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5話「鉄壁の遺言1」

休息日は、思いのほか静かに過ぎた。


セレンは「用事がある」と言って朝から街を歩き回っていたらしい。峠行きの準備——食料、水、防寒具。オリヴィアは灰色亭に残り、二階の部屋で昨日までの情報を頭の中で整理していた。


紙に書き出したい衝動はあったが、万が一誰かに見られた場合のことを考え、やめた。代わりに、窓辺に座り、街を行き交う人々を眺めながら、記憶の中に地図を描いていった。


アストリア王国。聖勇者グランヴェルドの後継を自称する国家。北にヴェルムスタッド、南にコルディア。三つの国が、三人の英雄の名をそれぞれ掲げている。四人目——鉄壁のドーマ——だけが、どの国にも継承されていない。


レッケン峠の光。魔術的な光。偵察部隊では出せない規模。


聖剣「ログレス」の発見を主張するアストリア王宮。


これらが繋がるのか、繋がらないのか。まだ分からない。


昼過ぎに一階に降りると、宿主がスープを出してくれた。白い豆をじっくり煮込んだもので、とろりとした舌触りが心地よかった。豆の甘みと塩気のバランスが絶妙で、何の変哲もない一皿なのに妙に満足感がある。


宿主は相変わらず無口だったが、空になった皿を下げるとき、ほんの一瞬だけ頷いた。美味しかったという意思が伝わったのかもしれない。


夕方、セレンが戻ってきた。


「防寒用の毛布と、ロープ、火打ち石。食料は干し肉と黒パン。水袋は二つ。——足りないものある?」


「十分です。ありがとうございます、わざわざ」


「礼はいい。明日は夜明け前に出る。早く寝ろよ」


「はい」


セレンは帰りかけて、ふと振り向いた。


「……あんた、一日中部屋にいたのか」


「はい。情報の整理を」


「窓から外を見てた?」


「見ていました」


「——それ、寂しくなかったか」


不意の問いだった。オリヴィアは少し考えた。


「寂しい、というのとは少し違います。ただ——」


「ただ?」


「窓の外の人々を見ていると、自分がここにいない気がするときがあります。見ているだけで、触れていない。透明な壁の向こう側にいるような」


言葉にしてから、言いすぎたかもしれないと思った。


セレンはしばらくこちらを見つめ、それから黙って一歩戻り、カウンターの椅子に座った。


「もう少しだけ、話してから帰る」


「……お付き合いいただかなくても」


「付き合いたいから付き合うんだ。——あんたの話をもっと聞きたい」


結局、一時間ほど話した。


中身のある会話ではなかった。セレンが子供の頃に食べた祭りの焼き菓子の話。オリヴィアが以前訪れた——どことは言わなかったが——別の場所で見た星空の話。好きな季節の話。セレンは夏、オリヴィアは春。理由を聞かれて、花が咲くから、と答えたら、セレンは「あんたらしい」と笑った。


