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2話「灰色の街にて2」

食事を終え、勘定を済ませて外に出たところだった。


大通りの向こうで、怒声が上がった。


人だかりができている。オリヴィアは歩み寄り、人垣の隙間から中を覗いた。


兵士が三人。その前に、一人の女性が立っていた。


背が高かった。オリヴィアと同じくらいか、あるいはわずかに低い。赤みがかった茶色の髪をひとつに束ね、使い込まれた革鎧を身につけている。腰には剣があるが、手はそこにかかっていない。代わりに、両手を広げて何かを庇うように立っていた。


その背後に、小さな少年がうずくまっている。


「どけ、セレン」


兵士の一人が名前を呼んだ。顔見知りらしい。


「どかない」


セレンと呼ばれた女性は、落ち着いた——しかし明確な拒絶を含んだ声で返した。


「この子はただ果物を落としただけだ。兵士様の靴を汚したのは申し訳ないが、わざとじゃない」


「汚しただけじゃねえ。俺に向かって手を上げやがった」


「あなたが腕を掴んだから、振り払おうとしただけでしょう。八つの子供に何を言ってるんですか」


声は苛立ちを抑え込んでいたが、背中は真っ直ぐだった。


周囲の人間は見ているだけだ。関わりたくないのだろう。兵士の胸元には、あの剣と冠の紋章が光っている。


オリヴィアは人垣の中で足を止めたまま、状況を見つめていた。


介入すべきか。この世界の事情をまだ何も知らない。不用意な行動は調査に支障をきたす可能性がある。だが——


少年の顔が見えた。唇を噛みしめて、肩が震えている。泣くまいとしているのが分かった。


胸の内側が、きゅっと縮んだ。


オリヴィアは一歩、前に出た。


「あの」


声が、場の空気を切った。兵士が振り向く。セレンもこちらを見た。


「旅の者で、事情は分かりかねるのですが」


冷静な声を保つ。内心は——少し、鼓動が速い。


「お子さんが怯えています。もしよろしければ、靴の汚れは私が弁償いたしますので、ここは穏便に収めていただけないでしょうか」


兵士の一人が、オリヴィアの姿を上から下までゆっくりと眺めた。旅装の若い女。スタッフは持っているが、脅威にはなるまいと判断したのだろう。鼻を鳴らした。


「よそ者は引っ込んでろ」


「はい、よそ者です。ですので、この街の慣習は存じ上げません。ただ、靴の汚れが問題なのであれば、解決はそれほど難しくないのではないかと思いまして」


理屈で応じる。感情を出さない。ジト目のまま、真っ直ぐに兵士を見上げた。


微妙な沈黙が落ちた。


セレンが、ふっと短く息を吐いた。


「聞いたでしょう。この旅の方が弁償すると言ってくれてる。もういいんじゃないですか、隊長殿」


皮肉の効いた呼び方だった。兵士は——隊長ではないのだろう——顔を歪めた。だが、人だかりが膨れ上がっていることにも気づいたらしい。これ以上やると自分たちの体裁が悪いと判断したのか、舌打ちをひとつ。


