表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

38/39

4話「泣かずの硝子」

 逃げ道を塞ぐ巨大な円形硝子は、通路いっぱいの幅があった。


 青白い光が脈打つたび、表面に古い紋様が浮かび上がる。塔の中心にあるという「泣かずの硝子」の意匠に、たしかによく似ていた。ただし本物を見たわけではない以上、断言はできない。だが少なくとも、この街の基盤術式と深く繋がる何かであることは間違いない。


 ミレイユが足を止め、息を呑む。


「こんなところに出るはずがない……!」


「写しです」


 オリヴィアはフィンを支えたまま答える。


「塔の硝子そのものではなく、接続先の像。工房長がここへ引き込んでいます」


「なら壊せる?」


「壊すこと自体は可能かもしれませんが、反動で街側の基盤に傷が入る恐れがあります」


「つまり、雑にやると地上でもっと被害が出る」


「はい」


 背後から、白い手が迫る音がする。


 サラが振り返って舌打ちした。通路の壁、床、天井、あらゆる面から曇った人型が滲み出している。先ほどまでの残留像より輪郭が濃い。工房長の支配が及んでいるのだろう。


「足止めしてる時間はない!」


 ミレイユが叫ぶ。


「オリヴィア、やるなら今!」


「承知しました」


 オリヴィアはフィンをサラへ預けた。


「支えをお願いします」


「任せて」


 少年の体重を受け止めたサラの足元が少し揺れる。長くこの空間で生きてきたとはいえ、消耗しているのだろう。


 オリヴィアは前へ出た。巨大な円形硝子の前で、杖を垂直に構える。琥珀の水晶には、ミレイユから預かった魔力がまだ残っている。だが余裕は多くない。ここで失敗すれば、その先は素手同然だ。


 それでも、やるしかない。


「……外へ出ようとしている」


 フィンの言葉が頭に残っていた。


 泣いているのではない。出ようとしている。


 もし、泣く硝子が単なる異常ではなく、内部に閉じ込められたものの圧力なら。そして工房長が塔の基盤術式へ寄生しているのだとすれば。


「ミレイユさん」


「何」


「この街の『泣かずの硝子』は、何をした聖遺物だと伝承されていますか」


「災厄を退けた、街を守った、灯りを絶やさない、いろいろあるわよ!」


「では、退けた“災厄”の正体は」


「そこまでは……」


 ミレイユが言葉を切る。記録係でも、伝承の曖昧さまでは埋められないらしい。


 サラが低く言った。


「昔は違う名で呼ばれていたわ。『境界の蓋』」


 オリヴィアの目がわずかに細くなる。


「蓋」


「街の上と下、内と外、そういうものを隔てるっていう古い信仰。塔は中心じゃない。栓なのよ」


 それで腑に落ちた。


 泣かずの硝子は、街を護る宝というより、**何かを閉じ込めるための中枢蓋**だったのだ。事故で工房長がそこへ触れ、地下の異常空間から街の基盤へ接続した結果、泣く硝子が各所に発生した。


 泣いているのは街ではない。


 蓋の向こう側が、押し返されている。


「なら、切るべきは工房長と塔の接続です」


「できるの?」


 ミレイユの問いに、オリヴィアはほんの少しだけ沈黙した。


「理論上は」


「その言い方、信用しにくいのよね」


「実行には、正確な位相の把握と十分な魔力、そして媒介の安定が必要です」


「つまり条件が足りない」


「少し」


「少しで済ませる規模じゃないでしょう」


 その通りだった。


 だが、代案はない。


 背後から白い人型が迫る。ミレイユが光帯を放ち、一体、二体を砕く。しかし追いつかない。サラもフィンを支えながら、右手袋で硝子面を叩いて迎撃しているが、防戦一方だ。


 オリヴィアは円形硝子へ手をかざした。冷たい。だがその奥に、巨大な流れがある。上へ、塔へ、街じゅうへ。そしてその流れに、黒い棘のようなものが絡みついている。


 工房長だ。


 事故で肉体を失い、炉心と硝子網へ意識だけを散らした存在。街の基盤に寄生し、自分を維持するために人の意志を補強材として奪う。放置すれば、いずれ街全体の硝子網が泣くだけでは済まなくなるだろう。


