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3話「硝子の底で」

「……オリヴィアさん」


 もう一度、声がした。


 暗い廊下の奥から、湿った石壁に反響して届く。怯えを含んだ少年の声。フィンに似ている。似ているが、だからこそ慎重になるべきだった。


 オリヴィアは足を止めたまま、耳を澄ませる。


 声の位置は一定ではない。右から聞こえたかと思えば、次には正面、さらに微妙に上方から落ちてくる。反響の問題だけではない。媒介を通した拡散だ。硝子面が声を拾い、ずらしている。


「罠ですね」


 ミレイユがひそめた声で言う。


「可能性が高いです」


「即答ね」


「フィン・ロウ本人である可能性も残りますが、位置の特定ができません」


 工房の中は、長く使われていない建物特有の匂いに満ちていた。湿り、煤、古い油、そして硝子粉。床には粉雪のような白い粒が薄く積もっている。歩けば足跡が残るはずだ。


 オリヴィアは布を被せた光珠を少し上げ、足元を照らす。


「……足跡が少ない」


「最近入った人間がいるんじゃなかったの?」


「あります。ただし人数が妙です」


 粉の上には確かに痕跡があった。複数人分の靴跡。それは正面の廊下を通っているが、途中で薄くなり、やがて消えている。消えた地点の壁には、割れていない大きな板硝子がはめ込まれていた。


 ミレイユが舌打ちする。


「また“向こう側”」


「ええ」


 オリヴィアは近づいた。壁に埋め込まれた板硝子は曇っており、内側に白い筋が幾重にも走っている。磨き用の見本板だったのだろうか、縦長で、ちょうど人が一人通れそうな大きさだ。


 手をかざすと、冷気が指先にまとわりついた。


「ここが通路化されています」


「壊せる?」


「下手に壊すと、接続先の空間ごと崩れる可能性があります」


「それは困る」


「はい」


 ミレイユは光珠を胸元へ戻した。


「じゃあ、どうするの」


「正面から入ります」


「簡単に言うわね」


「簡単ではありません」


 オリヴィアは杖先を硝子へ向けた。二股の先端で、微かに空気が鳴る。異なる法則の継ぎ目を探る時、彼女の杖はしばしばこういう音を立てた。耳ではなく、空間が軋むような音だ。


 世界ごとに術理は違う。火が精霊の息である世界もあれば、計算された数列でしか魔術が動かない世界もある。だがどの世界にも、「継ぎ目」はある。向こうとこちら、内と外、定着した法則と外来の理の境界。その僅かな差を見つけ、噛み合わせる。


 オリヴィアの役目は、しばしばそこにあった。


「三十秒ほどください」


「見張ってる」


 オリヴィアは目を閉じた。


 ミレイユの魔力が、琥珀の水晶の中で冷たく整列している。それを細く引き出し、エメラルドで編み直し、硝子の向こうへ合わせる。街の基盤術式。事故当時の古い工房術式。そこへ混ざった未知の異物。三つの層がずれて噛み合い、捻れたまま安定している。


「……歪です」


「何が?」


「誰かが無理やり維持しています」


 言いながら、最後の調律を合わせる。


 板硝子の表面に輪紋が広がった。曇りが内側へ吸い込まれ、代わりに黒い奥行きが現れる。水面に似ているが、濡れた感じはしない。底の見えない透明だ。


「入れます」


「先に言うけど、嫌な予感しかしない」


「私も同意します」


「そこは意見が合うのね」


 ミレイユは短く息を吐き、金属杖を握り直した。


「前後、どっち」


「私が先行します」


「危ない役を平然と取るのやめて」


「術式が崩れた際の対処がしやすいので」


「合理的なのが腹立つわ」


 オリヴィアは返答せず、硝子の面へ一歩踏み出した。


 抵抗はほんの一瞬だった。冷えた膜を抜ける感覚。耳鳴り。重力の向きが曖昧になり、次いで足裏に硬い感触が戻る。


 ミレイユもすぐ後ろに続いた。


     *


 そこは、工房の地下保管庫によく似た場所だった。


 よく似ているだけで、同じではない。


 天井は低い石造り、壁際には棚、散乱した木箱、湿った床。しかし全てが薄い硝子膜を一枚挟んだように鈍く光っている。空気にはほのかな青白さが混じり、音が遠い。何より、空間の奥行きが不自然だった。真っ直ぐなはずの通路が、視線を送るほど斜めに曲がって見える。


