8話「空の器と、ただの石2」
峠を下り始めたのは、日が完全に沈んでからだった。
月明かりの山道を、セレンが先導して歩く。オリヴィアはまだ身体に力が入りにくく、歩調が遅かった。セレンは何も言わず、ただ速度を合わせてくれた。
ヨルグたちとは峠で別れた。彼らは引き続き封印を監視する。ただし——もう、三十年前の秘密を抱え込むだけの守り番ではない。封印の中身を知り、その意味を理解した上で、次の世代に引き継ぐ方法を考える。それがヨルグの出した結論だった。
「オリヴィア」
「はい」
「聞いていいか」
「どうぞ」
「あんたは——この世界の人間じゃないだろう」
足が止まった。
月明かりの中で、セレンがこちらを見ていた。琥珀色の目が、暗がりの中でも真っ直ぐにこちらを捉えている。
「……何を根拠に」
「根拠っていうか——全部だよ。見たことない魔術体系。自前の魔力を持たない体質。どこの国の人間とも違う雰囲気。あんたが最初に『この世界の魔術は』って言いかけたとき、あたしは聞き流したけど——ずっと引っかかってた」
返す言葉を、探した。
嘘をつくことはできる。だが——この人に嘘をつきたくなかった。
「……はい。この世界の人間ではありません」
言葉にすると、胸のどこかが軽くなった。同時に、重くもなった。
「別の——場所から来ました。この世界を調べるために。調査が終われば、帰ります」
「帰る」
「はい」
セレンは黙った。風が木々を揺らす音だけが、しばらく続いた。
「……怒ってますか」
「怒ってない。——ちょっと寂しいだけだ」
寂しい。その言葉が、思いのほか深くまで届いた。
「あたしはさ」
セレンは歩き出した。ゆっくりと。オリヴィアもその後に続いた。
「あんたが何者でも構わない。別の世界から来たっていうのも——正直、驚いたけど、信じるよ。あんたが嘘をつく人間じゃないのは分かってる」
「……ありがとうございます」
「でも——帰るっていうのは、もう会えないってことか」
「分かりません。正直なところ。次にこの世界に来ることがあるかどうかは、私にも」
「そうか」
また沈黙。だが、重い沈黙ではなかった。
「なあ、オリヴィア。ひとつ聞いていいか」
「はい」
「あんたは——楽しかったか。ここにいて」
不意の問いだった。昨日の夜、窓から街を眺めていたときのことを思い出した。透明な壁の向こう側にいるような感覚。自分はここにいない。触れていない。
でも——今は。
「楽しかったです」
声が、自分でも驚くほど柔らかかった。
「シチューがおいしかった。リンゲルという果物を初めて食べました。フェルス先生の話は勉強になりました。子供が走っていくのを見ました。ヨルグさんたちの三十年を知りました。——そして、セレンに会いました」
「あたしに会ったことが楽しかった?」
「はい。とても」
セレンが足を止めた。振り返った。
月明かりの下で、セレンは笑っていた。いつもの、声を出して喉の奥から率直に笑う笑い方ではなく——静かな、穏やかな笑みだった。
「——あたしもだよ。オリヴィア」
それだけ言って、また歩き出した。
オリヴィアはその背中を見つめ、小さく息を吐いた。吐いた息が白く光り、月明かりに溶けて消えた。
--------------------------------------------
ラーヴェルに戻ったのは、深夜だった。
灰色亭の宿主は、遅い帰還に眉ひとつ動かさず鍵を渡してくれた。セレンは「明日の朝、また来る」とだけ言って帰っていった。
部屋に入り、ブーツを脱ぎ、寝台に腰を下ろした。
スタッフの琥珀は、ほとんど空だった。封印の補修でほぼ全てを使い切った。エメラルドだけが、いつものように静かな緑の光を放っている。
裂けたケープを手に取った。魔獣の爪で切られた跡。旅の痕跡。いつもなら修繕するのだが——今夜はそのまま、畳んで枕元に置いた。
目を閉じた。
今回の調査で得た情報を、順番に並べていく。
この世界は魔王討伐後三十年を経て、英雄の遺産を巡る利権争いの只中にある。少なくとも三つの国家が、それぞれ異なる英雄の名を掲げて正当性を主張している。四人目の英雄ドーマは、魔王軍の呪詛を封印するために命を捧げ、歴史から消えた。封印は弱体化しつつあったが、応急処置により当面の安定を取り戻した。アストリア王宮の動きが封印に干渉している可能性がある。
報告すべき事実は揃っている。だが——
目を開けた。
天井の木目が、蝋燭の光にゆらゆらと揺れている。初日の夜と同じ光景。だが見ている自分が、少し変わっている。
ドーマの言葉が、頭の中で繰り返されていた。
『剣は人を斬り、名は国を斬る。真に守るべきは、どちらでもないもの』
ドーマが守ったのは、人の命だった。英雄の名も、聖なる剣も関係なく——ただ、人が死なないように。呪詛が広がらないように。
自分には——何が守れるだろう。
空の器。自前の力を持たない存在。世界を渡り、調査し、報告し、去っていく。根を下ろさず、名前を残さず。
でも——今日、封印を補修できた。セレンの魔力で。ヨルグたちの魔力で。一人では何もできない空の器が、他者の力を借りて、何かを守ることができた。
それは——意味のあることだったのだろうか。
蝋燭の火が揺れた。
(魂があるかどうかは、まだ分かりません)
自分を作った神の真意も、分からない。この世界に送られた理由も——ドーマの日誌に「空の器」と記されていたことが偶然なのか必然なのかも。
だが、ひとつだけ分かったことがある。
この胸の奥にあるもの。セレンの笑顔を見たときの温かさ。子供が走っていくのを見たときの柔らかさ。ドーマの意志に触れたときの痛み。レッケン峠の遺品の前で頭を下げたときの静けさ。
それが魂なのかどうかは、まだ分からない。