「……やります」


「必要なものは」


 ミレイユの返答は早かった。


「魔力です」


「私ので足りる?」


「不足しています」


「率直ね」


「誠実であろうとしています」


 ミレイユが一瞬だけ笑いそうになって、すぐに現実へ引き戻されたように顔をしかめる。


「他に何が要る」


 オリヴィアは視線をサラへ向けた。


「この空間に長く適応した者の“位相情報”」


 サラが眉をひそめる。


「私?」


「はい。あなたはここに馴染み、なお自我を保っています。接続の節を見つけるための基準にできます」


「つまり私も貸し出せってことね」


「同意があれば」


 サラは、ほんの一瞬だけためらった。


 それは当然だろう。十七年も閉じ込められた場所だ。外から来た得体の知れない少女に、自分の何かを預けるのは容易ではない。


 だが彼女はフィンを支え直し、短く頷いた。


「やりなさい。もう終わらせたい」


「ありがとうございます」


「待って」


 ミレイユが言う。


「私ももう少し出せる。でも、あなた自身は大丈夫なの?」


「私ですか」


「その、器だとか何だとか、さっき工房長が言ってた。よくわからないけど、無茶な接続したらあなたが危ないんじゃないの」


 オリヴィアは少しだけ目を伏せた。


 自分に魂があるのかどうか。何のために造られたのか。それは彼女の中でずっと静かに横たわっている問いだった。けれど今ここで、それを答えに使う必要はない。


「危険性はあります」


「あるのね」


「ですが、放置の方が被害は大きい」


「そういう計算じゃなくて」


 ミレイユはそこで言葉を止めた。責めたいのではない。ただ、気にしているのだとわかった。


 オリヴィアは彼女を見た。


「私は、助けられるものを助けたいと思っています」


 平坦な声のまま、そう言う。


「それに、あなたが命を削るような術式を禁じました。約束は守ります」


 ミレイユは数秒黙り、それから低く吐き出した。


「……そういう言い方、ずるいわ」


「意図してはおりません」


「知ってる」


 サラが焦れたように言う。


「話はあと! 来る!」


 白い人型の群れが一気に距離を詰めてくる。通路の後方を埋めるように。さらにその奥、黒い鏡の破片が壁面ごと這ってきて、工房長の輪郭を再形成し始めていた。


 時間切れだ。


「二人とも、手を」


 オリヴィアが言った。


 ミレイユは躊躇なく左手を差し出し、サラも右手袋を外して素手を伸ばす。冷えた手。ざらついた、長く働いた手。


 オリヴィアは二人の手首に同時に触れた。


「同意を確認します。調律・接続・強制分離術式を開始」


 琥珀の水晶が、これまでで最も強く灯る。


 ミレイユの魔力は冷たい鉄。まっすぐで、無駄がなく、折れにくい。サラの持つ位相情報は、逆に複雑だった。硝子に長く浸った痕跡、歪み、しかしその中心にある頑固な自己同一性。ここで生き延びた執念。