らしい、とはどういうことだろう。まだ三日しか一緒にいないのに。


でも——不思議と、嫌ではなかった。


--------------------------------------------


翌朝。夜明け前。


灰色亭の前で合流したとき、空はまだ暗かった。東の端だけがほんのり白み始めている。吐く息が白い。冬が、確実に近づいている。


セレンは昨日より厚手の上着を羽織り、腰の剣に加えて背中に短弓を背負っていた。


「弓もお使いになるのですか」


「得意じゃないけどな。山道では剣より弓のほうが役に立つことがある」


北門を出て、昨日と同じ道を辿る。村への分岐を通り過ぎ、森の縁に沿って進む。やがて道は細くなり、森の中へ入っていった。


針葉樹の森は、夜明けの光をほとんど通さなかった。足元は落ち葉と苔。湿った土の匂い。木々の間を抜ける風が、枝を軋ませている。


セレンが前を歩き、オリヴィアが後ろに続く。二人の足音と、時おり鳥の声だけが、森の沈黙を破っていた。


「この森を抜けると山道に入る。そこからは登りだ」


「どのくらいで峠に?」


「昼過ぎには着きたい。暗くなる前に調べて、戻れるのが理想だけど——まあ、何があるか分からないからな」


何があるか分からない。その言葉の重さを、オリヴィアは噛みしめた。


スタッフを握る手に、わずかに力が入る。琥珀の水晶には、セレンから預かった魔力がある。少量。使えるのは数回程度の術。何に使うべきか、判断を誤ってはいけない。


一時間ほど歩いたとき、セレンが足を止めた。


「……静かすぎる」


オリヴィアも立ち止まった。耳を澄ます。鳥の声が——消えている。


「何かいますか」


「分からない。だが——」


セレンの手が腰の剣の柄にかかった。目が、木々の間を素早く走査している。元軍人の動きだった。身体が自然に臨戦態勢に入っている。


オリヴィアはスタッフを両手で構えた。エメラルドが微かに脈動する。変換器が周囲の異変を感知している。


前方——斜め右の茂みが揺れた。


何かが飛び出してきた。


黒い体毛。四本の脚。狼に似ているが、大きさが違う。肩の高さがオリヴィアの腰ほどもある。目が赤い。口から黒い涎が滴っている。


「魔獣か——!」


セレンが剣を抜いた。銀色の刃が、薄暗い森の中でぎらりと光る。


魔獣はもう一頭。右の斜面から、音もなく現れた。二頭が、左右から挟み込むように距離を詰めてくる。


「オリヴィア、下がれ!」


「——いえ」


オリヴィアはスタッフを前に出した。琥珀の水晶が光を帯びる。セレンの魔力が、焚き火のような温かさで流れ出す。エメラルドがそれを受け取り、変換を始めた。


この世界の魔術は紋刻式。だが、変換器は世界の法則に合わせて魔力の形を翻訳する。必要なのは、意志と、正確な制御。


右の魔獣が先に跳んだ。


オリヴィアはスタッフの先端を向け、短く息を吐いた。


光が走った。


琥珀色の閃光が魔獣の前脚を打ち、弾き飛ばした。大した威力ではない。牽制程度。だが、着地を崩された魔獣が体勢を立て直すまでの、わずかな間。


その間に、セレンが動いていた。


左の魔獣が飛びかかるのを、半歩だけ横にずれてかわし、すれ違いざまに首筋を斬る。一刀。深い。魔獣が地面に倒れ、痙攣してから動かなくなった。


体勢を立て直した右の魔獣が、今度はオリヴィアに向かってきた。


近い。スタッフでもう一射——いや、魔力の残量を考えると軽率な消費は避けたい。


迷いは一瞬だった。


オリヴィアはスタッフを杖のように地面に突き立て、身体を軸にして半回転した。魔獣の突進をぎりぎりでかわす。爪がケープの端を裂いた。布が千切れて宙に舞う。


すぐ後ろから、弦の音が響いた。


矢が、魔獣の脇腹に突き刺さった。セレンが短弓を構えていた。魔獣が悲鳴を上げ、よろめく。二射目。今度は喉元。魔獣は前のめりに倒れ、動かなくなった。


静寂が戻った。


二人の荒い呼吸だけが、森に残っている。


「——怪我は」


セレンが弓を下ろし、すぐにこちらへ来た。


「ありません。ケープが少し裂けましたが」


「少しって——けっこう派手にやられてるぞ」


ケープの右裾が、ざっくりと切れていた。爪の一撃だ。あと数寸ずれていたら、腕に届いていた。


「……そうですね。思ったより近かったようです」


「他人事みたいに言うな」


セレンの声に、怒りに似た響きがあった。怒り——いや、これは心配だ。フェルスが見せたものと同じ種類の。


