6話「鉄壁の遺言2」
昼を過ぎた頃、レッケン峠の入り口に立った。
最初に感じたのは、空気の違いだった。
冷たさの質が変わる。山の冷気とは別の、もっと深いところから滲み出てくるような冷たさ。そして——微かに、甘い匂い。腐敗ではない。花の匂いに似ているが、この季節にこの標高で花が咲いているはずがない。
峠は狭い谷間のようになっていた。両側を切り立った岩壁に挟まれ、底に細い道が続いている。道の両脇には、苔むした石が無数に転がっていた。よく見ると——石ではなかった。
鎧の破片。
錆びた剣の柄。
砕けた盾。
三十年前の戦いの残骸が、苔に覆われて地面に沈んでいる。
セレンの顔が強張った。
「……思ったより、多いな」
「ここで戦われた方々の遺品ですね」
「遺品っていうか——墓標だよ。誰も回収に来なかったんだ。三十年間」
回収されなかった死。弔われなかった兵士たち。彼らは英雄ではなかった。英雄の「盾」だった。名前は残らず、鎧だけが残った。
オリヴィアは足を止め、苔むした盾の前で立ち止まった。かつて誰かの腕にあったもの。誰かの命を守ったかもしれないもの。
静かに、頭を下げた。
セレンが隣で、同じように頭を下げた。
しばらく無言で歩いた。谷間の道は緩やかに登り、やがて開けた場所に出た。
——そこに、それはあった。
岩壁に囲まれた円形の空間。直径二十歩ほど。地面には、渦を巻くような紋様が刻まれていた。紋刻式の魔術紋——だが、オリヴィアが街で見た腕輪のものとは比較にならない規模と複雑さだった。
紋様は——光っていた。
淡い白銀の光が、地面の溝を辿って脈打っている。心臓の鼓動のように、ゆっくりと明滅を繰り返している。
「これか——フェルス先生が言ってた光は」
セレンが息を呑んだ。
オリヴィアはスタッフを構え、エメラルドの変換器を紋様に向けた。分析。この魔術紋が何をしているのかを、読み取る。
セレンの魔力がエメラルドを通って変換され、分析の術式が発動する。紋様の構造が——見えた。
「……封印」
「封印?」
「この紋様は封印術式です。何かを——この場所の地下に、封じ込めている」
「何を」
「分かりません。ただ——」
エメラルドが激しく脈動した。分析を続けようとする術式を、紋様が押し返してくる。拒絶。この封印には意志がある。作った者の意志が、三十年経った今も息づいている。
「——この封印は、非常に高度なものです。紋刻式をベースにしていますが、構造の深層に別の体系が混ざっている。少なくとも二つの異なる魔術理論が組み合わされています」
「二つ?」
「ひとつはこの世界の紋刻式。もうひとつは——私にも見覚えのない形式です」
嘘ではなかった。だが、正確でもなかった。
見覚えがないのではなく、見覚えがあるような気がしたのだ。どこで見たのかは——思い出せない。
セレンが紋様の縁を歩き、ある場所で足を止めた。
「オリヴィア。これ」
指差した先を見た。紋様の渦の中心——地面に突き立てられた一本の杭。鉄製。錆びている。だが、杭の頭には文字が刻まれていた。
しゃがんで読んだ。
『ここに眠るものに手を触れるなかれ。鉄壁のドーマ、命をもって封ず』
息が止まった。
「ドーマの——封印……」
「命をもって、って——」
セレンの声がかすれた。
命をもって封ず。その言葉が意味するところは明白だった。ドーマは、この封印に自分の命を使ったのだ。だから戦後に姿を消した。消えたのではなく——ここに、残ったのだ。
歴史から消えかけている四人目の英雄。どの国も後継を名乗らなかった理由。記録が意図的に消されたように見える理由。
ドーマは死んでいなかった。正確には——封印の一部として、ここに在り続けていた。
「何を封じたんだ。ドーマは」
セレンの問いに、オリヴィアは答えられなかった。封印の内側を分析する魔力が、もう残っていなかった。
だが——ひとつだけ、分かることがあった。
「この封印は——弱まっています」
「弱まってる?」
「紋様の光。明滅しているのは、安定しているからではなく——揺らいでいるからです。何かが内側から押し返している。あるいは、外から干渉している何者かがいる」
フェルスが言っていた光。夜中に山の稜線が白く光った。それは——封印が揺らいだ瞬間だったのかもしれない。