 二つを受け取り、オリヴィアは円形硝子へ杖先を当てる。


 街の基盤術式が目の前で幾層にも展開した。


 光の線が都市の地図を形作り、塔を中心に無数の硝子管が網のように走る。その一部に、黒い染みがある。下層から這い上がった棘。工房長の接続。


 さらにその根は、もっと深くへ伸びていた。


「……そうですか」


「何が見えたの!」


 ミレイユの声が遠い。術式の集中が始まっている。


「工房長だけではありません。事故以前から、この街の蓋は劣化していました」


「今それ重要!?」


「重要です。工房長は原因の全てではなく、亀裂に入り込んだ増幅因子です」


 だから泣かずの硝子も完全には機能せず、泣く硝子が発生した。事故は偶発ではあるが、土台に脆さがあった。


 しかし、今ここで街の全修復はできない。まずは黒い棘を剥がす。


 オリヴィアは杖を回す。二股の先端が、見えない糸を撫でるように空間を裂いていく。工房長の接続線を一本、二本、三本と拾い上げる。黒い棘が抵抗し、逆流する。


 耳元で、無数の声が囁いた。


――空だ

――器だ

――蓋にちょうどいい

――残れ

――割れるな

――埋まれ


 オリヴィアは無視した。


 無視するのは得意だった。誤解も、敵意も、無遠慮な憶測も、彼女はたいてい表情を変えず受け流す。今の囁きも同じだ。


「私は、ここには残りません」


 呟き、一本目を切る。


 通路が震えた。白い人型の何体かが同時に崩れる。ミレイユが息を呑む。


「効いてる!」


「続けます」


 二本目。三本目。


 黒い棘が逆に巻きつこうとしてくる。工房長の意志が直接こちらへ流れ込んだ。


――なぜ拒む

――器なら満たされたいだろう

――空であることは寒い


 一瞬だけ、オリヴィアの手元がぶれた。


 寒い、という語に、わずかな引っかかりが生じる。


 自分に魂があるのか知りたい。作った神の真意を知りたい。そうした問いは、たしかにどこか寒さに似ている。埋めがたい空洞。自分が何であるかの輪郭を掴めない感覚。


 だが、その隙間に他者を詰めて満たすのは違う。


「他人を傷つけて埋める空白は、空白より質が悪いです」


 真面目に言い返しながら、四本目を断つ。


 今度は工房長が、はっきり怒った。


 黒い鏡が通路の壁一面に広がり、その中心に曇った顔が押しつけられる。顔らしきものが、こちらへ近づく。巨大な圧力。白い人型たちが再び形を取り戻し始める。


 ミレイユが叫ぶ。


「まだ!?」


「核が一本、塔側に深く食い込んでいます!」


「引き抜けるの!?」


「引き抜くだけなら可能です。ただし反動で蓋が開きます」


「じゃあ駄目じゃない!」


「ですので、代わりの楔が必要です」


「そんなものどこに」


 そこでサラが、静かに言った。


「私を使って」


 ミレイユが振り向く。


「何言ってるの」


「私はこの場所に馴染みすぎてる。外へ完全には戻れない。それなら、接続の残滓をまとめる楔になれる」


「そんなの」


「元は私たちの工房の事故よ」


 サラの表情は穏やかだった。諦めではない。決めた顔だ。


「私一人で済むなら安いもの」


「済むとは限りません」


 オリヴィアは即座に言った。


「あなたの存在が固定され、外への復帰可能性がさらに下がります」


「元から高くないでしょう」


「それでも」


「オリヴィア」


 サラは、少しだけ笑った。


「あなた、優しいのね」


「その評価は誤解されやすいです」


「知ってる」


 短い言葉だったが、不思議と温度があった。


 ミレイユが唇を噛む。


「他に方法は」