 ミレイユが声を潜める。


「……ここ、現実?」


「半分ほど」


「半分?」


「工房地下を基点にした、硝子媒介の位相空間です。現実側の構造を写しながら、別の層へ膨らんでいます」


「説明はわからないけど、嫌なことだけはわかる」


「正しい理解です」


 床に、誰かを引きずったような細い跡がある。白い粉が線になり、通路の奥へ続いていた。


 その横に、色硝子の小さな欠片が落ちている。


 青、赤、黄。鳥の尾羽の形。花弁の形。安価な細工物。


「フィンの箱の中身ですね」


 オリヴィアはしゃがみ、ひとつ拾い上げた。指先にまだ新しい手垢が残っている。


「生きてる可能性が上がった?」


「少なくとも、ここを通ったのは最近です」


 ミレイユは頷き、前方を示した。


「行きましょう。声、あっちから聞こえた」


 通路は複雑に枝分かれしていた。本来の地下保管庫にこれほどの構造はないはずだ。増殖している。空間が硝子の像の中で複製され、歪んで伸びているのだろう。


 途中、壁面のあちこちに鏡のような板硝子がはまっていた。それぞれに薄い曇りが走り、時折、こちらではない景色が映る。運河の水面、昼の市場、どこかの屋根裏、見知らぬ部屋。覗き窓のようだった。


「監視でしょうか」


「それとも出口」


「どちらでもありえます」


 オリヴィアは不用意に近づかないよう距離を取る。こうした媒介面は、覗く者の認識を引き込むことがある。


 左手の壁に埋め込まれた丸い硝子に、一瞬だけ人影が浮かんだ。細い肩、癖のある茶髪。フィンに見えた。オリヴィアが足を止めると、影は唇に指を当ててから、すっと消えた。


「見た?」


「はい」


「本人?」


「断定は避けます」


 だが、誘導の意図を感じる。もし擬態なら、こちらを特定の場所へ導こうとしている。本人なら、罠を避けろという合図かもしれない。


 次の曲がり角で、床が急に軋んだ。


「止まってください」


 オリヴィアが腕を出してミレイユを制し、自分だけ半歩前へ出る。光珠をかざすと、床石の継ぎ目に透明な板が何枚も重ねて仕込まれていた。踏み込めば割れ、連鎖して下へ落ちる仕掛けだ。下は暗くて見えない。


「こんなのまで……」


「人間相手の罠です。組んだ者は工房構造に詳しい」


「事故の生き残りか、関係者」


「あるいは模倣犯」


 オリヴィアは杖先で床の一角を軽く叩いた。魔力の流れが反応し、仕掛けの中心が浮かび上がる。透明板同士をつなぐ樹脂接合部。そこを外せば、落下機構は死ぬ。


「解除できますか」


「はい。ただし数秒」


「やって」


 術式は小さい。ミレイユの魔力をほとんど消費せずに済む。オリヴィアは接合部の位相をひとつずつずらし、連鎖を断った。ぱき、ぱき、と乾いた音がして、罠はただの不安定な床へ戻る。