そして——アストリアが聖剣の発見を主張し始めたのも、最近のことだ。
関連があるのか。まだ断定はできない。だが、偶然と呼ぶには時期が重なりすぎている。
「セレン。ここのことを、フェルス先生に報告すべきだと思います」
「ああ——そうだな。先生なら、何か知ってるかもしれない」
立ち上がろうとしたとき、背後で石が転がる音がした。
二人は同時に振り返った。
谷間の入り口——来た道の方向に、人影が立っていた。
三人。揃いの灰色の外套。フードを目深に被っているが、外套の下に鎧の光沢が見える。腰には剣。そして——腕に、紋刻式の腕輪ではなく、紋様が直接刻まれた革の手甲。
軍の装備ではなかった。アストリアの正規兵とも違う。
「——何者だ」
セレンが剣の柄に手をかけた。
先頭の人影がフードを下ろした。鋭い目をした男。頬に古い傷跡がある。
「そちらこそ。ここは立ち入り禁止区域だ」
「立ち入り禁止? 誰がそんな指定をした」
「我々の主が」
「あんたらの主? アストリア軍の管轄でもないのに——」
「アストリア軍の話はしていない」
男の声は冷たかった。視線がオリヴィアのスタッフに移る。琥珀の水晶を、じっと見た。
「——そのスタッフ。紋刻式ではないな」
「……旅の魔術師です。この地域の方式とは異なる流派を使います」
「流派の問題ではない。その構造は——」
男が一歩前に出た。残りの二人も、左右に展開する。包囲の動き。訓練された連携だった。
「封印に干渉したな」
「分析しただけです。封印には触れていません」
「分析も干渉のうちだ。あの封印は繊細なんだよ。余計な魔力を流し込めば——」
男が言いかけたとき、地面が震えた。
小さな揺れ。だが——足元の紋様が、一瞬、強く光った。白銀の光が膨れ上がり、岩壁を照らし、すぐに消えた。
全員が、凍りついた。
沈黙の中で、紋様の明滅が——少しだけ、速くなっていた。
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「——中に入れ」
男が低い声で言った。命令口調だったが、その目には焦りがあった。
「封印が反応した。この場で争えば、さらに刺激する。話は中でする」
中——谷間の奥を示していた。紋様の円形の空間の先に、岩壁に穿たれた洞窟がある。外からは見えなかった角度だ。
セレンが目でオリヴィアに問いかけた。信じるのか、と。
オリヴィアは小さく頷いた。この男たちには殺意がない。警戒と焦りはあるが、敵意ではない。封印を守っている——そういう立場の人間だと判断した。
洞窟の中は、思ったより広かった。
奥に焚き火の跡があり、毛布や食料が置かれている。野営地だ。この三人は、ここに滞在して封印を監視していたのだ。
男が外套を脱いだ。中の鎧は——古い型だった。三十年前のものかもしれない。
「名を聞いても?」
オリヴィアが問うと、男は少し間を置いてから答えた。
「……ヨルグ。ドーマ隊の残存兵だ」
ドーマ隊。
鉄壁のドーマの——部下。
セレンが息を呑んだ。
「三十年前の——生き残りか」
「全員ではない。俺はドーマ隊の副官の息子だ。親父の遺志を継いで、封印を守っている。こいつらも同じだ。ドーマ隊の兵士の子や孫」
「引き継がれてきた守り番か」
「ドーマ様の最後の命令だった。『この封印を守れ。誰にも触れさせるな。いつか——』」
ヨルグは言葉を切った。
「いつか?」
「……『いつか、この封印を正しく解ける者が来る。それまで守れ』と」
正しく解ける者。それが誰のことなのかは、ドーマも言い残さなかったのだという。
「封印の中身は何なのですか」
オリヴィアの問いに、ヨルグは首を横に振った。
「俺たちも知らない。ドーマ様は教えなかった。ただ——」
視線が、洞窟の壁に向いた。壁面に、文字が刻まれている。古い字体だったが、読めた。
『剣は人を斬り、名は国を斬る。真に守るべきは、どちらでもないもの。それを忘れた日に、封を解く意味は失われる』
ドーマの言葉。
剣は人を斬り、名は国を斬る。聖剣と、聖勇者の名。そのどちらでもないもの——真に守るべきもの。
ドーマは、何を守ろうとしたのか。
そしてドーマ自身は——今も、この地下で封印の一部として在り続けている。命をもって。三十年間。