「次はないぞ」


吐き捨てるように言い残し、三人は去っていった。


--------------------------------------------


人だかりが散ると、セレンは振り返って少年の肩にそっと手を置いた。


「もう大丈夫だ。家に帰りな。走るんじゃないぞ、果物またぶちまけるから」


少年は鼻をすすり、こくこくと頷いて——駆け出した。


「走るなって言ったのに」


セレンが苦笑しながら呟き、それからオリヴィアのほうを向いた。


真っ直ぐな目だった。琥珀に近い色の瞳が、オリヴィアの顔をじっと見ている。品定めとは違う。もっと率直な、剥き出しの関心だった。


「助かった。ありがとう」


「いえ。大したことはしていません」


「いや、大したことだよ。あの場で口を挟める人間はなかなかいない」


セレンは革手袋を外しながら言った。手は小さな傷跡がいくつもあって、日に焼けていた。


「で、弁償の話だけど、気にしなくていい。あいつらも本気で取り立てにはこない。ああいうのは、引き際を作ってやるのが大事なんだ」


「なるほど。では、引き際を提供する役に立てたのなら何よりです」


セレンが一瞬きょとんとし、それから笑った。声を出して、喉の奥から率直に笑う人だった。


「面白い言い方するね。——旅人なんだろう? 一人か?」


「はい」


「この辺り、あまり旅人が来るような場所じゃないんだが。北の街道はここしばらくきな臭いし」


「きな臭い、というのは」


「国境の話だよ。アストリアとヴェルムスタッドがまた睨み合ってる。聖剣がどうとかで」


食堂で聞いたのと同じ話だ。やはり、この地域の最大の火種らしい。


「その聖剣というのは、勇者の?」


「ああ。聖勇者グランヴェルドの剣——『ログレス』って名がついてる。どこにあるのか誰も知らなかったんだが、最近アストリアの王宮が『見つけた』と言い出した」


セレンは最後の部分に、聞き逃せない皮肉を込めた。


「信じていないのですか」


「信じるも何も、三十年の間に『見つけた』って話は何度もあったんだ。どれも偽物だった。でも今回は王宮が国を挙げて騒いでる。本物なのか、さもなきゃ——」


「——偽物でも本物ということにしたい理由がある」


オリヴィアが言葉を継いだ。セレンが目を細める。


「察しがいいね」


「いえ、ただの推測です」


セレンはしばらくこちらを見つめ、首を傾げた。何かを考えている表情だった。


「ねえ、旅人さん。名前は?」


「オリヴィアです」


「セレンだ。——オリヴィア、ひとつ聞いていいか」


「どうぞ」


「あんた、何者だ?」


直球だった。オリヴィアは表情を変えなかった。


「旅の者ですが」


「旅の者ね。この時期に、一人で、荷物もろくに持たず、妙に落ち着いてて、兵士相手にも顔色ひとつ変えない旅の者」


「……変わっていました。顔色は変わらなかったかもしれませんが、内心はかなり」


嘘ではなかった。鼓動が速くなっていたのは確かだ。ただ、それが外に出ないだけで。


セレンはふっと笑った。先ほどとは違う、少し柔らかい笑みだった。


「まあ、いいさ。誰にだって事情はある。——ただ、この街にいるなら気をつけな。余所者に優しい空気じゃない」


「ご忠告感謝します。今日二度目ですね」


「二度目?」


「門番の方にも同じことを言われました」


セレンはまた笑った。声を出して。


この人はよく笑う、とオリヴィアは思った。こういう街で、こういう空気の中で、人前で率直に笑える人間は——たぶん、強いのだ。弱さがないという意味ではなく、弱さを知った上で笑えるという意味で。


「ところで、この街で宿を探しているのですが」


「宿ね。まともなのは一軒しかないよ。案内してやろうか」


「よろしいのですか? お忙しくは」


「今日の仕事は片づいた。暇なんだよ」


暇だから、というよりは——何か、オリヴィアという存在に引っかかるものがあるのだろう。こちらの加護を完全に見抜いているわけではなさそうだが、違和感は拾っているのかもしれない。勘のいい人だ。


だが、それはこちらにとっても好都合ではあった。現地の人間と自然に行動できることは、調査において何より価値がある。


ただ——それだけではなかった。


「お願いしてもよろしいですか」


この人ともう少し話したい、という気持ちが、計算より先にあった。


--------------------------------------------


セレンに案内されたのは、大通りから一本入った路地にある二階建ての宿だった。


看板には『灰色亭』と書かれている。灰色。城壁と同じ色。


「名前の通り地味な宿だけど、飯はまともだし、主人は口が堅い。旅人にはここが一番いい」


中に入ると、痩せた老人が受付の椅子に座っていた。一泊の宿泊を申し出ると、老人は値段を告げた。ポーチから通貨を出す。加護のおかげで「相応の対価」が手持ちの中から提示されるはずだ。案の定、差し出した銀貨を老人はじろじろ見たが、結局は鍵を渡してくれた。