「通れます」


「あなた、本当に何でもできるわね」


「いいえ」


 オリヴィアは素直に否定した。


「私は魔力を持ちませんので、一人では多くを為せません」


 ミレイユが少し黙る。


「……そういえば、そうだった」


「はい」


「だから他人の同意をいちいち取るのね」


「必要です」


「面倒じゃない?」


「必要な面倒は、手順と呼びます」


 その返答に、ミレイユはわずかに目を細めた。何かを言いかけて、結局言わない。そのまま二人は罠を越えた。


     *


 通路の先で、低い唸り声がした。


 獣ではない。喉の奥で空気が軋むような、人の声に近い音。


 角をひとつ曲がると、広い作業室めいた空間に出た。天井が高く、中央に古い研磨台が並ぶ。そのうちのいくつかは硝子の膜に包まれ、中で白い泡のようなものが揺れていた。


 そして床際には、三つの影。


 白く半透明な人型が、うずくまるように集まっている。輪郭は不鮮明だが、手足の本数と頭部の位置から、人間を模しているとわかる。ひとつが顔を上げた。


 目がない。口もない。ただ、曇った硝子越しに人の形を真似ている。


 ミレイユが息を呑む。


「何、あれ」


「固定され損ねた残留像です」


「そんなものが動くの?」


「本来は動きません」


 なら、今ここにいるそれらは、本来ではない。


 白い人型がゆらりと立ち上がった。続いて他の二体も。床に散った硝子粉が、足元から逆立つように浮く。


 敵意。あるいは、接触欲求。


「下がってください」


「言われなくても!」


 オリヴィアは一歩前へ出る。杖先の二股が微かに鳴る。相手は霊体ではない。術式と感情が硝子層へ貼りついて、人型を取っている。斬るより散らす、散らすよりほどく方が早い。


 最初の一体が腕を伸ばしてきた。長い。肘の位置が途中で増え、硝子片を連ねたように軋みながら伸びる。


 オリヴィアは横へ避け、杖の腹でその腕を叩いた。硬いのに柔らかい、不快な感触。叩かれた箇所から波紋が広がり、腕全体が一瞬だけ崩れる。そこへ追撃で短い印を切る。


「還れ」


 調律ではなく、帰属の指定。異物化した感情痕を、本来の静止状態へ押し戻す術。


 白い人型の一体が、しゃり、と音を立てて床へ崩れ、ただの曇りの塊になった。


「一撃……」


「動きの核が単純です」


 だが残る二体は、倒された仲間に反応したかのように、急に速くなった。左右に分かれて挟むように来る。オリヴィアは低く身を沈めて一方の脚を払う。だが触れた瞬間、相手の輪郭が霧散し、代わりに背後の硝子棚から新たな腕が伸びた。


「増えるタイプですか」


「今そこで感想を言うの!?」


「状況整理です」


 ミレイユが金属杖を振る。青白い光帯が走り、棚から伸びた腕を焼き切った。彼女の術は鋭いが、範囲は狭い。記録係と名乗っていたが、戦闘経験がないわけではない。


「核があるなら、そこを言いなさい!」


「光の反射が薄い箇所です。胸部中央付近」


「最初に言って!」


「申し訳ありません」


 言われる前に共有すべき情報だった。オリヴィアは反省する。


 二体目が突進してくる。オリヴィアは横に捌きつつ、胸部へ杖先を差し込むように当てた。エメラルドが光り、内部の核をずらす。白い人型は一拍遅れて全身にひびを走らせ、静かに砕けた。


 最後の一体はミレイユが仕留めた。光帯を一点集中で撃ち込み、胸部の薄い反射を貫く。悲鳴に似た高音を残して、それも崩れ落ちた。


 作業室に静寂が戻る。


「……はあ」


 ミレイユが大きく息を吐く。


「今の、“残留像”ってやつ?」


「はい。おそらく事故や恐怖の強い感情が、術式の異常で活性化しています」


「つまり、ここにはそういうものが山ほどあると」


「可能性は高いです」


「最悪」


 簡潔で的確な感想だった。


 オリヴィアは崩れた白い塊のひとつを観察する。曇りの粒子に、微かな人間の記憶片が混じっている。叫び、熱、逃げる足音。十七年前の事故に由来するものもあるだろうし、最近のものもあるかもしれない。