「街全体の塔基盤へ直接上がれれば、より安全に処理できます」


 オリヴィアは答える。


「ですが今から地上へ戻り、塔へ入り、許可を取り、準備をしていては間に合いません」


「でしょうね……!」


 通路の壁に、深いひびが走る。白い光が噴き出す。工房長の圧力が増している。この空間が持たない。


 フィンがかすれた声を出した。


「……俺、手伝えない、かな」


 サラが驚いて彼を見る。フィンは青白い顔で、それでも目を開けていた。


「お前、まだ喋るな」


「でも、俺……ちょっと、わかるんだ。硝子、どこが気持ち悪いか……」


 屋台売りの少年。だがこの街で育ち、硝子に触れて生きてきた。だからこそ適性が高く、工房長に狙われたのだろう。


 オリヴィアは問う。


「接続の違和感を辿れますか」


「たぶん……。痛いとこ、わかる」


「痛いとこ」


「うん」


 表現は曖昧だが、感覚としては十分だ。


 ミレイユがはっとする。


「つまり、楔はサラじゃなくて“場所”に打てる?」


「フィンの感覚で核の位置を絞れれば、可能性は上がります」


「可能性って何割」


「三割ほど」


「低い!」


「先ほどよりは高いです」


 ミレイユが頭を抱えた。


「比較対象が悪いのよ!」


 オリヴィアは少しだけ考え、結論を出す。


「サラの位相情報を補助基準、フィンの感覚を座標指定に使用します。ミレイユさんには魔力供給の継続を」


「全部乗せね」


「はい」


「失敗したら?」


「この空間の崩落に巻き込まれます」


「わかりやすく最悪!」


「ですので、成功させます」


 その平坦な断言に、ミレイユは一瞬だけ目を丸くした。次いで、観念したように笑う。


「ええ、そうしましょう」


     *


 術式は、即席にしては大きすぎた。


 オリヴィアは円形硝子の前に立ち、背後の三人へ位置を指示する。フィンは壁に手をついて、硝子の脈を探る。サラはもう一方の壁へ触れ、この空間の流れを感じ取る。ミレイユはオリヴィアの斜め後ろ、魔力供給が途切れない位置に立つ。


「フィン・ロウ、違和感を見つけたらすぐに」


「はい……」


「サラ、ズレが来たら補正を」


「わかった」


「ミレイユさん」


「供給、切らない」


「助かります」


 ミレイユが半眼になる。


「今さらだけど、それ一番重い役目じゃない?」


「重要です」


「でしょうね!」


 白い人型たちが迫る。工房長の鏡像が通路いっぱいに広がり、黒い棘が円形硝子の表面を這う。


 オリヴィアは杖を掲げた。


「調律術式、重奏展開」


 琥珀の水晶の光が、ぎりぎりまで引き上げられる。エメラルドが深い緑に燃えた。二股の杖先が共鳴し、この世界の法則と、オリヴィアが渡ってきた無数の世界の境界感覚を、ただ一点の調整器として機能させる。


 彼女自身に魔力はない。だからこそ、色がない。だからこそ、余分な法則を持ち込まず、異なる理の間を渡れる。


 空白の器。


 それは、欠陥であると同時に、この仕事のための形でもあった。


「そこ!」


 フィンが叫ぶ。壁の一点、円形硝子の左下。見た目には何もない。だが彼には“痛み”としてわかるのだろう。


 オリヴィアはそこへ杖先を向ける。


「補正、右に半度!」


 サラが言う。位相の傾き。オリヴィアは即座に調整。


「魔力、上がるわよ!」


 ミレイユの供給が強まる。鉄のような冷たい流れが、琥珀の中で唸る。


 オリヴィアは切断ではなく、編み替えを選んだ。


 工房長の黒い棘を抜くのではなく、その周囲に新しい流路を組む。街の蓋を支える本来の術式に、仮の橋を架け、棘の役割を不要にしてから剥がす。乱暴ではないが、精度が要る。