でも——ある。確かに、ここにある。名前がつけられなくても、定義できなくても。
それだけで、今は十分だった。
--------------------------------------------
翌朝。
灰色亭の前で、セレンが待っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「——今日、帰るんだろう」
「はい」
隠すつもりはなかった。セレンも、聞くまでもなく分かっていたのだろう。
「朝飯は」
「まだです」
「じゃあ一緒に食おう。最後くらい」
一階のカウンターで、宿主の朝食を食べた。いつもと同じ硬いパンと、干し果実の煮物と、温めた牛乳。
セレンはやはりパンを浸さずにそのまま噛んでいた。オリヴィアは丁寧に煮汁に浸して食べた。
「——ねえ、オリヴィア」
「はい」
「あんたの帰る場所って、どんなところなんだ」
「白い場所です。何もない。色も匂いも音もない」
「……寂しい場所だな」
「そうですね。でも、帰る場所があるだけ恵まれているのかもしれません」
セレンは牛乳の杯を両手で包み、しばらく黙っていた。
「あんたにこれ、渡しておく」
ポケットから、小さなものを取り出した。革紐に通された、小さな石。赤みがかった茶色の、磨かれた川石。
「お守りとかじゃない。ただの石だ。子供の頃に川で拾った。——あんたが持ってけ」
「……いいのですか」
「いいよ。あたしの代わりに、あちこちの世界を見てきてくれ」
石を受け取った。掌に収まる小さな石。温かかった。セレンのポケットの中で、ずっと体温を吸っていたのだろう。
「大切にします」
「重く受け取らなくていい。ただの石だから」
ただの石だと言いながら、子供の頃からずっと持っていた石だ。それを渡すということの意味を、セレンは分かっていて——それでも軽く言う。この人は、そういう人だった。
オリヴィアはポーチのひとつを開け、石を丁寧にしまった。
「セレン」
「ん」
「あなたに会えてよかったです。——またどこかで、お会いできたらと思います。月並みな言葉ですみません」
「月並みでいいよ。月並みな言葉が一番信用できる」
セレンが笑った。いつもの笑い方だった。声を出して、喉の奥から、率直に。
--------------------------------------------
街の北門を出て、丘の上まで歩いた。
最初にこの世界に降り立った場所。遠くにラーヴェルの灰色の城壁が見える。空は薄く曇り、風は乾いている。初日と同じ空気。だが——匂いが違った。煙ではなく、冬の始まりの、澄んだ冷たさ。
振り返った。
丘の下に、セレンが立っていた。見送りに来てくれたのだ。門の前まで。
手を振ろうか迷って——振った。小さく。
セレンが手を上げた。大きく。
それだけだった。
オリヴィアは前を向き、スタッフを構えた。エメラルドが光る。帰還の術は、魔力をほとんど必要としない。空の器が元の場所に戻るだけのこと。水が低きに流れるように。
光が足元から立ち上り、世界の色が薄れていく。
最後に見えたのは——灰色の城壁と、その手前に立つ小さな人影。
--------------------------------------------
白い虚空に戻った。
色がない。匂いがない。温度がない。
だが——ポーチの中に、小さな石がある。まだ温かい。
しばらく立ち尽くしていた。世界を渡った後の、意識の基準点が戻るまでの時間。いつもより、長くかかった。
光の輪郭が現れた。派遣元の神。
「報告を」
前と同じ、性別の判然としない声。
オリヴィアは目を閉じ、一度深く息を吸って、報告を始めた。
「調査対象世界の概要です。魔王討伐後三十年を経た人間社会。勇者一行は四名。各国が英雄の遺産と正統性を巡り、政治的・軍事的な緊張状態にあります。特筆すべき事象として——」
封印のこと。呪詛のこと。ドーマのこと。弱体化と応急処置のこと。淡々と、事実だけを述べた。
光の輪郭は黙って聞いていた。
報告が終わると、短い沈黙があった。
「封印の補修を行ったのか」
「はい」
「調査の範囲を超えた行動だが」
「……はい。承知しています」
「なぜだ」
問われると思っていた。理由は——いくつもある。調査中に偶然発見した危険事象への対処。封印の崩壊が観測対象世界に重大な影響を及ぼす可能性。調査員として合理的な判断。
だが、本当の理由は違う。
「——あの場所で、守り続けてきた人たちがいました。三十年間、何を守っているかも分からずに。その人たちの前で、何もせずに帰ることが——できませんでした」
沈黙。
光の輪郭が揺らいだ。怒っているのか、呆れているのか、それ以外の何かなのか——読み取れなかった。
「……報告は受理した。下がれ」
それだけだった。
光が消え、白い虚空に一人残された。
オリヴィアは、ゆっくりとポーチを開けた。
セレンの石を取り出す。小さな、赤みがかった茶色の川石。もう体温は消えかけていたが——掌に載せると、かすかに温かい気がした。
記憶の中のセレンが笑っている。
声を出して、喉の奥から、率直に。
封印の奥で、ドーマの意志が静かに灯っている。
ヨルグが拳を握りしめている。
フェルスが眼鏡を押し上げている。
子供が走っていく。門番が忠告する。宿主が頷く。シチューが温かい。リンゲルが甘い。
——全部、覚えている。
空の器に何も残らないのだとしたら、この記憶は何なのだろう。焚き火の温もりが消えた後に残る、灰の中の熱は。
石を握りしめた。
「……ただいま」
誰に言うでもなく、呟いた。
白い虚空は応えなかった。だが、ポーチの中のエメラルドが——ほんの一瞬だけ、緑の光を灯した。
まるで、おかえり、と言うように。




