7話「空の器と、ただの石1」
封印の深層は、海の底に似ていた。
暗い。冷たい。音がない。自分の身体がどこにあるのかも分からない。意識だけが沈んでいく。スタッフを握っている感覚はかろうじて残っている。琥珀の水晶を通じて、セレンの魔力が——焚き火の温もりが——細い糸のように自分を繋ぎ止めている。
紋様の構造が、意識の中に展開されていく。
表層は紋刻式。この世界の魔術体系に基づいた封印術式。だがその下に、もう一層ある。異なる理論で組まれた構造。見覚えがあると感じたもの。
今なら——少しだけ、分かる。
それは紋刻式の裏側に、もうひとつの言語で書かれた文章のようだった。同じ意味を、二つの体系で重ねて綴ることで、封印の強度を何倍にも高めている。
(これを一人で構築したのですか——ドーマ)
鉄壁と呼ばれた男。剣も魔術も使う盾の戦士。だがこの封印の精密さは、戦士のそれではない。学者の——いや、祈りにも近い執念で組み上げられたものだ。
深層の、さらに奥。
封印の核に触れかけたとき、何かが押し返してきた。
拒絶ではなかった。問いかけだった。
——お前は何者だ。
声ではない。意志の残滓。三十年前にここに刻まれた、ドーマの最後の問い。封印に触れようとする全ての者に、最初に投げかけられる関門。
オリヴィアは答えた。声ではなく、意識で。
——オリヴィア・エスメラルダ。旅の者です。
間があった。
——空の器か。
ドーマの意志が、自分の本質を読み取っている。自前の魔力を持たない身体。他者の力を借りなければ何もできない器。
——何を求める。
——封印が弱まっています。原因を知りたい。できれば補強したい。
——なぜ。
——ここに眠るものが、あなたが命をかけて守ったものだから。守る価値があると、あなたが判断したものだから。
沈黙。長い沈黙。
封印の核が、ほんの少しだけ開いた。
オリヴィアの意識に、映像が流れ込んできた。
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三十年前のレッケン峠。
戦場だった。
魔王軍の精鋭が押し寄せ、人間の軍勢がそれを迎え撃っている。剣が鳴り、魔術が炸裂し、叫び声と血と土煙が渦巻いている。
その中心に、一人の男が立っていた。
大柄だった。分厚い鎧を着て、両手に盾と剣を持ち、前線の最も危険な場所に立っている。鉄壁のドーマ。顔は——不思議と、穏やかだった。戦場にいる人間の顔ではなかった。
映像が飛ぶ。
戦いの後。魔王は倒された——遠い場所で、グランヴェルドが討ち果たしたのだと伝令が告げた。歓声が上がる。だがドーマの表情は変わらなかった。
峠の戦場に、何かが残っていた。
魔王軍の精鋭が最後に放った呪詛。大地に染み込み、空気を蝕み、触れたものを内側から腐らせていく黒い靄。魔王が滅んでも、呪詛は消えなかった。魔王の死によって制御を失い、かえって暴走を始めていた。
このまま放置すれば、呪詛は広がる。年月をかけて、山を越え、村を侵し、やがて——。
ドーマは仲間たちに告げた。
「ここに封じる。俺がやる」
「ドーマ、お前ひとりでは——」
「ひとりじゃないさ。ここで死んだ奴らの分の魔力が、まだ地面に残ってる。それを使う」
死者の残した魔力を紋様に組み込み、自分の命を核にして、呪詛を封じる。理論上は可能だった。ただし——
「戻って来られないぞ」
「分かってる」
ドーマは笑った。穏やかに。戦場で見せた、あの場にそぐわない顔で。
「俺は英雄じゃない。グランヴェルドみたいに剣で魔王を斬ったわけじゃない。イリアーヌみたいに聖なる力があるわけでもない。バルトロスみたいに天才でもない。——ただの盾だ。仲間を守る盾。それでいい」
封印の儀式が始まった。
ドーマの身体が光に包まれ、地面に紋様が刻まれていく。呪詛の黒い靄が紋様に吸い込まれ、封じ込められていく。
最後に——ドーマは部下たちに言った。
「この封印を守れ。誰にも触れさせるな。中身は呪詛だ。だが——各国がこれを知れば、武器にしようとする奴が必ず出る。英雄の遺産だと言って、奪い合いの種にする。そうなれば、封印を解こうとする馬鹿が現れる」
「ドーマ様——」
「いつか、空の器が来る。自分の魔力を持たない者。他人の力を借りて動く者。そいつなら——呪詛に染まらずに、封印を扱える。それまで守れ」
映像が途切れた。
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意識が浮上した。
目を開けると、洞窟の天井が見えた。横たわっている。いつの間にか倒れていたらしい。
「オリヴィア!」
