5話「朝の色、硝子の癖」
塔の件が片づいたのは、それから三日後のことだった。
結論から言えば、硝子街グラス・キアは崩壊しなかった。
もっとも、何もなかったことにもならない。
中心塔の「泣かずの硝子」は長年の劣化と、地下から伸びていた工房長の寄生痕によって、内部に複数の綻びを抱えていた。正式な調査の場でそれが明らかになった時、塔の管理者たちは最初、ひどく渋い顔をした。記録の欠落や封鎖処理の杜撰さまで掘り返されれば、面目は潰れる。
だが、ミレイユは容赦がなかった。
記録庫から引っ張り出した事故報告書、失踪者台帳、現場痕の照合結果、そしてフィンの証言まで揃えて、反論の余地を少しずつ潰していった。静かな口調で逃げ道だけを丁寧に塞いでいく様子は、オリヴィアの目から見てもなかなか見事だった。
「この方は追い詰め方が上手ですね」
とオリヴィアが真面目に感想を述べたところ、横にいたフィンが「褒めてるのか怖がってるのかわかんない」と笑った。
最終的に、塔の基盤修復には組合、塔の管理局、衛士隊、それから外部協力者としてオリヴィアが加わることになった。外部協力者という言い方は随分と穏当だったが、実際には「今の街で一番、この異常に具体的に対処できる人材」だったので、関係者の渋面は見ないことにした。
修復作業そのものは長時間に及んだが、地下で工房長の主接続を切っていたことが大きかった。
塔の硝子に残っていた黒い棘の痕は、完全な意志を持つものではなく、もはや残り火のようなものだったからだ。オリヴィアが調律し、組合の術者たちが基盤線を張り直し、ミレイユが記録と指示を飛ばし、フィンが「気持ち悪いところ」を指摘する。正式な訓練を受けた術者でもない少年の感覚が、意外なほど役に立った。
「将来的に進路を考える余地がありますね」
とオリヴィアが言うと、フィンは即座に「屋台は続けたいんだけど」と返した。
「両立も可能かと」
「何その現実的な勧誘」
結局、泣く硝子の現象は完全には消えなかった。
ただし頻度は激減し、夜ごと街じゅうで起きていた異常な曇りや滴は、ほぼ収まった。残るのは、古い建物や事故に近い系譜の工房に稀に出る、ごく薄い結露めいた現象だけだ。それも今では「要観察事象」として正式に記録され、見て見ぬふりはされなくなった。
それだけでも、十分な前進だった。
*
オリヴィアが硝子街を発つ日の朝、雨は降っていなかった。
代わりに、空は驚くほど青い。硝子街に来てから見るのは初めてかもしれないと、彼女は思った。曇天と雨ばかりの印象が強かったが、晴れればこの街の硝子はまた違う色を返す。
宿を出ると、通りの窓が朝日を受けて淡く光っていた。運河の欄干も、看板の縁も、露店の瓶も、それぞれに自分の色を持っている。泣き腫らした顔を隠した街ではなく、少しだけ寝不足のまま起きてきた街のようだった。
煤けた白鳥亭の店主は、鍵を返したオリヴィアに対して「面倒事は持ち込まないでって言ったのに」と言った。
「申し訳ありません」
「でも、窓は助かった」
「それは何よりです」
「……あんた、やっぱり変な子だね」
「よく言われます」
店主は鼻を鳴らし、帰り際に包みをひとつ寄越した。中身は干し肉と硬いパンだった。
「道中用。余り物」
「ありがとうございます」
「礼はいいから、次に来る時は静かに来な」
「努力します」
「微妙に不安だね」
それは否定しづらかった。
*
組合本館の裏手では、ミレイユが書類の束を抱えて立っていた。相変わらず忙しそうな顔をしている。
「見送りに来てくださったのですか」
「半分はそう。半分は仕事」
「割合として妥当です」
「そういう返し、本当にぶれないわね」
彼女は書類束を脇に抱え直した。
「サラの件、まだ表には出してない。戸籍も記録も十七年前で切れてるから、いきなり“はい戻りました”とはいかないの」
「承知しています」
「でも、少しずつやる。本人もすぐには表へ出たがってないし」
「無理は禁物かと」
「ええ」
サラは現在、組合の管理下にある別施設で保護されている。位相の揺らぎはまだ残っているが、地下にいた時より安定しているらしい。外へ完全に適応できるかは不明だが、少なくとももう一人で崩れかけた空間を支え続ける必要はない。