オリヴィアの胸の奥が、深く痛んだ。
自分の命を捧げて何かを封じ、その意味を誰にも説明せず、ただ「守れ」とだけ言い残した人。英雄と呼ばれることも、国に利用されることも拒んで、ここに残った人。
「ヨルグさん。封印が弱まっていることは、ご存知ですか」
「……ああ。一月ほど前から、明滅が激しくなった。それと同じ頃に——」
「アストリアが聖剣の発見を主張し始めた」
ヨルグが頷いた。
「偶然じゃない、と俺たちも考えている。アストリア王宮が何かを嗅ぎつけた可能性がある。この封印の存在を」
「だから監視を強化していたのですね」
「そうだ。——だから、お前たちが来たときは正直焦った。王宮の手の者かと思った」
セレンが苦い顔で言った。
「元アストリア軍だから、余計に疑ったか」
「セレンという名は聞いたことがある。命令を拒否して除隊した兵士だろう。——悪い人間ではなさそうだが」
「褒められてるのか、けなされてるのか分からないな」
「褒めている」
ヨルグは無愛想に言い切った。セレンが肩をすくめる。
「それで——どうする。俺たちだけでは、封印が破れたときに対処できない。かといって、誰かに助けを求めれば、封印の存在が外に漏れる」
「外に漏れれば、アストリアもヴェルムスタッドも動く」
「ああ。封印の中身が何であれ——聖勇者の遺産に連なるものだと解釈されれば、奪い合いになる」
堂々巡りだ。守りたいが、守る手段がない。助けを求めたいが、求めれば守れなくなる。
オリヴィアは洞窟の壁の言葉をもう一度読んだ。
『真に守るべきは、どちらでもないもの』
「——ひとつ、提案があります」
全員の視線が集まった。
「封印の分析を、もう少し深く行わせてください。封印を壊すのではなく、構造を理解するために。封印が弱まっている原因が分かれば、補強する方法が見つかるかもしれません」
「だが、さっきお前の分析で封印が反応した」
「あれは——表層に触れただけです。もう少し繊細に、封印の意志に逆らわない形で読み取る方法があります。ただ——」
魔力が足りない。
セレンから借りた分は、森の魔獣との戦闘と先ほどの分析でかなり減っている。残りはわずかだ。
「魔力が必要です。あと少しだけ」
セレンが即座に手袋を外した。
「使え」
ヨルグが眉を寄せた。
「何をする気だ」
「オリヴィアは自分の魔力を持っていないんだ。他人の魔力を借りて術を使う。——あたしの魔力を渡す」
ヨルグの目が見開かれた。彼の視線がオリヴィアのスタッフに戻る。琥珀の水晶。エメラルドの変換器。
「自前の魔力を持たない魔術師——空の器か」
その言葉の響きに、オリヴィアは微かな違和感を覚えた。知っているような口ぶりだった。
「ご存知なのですか。このような術式を」
ヨルグは答えなかった。代わりに、洞窟の壁の文字を見つめた。
長い沈黙。
「……ドーマ様の日誌に、一箇所だけ不思議な記述があった」
「日誌?」
「『いつか空の器が来たら、封印の鍵を預けよ』——俺は、何のことか分からなかった。今まで」
空の器。
オリヴィアの心臓が——あるのかどうか分からない心臓が——強く脈打った。
偶然なのか。それとも——自分がこの世界に送られたことには、最初から意味があったのか。
あの光の中の神は、何も教えてくれなかった。「報告さえ上げればいい」とだけ言った。だが——別の神が、別の思惑で、何かを仕組んでいたとしたら。
神々は一枚岩ではない。
(……考えすぎですか)
「ヨルグさん。今は封印の補強が先です。鍵の話は——その後で」
「ああ。——そうだな」
セレンが手を差し出した。オリヴィアはその指先に触れた。
焚き火の温かさ。三度目。もう馴染みの温度だった。
琥珀が光る。エメラルドが応える。
封印の分析を——今度は、もっと丁寧に。封印に敬意を払うように。ドーマの意志に触れるように。
目を閉じた。
紋様の深層に、意識を沈めていく。
暗い。冷たい。だが——その奥に、確かに何かがある。
それが何なのかは、まだ分からない。
だが——ドーマがこれを命をかけて守ったのだとしたら、それは守るに値するものなのだ。
剣でもなく、名でもなく。
真に守るべきもの。
それを知るために——もう少しだけ、深く。
意識が、封印の奥へ沈んでいった。