「誰かが、これを維持し利用している」


「さっきの路地の連中?」


「同一系統でしょう。ただし、末端です」


「上がいる」


「はい」


 その時、作業室の奥から微かな打音がした。


 こん、こん、こん。


 規則的な三回。


 オリヴィアとミレイユは顔を見合わせる。事故報告書の余白にあった文言が、同時に脳裏をよぎった。


**応答音、三回。**


 今度は右側の壁で鳴る。白く曇った縦長の板硝子。その向こうに、ぼんやりと人影が並んでいた。ひとり、ふたり、三人……いや、それ以上。


「中に誰かいる」


 ミレイユが近づこうとするのを、オリヴィアが制した。


「待ってください」


「でも」


「反応が不自然です」


 人影は皆、こちらを向いている。助けを求めているなら、身振りがあるはずだ。だが彼らは静止したまま、ただ三回ごとに板を叩く。


 こん、こん、こん。


 機械的な反復。


「……模倣ですね」


「人間じゃない?」


「少なくとも、全員ではありません」


 その答えとほぼ同時に、板硝子の前の床が割れた。


 ではなく、開いた。


 硝子が液体のように裂け、細い裂け目からひとりの女が姿を現す。


 年の頃は四十前後。痩せて背が高く、灰色の作業衣の上に防水外套を羽織っている。髪はきつく結ばれ、頬はこけ、目だけが異様に澄んでいた。右の手袋だけが分厚い硝子繊維で補強されている。


 女は二人を見て、驚いたようにも焦ったようにも見えない。ただ疲れていた。


「そこで止まりなさい」


 低い声だった。


「これ以上進めば、崩れます」


 ミレイユが金属杖を向ける。


「あなたは誰」


「答える前に一つ。あなたたちは組合の人間ね」


「そうよ」


「なら尚更だ。ここを見てはいけない」


 女の視線がオリヴィアへ移る。


「……でも、あなたは違う。街の術師でもない」


「旅人です」


「そう」


 女はそれ以上、問い返さなかった。妙な納得の仕方だった。


「フィン・ロウをどこへやりましたか」


 オリヴィアが問う。


 女の目がわずかに揺れる。


「生きてるわ」


「場所を」


「言えない」


「なぜ」


「工房長が知るから」


 断片映像と同じ言葉。


 ミレイユが一歩前へ出る。


「その“工房長”って誰なの」


 女は薄く笑った。笑みに近い何かだった。


「今の街で、その呼び名を本気で使う人間はもう少ない。けれど、ここではまだ生きてる。事故の夜からずっと」


「意味がわからない」


「わかる必要もなかったはずよ。上の人たちがきちんと蓋をしていれば」


 その語尾に、はっきりした棘があった。怨み。疲労。長く積もったもの。


「あなたは事故の関係者ですね」


 オリヴィアの言葉に、女は頷いた。


「第七研磨工房、接合主任補佐。名はサラ」


「死んだことになっている」


「行方不明五名のうちの一人よ」


 ミレイユの顔が変わる。驚愕と、理解が追いつかない苛立ち。


「十七年前の行方不明者が、どうしてここにいるの」


「ここが、外より長く持つ場所だったから」


「……は?」


「説明に時間を割けない」


 サラは背後の硝子壁を振り返った。その向こうの人影たちが、相変わらず三回ずつ板を叩いている。だがその反復に、さっきまでなかった乱れが混じり始めた。四回目、五回目。焦れているように。