「二階の突き当たりだ。夕食は日暮れに下で出す」


「ありがとうございます」


横でセレンが腕を組み、面白そうにやり取りを眺めていた。


「珍しい銀貨だったな、今の」


「……旅先であちこちの貨幣が混ざってしまいまして」


「ふうん」


追及はしてこなかった。ただ、琥珀色の目がわずかに笑っていた。


「オリヴィア、夕飯まで時間あるだろ。よかったら少し街を案内しようか」


「お仕事は——」


「終わったって言ったろ」


断る理由がなかった。荷物——といってもスタッフとポーチくらいだが——を部屋に置き、セレンとともに街へ出た。


--------------------------------------------


並んで歩くと、街の見え方が変わった。


「ここは職人街。昔はもっと賑わってたんだけどな」


「閉まっている店が多いですね」


「職人の半分はアストリアの王都に引き抜かれた。武器を作れる鍛冶師は特に。ここは元々国境の交易街だったから、交易が止まれば人も出ていく」


セレンは淡々と語ったが、声の底にかすかな苦みが滲んでいた。ここを拠点にしていると言っていた。この街が変わっていく様を、ずっと見てきたのだろう。


「あの旗について聞いてもいいですか」


「青と銀の? アストリアの旗だよ。正確には、アストリア王家が聖勇者グランヴェルドの正統な後継者であることを示す旗だ」


「国旗ではなく?」


「国旗でもある。この国は『聖勇者の遺志を継ぐ国』を自称してるから、国旗と信仰が一体なんだ。建国の正当性そのものが勇者の名前に依存してる」


信仰と国家の一体化。それが何を意味するか。勇者の名は栄光であると同時に、政治の道具になる。逆らう者は英雄への冒瀆とみなされ、従う者は信仰の名の下に動員される。


オリヴィアは風に揺れる旗を見上げた。青と銀が、曇天の光を鈍く弾いている。


「……勇者ご本人は、こうなることを望んだのでしょうか」


ぽつりと呟いた言葉に、セレンが足を止めた。


「さあね。死人に口なし、ってやつだ」


「亡くなっているのですか」


「公式には行方不明。でも三十年姿を見せなきゃ、死んだも同然だろ」


セレンは肩をすくめ、歩き出した。


「ただ——個人的な意見だけど。自分の名前が大義名分に利用されるのを、喜ぶ英雄はいないと思うよ」


「私もそう思います」


即答だった。セレンがちらとこちらを見た。


「あんた、たまにすごく確信を持って言うな。根拠があるのか、直感か」


「……どちらかといえば、そうあってほしいという願望でしょうか」


「願望か。——正直だな、あんた」


正直かどうかは分からない。ただ、嘘をつくのが得意ではないだけだ。


広場に出た。中央に石像が立っている。剣を天に掲げた人物像——聖勇者グランヴェルドの像だろう。台座の周りには花が手向けられ、蝋燭の小さな灯が揺れていた。像の前で祈りを捧げている老婆がいる。その傍らで、子供が退屈そうに石畳を蹴っている。


石像の勇者は、遠くを見つめていた。この街の行く末を見つめているようにも、何も見ていないようにも見えた。


石は、何も語らない。


--------------------------------------------


夕暮れ時、二人は灰色亭に戻った。


一階の食堂は昼間の食堂よりも広く、木のテーブルが整然と並んでいる。壁際の暖炉には火が入っていて、乾いた薪の爆ぜる音がかすかに聞こえた。


セレンは、当然のように向かいの席に座った。


「夕飯に付き合ってくださるのですか」


「ここの飯が好きなんだ。それに——あんたと話すのは面白い」


「面白い、ですか」


「ああ。変な意味じゃなく。あんたがこういう場所をどう見てるのか、なんとなく気になるんだよ」


「こういう場所」


「勇者だの遺産だのに振り回されてる場所」


夕食が運ばれてきた。焼いた川魚と穀物のスープ、酢漬けの根菜の付け合わせ。オリヴィアはスープをひと匙すくい、口に含んだ。——温かい。昼のシチューとは違い、穀物の素朴な甘さが舌にじんわりと広がる。魚は皮がぱりっと焼けていて、身はしっとりと柔らかかった。


いい食堂だ。少食ではあるが、こういう丁寧に作られた食事は、最後まで味わいたくなる。


「この場所を、私がどう見ているか」


「うん」


「正直に申し上げれば、まだ何も分かりません。今日見たのは、この街のほんの一端です。それだけで判断するのは早計です」


「真面目だな」


「よく言われます」


「褒めてるんだよ」


「ありがとうございます。褒められ慣れていないので、適切な反応が分かりかねますが」


セレンが噴き出した。スープの椀を口に運ぶ途中でなくてよかった、と本人が言った。


「あんたさ、天然なのか?」


「天然——天然とは何の天然でしょうか。天然素材のことでしたら、この衣服は——」


「違う違う。いや、もういい。うん、あんたは天然だ。確信した」


何が「天然」なのか判然としなかったが、セレンが楽しそうなので深追いはやめた。それより食事のほうが大事だ。酢漬けの根菜を口に運ぶ。酸味の奥にほんのり甘さがあって、魚の脂をすっきりと流してくれる。よく考えられた献立だ。


