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3話「焚き火の温もり1」

朝は、鳥の声で目が覚めた。


窓から差し込む光はまだ薄い。オリヴィアは寝台の上で瞬きをし、天井の木目をしばらく眺めた。寝起きの数秒間、自分がどこにいるのかを思い出す時間がある。これは毎回のことだ。世界を渡るたびに、意識の基準点がずれる。


ラーヴェル。灰色亭。アストリア王国の国境の街。


昨日の記憶が順番に戻ってくる。シチュー。兵士。セレン。


——セレン。


朝、迎えに来ると言っていた。


寝台から足を下ろし、身支度を整える。シャツの皺を手で伸ばし、コルセットを締め直し、ベルトにポーチを二つ装着する。黒タイツに少し埃がついている。払い落とす。ブーツを履く。最後にケープを羽織り、エメラルドのブローチで留めた。


壁に立てかけたスタッフを手に取る。琥珀色の水晶にそっと指先で触れた。冷たい。中身が空であることを確認するまでもない。自分の指先には魔力がないのだから、触れたところで何も応答しない。


それでも朝に一度確認するのは、習慣だった。


一階に降りると、宿の主人が朝食を出してくれた。硬めのパンと、干し果実を煮たもの。温めた牛乳。パンは一晩置いたものだろうが、干し果実の煮汁に浸すとほどよく柔らかくなった。果実の甘さが控えめで、朝の胃に優しい。


牛乳をゆっくり飲んでいると、入り口の扉が開いた。


「おはよう。もう起きてたか」


セレンだった。昨日と同じ革鎧。だが、今日は背中に荷を背負っている。布に包まれた長方形の荷物と、革の背嚢。届け物と言っていた。


「おはようございます。早いですね」


「朝は得意なんだ。——準備できてるか?」


「はい。いつでも」


「朝飯は?」


「今、ちょうど」


セレンはカウンターの向こうの宿主に片手を上げて挨拶し、椅子を引いて向かいに座った。宿主が何も言わず、同じ朝食をもうひとつ出してくる。常連なのかもしれない。


セレンの食べ方は早かった。パンをちぎり、煮汁にほとんど浸さず、そのまま口に放り込む。硬いパンを平然と噛み砕く顎の動きを、オリヴィアはぼんやり見ていた。


「……何か顔についてるか?」


「いえ。硬いパンを、そのまま召し上がるんだなと」


「浸すのが面倒なんだよ。——あんたは丁寧に食べるな」


「少食なので、一口ずつ味わいたいのです」


「贅沢な食べ方だ」


嫌味ではなく、本心からそう思っている口調だった。セレンは牛乳を一息に飲み干し、口元を手の甲で拭った。


「よし。行こうか」


--------------------------------------------


街の北門を出ると、景色が一変した。


草原は昨日の丘の上から見たものと同じだったが、道に沿って歩くと、ところどころに焦げた跡が見えた。草が黒く枯れた一帯。倒れた柵。踏み荒らされた畑の残骸。


「去年の秋にヴェルムスタッドの斥候部隊が入り込んだときの跡だ」


セレンが前を歩きながら、振り返らずに言った。


「戦闘があったのですか」


「小競り合い程度だけどな。畑はやられた。冬を越すのに苦労した家が何軒もあった」


声は平坦だった。感情を押し殺しているのではなく、何度も見てきたことを淡々と述べている口調。こういう被害が日常の一部になっている。


オリヴィアは黒く焼けた地面を見つめながら歩いた。焦げた草の下にも、土はある。春が来れば、また芽が出るのだろうか。


「北の村までは、どのくらいですか」


「歩いて半日。昼過ぎには着くよ」


道は緩やかに丘を越え、次第に森の縁に沿うようになった。森は針葉樹が多く、薄暗い。木々の間から冷たい風が吹き抜けてくる。


「この森には入らないほうがいい」


セレンが足を緩めずに言った。


「魔物ですか」


「残党だ。魔王軍の。三十年前に大半は掃討されたけど、山奥や深い森にはまだ潜んでるのがいる。この辺は特に、国境が曖昧な地域だから討伐隊も入りにくい」


「それは……怖くないのですか。この道を」


「怖いさ。でも、届け物があるからな」


あっさりと言い切った。怖いと認めた上で、それでも歩く。昨日、兵士の前に立ったときと同じだ。


しばらく無言で歩いた。


オリヴィアは考えていた。この世界の構造を。


魔王が倒されて三十年。英雄は神格化され、国家の正当性の道具になった。その一方で、魔王軍の残党はまだ存在している。人々は英雄の遺産を巡って争いながら、足元の脅威には十分に対処できていない。旗を振ることに忙しくて、地面を見ていない。