 白い人型が一斉に飛びかかってくる。ミレイユとサラが迎撃する。光帯、硝子手袋の打撃、砕ける音、曇りの悲鳴。


 工房長の声が、怒りをむき出しにして響く。


「やめろ! 蓋が薄い! 外が落ちる!」


「あなたが食い荒らした分を戻すだけです」


 オリヴィアは淡々と返す。


「戻した先に何が来るか知っているのか!」


「知らないことを盾に人を呑む行為は、正当化されません」


「綺麗事だ!」


「平和主義と呼んでください」


 真面目に言い返しながら、彼女は最後の編み目を閉じた。


 緑の光が円形硝子全体を走る。


 黒い棘が、びくりと震える。


「今です」


 オリヴィアは杖を横薙ぎに振った。


 切断。


 黒い棘が一本の線となって抜け、空中でのたうつ。工房長の絶叫が空間全体を満たした。壁面の鏡像がひび割れ、白い人型たちが次々と静止する。


 だが、その瞬間、円形硝子の中心に黒い穴が開いた。


 蓋の隙間。


 向こう側から、冷たい風のようなものが吹き出す。音ではない。圧だ。遠い無数の反響。もしこれが広がれば、街じゅうの泣く硝子が一斉に開くかもしれない。


「楔を!」


 ミレイユが叫ぶ。


「サラ!」


 サラが一歩前へ出る。


 オリヴィアは反射的に手を伸ばしかけ、しかし止めた。別案が間に合うかを一瞬で計算する。フィンは消耗、ミレイユは供給中、サラが最適――


 その時、フィンが壁にもたれたまま叫ぶ。


「待って! そこ、まだずれてる!」


 オリヴィアが目を見開く。


「どこですか」


「真ん中じゃない、上! 上の、見えないとこ!」


 感覚に従い、彼は震える指を持ち上げる。円形硝子の上部、紋様の交点。


 オリヴィアは即座に視線を移した。たしかに、微かなズレがある。工房長の棘ではない。もっと古い、蓋そのものの摩耗だ。


 なら、楔を打つべき位置はそこだ。


「ミレイユさん、追加供給を」


「まだ出せる!」


「サラ、空間の圧を押さえてください。三秒」


「三秒なら!」


 サラが前へ飛び出し、両手を円形硝子へ叩きつける。彼女の身体を通して、この空間の位相が一時的に固定される。危ういが、十分だ。


 オリヴィアは杖先を上部の交点へ向け、工房長の棘の残骸を逆用した。完全な異物ではなくなったそれを、一時的な楔材として編み直す。敵の侵食を、そのまま補修材に転化する。


「再指定。固定。封止」


 緑の光が、交点へ打ち込まれた。


 黒い穴が、ぎゅっと縮む。


 冷たい圧が細くなり、やがて止まる。


 次の瞬間、通路全体に張りつめていた力が一気に抜けた。


 壁面の鏡が砕けるように曇り、白い人型は雪のように崩れ、円形硝子もただの古びた板へ戻っていく。工房長の声は、何か遠くへ落ちていくように薄れた。


「……終わり、ましたか」


 オリヴィアが小さく呟いた。


 答えは、激しい崩落音だった。


「終わってない! 空間が閉じる!」


 ミレイユの言う通りだった。接続が切れたことで、この異常空間自体が維持を失っている。つまり、ここに長居はできない。


「撤退します」


「今すぐ!」


 フィンを再び支え、四人は通路を駆けた。今度は道が少しずつ短くなっている。位相空間が縮んでいるのだろう。壁の硝子面が次々に失われ、元の工房地下の石壁が露出し始める。