フィンについては、回復後すぐに屋台へ復帰した。周囲からは「大変だったらしい」とぼかされているが、本人は割と元気である。むしろ「塔の修復に関わった屋台の兄ちゃん」として妙な箔がつき、少し売上が伸びたらしい。
世の中は、思わぬところでたくましい。
「あなたは、また別の街へ行くんでしょう」
ミレイユが言う。
「はい」
「次もそんな感じの面倒事?」
「大抵は」
「大抵なの」
「はい」
ミレイユは額に手を当てた。
「それでよく平然としていられるわね」
「慣れです」
「慣れていいものかしら、それ」
「判断が難しいです」
少しの沈黙のあと、ミレイユは懐から小さな包みを取り出した。布にくるまれた、掌サイズの何か。
「これ、持っていきなさい」
開くと、中には薄い硝子片で作られた小さな護符が入っていた。六角形の透明板の中に、ごく細い銀線で簡易の基盤紋が封じられている。
「組合の予備護符。正式配布品じゃないけど、雑音避けにはなる」
「いただいても」
「貸与よ。いつか返しに来てもいいし、壊れたら報告だけでいい」
「律儀ですね」
「記録係だから」
実に彼女らしい。
「ありがとうございます、大切にします」
「そうして」
ミレイユは一拍置いて、少しだけ視線を逸らした。
「あと……空っぽに見えないって言ったの、撤回しない」
オリヴィアは瞬きを一つした。
「そうですか」
「ええ」
「覚えておきます」
今度はミレイユの方が少し驚いたように見えた。
「ちゃんと受け取るのね」
「はい。習熟していないだけで、不可能ではありません」
「その言い方、ちょっとかわいいわね」
オリヴィアは何と返すべきか迷い、結局「そうでしょうか」とだけ答えた。ミレイユは笑った。
*
「オリヴィアさん!」
通りの向こうから、元気な声が飛んでくる。
フィンだった。今日は雨ではないので、屋台の上には色硝子の風鈴まで下がっている。朝の風に鳴って、澄んだ音を立てた。
「退院おめでとうございます」
「病人みたいに言うなあ」
「病人ではなかったのですか」
「まあ、半分くらいはそうだったけど」
フィンは屋台の下から、青い星形の硝子細工をひとつ取り出した。以前のものより少し丁寧で、角の処理がきれいだ。
「これ。前のは大変だったから、作り直した」
「私に?」
「うん。お礼」
「対価が未払いでしたか」
「そういう話じゃなくて」
フィンは苦笑した。
「助けてもらったから。あと、また迷った時の目印」
オリヴィアはその星形を受け取る。透き通った青。朝日を通すと、掌に小さな色が落ちた。
「綺麗です」
「でしょ」
「大切にします」
「それ、オリヴィアさんが言うと本当に大切にしそう」
「そのつもりです」
フィンは満足そうに頷き、それから少し真面目な顔になった。
「俺さ、前まで、街の硝子ってただ綺麗で、売れればいいやって思ってたんだ」
「はい」
「でも今は、もうちょっとちゃんと見ようかなって思う」
「良いことかと」
「見すぎて変なものまで見えたら困るけど」
「その場合は報告してください」
「報告先、どこ」
オリヴィアは少し考えた。
「ミレイユさんでしょうか」
「うわ、めちゃくちゃ仕事増えそう」
それは否定できない。
*
街外れの運河橋まで来たところで、オリヴィアは足を止めた。
ここが、この世界での帰還点になる。神々が定めた見えない境目。彼女にしかわからない、薄い綻びのようなものが、朝の空気の中に漂っている。
振り返ると、硝子街グラス・キアが見えた。
塔はまだそこに立ち、街はその周りに色を重ねている。完全ではない。傷も残っている。けれど、前より少し正直になった街だと思う。
白い空間へ戻れば、きっとまた曖昧な一文の神託が待っているのだろう。文句は言う。たぶん毎回言う。
だがその前に、オリヴィアはポーチから青い星形の硝子細工を取り出した。
光にかざす。
小さな星の中に、空の色が閉じ込められる。
「……空っぽでは、ない」
誰に聞かせるでもなく呟く。
確信というほど強くはない。けれど、少なくとも今はそう思えた。助けたいと思ったこと。安心したこと。渡された言葉を覚えておこうと思ったこと。そういうものが自分の内に残るなら、それは無に近い何かではないのだろう。
次の瞬間、世界の輪郭が白くほどけた。
硝子街の朝の色が遠ざかる。
最後に見えたのは、塔の上で朝日を受ける一枚の硝子だった。もう泣いてはいない。ただ静かに、空を映していた。