「セレン」


「ん?」


「その届け物は、どなたに」


「村の診療所の医者だよ。薬と、包帯の替え。街の商人に頼んでおいたやつを受け取って運ぶ」


「……それは、お仕事として?」


セレンが初めて足を止め、振り返った。


「仕事じゃない。あたしの知り合いの医者でね。街まで取りに来る余裕がないんだ、あの人には。だから、あたしが代わりに」


「対価は」


「もらってない。たまに飯を食わせてもらう程度」


当たり前のことのように言った。


オリヴィアは少し黙り、それから口を開いた。


「……立派ですね」


「やめてくれ。立派じゃない。たまたまあたしが街と村の両方に足があるってだけの話で、誰かがやらなきゃ困る人がいるからやってるだけだ」


「それを、立派と言うのだと思います」


セレンは眉を上げ、何か言いかけて、やめた。代わりに前を向き直し、歩き出した。耳がわずかに赤くなっているのが、後ろから見えた。


--------------------------------------------


昼前に、道が二股に分かれる場所に出た。


セレンは立ち止まり、背嚢から水袋を取り出して一口飲んだ。オリヴィアにも差し出す。


「ありがとうございます」


水を受け取り、口をつけた。冷たく、かすかに鉄の味がする。井戸水だ。


「ここから右が村への道。左は山に入る。——ちょっと休憩しよう」


道の脇に倒木があり、二人で腰を下ろした。セレンが背嚢から布に包んだ何かを取り出す。


「干し肉。食うか?」


「少しだけ、いただきます」


薄く切られた干し肉を一切れ受け取る。塩が強く、噛むほどに旨味が出る。保存食としてはよくできている。


「ねえ、オリヴィア」


「はい」


「昨日から気になってたんだけど、そのスタッフ——魔術師なのか、あんた?」


オリヴィアは干し肉を噛む手を止めた。スタッフは今、隣に立てかけてある。琥珀の水晶とエメラルドが、木漏れ日を受けて鈍く光っていた。


隠す理由はない。だが、全てを話す理由もない。


「……魔術を使います。ただ、少し特殊な条件がありまして」


「特殊?」


「自力では魔力を生み出せないのです」


セレンが怪訝な顔をした。当然だろう。


「魔術師なのに魔力がない? それじゃ——」


「他者から魔力を借ります。提供者本人の同意があれば、その方の魔力を一時的にお預かりして、魔術に変換することができます」


説明しながら、スタッフの琥珀の水晶を指した。


「これが器です。空の器に、他者の魔力を入れて使う。そういう仕組みです」


「……変わった魔術師だな」


「ええ、よく言われます」


セレンは腕を組み、しばらく黙ってスタッフを見つめていた。考えているのだ、この人は。衝動で動くように見えて、実は考えている。


「つまり今、あんたは丸腰ってことか」


「端的に言えば、そうなります」


「この道を、丸腰で歩いてたのか。森の残党がいるかもしれない道を」


「……はい」


セレンが額に手を当てた。


「それ、先に言ってくれ」


「すみません」


「謝るところじゃない。——いや、謝るところか。うん、謝って」


「すみません」


「もう一回」


「すみません」


「……なんで三回とも同じトーンなんだ」


「トーンを変えるべきでしたか」


セレンが深く息を吐いた。呆れと、微かな可笑しさが混じった吐息だった。


「あたしの魔力でいいなら、貸すよ」


予想していなかった。


いや——可能性としては考えていた。だが、こんなにあっさりと申し出てくれるとは思わなかった。


「……よろしいのですか。まだ出会って一日しか経っていませんが」


「あんたが悪い人間じゃないのは分かる。子供を庇おうとした顔を見てれば」


「あれは、セレンが庇ったのであって、私は——」


「あんたも前に出ただろう。あの場で」


返す言葉がなかった。


セレンは革手袋を外し、右手をこちらに差し出した。傷だらけの、日に焼けた手。


「どうすればいい?」


「……手を触れさせていただければ。少しだけ、魔力の流れを感じます。不快な感覚があるかもしれません」


「大丈夫だ。やってくれ」


オリヴィアはスタッフを持ち上げ、左手でセレンの指先にそっと触れた。


流れ込んできたのは——熱。


セレンの魔力は、焚き火のようだった。派手な炎ではない。だが芯が強く、安定していて、風に煽られても消えない種類の熱。


(……温かい)


魔力には持ち主の性質が混ざる。この熱は、セレンそのものだ。見知らぬ子供を庇う背中。硬いパンをそのまま噛み砕く顎。怖いと言いながら歩く足。


琥珀の水晶が、淡く光った。


「おお」


セレンが目を丸くした。


「きれいだな」


「少量ですが、お預かりしました。ありがとうございます。体調に変化はありませんか」


「ちょっとだけ、ふわっとした。もう大丈夫だ」


セレンは自分の手を見つめ、開いたり閉じたりした。


「不思議な感覚だな。体の中の何かを渡した、って感じだ」


「ご負担をおかけしました」


「大したことない。あたし、魔術は使えないから持ってても意味ないしな」


魔力はあるが魔術は使えない。珍しくはないが、この世界では魔術師と非魔術師の区分がどうなっているのか。もう少し情報が必要だ。


「——セレン。この世界の魔術について、教えていただいてもいいですか」


「この世界の、って——」


セレンが言いかけて、口を止めた。オリヴィアは自分の失言に気づいた。


「……旅先の、という意味です。地域によって体系が異なるものですから」


「ああ、そういうことか。——この辺りの魔術は紋刻式っていうやつだ。紋様を媒介にして魔力を通す。門番の腕輪、見ただろ? ああいうのが一般的で、自分の体に直接紋様を刻む方法もある。刺青みたいに」


「なるほど。紋様が術式の設計図で、魔力がその動力源になる」


「そう、そんな感じ。あたしは詳しくないけど、学院で学んだ魔術師はもっと複雑な紋様を使う。王都のアカデミーとか」


紋刻式。自分の魔術体系とは異なるが、変換器であるエメラルドが媒介すれば、構造の差は吸収できるはずだ。セレンの魔力を借りた以上、最低限の自衛手段は確保できた。


ただし、琥珀の水晶に蓄えた量はわずかだ。大きな術は使えない。使いどころを誤れば、すぐに底を突く。


「行こうか。村はもうすぐだ」


セレンが立ち上がり、背嚢を背負い直した。オリヴィアも倒木から腰を上げる。


右の道へ。森を離れ、開けた丘陵地帯に出る。遠くに小さな集落が見えた。煙突から煙が上がっている。人の営みがある。

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