セレンの顔が視界に飛び込んできた。琥珀色の目が、明らかに動揺している。
「大丈夫か。急に倒れて——もう十分くらい意識がなかった」
「……すみません。少し深く潜りすぎたようです」
身体を起こす。頭が重い。だが、意識は明瞭だ。見たものの記憶も鮮明に残っている。
ヨルグが傍に立っていた。その顔にも、隠しきれない不安があった。
「何が見えた」
「——封印の中身が分かりました」
オリヴィアは、見たことを話した。
呪詛のこと。ドーマが命をかけて封じたこと。放置すれば広がる危険があること。各国に知られれば武器として利用されかねないこと。
洞窟の中が、重い沈黙に包まれた。
ヨルグが壁に背を預け、目を閉じた。
「……そうか。呪詛だったのか」
「知らなかったのですね」
「ドーマ様は教えてくれなかった。中身を知れば、俺たちまで狙われると考えたんだろう。——あの人は、そういう人だった。聞いた話でしかないが」
守るために、知らせなかった。知識は時に、持つ者を危険にさらす。
ドーマの判断は正しかったのだろう。だが——三十年間、何を守っているのかも分からずに守り続けた人々のことを思うと、胸が痛んだ。
「封印が弱まっている原因も、おおよそ分かりました」
「何だ」
「経年劣化です。ドーマの命を核にした封印は、永続するものではなかった。少しずつ、核の力が薄れている。あと数年——いえ、外部から刺激を受ければ、もっと早く」
「外部からの刺激って——」
セレンが言いかけて、顔色が変わった。
「アストリアが聖剣を見つけたと言い始めた時期と、封印の揺らぎが重なってる。もし王宮がこの封印の存在を嗅ぎつけて、何かしらの調査を——」
「魔術的な探査を行っていれば、封印に干渉しうる」
オリヴィアが頷いた。
「聖剣の発見が本当かどうかは分かりません。ですが、王宮が何かを探していることは間違いない。それがこの封印に波及している可能性は高い」
ヨルグが拳を握りしめた。
「なら——どうすればいい。俺たちには封印を補強する力がない」
「私に、できるかもしれません」
全員がオリヴィアを見た。
「ドーマの意志が、空の器——私を指定した理由は、おそらくここにあります。自前の魔力を持たない身体は、呪詛に染まりにくい。他者の魔力を借りて術を行使する構造は、封印の核に新しい力を注ぎ込む際に、自分自身の性質で汚染するリスクが低い」
「つまり——あんたなら、封印を上書きできるってことか」
セレンの問いに、オリヴィアは首を横に振った。
「上書きではありません。補修です。弱まった箇所を繕い、核に新しい力を足す。建物で言えば、崩れかけた壁を修繕するようなものです」
「できるのか」
「理論上は。ただ——」
「魔力が足りない」
セレンが即座に言い当てた。
「はい。補修に必要な魔力量は、今私が持っているものでは到底足りません」
沈黙が落ちた。
ヨルグが腕を組み、考え込んでいる。残りの二人の守り手も、互いに顔を見合わせている。
「——俺たちの魔力でいいなら、使ってくれ」
ヨルグが言った。
「俺も、こいつらも、魔術師じゃない。だが魔力は持ってる。ドーマ隊の血を引く者として——これくらいしかできることがない」
残りの二人も頷いた。
「本人の同意が必要なのだったな」
「はい」
「同意する。三人とも」
オリヴィアはヨルグの顔を見た。古い傷跡のある頬。硬い目。だがその奥に、三十年分の重荷を誰かに分けたいという、かすかな懇願があった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちだ。——やってくれ」
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準備に時間がかかった。
封印の紋様の構造を意識の中で再構築し、補修すべき箇所を特定する。弱点は七箇所。そのうち三箇所は深刻で、残りは軽微。深刻な三箇所を優先的に補修し、残りは応急処置に留める。完全な修復は——自分一人の手には余る。
洞窟を出て、紋様の円形空間に戻った。
日が傾き始めていた。西の空が橙色に染まり、岩壁の影が長く伸びている。
紋様の明滅は、まだ続いていた。ゆっくりと、だが確実に、速度を増している。
「時間がありません。始めます」
オリヴィアは紋様の中心に立った。ドーマの杭のすぐ傍。鉄の杭に刻まれた文字が、夕陽に照らされている。
『ここに眠るものに手を触れるなかれ。鉄壁のドーマ、命をもって封ず』
(ドーマさん。あなたの意志を、少しだけお借りします)
スタッフを両手で構えた。先端の二股が空を向き、琥珀の水晶が光を帯びる。
