4話「焚き火の温もり2」
村は、街よりもずっと小さかった。
石造りの家が二十軒ほど。中央に井戸と、小さな集会所らしき建物。畑は広いが、収穫を終えた後のようで、茶色い土が露出している。
人影はまばらだったが、セレンの姿を見ると何人かが手を上げた。顔なじみなのだろう。
「セレン、来てくれたのか」
「薬、持ってきたよ。フェルス先生は?」
「診療所だ。いつも通り」
セレンは頷き、オリヴィアを振り返った。
「一緒に来るか? 診療所は村の奥だ」
「はい」
村の中を歩く。ここにはアストリアの旗は少ない。一枚だけ、集会所の壁に色褪せたものが掛かっていたが、まるで義務的に掲げているだけのように見えた。
子供の声が聞こえた。三人の子供が、集会所の脇で追いかけっこをしている。一人がオリヴィアを見て足を止め、珍しそうにじっと見つめてきた。オリヴィアが小さく手を振ると、子供は照れたように走り去っていった。
「子供に好かれるタイプか」
「どうでしょう。珍しかっただけだと思います」
「相変わらず自己評価が低いな」
診療所は、村の一番奥にある石造りの平屋だった。
入ると、薬草の匂いが鼻を突いた。棚にはびっしりと瓶が並び、乾燥させた草が天井から吊るされている。奥のベッドには誰も寝ていない。今日は患者が少ないのか。
「フェルス先生」
セレンが声をかけると、奥の扉からひとりの男が出てきた。白髪交じりの短い髪。細い金縁の眼鏡。年齢は五十代だろうか。白衣の下に厚手のセーターを着込んでいて、手には擂り鉢を持っていた。
「ああ、セレン。待ってたよ。——そちらは?」
「旅の友人。オリヴィアだ」
友人、と呼ばれたことに少し驚いた。知り合って一日で友人。だが、訂正する理由もない。
「オリヴィアです。お邪魔します」
「フェルスだ。よく来たね。——セレン、荷物をそこに置いてくれ」
セレンが背中の荷を降ろし、布を解いた。中身は薬瓶がいくつかと、白い包帯の束。
「助かる。包帯がもう底をついていたんだ」
「街の商人が、次から値上げするって言ってた。仕入れが厳しいんだと」
「北の街道が止まっているからな。物資の流れが滞っている」
フェルスは薬瓶を棚に並べながら、静かに言った。
「国境の情勢は?」
「ここ数日は動きがない。だが——」
フェルスの手が一瞬止まった。
「先週、北のレッケン峠で光が見えたという話がある」
「光?」
「魔術的な光だ。夜中に、山の稜線が一瞬白く光ったと。猟師のベルグが言っていた」
セレンの表情が硬くなった。
「斥候か?」
「分からない。だが、ヴェルムスタッドが再び偵察を送り込んでいる可能性はある。——あるいは」
フェルスが眼鏡を押し上げた。
「聖剣に関連する動きかもしれない」
沈黙が落ちた。
オリヴィアはその場の空気を読み、口を挟まなかった。ただ、耳は澄ませていた。
「……フェルス先生。聖剣の件、先生はどう思ってるんだ」
「どうとは?」
「本物だと思うか」
フェルスはしばらく黙った。擂り鉢を作業台に置き、椅子に腰を下ろす。
「私は医者だ。政治には口を出さない主義だよ」
「先生が政治に口を出さないのは知ってる。だから聞いてるんだ。政治じゃなくて、先生個人の考えを」
フェルスはセレンを見つめ、それからオリヴィアを見た。
オリヴィアは黙って視線を返した。ジト目のまま、表情を変えず。
「——聖勇者グランヴェルドの剣『ログレス』は、勇者が最後に魔王を討った武器だ。公式にはそうなっている。だが実際には、あの戦いの詳細を知る者は少ない。勇者一行は四人いたが、戦後にそれぞれ姿を消した。あるいは、消された」
「消された?」
セレンが眉を寄せた。
「勇者一行は英雄だ。だが、生きた英雄は厄介でもある。彼らの言葉ひとつで国の正当性が揺らぐ。だから——各国にとっては、英雄には死んでいてもらったほうが都合がいい」
「……ひどい話だな」
「ひどいが、現実だ。——聖剣が本物かどうかは、正直なところ分からない。だが本物であろうとなかろうと、アストリア王宮が『本物だ』と宣言した時点で、それは政治的事実になる。そして政治的事実は、人を殺す」
最後の一言は、医者の声だった。人の死を何度も見てきた者の声。
オリヴィアは胸の内側に、冷たいものが落ちるのを感じた。
英雄の名が、人を殺す道具になる。
名前というものの重さについて、考えた。名前は——自分に与えられた名前は。オリヴィア・エスメラルダ。平和と、希望の名。これを自分に与えた神は、何を込めたのだろう。
(……今は、それを考えるときではないですね)
「お二人にお聞きしてもよろしいですか」
オリヴィアが口を開いた。セレンとフェルスが同時にこちらを向いた。
「勇者一行は四人だったとおっしゃいましたね。聖勇者グランヴェルドの他に、どなたがいらしたのでしょう」
フェルスが頷いた。
「聖勇者グランヴェルド。聖女イリアーヌ。大魔導師バルトロス。鉄壁のドーマ。——この四人が、三十年前に魔王を倒した英雄だ」