「もう気づかれてる」


「誰に」


「工房長に」


 言い終えた瞬間、作業室全体が震えた。


 天井から白い粉がぱらぱらと降る。壁の板硝子という板硝子に、一斉にひびのような光が走った。遠くで何か巨大なものが軋む音。空間そのものが呼吸したような、低い脈動。


 サラの顔からわずかに血の気が引く。


「遅かった……」


 ミレイユが叫ぶ。


「何が来るの!」


「この場所を維持している核。事故で壊れたはずの炉心に、人の意識が絡みついて育ったもの。職人たちの執着と街の術式を食って、ずっと」


 サラはオリヴィアを見る。


「あなた、空間を触れるでしょう」


 問いではなく、確信めいた言い方だった。


「少々」


「少々で済む顔じゃないわね」


 ミレイユが半ば呆れ、半ば諦めたように言う。


 サラは一歩近づき、早口になった。


「少年はまだ生きてる。泣く硝子に適性が高かったから、すぐには呑まれていない。けれど時間がない。工房長は最近、外の人間を集め始めた。足りない部材を補うためよ」


「部材」


「人を、ですか」


 オリヴィアが平坦に問うと、サラは苦い顔で頷いた。


「正確には、人の持つ“形を保とうとする意志”。硝子は形を与えれば保つでしょう。でも割れもする。だから工房長は、街じゅうの硝子網に自分を繋ぎ続けるために、人の意志を補強材にしてる」


 理解しがたいが、筋は通る。都市規模の術式基盤に寄生し、維持材として人の精神性を利用する。だから硝子が泣き、人が消える。


「……最低ね」


 ミレイユの声は低かった。


「ええ」


 サラは同意したが、その表情は単純な嫌悪だけではない。後悔が混じっていた。


「でも最初は違った。閉じ込められた者同士で外へ帰る出口を探していた。私たちは工房長に従った。外の術式に繋ぎ直せば助かると信じて。けれど途中で、あれは帰ることより残ることを選んだ」


「あなたは反対した」


「したわ。遅かったけど」


 脈動がまた一つ、空間を揺らした。今度は強い。作業台の上の硝子膜が割れずに波打ち、中の白泡がざわめく。壁の向こうの人影たちが一斉にこちらを向き、同時に口のない顔を開いたような錯覚が走った。


 声が聞こえる。


 男。女。老人。子ども。何十もの囁きが重なって、言葉にならないまま押し寄せる。


 ミレイユがこめかみを押さえた。


「う、るさい……」


「耳を塞いでも効果は薄いです」


 オリヴィアは即座に、簡易遮断の術を展開した。ミレイユを包むように薄い膜を張る。借りた魔力が少し減る。


 囁きが一歩遠のいた。


「助かる」


「無理をなさらず」


「あなたもね」


 サラが短く手を振る。


「こっち。少年のところへ案内する。けど工房長と正面からやり合う気ならやめなさい。核はこの空間そのものに散ってる。壊すなら“街との接続”を切るしかない」


「接続点は」


「旧炉心。地下最深部」


 作業室の奥、さらに下へ続く階段が見えた。暗く、狭く、白い光が脈動している。


 オリヴィアは一瞬だけ考える。


 フィンの救出を優先するか、旧炉心の遮断を先に試みるか。理想は同時並行だが、人数が足りない。


 ミレイユが先に口を開いた。


「オリヴィア。どうする」


「選択肢は三つです」


「今言って」


「一つ、全員で少年を救出。その後、工房長と接触。二つ、全員で旧炉心へ直行し接続を断つ。三つ、分担」


「三つ目は却下」


 ミレイユが即座に言う。


「あなた、一人で危険地帯に行く気でしょ」


「可能性としては」


「却下」


 サラが訝しげに二人を見る。


「仲がいいのか悪いのかわからないわね」


「信頼関係の構築中です」


「その言い方、報告書みたい」


「実態に近いので」


 ミレイユが額を押さえる。だが少しだけ、口元が緩んでいた。


「少年を先に」


 彼女はきっぱり言った。


「生きてるなら、まず助ける。その後で切る」


「合理性はやや落ちます」


「でもそれがいい」


 オリヴィアは彼女を見た。灰色の瞳は迷っていない。


 助けられる命を先に取る。街全体の被害計算だけなら別の答えもある。だがオリヴィアは、その答えが嫌いではなかった。


「承知しました」


「よし」


 サラが短く頷く。


「なら走って。ここから先は工房長の目が濃い」


     *


 階段の下は、さらに歪んでいた。


 石の通路に見えて、時折足元が透明になる。下には別の廊下が重なって見え、そのまた下に水のような光が揺れる。上も下も定かでない。サラが迷いなく進むのは、十七年ここで生き延びてきたからだろう。