「セレン。ヨルグさん。お二人とも」
四人が——セレン、ヨルグ、残りの守り手二人——紋様の周囲に立った。
「手を出してください。順番に魔力をお預かりします。少し——身体に負担がかかるかもしれません。辛くなったら言ってください」
最初にヨルグ。
ヨルグの魔力は——岩だった。重く、硬く、動かない。山そのもののような質感。ドーマ隊の血を引く者にふさわしい、頑強な力。
次に、守り手の一人。名前を聞いていなかったが、その魔力は静かな水のようだった。もう一人は、乾いた風。
三人分の魔力が琥珀に流れ込み、水晶が強く輝いた。これまでにない量。器の容量に近い。
最後に——セレン。
「いくよ」
セレンが手袋を外し、手を差し出した。四度目。
触れた瞬間、焚き火の温もりが流れ込んできた。もう馴染みの熱。だが今回は——少し、違った。
熱の奥に、何かが混ざっていた。
心配の色。不安の色。それでも信じようとする意志の色。セレンの魔力が、セレンの心をそのまま映していた。
(……ありがとう、セレン)
心の中で呟いた。声には出さなかった。
琥珀の水晶が、限界近くまで満ちた。四つの魔力——岩と水と風と炎——が混じり合い、渦を巻いている。
エメラルドの変換器が脈動を始めた。
オリヴィアはスタッフを地面に突き立てた。
光が走った。
琥珀から放たれた魔力が、エメラルドを通って変換され、紋様の溝に流れ込んでいく。白銀の光が——新しい力を受けて——輝きを増していく。
封印の構造に触れる。弱まった箇所を探り当て、新しい力で補う。繕う。ほつれた糸を結び直すように。崩れかけた壁に石を積むように。
一箇所目。紋様の東側。ドーマの核から最も遠い部分が、ほとんど消えかけていた。そこに、ヨルグの岩の魔力を流し込む。頑強な力が、消えかけた紋様を刻み直していく。
二箇所目。南側。呪詛が染み出しかけている亀裂。守り手の水の魔力で、亀裂を洗い、塞ぐ。
三箇所目。核の直下。ドーマの命の力が最も薄くなっている場所。ここには——
セレンの魔力を使った。
焚き火の温もりが、封印の核に沈んでいく。ドーマの残した意志に触れ、寄り添い、温める。
三十年間、ひとりで守り続けた意志。冷え切った核に、新しい火が灯る。
——ありがとう。
意志の残滓が、そう言った気がした。気のせいかもしれない。だが——オリヴィアの目の奥が、かすかに熱くなった。
紋様の明滅が——止まった。
安定した光。穏やかな白銀。脈打つのではなく、静かに、均一に灯っている。
封印が、安定を取り戻した。
オリヴィアはスタッフを引き抜き、一歩後ろに退がった。膝が震えていた。かなり消耗している。だが——成功した。
「……終わりました」
振り返ると、四人が同じ顔をしていた。目を見開き、紋様の光を見つめている。
「光が——安定してる」
ヨルグが呟いた。
「ああ。三十年見てきたが——こんなに穏やかな光は初めてだ」
ヨルグの声が、震えていた。
セレンがオリヴィアの傍に来て、肩を支えた。
「ふらついてるぞ。座れ」
「大丈夫です——」
「大丈夫じゃないだろう。顔が真っ白だ」
「元々この色ですが」
「違う白さだよ、馬鹿」
馬鹿と言われたのは初めてだった。不思議と嫌ではなかった。
セレンに支えられて地面に座り込んだ。冷たい岩の感触が、火照った身体に心地よかった。
「セレン」
「ん」
「これは応急処置です。封印の根本的な問題——ドーマの核が有限であること——は変わっていません。いずれまた弱まります」
「どのくらい持つ」
「十年——いえ、外部からの干渉がなければ、もう少し」
「それだけ時間があれば、別の手を考えられる」
「はい。ヨルグさんたちと、信頼できる魔術師を見つけて、より恒久的な封印の維持方法を構築するのがよいかと思います」
ヨルグが近づいてきた。膝をつき、オリヴィアと目線を合わせた。
「……礼を言う。ドーマ隊を代表して」
「私は何も——皆さんの魔力がなければ、何もできませんでした。空の器ですから」
「空だからこそ、これができた。ドーマ様はそれを知っていた」
ヨルグは立ち上がり、紋様の光を見つめた。
「三十年間、何を守っているのか分からなかった。今日、やっと分かった。——ドーマ様は、人を守ったんだ。剣でも名前でもなく。呪詛を封じて、人が死なないようにした。ただ、それだけのことを」
真に守るべきは、どちらでもないもの。
剣でもなく、名でもなく——人の命。人の暮らし。静かな日常。
それは、英雄の遺産として語られることはない。旗にも紋章にもならない。だが——間違いなく、この三十年間、レッケン峠の封印が守ってきたものだった。




