4話「泣かずの硝子」
逃げ道を塞ぐ巨大な円形硝子は、通路いっぱいの幅があった。
青白い光が脈打つたび、表面に古い紋様が浮かび上がる。塔の中心にあるという「泣かずの硝子」の意匠に、たしかによく似ていた。ただし本物を見たわけではない以上、断言はできない。だが少なくとも、この街の基盤術式と深く繋がる何かであることは間違いない。
ミレイユが足を止め、息を呑む。
「こんなところに出るはずがない……!」
「写しです」
オリヴィアはフィンを支えたまま答える。
「塔の硝子そのものではなく、接続先の像。工房長がここへ引き込んでいます」
「なら壊せる?」
「壊すこと自体は可能かもしれませんが、反動で街側の基盤に傷が入る恐れがあります」
「つまり、雑にやると地上でもっと被害が出る」
「はい」
背後から、白い手が迫る音がする。
サラが振り返って舌打ちした。通路の壁、床、天井、あらゆる面から曇った人型が滲み出している。先ほどまでの残留像より輪郭が濃い。工房長の支配が及んでいるのだろう。
「足止めしてる時間はない!」
ミレイユが叫ぶ。
「オリヴィア、やるなら今!」
「承知しました」
オリヴィアはフィンをサラへ預けた。
「支えをお願いします」
「任せて」
少年の体重を受け止めたサラの足元が少し揺れる。長くこの空間で生きてきたとはいえ、消耗しているのだろう。
オリヴィアは前へ出た。巨大な円形硝子の前で、杖を垂直に構える。琥珀の水晶には、ミレイユから預かった魔力がまだ残っている。だが余裕は多くない。ここで失敗すれば、その先は素手同然だ。
それでも、やるしかない。
「……外へ出ようとしている」
フィンの言葉が頭に残っていた。
泣いているのではない。出ようとしている。
もし、泣く硝子が単なる異常ではなく、内部に閉じ込められたものの圧力なら。そして工房長が塔の基盤術式へ寄生しているのだとすれば。
「ミレイユさん」
「何」
「この街の『泣かずの硝子』は、何をした聖遺物だと伝承されていますか」
「災厄を退けた、街を守った、灯りを絶やさない、いろいろあるわよ!」
「では、退けた“災厄”の正体は」
「そこまでは……」
ミレイユが言葉を切る。記録係でも、伝承の曖昧さまでは埋められないらしい。
サラが低く言った。
「昔は違う名で呼ばれていたわ。『境界の蓋』」
オリヴィアの目がわずかに細くなる。
「蓋」
「街の上と下、内と外、そういうものを隔てるっていう古い信仰。塔は中心じゃない。栓なのよ」
それで腑に落ちた。
泣かずの硝子は、街を護る宝というより、**何かを閉じ込めるための中枢蓋**だったのだ。事故で工房長がそこへ触れ、地下の異常空間から街の基盤へ接続した結果、泣く硝子が各所に発生した。
泣いているのは街ではない。
蓋の向こう側が、押し返されている。
「なら、切るべきは工房長と塔の接続です」
「できるの?」
ミレイユの問いに、オリヴィアはほんの少しだけ沈黙した。
「理論上は」
「その言い方、信用しにくいのよね」
「実行には、正確な位相の把握と十分な魔力、そして媒介の安定が必要です」
「つまり条件が足りない」
「少し」
「少しで済ませる規模じゃないでしょう」
その通りだった。
だが、代案はない。
背後から白い人型が迫る。ミレイユが光帯を放ち、一体、二体を砕く。しかし追いつかない。サラもフィンを支えながら、右手袋で硝子面を叩いて迎撃しているが、防戦一方だ。
オリヴィアは円形硝子へ手をかざした。冷たい。だがその奥に、巨大な流れがある。上へ、塔へ、街じゅうへ。そしてその流れに、黒い棘のようなものが絡みついている。
工房長だ。
事故で肉体を失い、炉心と硝子網へ意識だけを散らした存在。街の基盤に寄生し、自分を維持するために人の意志を補強材として奪う。放置すれば、いずれ街全体の硝子網が泣くだけでは済まなくなるだろう。
「……やります」
「必要なものは」
ミレイユの返答は早かった。
「魔力です」
「私ので足りる?」
「不足しています」
「率直ね」
「誠実であろうとしています」
ミレイユが一瞬だけ笑いそうになって、すぐに現実へ引き戻されたように顔をしかめる。