「——ねえ、オリヴィア」


「はい」


「明日はどうするんだ?」


明日。調査を進める必要がある。この街でさらに情報を集めるか、それとも周辺に足を延ばすか。聖剣の話が気にかかる。だが、一人で動くには土地勘がなさすぎる。


「……決めかねています」


「もしよかったら、明日また付き合おうか。ちょうど北の村に届け物があってね。国境に近い村で、今の情勢がよく分かる場所だ」


好都合な申し出だった。あまりにも好都合で、少し引っかかる。


だが——この人の目を見ていると、裏があるようには思えなかった。損得で動いているのではなく、まっすぐに関心を向けてきている。子供を庇って兵士の前に立ったときと、同じ目だ。


「ご迷惑ではありませんか」


「迷惑なら声かけない。それに、ひとり旅の女の子がこの辺うろうろしてたら気になるだろ」


「女の子、という年齢ではないかと思うのですが」


「あたしより年下に見えるけど?」


「見た目の話でしたら、おそらくそうですね」


噛み合っているような、いないような会話だったが、セレンは気にしていないようだった。


「じゃあ決まりだ。朝、ここに迎えに来る」


「——はい。ありがとうございます、セレンさん」


「『さん』はいい。セレンで」


「では、セレン」


名前を呼ぶと、セレンは満足げに頷いた。


--------------------------------------------


食事を終え、セレンが帰った後、オリヴィアは二階の部屋に上がった。


小さな部屋だった。簡素な寝台、小さな窓、壁の釘にかけられた燭台。窓の外には灰色の空と、遠くの城壁の輪郭がうっすら見える。


寝台の端に腰を下ろし、壁に立てかけたスタッフに目をやった。


琥珀色の水晶は空のままだ。この世界にも魔術はある——門番の腕輪がその証拠だ。だが、自分がこの世界の魔術を使うには、誰かの魔力を借りなければならない。


誰かの同意。誰かの信頼。


出会ったばかりの人に頼めることではない。そもそも、どう説明する。「私には自前の魔力がなくて」と言ったところで、それはいずれ自分が何者であるかという問いに繋がる。普通の人間ではないという事実に。


ブーツを脱ぎ、黒タイツのまま寝台に足を投げ出した。普段の自分からすれば少し行儀が悪いが、誰も見ていない。


目を閉じた。


今日の出来事を、頭の中で巡らせる。


この世界。魔王が倒されてから三十年。勇者は神格化され、遺産は国家の正当性の拠り所になっている。少なくとも三つの勢力——アストリア、ヴェルムスタッド、名前だけ聞いたもうひとつ——が覇権を争い、国境は揺れている。街の人々は疲弊し、しかし旗の下で声を上げることもできない。


そして——セレン。


あの人は、この世界を「振り回されている」と表現した。批判でも、諦めでもなく、ただ事実を見つめる目で。


——不思議な人だ。


よく笑う。真っ直ぐ人を見る。子供を庇って兵士の前に立ち、退かない。名も知らない旅人に宿を案内し、明日も付き合うと言う。


自分には、ああはできない。


できないのは——勇気がないからか。立場が違うからか。それとも、自分がこの世界の当事者ではないからか。


調査対象。報告書に記載する事象。自分は観察者で、いずれここを去る。どの世界でも同じだ。根を下ろすことはなく、名前を覚えられることもなく、透明なままその場所を通り過ぎていく。


——それでいいのだ。それが自分の役割で、それが——


(……考えすぎですね)


目を開けた。天井の木目が、蝋燭の光に照らされてゆらゆらと揺れている。


明日、セレンと北の村へ行く。情報を集める。この世界で何が起きているかを、もう少し深く知る。それが今できることだ。


それ以上のことは——まだ、考えなくていい。


息を吐き、蝋燭を吹き消した。


暗闘の中で、ケープの留め具のエメラルドだけが、いつまでもかすかに光っていた。


まるで、闇の中で答えを探しているかのように。

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