「すみません。ご心配をおかけしました」


「……次は、もっと早く下がれ。あたしが前に出るから」


「でも——」


「あんたの魔術がなかったら、左のやつに跳びかかられてた。助かったのはこっちだ。だから——分業しよう。あんたが足を止めて、あたしが前に出る。いいな」


分業。役割分担。一人では成り立たない戦い方。


「……はい」


頷くと、セレンは小さく息を吐き、剣の血を拭って鞘に収めた。


「しかし、あの魔術——きれいだったな。あんたの動きも、スタッフの使い方も。見たことない型だ」


「この世界の——この地域の魔術とは、少し異なるかもしれません」


「紋刻式じゃないもんな。紋様もなしに、杖ひとつで術を出すなんて。あたしは素人だけど、相当な腕だってことくらいは分かるよ」


褒められている。適切な反応が分からない。


「……セレンの剣さばきのほうが、よほど見事でした」


「褒め返すの下手だな、あんた」


「下手ですか」


「下手だよ。タイミングが教科書的すぎる」


「教科書的——教科書を読んだことがないのですが」


セレンが吹き出した。森の中で、二頭の魔獣の死体のすぐ傍で。場にそぐわない笑い声だったが、張り詰めていた空気がすっと緩んだ。


「行こう。この辺にいると、血の匂いで別のが寄ってくる」


--------------------------------------------


森を抜けると、道は岩がちの山肌に変わった。


風が強くなった。高度が上がるにつれて、気温が下がっていく。オリヴィアは裂けたケープを身体に巻きつけるようにして歩いた。寒さそのものは——身体的にはそこまで堪えない。ホムンクルスの身体は、人間より環境への耐性が高い。だが、寒いという感覚は確かにあった。


感覚があるということは——何なのだろう。身体の機能なのか、心の反応なのか。


「寒いか?」


セレンが毛布を差し出そうとした。


「大丈夫です。ありがとうございます」


「無理するなよ。あんた、細いんだから」


「体質的に、見た目ほどには寒さに弱くないのです」


「体質ね」


セレンは深く追及しなかった。ただ、毛布はすぐ出せるように背嚢の上に括りつけ直した。


山道は予想以上に険しかった。岩場を越え、崩れかけた古い石段を登り、枯れた沢を渡る。セレンが先行して足場を確認し、安全な場所を指し示してくれた。迷いのない足取りだった。


「この道は何度か歩いたことがあるんだ。軍にいた頃、偵察任務で」


「レッケン峠にも?」


「峠の手前までは。峠そのものに入ったことはない。あそこは——嫌な場所だ」


「嫌な場所」


セレンは少し黙ってから、言った。


「三十年前の最終決戦が行われた場所のひとつなんだ。魔王軍の精鋭部隊と、勇者一行の仲間たちが戦った。勇者本人は魔王の本拠地に向かってたから、峠の戦いは『盾』の役割だった。魔王の増援を食い止めるための」


「……鉄壁のドーマが」


「そうだ。ドーマが指揮を取ったと言われている。——あの峠は、大勢の兵が死んだ場所だ。今でも、夜になると声が聞こえるって話がある」


声。死者の声。


オリヴィアは歩きながら、スタッフの琥珀を見た。光はまだ残っている。先ほどの戦闘で一回分使った。残りの魔力で何ができるか。


「セレン。もうひとつ、魔力をお借りしてもいいですか」


「——いいよ。ここで?」


「はい。峠に着いてからでは遅いかもしれません」


セレンは手袋を外し、右手を差し出した。前回と同じように、オリヴィアは指先に触れた。


焚き火の温かさが流れ込む。前回より、少しだけ——馴染みやすくなっている気がした。セレンの魔力が、自分の空の器に抵抗なく収まっていく。


「ん——」


セレンが小さく声を漏らした。


「大丈夫ですか」


「ああ。前より——なんだろう、渡しやすくなった気がする。不思議だな」


「相互の信頼が深まると、魔力の受け渡しがスムーズになることがあります」


言ってから、自分の言葉に少し驚いた。信頼。三日前に出会ったばかりの人との間に、もうそれが生まれていると、自分は思っているのだ。


セレンは手袋をはめ直しながら、小さく笑った。


「信頼か。——嬉しいことを言ってくれるな」


「事実を述べただけですが」


「あんたが言う『事実』は、たまにすごく重いんだよ」


意味を問い返す前に、セレンは歩き出していた。

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