「あなたはなぜ外に出なかったのですか」


 走りながらオリヴィアが問う。


 サラは前を向いたまま答える。


「何度も試した。でも“外の私”はとっくに死んだことになってる。ここから半端に戻ると、身体の整合が崩れる者もいた」


「整合」


「こちら側に長くいると、硝子の法に馴染みすぎるの。外へ出るには、元の肉体と時間に再接続しなきゃならない。でも事故の夜から十七年経ってる。失敗すれば砕ける」


 ミレイユが低く呟く。


「そんなこと、誰も……」


「知ろうとしなかった」


 サラの声は責めるようでいて、どこか諦めていた。


「だから私はここに残った。少なくとも、完全に呑まれる人間を減らせるうちは」


「フィンも?」


「ええ。けど連れ去ったのは私じゃない。下の連中が勝手に動いた。工房長に差し出せば褒美が出るから」


「褒美」


「硝子の中で長く保てる“形”。ここではそれが何より貴重なの」


 気の遠くなる話だった。存在が曖昧になる場所で、輪郭を保つために他者を差し出す。閉じた環境で倫理が摩耗した結果としては、ありふれているのかもしれない。


 やがて通路が開け、小部屋に出た。


 中央に、硝子の繭のようなものが吊られている。天井から幾筋もの透明な線が降り、その先で卵形の塊を形作っていた。内側に、人影がある。


 フィンだった。


「フィン・ロウ」


 オリヴィアが呼ぶと、少年の瞼がわずかに動いた。まだ意識がある。


「……オリヴィア、さん……?」


「はい。迎えに来ました」


「本当に……?」


「はい」


 真面目に答えると、フィンの口元が少しだけ笑う。力のない笑みだ。


「よかった……変な夢かと……」


 ミレイユが周囲を警戒しながら言う。


「解ける?」


 オリヴィアは繭を見上げた。硝子というより、粘性を持った光の糸だ。街の基盤術式と直接つながっている。乱暴に切ればフィンごと砕ける。


「慎重に行えば」


「時間は?」


「一分」


「長い」


「短縮すると危険です」


 サラが背後を振り返る。


「急いで。追いつかれる」


 遠くから、何か重いものが床を擦る音が近づいていた。一定ではない。歩行ではなく、巨大なものが引きずられてくるような音。


 ミレイユが金属杖を構える。


「一分、稼ぐ」


「ありがとうございます」


 オリヴィアは繭の真下に立ち、杖を両手で支える。エメラルドが深く灯った。ミレイユから借りた魔力を細く削り、糸の一本一本へ触れる。強く切るのではなく、繋がりの先をずらす。街と繭、繭とフィン、その間にある不要な固定を解く。