 途中で何度か床が傾きかけたが、オリヴィアが最低限の補正をかけて持たせた。琥珀の水晶の光は、もうほとんど残っていない。


 やがて、最初に入った縦長の板硝子が見えた。今はもう黒い奥行きではなく、ただの曇った壁面に戻りかけている。


「急いで!」


 ミレイユが先に飛び込み、続いてサラがフィンを押し出す。オリヴィアが最後に通り抜けた瞬間、背後で板硝子は乾いた音を立て、完全なただの硝子になった。


     *


 現実の工房地下は、静かだった。


 湿った石の匂い。薄い雨音。さっきまでの異常な青白さが消え、ただの廃墟の暗さが戻っている。


 ミレイユは膝に手をついて大きく息を吐いた。


「もう二度と……夜中に廃工房へ行くなんて言わないで……」


「約束はできません」


「でしょうね!」


 オリヴィアは少し考えた。


「ですが、事前申告はします」


「それは守って」


 サラが壁にもたれ、ゆっくりと息を整える。フィンは床に座り込んでいたが、意識ははっきりしてきたようだ。


「俺……生きてる……?」


「はい」


「よかった……」


 それだけ言って、へたり込む。無理もない。


 オリヴィアはサラへ視線を向けた。


「状態は」


 サラは自分の手を見た。指先がほんの少し透けている。だが先ほど楔に使われる最悪の事態は避けられたらしい。


「……まだ、いるわね」


「良かったです」


「外へ完全に戻れるかは、別だけど」


「時間をかければ方法を探せるかもしれません」


「気休めじゃなく?」


「断定はしませんが、気休めでもありません」


 サラはふっと笑った。


「本当に、報告書みたいな喋り方」


「よく言われます」


「よく言われるんだ」


「はい」


 ミレイユが壁に背を預けたまま、低く言う。


「これで終わり……じゃないわよね」


「ええ」


 オリヴィアは答える。


「工房長の主接続は切れました。しかし街の蓋そのものが劣化している点は残っています。泣く硝子の現象は、しばらく尾を引くでしょう」


「塔を調べる必要がある」


「はい。ただし今夜すぐではありません。私は魔力を使い切りました」


 杖の琥珀水晶は、ほぼ空だった。今の彼女は、解析も防御もまともに使えない。


 ミレイユは頷く。


「なら一度戻る。記録を洗って、塔の管理連中を叩き起こしてでも通す。今度こそ正式にね」


「良案です」


「反対しないの珍しいわね」


「合理的ですので」


 フィンが弱々しく手を挙げた。


「あの……俺、証言とか、した方がいい?」


「してもらうわ」


 ミレイユが即答する。


「でも今は休みなさい」


「はーい……」


 返事と同時に、少年はそのまま眠るように意識を落とした。サラが慌てて支える。呼吸は安定している。


 雨音が少し近く聞こえた。工房のどこかで、割れた窓から風が入っているのかもしれない。


 オリヴィアは上方を見た。地上のずっと先、街の中心にあるであろう塔を思う。泣かずの硝子。境界の蓋。そこにはまだ、街の古い傷が残っている。


 だが、今夜救えたものがある。


 それで十分とは言わないが、無意味でもない。


「オリヴィア」


 ミレイユが呼ぶ。


「はい」


「さっき」


 彼女は少し言い淀んでから、続けた。


「助けられるものを助けたいって言ったでしょ」


「言いました」


「……それ、覚えとく」


「ありがとうございます?」


 語尾が少し上がった。どう返すのが適切かわからなかったのだ。ミレイユはその微妙な反応を見て、やっと少し笑う。


「疑問形なのね」


「評価の受け取り方に、未だ習熟しておりません」


「別に習熟しなくていいわよ、そのままで」


「そうでしょうか」


「ええ」


 サラが二人を見て、肩を揺らした。


「ほんと、不思議な組み合わせ」


「今後も継続予定でしょうか」


 オリヴィアが真面目に尋ねると、ミレイユは呆れた顔をした。


「そこまで先の話はしてない」


「失礼しました」


「でも、塔の件が片づくまでは付き合ってもらうわ」


「承知しました」


 その返答に、ミレイユは「よろしい」とだけ言った。


     *


 地上へ出る頃には、雨は小降りになっていた。


 旧河岸区の空はまだ暗いが、東の端がわずかに白み始めている。長い夜が終わりかけていた。


 工房の中庭に出たところで、フィンはミレイユが呼んでいた組合の下働きたちに引き渡された。担架代わりの荷台に乗せられながらも、彼は半分眠った顔でオリヴィアに手を振った。