「他に何が要る」
オリヴィアは視線をサラへ向けた。
「この空間に長く適応した者の“位相情報”」
サラが眉をひそめる。
「私?」
「はい。あなたはここに馴染み、なお自我を保っています。接続の節を見つけるための基準にできます」
「つまり私も貸し出せってことね」
「同意があれば」
サラは、ほんの一瞬だけためらった。
それは当然だろう。十七年も閉じ込められた場所だ。外から来た得体の知れない少女に、自分の何かを預けるのは容易ではない。
だが彼女はフィンを支え直し、短く頷いた。
「やりなさい。もう終わらせたい」
「ありがとうございます」
「待って」
ミレイユが言う。
「私ももう少し出せる。でも、あなた自身は大丈夫なの?」
「私ですか」
「その、器だとか何だとか、さっき工房長が言ってた。よくわからないけど、無茶な接続したらあなたが危ないんじゃないの」
オリヴィアは少しだけ目を伏せた。
自分に魂があるのかどうか。何のために造られたのか。それは彼女の中でずっと静かに横たわっている問いだった。けれど今ここで、それを答えに使う必要はない。
「危険性はあります」
「あるのね」
「ですが、放置の方が被害は大きい」
「そういう計算じゃなくて」
ミレイユはそこで言葉を止めた。責めたいのではない。ただ、気にしているのだとわかった。
オリヴィアは彼女を見た。
「私は、助けられるものを助けたいと思っています」
平坦な声のまま、そう言う。
「それに、あなたが命を削るような術式を禁じました。約束は守ります」
ミレイユは数秒黙り、それから低く吐き出した。
「……そういう言い方、ずるいわ」
「意図してはおりません」
「知ってる」
サラが焦れたように言う。
「話はあと! 来る!」
白い人型の群れが一気に距離を詰めてくる。通路の後方を埋めるように。さらにその奥、黒い鏡の破片が壁面ごと這ってきて、工房長の輪郭を再形成し始めていた。
時間切れだ。
「二人とも、手を」
オリヴィアが言った。
ミレイユは躊躇なく左手を差し出し、サラも右手袋を外して素手を伸ばす。冷えた手。ざらついた、長く働いた手。
オリヴィアは二人の手首に同時に触れた。
「同意を確認します。調律・接続・強制分離術式を開始」
琥珀の水晶が、これまでで最も強く灯る。
ミレイユの魔力は冷たい鉄。まっすぐで、無駄がなく、折れにくい。サラの持つ位相情報は、逆に複雑だった。硝子に長く浸った痕跡、歪み、しかしその中心にある頑固な自己同一性。ここで生き延びた執念。
二つを受け取り、オリヴィアは円形硝子へ杖先を当てる。
街の基盤術式が目の前で幾層にも展開した。
光の線が都市の地図を形作り、塔を中心に無数の硝子管が網のように走る。その一部に、黒い染みがある。下層から這い上がった棘。工房長の接続。
さらにその根は、もっと深くへ伸びていた。
「……そうですか」
「何が見えたの!」
ミレイユの声が遠い。術式の集中が始まっている。
「工房長だけではありません。事故以前から、この街の蓋は劣化していました」
「今それ重要!?」
「重要です。工房長は原因の全てではなく、亀裂に入り込んだ増幅因子です」
だから泣かずの硝子も完全には機能せず、泣く硝子が発生した。事故は偶発ではあるが、土台に脆さがあった。
しかし、今ここで街の全修復はできない。まずは黒い棘を剥がす。
オリヴィアは杖を回す。二股の先端が、見えない糸を撫でるように空間を裂いていく。工房長の接続線を一本、二本、三本と拾い上げる。黒い棘が抵抗し、逆流する。
耳元で、無数の声が囁いた。
――空だ
――器だ
――蓋にちょうどいい
――残れ
――割れるな
――埋まれ
オリヴィアは無視した。
無視するのは得意だった。誤解も、敵意も、無遠慮な憶測も、彼女はたいてい表情を変えず受け流す。今の囁きも同じだ。
「私は、ここには残りません」
呟き、一本目を切る。
通路が震えた。白い人型の何体かが同時に崩れる。ミレイユが息を呑む。
「効いてる!」
「続けます」
二本目。三本目。
黒い棘が逆に巻きつこうとしてくる。工房長の意志が直接こちらへ流れ込んだ。
――なぜ拒む