四人。それぞれに称号がある。
「各国は、それぞれ異なる英雄の後継を名乗っているのですか」
「ああ。アストリアは聖勇者グランヴェルドの後継。ヴェルムスタッドは聖女イリアーヌの血統を主張している。南のコルディアは大魔導師バルトロスの学術的遺産を継承すると称している。鉄壁のドーマについては——あまり語られないな。彼だけは、どの国も後継を名乗っていない」
「なぜですか」
「ドーマは平民の出だった。王家の権威付けには使いにくい。それに——」
フェルスは少し言い淀んだ。
「ドーマだけは、戦後に明確に姿を消したのではなく、最初から記録が少ないんだ。まるで、意図的に消されたかのように」
四人の英雄。三人の名は国家に利用され、一人の名は歴史から薄れつつある。
オリヴィアは黙って、情報を頭の中で整理した。報告書に記載すべき内容が増えていく。だが今は書き留める場面ではない。
「——ありがとうございます。勉強になりました」
「旅人にしては鋭い質問をするね」
フェルスの目が、金縁眼鏡の奥で細められた。観察するような視線。医者の目だ。患者の些細な変化を見逃さない目。
加護はおそらく機能している。だが、この人の「勘の良さ」は加護の外側にあるものかもしれない。
「好奇心が強いもので」
「好奇心は美徳だ。だが、この辺りでは危険でもある。聖剣の話に首を突っ込みすぎると、どちらの陣営からも目をつけられる」
「ご忠告、感謝します」
「今日三度目?」
セレンが横から笑った。
「三度目です」
「あんた、忠告されすぎだろう」
「忠告される何かがあるのでしょう」
「自覚はあるのか」
「……薄々は」
セレンがまた笑った。フェルスも、口の端をわずかに上げた。
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昼食はフェルスが出してくれた。
質素だが丁寧な食事だった。黒パンと、塩漬け肉を薄く切ったもの。酸味のあるチーズと、リンゴに似た果物。果物は少し傷んでいたが、甘みが濃く、歯ごたえがしゃくしゃくと心地よかった。
「おいしいです」
「リンゲルだよ。この辺りの野生種だ。見た目は悪いが味はいい」
フェルスは食べながら、オリヴィアの食べ方を見ていた。少量を丁寧に口に運ぶ様子を。
「少食だね」
「はい。ですが、食べることは好きです」
「いい心がけだ。食べることを楽しめる人間は、そう簡単には折れない。——医者としての経験上の話だが」
オリヴィアはリンゲルをもうひとかけら口に入れた。甘い。この果物の名前は覚えておこう。
食後、セレンが外の様子を見に出て、フェルスと二人きりになった。
沈黙が数秒続いた。フェルスが片づけをしながら、背中越しに言った。
「セレンのことは——どこまで聞いた」
「お名前と、この辺りで活動されていることくらいです」
「そうか。——あの子は元軍人だ。アストリアの正規兵だった」
意外ではなかった。革鎧の着こなし、剣の帯び方、兵士を相手にしたときの物怖じしない態度。軍の経験があると考えれば辻褄が合う。
「今は?」
「除隊した。二年前に。——理由は本人から聞いてくれ。あたしから言うことじゃない」
フェルスは振り返り、眼鏡を押し上げた。
「ただ、ひとつだけ。あの子は強いが、強いことと無理をすることは違う。それだけ、覚えておいてくれ」
言葉の奥にある感情は、心配だった。この医者は、セレンのことを娘のように案じている。
「——はい」
それだけ答えた。フェルスはそれ以上何も言わなかった。
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午後、村を発つ前に、セレンが村の外れに連れて行ってくれた。
小高い丘の上に出ると、北の山々が一望できた。灰色がかった稜線が、曇り空の下にうねうねと続いている。その向こうがヴェルムスタッドだという。
「レッケン峠はあの辺だ」
セレンが指した方角に、ひときわ険しい峰がそびえていた。
「フェルス先生が言ってた光——あそこで見えたなら、かなり強い魔術だ。偵察部隊の魔術師程度じゃ出せない規模の」
風が冷たかった。冬の匂いが混じっている。
オリヴィアは目を細め——元々細いのだが——、山の稜線を見つめた。
「行ってみたいですか」
不意にセレンがそう聞いた。
「……なぜそう思うのですか」
「あんたの目が、そう言ってる。さっき聖剣の話を聞いたときも。情報を集めてるだけじゃなくて、自分の目で確かめたいって顔だった」
見抜かれている。この人は、勘が鋭いだけではない。人を見ている。
「……否定はしません」
「なら付き合うよ。ただし今日じゃない。準備がいる」
「準備?」
「峠までは山道を半日。残党が出る森を抜ける必要がある。——それと」
セレンはこちらを向いた。
「あんたの魔力の件もある。あたしが貸した分だけで足りるのか?」
「正直なところ、戦闘になれば心許ないです」
「だろうな。——もう少し貸そうか?」