「……ありがとう、オリヴィアさん」


「どういたしまして」


「あと、また屋台、見に来てよ」


「可能であれば」


「それ、来ないやつの返事っぽい」


「努力します」


「微妙だなあ……」


 そこまで言って、今度こそ本当に眠ってしまう。生意気な軽口が戻っているなら、大丈夫だろう。


 サラは組合の者たちを見る前に、深くフードを被った。事故の行方不明者が突然現れれば騒ぎになる。ミレイユもそれを理解しているようで、余計な説明はしなかった。


「一旦、私の管理下で保護する」


 彼女は組合員たちへそう告げる。


「記録にはまだ載せない。先に確認が必要よ」


 口調が仕事のそれに戻っていた。頼もしい。


 オリヴィアは少し離れた場所で、そのやり取りを見守る。疲労はあるが、眠気はない。魔力を使えない時の彼女は、逆に妙に冴えることがある。


 空が明るくなるにつれ、街の硝子が少しずつ色を取り戻していく。倉庫の窓、遠い運河沿いの欄干、濡れた看板。夜の不穏な輝きではなく、朝の静かな反射だ。


 そのどれもが、まだ完全には健やかではないのだろう。


 けれど、泣き方は少しだけ弱まっているように見えた。


 ミレイユが戻ってくる。


「手配した。フィンは医務室、サラは別経路で移動。私はこのまま本館に戻って記録をひっくり返す」


「お疲れさまです」


「あなたもね」


「私はこれから宿へ戻り、必要なら仮眠を取ります」


「必要よ、絶対」


「では取ります」


「素直で助かる」


 オリヴィアは頷いた。素直と言われるのは、少し珍しい気がした。


「塔は今夜ですか」


「できれば昼のうちに動きたい。でも相手が相手だし、根回しに時間がかかる。最悪、強行突破」


「その方針に反対はしません」


「でしょうね」


 ミレイユは肩を回し、疲れた笑いを浮かべた。


「ねえ、オリヴィア」


「はい」


「あなた、自分のことあんまり話さないわよね」


「必要があれば話します」


「今は必要ない?」


 オリヴィアは少しだけ考えた。


 白い空間。曖昧な神託。世界を渡る役目。自分が人間ではないこと。どこまで話すべきかは難しい。だが、完全な沈黙だけが誠実とも限らない。


「私は、自分に何が入っているのか、少し気になっています」


 ミレイユが瞬く。


「何が?」


「心、とでも言うべきものです」


「……難しいこと言うのね」


「そうでしょうか」


「ええ。でも」


 彼女はオリヴィアをまっすぐ見た。


「少なくとも、空っぽには見えないわ」


 オリヴィアは返答に少しだけ時間を要した。


 褒め言葉なのか、慰めなのか、観察結果なのか。おそらくその全部ではない。けれど、軽く扱われた言葉ではないとわかった。


「ありがとうございます」


 今度は疑問形にならなかった。


 ミレイユはそれに満足したように頷く。


「じゃあ、寝て。起きたら塔」


「承知しました」


 彼女が去っていく。朝の光の中を、灰色の外套が速足で遠ざかる。


 オリヴィアはその背を見送ってから、ゆっくりと宿の方向へ歩き出した。濡れた石畳を、静かに踏む。街は目覚め始めている。パンを焼く匂い、早朝の荷車の音、遠くで鳴る鐘。


 そして、通りの窓硝子のひとつに、ほんの一瞬だけ白い曇りが浮かんだ。


 涙ではない。


 内側から、誰かがそっと触れたような痕。


 オリヴィアは立ち止まり、それを見つめる。


 塔の問題は終わっていない。街の蓋の傷は残っている。工房長の残滓が完全に消えた保証もない。むしろ、本当の核心はこれからだ。


 彼女は杖を握り直した。空の琥珀水晶は、朝の光を静かに映している。


「次で片づけましょう」


 誰にともなくそう言って、オリヴィア・エスメラルダは歩き出す。


 硝子街の朝はまだ冷たい。


 けれど、その冷たさの向こうに、かすかな安堵もあった。


 少なくとも今は、泣く声より先に、目覚める街の息づかいが聞こえていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