――器なら満たされたいだろう
――空であることは寒い
一瞬だけ、オリヴィアの手元がぶれた。
寒い、という語に、わずかな引っかかりが生じる。
自分に魂があるのか知りたい。作った神の真意を知りたい。そうした問いは、たしかにどこか寒さに似ている。埋めがたい空洞。自分が何であるかの輪郭を掴めない感覚。
だが、その隙間に他者を詰めて満たすのは違う。
「他人を傷つけて埋める空白は、空白より質が悪いです」
真面目に言い返しながら、四本目を断つ。
今度は工房長が、はっきり怒った。
黒い鏡が通路の壁一面に広がり、その中心に曇った顔が押しつけられる。顔らしきものが、こちらへ近づく。巨大な圧力。白い人型たちが再び形を取り戻し始める。
ミレイユが叫ぶ。
「まだ!?」
「核が一本、塔側に深く食い込んでいます!」
「引き抜けるの!?」
「引き抜くだけなら可能です。ただし反動で蓋が開きます」
「じゃあ駄目じゃない!」
「ですので、代わりの楔が必要です」
「そんなものどこに」
そこでサラが、静かに言った。
「私を使って」
ミレイユが振り向く。
「何言ってるの」
「私はこの場所に馴染みすぎてる。外へ完全には戻れない。それなら、接続の残滓をまとめる楔になれる」
「そんなの」
「元は私たちの工房の事故よ」
サラの表情は穏やかだった。諦めではない。決めた顔だ。
「私一人で済むなら安いもの」
「済むとは限りません」
オリヴィアは即座に言った。
「あなたの存在が固定され、外への復帰可能性がさらに下がります」
「元から高くないでしょう」
「それでも」
「オリヴィア」
サラは、少しだけ笑った。
「あなた、優しいのね」
「その評価は誤解されやすいです」
「知ってる」
短い言葉だったが、不思議と温度があった。
ミレイユが唇を噛む。
「他に方法は」
「街全体の塔基盤へ直接上がれれば、より安全に処理できます」
オリヴィアは答える。
「ですが今から地上へ戻り、塔へ入り、許可を取り、準備をしていては間に合いません」
「でしょうね……!」
通路の壁に、深いひびが走る。白い光が噴き出す。工房長の圧力が増している。この空間が持たない。
フィンがかすれた声を出した。
「……俺、手伝えない、かな」
サラが驚いて彼を見る。フィンは青白い顔で、それでも目を開けていた。
「お前、まだ喋るな」
「でも、俺……ちょっと、わかるんだ。硝子、どこが気持ち悪いか……」
屋台売りの少年。だがこの街で育ち、硝子に触れて生きてきた。だからこそ適性が高く、工房長に狙われたのだろう。
オリヴィアは問う。
「接続の違和感を辿れますか」
「たぶん……。痛いとこ、わかる」
「痛いとこ」
「うん」
表現は曖昧だが、感覚としては十分だ。
ミレイユがはっとする。
「つまり、楔はサラじゃなくて“場所”に打てる?」
「フィンの感覚で核の位置を絞れれば、可能性は上がります」
「可能性って何割」
「三割ほど」
「低い!」
「先ほどよりは高いです」
ミレイユが頭を抱えた。
「比較対象が悪いのよ!」
オリヴィアは少しだけ考え、結論を出す。
「サラの位相情報を補助基準、フィンの感覚を座標指定に使用します。ミレイユさんには魔力供給の継続を」
「全部乗せね」
「はい」
「失敗したら?」
「この空間の崩落に巻き込まれます」
「わかりやすく最悪!」
「ですので、成功させます」
その平坦な断言に、ミレイユは一瞬だけ目を丸くした。次いで、観念したように笑う。
「ええ、そうしましょう」
*
術式は、即席にしては大きすぎた。
オリヴィアは円形硝子の前に立ち、背後の三人へ位置を指示する。フィンは壁に手をついて、硝子の脈を探る。サラはもう一方の壁へ触れ、この空間の流れを感じ取る。ミレイユはオリヴィアの斜め後ろ、魔力供給が途切れない位置に立つ。
「フィン・ロウ、違和感を見つけたらすぐに」
「はい……」
「サラ、ズレが来たら補正を」
「わかった」
「ミレイユさん」
「供給、切らない」
「助かります」
ミレイユが半眼になる。
「今さらだけど、それ一番重い役目じゃない?」
「重要です」
「でしょうね!」