「いえ、これ以上は。短期間に多く受け取ると、セレンの身体に負担がかかります」
「あたしの心配をしてくれてるのか」
「当然です」
即答だった。
セレンが不意に黙った。風がケープを揺らす。エメラルドのブローチが、曇り空の薄い光を一瞬だけ緑に映した。
「……当然、か」
セレンは小さく呟いて、それから前を向いた。
「分かった。じゃあ明日一日休んで、明後日の朝に出発だ。峠まで行って、フェルス先生が言ってた光の正体を確かめる」
「——はい」
「あんたは調べたいことがある。あたしは村の安全が気になる。利害は一致してる。そうだろ?」
「そうですね。利害の一致で動いているのだと思いたいところですが」
「それ以外にもあるのか」
「……単純に、セレンと一緒だと安心するのかもしれません」
言ってから、少し驚いた。自分の口から、そういう言葉が出てきたことに。
セレンは——今度は笑わなかった。代わりに、真っ直ぐこちらを見て、小さく頷いた。
「あたしもだ。理由はまだ分かんないけど」
二人の間を、北からの冷たい風が抜けた。
山の稜線は沈黙していた。光は、今は見えない。
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帰り道は、来た道を辿った。
夕暮れの草原は橙色に染まり、焼け跡さえも柔らかな色に包まれていた。美しい、と思った。焼かれた土地が美しく見えることに、少しだけ罪悪感があった。
「セレン」
「ん」
「ひとつ聞いてもいいですか」
「いいよ」
「……フェルス先生から、以前は軍にいたと伺いました。差し支えなければ——いえ、無理にとは」
セレンは少し黙った。足音だけが、しばらく続いた。
「聞いたのか。——まあ、隠すことでもないか」
前を見たまま、セレンは話し始めた。
「アストリアの正規軍にいた。五年間。入隊したのは、村の人間を守れるようになりたかったから。単純な理由だよ。——でも軍の実態は、国境を守ることじゃなかった。聖勇者の名の下に、隣国を威嚇し、利権を確保するための組織だった」
声は平坦だった。だが、歩く速度が少しだけ落ちた。
「二年前に命令が下った。北の村落の住人を——ヴェルムスタッドの間者の疑いがあるとして拘束しろ、と。証拠なんてなかった。国境沿いに住んでるってだけで疑われた」
「……それで」
「拒否した。命令違反で除隊処分。——それだけだよ」
それだけ、ではないだろう。だが、それ以上は踏み込まなかった。
「セレン」
「うん」
「あなたは正しかったと、私は思います」
「……正しかったかどうかは分からない。ただ、あのとき従ってたら、あたしはあたしじゃなくなってた。それだけは確かだ」
自分が自分であるために、選び取った道。代償は確かにあった。軍の後ろ盾を失い、肩書きもなく、ひとりで国境の街と村を行き来する日々。それでも——この人は笑っている。
強い、と改めて思った。
日が沈みかけていた。ラーヴェルの灰色の城壁が、夕焼けの端に黒く浮かび上がっている。
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灰色亭に戻り、夕食を済ませた後、オリヴィアは部屋に上がった。
寝台に腰を下ろし、スタッフを膝の上に横たえる。琥珀の水晶が、セレンから預かった魔力をほのかに灯している。焚き火のような温かい光。
右手で水晶に触れた。温かい。空だったときとは、まるで違う。
(……セレンの魔力)
借り物の力。自分のものではない力。いつかは返すか、使い切って消える力。
それでも、今はここにある。確かに、温かく。
ブーツを脱ぎ、寝台に横になった。今日得た情報を整理する。
聖勇者グランヴェルドの剣「ログレス」。アストリアがその発見を主張。ヴェルムスタッドとの緊張。レッケン峠の光。四人の英雄——そのうちの一人、ドーマだけが歴史から消えかけている。
そして、この世界の人々。
旗に従い、名前に縛られ、英雄の亡霊に翻弄される人々。その中で、自分にできることは何なのか。
——いや。自分の役割は調査と報告だ。それ以上でも、それ以下でもない。
分かっている。分かっているのに。
あの子供の震える肩を思い出す。閉じた職人の店。焼けた畑。フェルスの「政治的事実は、人を殺す」という言葉。
(私は——ただの観察者です)
言い聞かせるように。
だが胸の奥で、オリーブの花が小さく揺れているような気がした。
平和を願う心は——魂がなくても、持つことができるのだろうか。
目を閉じた。
明後日、レッケン峠へ向かう。光の正体を確かめる。セレンと一緒に。
それが今の自分にできる、一歩先のこと。
蝋燭の火を吹き消す前に、琥珀の水晶をもう一度だけ見た。
セレンの魔力が、小さな焚き火のように光っていた。
まるで、闇の中に灯された篝火のように。
消さないように——大切に使わなければ。
蝋燭を吹き消した。
暗闇の中、琥珀の光とエメラルドの光が、並んで静かに瞬いていた。




