸を打たれた。


それでいい。


そう言い切れることが、どれほど強いことか。自分にはまだできない。まだ、たぶん、と留保をつけてしまう。でもフィオのその言葉は、留保なしの断言で——それが、正直に言えば、少しだけ眩しかった。


「……フィオは、強いですね」


「強い? わたしが?」


「はい」


「変なやつ」


フィオはそう言って、空を見上げた。雲が一つ、白い列柱の上をゆっくりと流れていく。


二人はしばらく黙ったまま、庭に座っていた。残り火がぱちぱちと小さな音を立てている。花が揺れ、水路が流れ、風が草を撫でている。


人のいない世界の、二人きりの庭で。


沈黙は不快ではなかった。むしろ、黙って隣にいることが——何かの答えのように、静かに胸に落ちた。


--------------------------------------------


午後は書庫に戻り、フィオの案内でいくつかの巻物を確認した。


行政記録の巻物からは、街の最盛期の人口がおよそ三百人だったことが推定できた。農耕が主産業で、家畜の飼育も行われていた。交易の記録は見当たらない。外部との接触を示す言葉も——フィオが読んだ範囲では——なかった。


閉じた共同体。外の世界を知らないまま、ここだけで完結していた文明。


記録は季節の巡りに沿って書かれている。種まきの時期、収穫の時期、冬の備え。その繰り返しが何巡もあり、そしてある季節を最後に途絶えている。


フィオが最後の巻物を広げた。


「これが最後の記録だ。最後の季節の、最後の文章」


指し示された箇所に、短い文字列がある。他の行よりも文字が大きく、丁寧に刻まれていた。


「何と書いてあるのですか」


フィオが口を開きかけ——少し迷い——それから静かに読み上げた。


「『庭は、残るだろう』」


残るだろう。


巻物の上に書き留められた最後の言葉。書いた者は、自分たちが消えゆくことを知っていたのだろうか。知った上で——庭は残ると、書いたのだろうか。


フィオがそっと巻物を巻き戻した。その手つきは、花壇の花に触れるときと同じ丁寧さだった。


「だからわたしは庭を作った」


低い声だった。


「ここに暮らしてたヒトたちの最後の言葉が、庭は残る、だった。だったらわたしが——残す」


先ほどの問いへの答え。なぜ庭を作るのか。なぜだろうな、と昨日は曖昧に濁したその答えを——今、フィオは口にした。


胸の奥で何かが静かに震えた。表情にはたぶん出ていない。でも手の先がかすかに温かくなるような感覚があって、それが感動というものなのか、共感というものなのか、名前をつけることはできなかったけれど——確かに、何かがそこにあった。


「……素敵な理由ですね」


「素敵って。大げさだろ」


「大げさではないと思います」


フィオは何も返さなかった。だが背を向けたその肩が、ほんのわずかに上がって、下がった。深い呼吸のように。


書庫の窓から射す光が傾いてきていた。午後が終わりに近づいている。


巻物を棚に戻し、二人は書庫を出た。通りを歩いて坂を上り、庭に戻る。もう見慣れた道のり。昨日はじめて歩いた道なのに、二度目にはもう風景が違って見える。知識が景色を変えるのだ。あの壺には穀物が入っていた。あの通りを三百人の人々が行き来していた。あの窯でパンが焼かれ、あの噴水の周りで子供たちが遊んでいた。


もういない人々の——残像が、この街を満たしている。


庭に戻ると、夕暮れの光が花を染めていた。朝とも昼とも違う色彩。赤い花はより深い赤になり、白い花は淡い橙色を帯びる。水路の水が夕日を映して金色に光っている。


ここが——残ったもの。


「フィオ」


「なんだ」


「明日も一緒に歩いてもらえますか。まだ見ていない場所がいくつかあります」


フィオはこちらをじっと見た。何かを確かめるように。それから、小さく頷いた。


「……別にいいけど。あんた、朝は自分で起きろよ。わたしは日の出前から庭にいるから」


「はい。ご迷惑をおかけします」


「だから迷惑って感覚がよく分からないって」


その言い方がどこか柔らかくなっていることに、フィオ自身は気づいているのだろうか。分からない。でも——昨日よりも、距離が近いことだけは確かだった。


夕食は果実と根菜の焼いたものだった。素朴で、滋味があって、おいしかった。おいしいと言ったら、またか、とフィオは呆れた顔をした。


寝支度を整え、昨日と同じ場所に横になる。スタッフの琥珀が柔らかく光っている。相変わらず減っていない。今日も魔術は使わなかった。戦う相手も、解くべき障壁も、この世界にはない。ただ歩いて、見て、聞いて、食べて。


報告書に追記すべきことを頭の中で整理する。文字記録の存在。街の推定人口。農耕を基盤とした生活形態。消滅の経緯は不明——暴力的な痕跡なし。最後の記録の内容。


『庭は、残るだろう』


その言葉が、意識の底でやわらかく反響していた。


眠る前に、もう一つだけ考えた。


フィオは、庭は残ると書かれていたから庭を作った。人間たちの言葉を継いで、その言葉の通りにした。人間を知らないまま、人間の残した意志を拾い上げた。


それは——とても美しいことだと思う。


そして同時に、とても寂しいことだとも思う。


自分は報告書を書いて、この世界を去る。去ったあとも、フィオはここに残る。ひとりで庭の世話を続ける。誰に見せるためでもなく、誰に褒められるためでもなく。


その孤独の重さを想像したとき——自分の胸の奥にあるものが、借り物ではないことを信じたいと、強く思った。


目を閉じる。今夜は夢を見ないかもしれない。見ても見なくても、朝は来る。日の出前に起きよう。フィオより先に、庭に立っていよう。


理由は——まだうまく言葉にできなかった。

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