白い人型たちが迫る。工房長の鏡像が通路いっぱいに広がり、黒い棘が円形硝子の表面を這う。
オリヴィアは杖を掲げた。
「調律術式、重奏展開」
琥珀の水晶の光が、ぎりぎりまで引き上げられる。エメラルドが深い緑に燃えた。二股の杖先が共鳴し、この世界の法則と、オリヴィアが渡ってきた無数の世界の境界感覚を、ただ一点の調整器として機能させる。
彼女自身に魔力はない。だからこそ、色がない。だからこそ、余分な法則を持ち込まず、異なる理の間を渡れる。
空白の器。
それは、欠陥であると同時に、この仕事のための形でもあった。
「そこ!」
フィンが叫ぶ。壁の一点、円形硝子の左下。見た目には何もない。だが彼には“痛み”としてわかるのだろう。
オリヴィアはそこへ杖先を向ける。
「補正、右に半度!」
サラが言う。位相の傾き。オリヴィアは即座に調整。
「魔力、上がるわよ!」
ミレイユの供給が強まる。鉄のような冷たい流れが、琥珀の中で唸る。
オリヴィアは切断ではなく、編み替えを選んだ。
工房長の黒い棘を抜くのではなく、その周囲に新しい流路を組む。街の蓋を支える本来の術式に、仮の橋を架け、棘の役割を不要にしてから剥がす。乱暴ではないが、精度が要る。
白い人型が一斉に飛びかかってくる。ミレイユとサラが迎撃する。光帯、硝子手袋の打撃、砕ける音、曇りの悲鳴。
工房長の声が、怒りをむき出しにして響く。
「やめろ! 蓋が薄い! 外が落ちる!」
「あなたが食い荒らした分を戻すだけです」
オリヴィアは淡々と返す。
「戻した先に何が来るか知っているのか!」
「知らないことを盾に人を呑む行為は、正当化されません」
「綺麗事だ!」
「平和主義と呼んでください」
真面目に言い返しながら、彼女は最後の編み目を閉じた。
緑の光が円形硝子全体を走る。
黒い棘が、びくりと震える。
「今です」
オリヴィアは杖を横薙ぎに振った。
切断。
黒い棘が一本の線となって抜け、空中でのたうつ。工房長の絶叫が空間全体を満たした。壁面の鏡像がひび割れ、白い人型たちが次々と静止する。
だが、その瞬間、円形硝子の中心に黒い穴が開いた。
蓋の隙間。
向こう側から、冷たい風のようなものが吹き出す。音ではない。圧だ。遠い無数の反響。もしこれが広がれば、街じゅうの泣く硝子が一斉に開くかもしれない。
「楔を!」
ミレイユが叫ぶ。
「サラ!」
サラが一歩前へ出る。
オリヴィアは反射的に手を伸ばしかけ、しかし止めた。別案が間に合うかを一瞬で計算する。フィンは消耗、ミレイユは供給中、サラが最適――
その時、フィンが壁にもたれたまま叫ぶ。
「待って! そこ、まだずれてる!」
オリヴィアが目を見開く。
「どこですか」
「真ん中じゃない、上! 上の、見えないとこ!」
感覚に従い、彼は震える指を持ち上げる。円形硝子の上部、紋様の交点。
オリヴィアは即座に視線を移した。たしかに、微かなズレがある。工房長の棘ではない。もっと古い、蓋そのものの摩耗だ。
なら、楔を打つべき位置はそこだ。
「ミレイユさん、追加供給を」
「まだ出せる!」
「サラ、空間の圧を押さえてください。三秒」
「三秒なら!」
サラが前へ飛び出し、両手を円形硝子へ叩きつける。彼女の身体を通して、この空間の位相が一時的に固定される。危ういが、十分だ。
オリヴィアは杖先を上部の交点へ向け、工房長の棘の残骸を逆用した。完全な異物ではなくなったそれを、一時的な楔材として編み直す。敵の侵食を、そのまま補修材に転化する。
「再指定。固定。封止」
緑の光が、交点へ打ち込まれた。
黒い穴が、ぎゅっと縮む。
冷たい圧が細くなり、やがて止まる。
次の瞬間、通路全体に張りつめていた力が一気に抜けた。
壁面の鏡が砕けるように曇り、白い人型は雪のように崩れ、円形硝子もただの古びた板へ戻っていく。工房長の声は、何か遠くへ落ちていくように薄れた。
「……終わり、ましたか」
オリヴィアが小さく呟いた。
答えは、激しい崩落音だった。
「終わってない! 空間が閉じる!」
ミレイユの言う通りだった。接続が切れたことで、この異常空間自体が維持を失っている。つまり、ここに長居はできない。
「撤退します」
「今すぐ!」
フィンを再び支え、四人は通路を駆けた。今度は道が少しずつ短くなっている。位相空間が縮んでいるのだろう。壁の硝子面が次々に失われ、元の工房地下の石壁が露出し始める。
途中で何度か床が傾きかけたが、オリヴィアが最低限の補正をかけて持たせた。琥珀の水晶の光は、もうほとんど残っていない。
やがて、最初に入った縦長の板硝子が見えた。今はもう黒い奥行きではなく、ただの曇った壁面に戻りかけている。
「急いで!」
ミレイユが先に飛び込み、続いてサラがフィンを押し出す。オリヴィアが最後に通り抜けた瞬間、背後で板硝子は乾いた音を立て、完全なただの硝子になった。
*
現実の工房地下は、静かだった。
湿った石の匂い。薄い雨音。さっきまでの異常な青白さが消え、ただの廃墟の暗さが戻っている。
ミレイユは膝に手をついて大きく息を吐いた。
「もう二度と……夜中に廃工房へ行くなんて言わないで……」
「約束はできません」
「でしょうね!」
オリヴィアは少し考えた。
「ですが、事前申告はします」
「それは守って」
サラが壁にもたれ、ゆっくりと息を整える。フィンは床に座り込んでいたが、意識ははっきりしてきたようだ。
「俺……生きてる……?」
「はい」
「よかった……」
それだけ言って、へたり込む。無理もない。
オリヴィアはサラへ視線を向けた。
「状態は」
サラは自分の手を見た。指先がほんの少し透けている。だが先ほど楔に使われる最悪の事態は避けられたらしい。
「……まだ、いるわね」
「良かったです」
「外へ完全に戻れるかは、別だけど」
「時間をかければ方法を探せるかもしれません」
「気休めじゃなく?」
「断定はしませんが、気休めでもありません」
サラはふっと笑った。
「本当に、報告書みたいな喋り方」
「よく言われます」
「よく言われるんだ」
「はい」
ミレイユが壁に背を預けたまま、低く言う。
「これで終わり……じゃないわよね」
「ええ」
オリヴィアは答える。
「工房長の主接続は切れました。しかし街の蓋そのものが劣化している点は残っています。泣く硝子の現象は、しばらく尾を引くでしょう」
「塔を調べる必要がある」
「はい。ただし今夜すぐではありません。私は魔力を使い切りました」
杖の琥珀水晶は、ほぼ空だった。今の彼女は、解析も防御もまともに使えない。
ミレイユは頷く。
「なら一度戻る。記録を洗って、塔の管理連中を叩き起こしてでも通す。今度こそ正式にね」
「良案です」
「反対しないの珍しいわね」
「合理的ですので」
フィンが弱々しく手を挙げた。
「あの……俺、証言とか、した方がいい?」
「してもらうわ」
ミレイユが即答する。
「でも今は休みなさい」
「はーい……」
返事と同時に、少年はそのまま眠るように意識を落とした。サラが慌てて支える。呼吸は安定している。
雨音が少し近く聞こえた。工房のどこかで、割れた窓から風が入っているのかもしれない。
オリヴィアは上方を見た。地上のずっと先、街の中心にあるであろう塔を思う。泣かずの硝子。境界の蓋。そこにはまだ、街の古い傷が残っている。
だが、今夜救えたものがある。
それで十分とは言わないが、無意味でもない。
「オリヴィア」
ミレイユが呼ぶ。
「はい」
「さっき」
彼女は少し言い淀んでから、続けた。
「助けられるものを助けたいって言ったでしょ」
「言いました」
「……それ、覚えとく」
「ありがとうございます?」
語尾が少し上がった。どう返すのが適切かわからなかったのだ。ミレイユはその微妙な反応を見て、やっと少し笑う。
「疑問形なのね」
「評価の受け取り方に、未だ習熟しておりません」
「別に習熟しなくていいわよ、そのままで」
「そうでしょうか」
「ええ」
サラが二人を見て、肩を揺らした。
「ほんと、不思議な組み合わせ」
「今後も継続予定でしょうか」
オリヴィアが真面目に尋ねると、ミレイユは呆れた顔をした。
「そこまで先の話はしてない」
「失礼しました」
「でも、塔の件が片づくまでは付き合ってもらうわ」
「承知しました」
その返答に、ミレイユは「よろしい」とだけ言った。
*
地上へ出る頃には、雨は小降りになっていた。
旧河岸区の空はまだ暗いが、東の端がわずかに白み始めている。長い夜が終わりかけていた。
工房の中庭に出たところで、フィンはミレイユが呼んでいた組合の下働きたちに引き渡された。担架代わりの荷台に乗せられながらも、彼は半分眠った顔でオリヴィアに手を振った。
「……ありがとう、オリヴィアさん」
「どういたしまして」
「あと、また屋台、見に来てよ」
「可能であれば」
「それ、来ないやつの返事っぽい」
「努力します」
「微妙だなあ……」
そこまで言って、今度こそ本当に眠ってしまう。生意気な軽口が戻っているなら、大丈夫だろう。
サラは組合の者たちを見る前に、深くフードを被った。事故の行方不明者が突然現れれば騒ぎになる。ミレイユもそれを理解しているようで、余計な説明はしなかった。
「一旦、私の管理下で保護する」
彼女は組合員たちへそう告げる。
「記録にはまだ載せない。先に確認が必要よ」
口調が仕事のそれに戻っていた。頼もしい。
オリヴィアは少し離れた場所で、そのやり取りを見守る。疲労はあるが、眠気はない。魔力を使えない時の彼女は、逆に妙に冴えることがある。
空が明るくなるにつれ、街の硝子が少しずつ色を取り戻していく。倉庫の窓、遠い運河沿いの欄干、濡れた看板。夜の不穏な輝きではなく、朝の静かな反射だ。
そのどれもが、まだ完全には健やかではないのだろう。
けれど、泣き方は少しだけ弱まっているように見えた。
ミレイユが戻ってくる。
「手配した。フィンは医務室、サラは別経路で移動。私はこのまま本館に戻って記録をひっくり返す」
「お疲れさまです」
「あなたもね」
「私はこれから宿へ戻り、必要なら仮眠を取ります」
「必要よ、絶対」
「では取ります」
「素直で助かる」
オリヴィアは頷いた。素直と言われるのは、少し珍しい気がした。
「塔は今夜ですか」
「できれば昼のうちに動きたい。でも相手が相手だし、根回しに時間がかかる。最悪、強行突破」
「その方針に反対はしません」
「でしょうね」
ミレイユは肩を回し、疲れた笑いを浮かべた。
「ねえ、オリヴィア」
「はい」
「あなた、自分のことあんまり話さないわよね」
「必要があれば話します」
「今は必要ない?」
オリヴィアは少しだけ考えた。
白い空間。曖昧な神託。世界を渡る役目。自分が人間ではないこと。どこまで話すべきかは難しい。だが、完全な沈黙だけが誠実とも限らない。
「私は、自分に何が入っているのか、少し気になっています」
ミレイユが瞬く。
「何が?」
「心、とでも言うべきものです」
「……難しいこと言うのね」
「そうでしょうか」
「ええ。でも」
彼女はオリヴィアをまっすぐ見た。
「少なくとも、空っぽには見えないわ」
オリヴィアは返答に少しだけ時間を要した。
褒め言葉なのか、慰めなのか、観察結果なのか。おそらくその全部ではない。けれど、軽く扱われた言葉ではないとわかった。
「ありがとうございます」
今度は疑問形にならなかった。
ミレイユはそれに満足したように頷く。
「じゃあ、寝て。起きたら塔」
「承知しました」
彼女が去っていく。朝の光の中を、灰色の外套が速足で遠ざかる。
オリヴィアはその背を見送ってから、ゆっくりと宿の方向へ歩き出した。濡れた石畳を、静かに踏む。街は目覚め始めている。パンを焼く匂い、早朝の荷車の音、遠くで鳴る鐘。
そして、通りの窓硝子のひとつに、ほんの一瞬だけ白い曇りが浮かんだ。
涙ではない。
内側から、誰かがそっと触れたような痕。
オリヴィアは立ち止まり、それを見つめる。
塔の問題は終わっていない。街の蓋の傷は残っている。工房長の残滓が完全に消えた保証もない。むしろ、本当の核心はこれからだ。
彼女は杖を握り直した。空の琥珀水晶は、朝の光を静かに映している。
「次で片づけましょう」
誰にともなくそう言って、オリヴィア・エスメラルダは歩き出す。
硝子街の朝はまだ冷たい。
けれど、その冷たさの向こうに、かすかな安堵もあった。
少なくとも今は、泣く声より先に、目覚める街の息づかいが聞こえていた。