「怖いなら目を閉じていてください」


「……結構、怖いです」


「そうでしょうね」


「否定してくれないんだ……」


「誠実であろうとしています」


 フィンが弱々しく笑った。その間にも、糸は一本ずつほどけていく。四本、七本、十一本。


 しかし、重い音はもうすぐそこだった。


 部屋の入口の硝子面が膨らみ、白い手が何本も突き出る。人の手、職人の手、骨ばった手、幼い手。全部が混ざっている。ミレイユが光帯で焼き払うが、次々に生えてくる。


「きりがない!」


「あと三十秒です」


「その三十秒が長いって言ってるの!」


 サラも補助に入った。補強された右手袋を硝子面に叩きつけると、そこだけひびが散り、伸びてきた手が数本まとめて崩れる。彼女は荒い息の間に吐き捨てる。


「工房長は、自分で来る前にまず壁を使う……!」


「自分で来た場合は」


「もっと悪い」


 簡潔だった。


 次の瞬間、部屋全体の光が暗くなった。


 奥の壁一面が、巨大な鏡のように黒く染まる。そこに、男の輪郭がゆっくり浮かび上がった。


 背の高い作業着姿。顔は曇って見えない。だが胸元には、工房長章らしい古い硝子の徽章がある。姿はぼやけているのに、その徽章だけが妙に鮮明だった。


 声が、あらゆる壁面から同時に響く。


「まだ、連れていくのか」


 低く、乾いた声。


 サラの顔が強張る。


「工房長……」


「サラ。おまえはいつも、途中で計算を狂わせる」


「人を材料と呼ぶ計算なら、狂って当然よ」


「材料ではない。支柱だ」


「言い換えただけ」


 黒い鏡の中の男は、ゆっくり首を傾げた。


「街は忘れた。ならばこちらが支えるしかない。泣く硝子は警告だ。上は耳を塞いだ。ならば下で持たせる」


 ミレイユが吐き捨てる。


「持たせるために人を呑むの?」


「少数で多数を保つ。それが工房の仕事だ」


「狂ってる」


「職人の言葉としては、褒め言葉だな」


 オリヴィアは黙って作業を続ける。会話に割く余裕はない。糸は残り五本。だが黒い鏡の男――工房長――の出現によって、繭全体の張力が増している。


「旅人」


 不意に、男の声がオリヴィアへ向く。


「おまえは空だな」


 オリヴィアの指が、ほんのわずか止まった。


「何のことでしょう」


「中身のない器。だから境を渡れる。羨ましい」


 ミレイユが怪訝な顔をする。サラも目を細めた。


 オリヴィアはそれ以上反応せず、糸を一本外す。


「私には、あなたの羨望に応じる義理がありません」


「ならば、ここに残れ。空の器なら、どれほどの接続材になる」


「お断りします」


「即答だな」


「平和を好みますので」


 部屋が一瞬、静かになった。


 工房長が笑ったのかもしれない。曇った顔の輪郭が微かに揺れた。


「なら、平和に埋め込んでやろう」


 黒い鏡から、太い腕のようなものが突き出した。人の形をしているが、肘から先が無数の硝子管に分かれている。床も壁も無視して、まっすぐオリヴィアへ伸びる。


「オリヴィア!」


 ミレイユが叫ぶ。


 残り三本。中断すればフィンは繭ごと固定される。続ければ防御が遅れる。


 オリヴィアは一瞬だけ考え、結論を出した。


「続行します」


「馬鹿!」


 ミレイユが飛び込み、金属杖を横薙ぎに振るった。光帯が腕を切り裂く。だが切断面から新しい管が増殖し、彼女ごと呑もうとする。


 サラが右手袋で割り込み、管の束を受け止める。分厚い硝子繊維が軋み、彼女の腕が震えた。


「早く!」


「あと二本」


 オリヴィアは最後の集中をかける。エメラルドが強く灯り、琥珀の水晶の光が目に見えて減った。ミレイユの魔力が急速に消費される。


 一本。


 最後の一本。


「解除」


 繭が、静かにほどけた。


 フィンの身体が落ちる。オリヴィアは片手を伸ばし、どうにか受け止めた。軽い。冷えているが、息はある。


「ミレイユさん」


「わかってる!」


 彼女が歯を食いしばり、光帯を最大出力で放つ。サラも同時に硝子面を叩き砕き、二人が工房長の腕を押し返す。黒い鏡に大きなひびが走った。


 だが、完全には退かない。


 工房長の声が、部屋じゅうから響く。


「逃がすな」


 その一言で、周囲の壁という壁が曇り、無数の白い顔が浮かぶ。追跡が来る。


 ミレイユが振り向いた。


「撤退!」


「同意します」


 オリヴィアはフィンを抱え直す。彼は意識朦朧としているが、かろうじて首に腕を回した。


 サラが部屋の奥の狭い通路を指す。


「こっち! 外へ近い抜け道がある!」


 四人は走り出した。


 背後で黒い鏡が割れ、工房長の低い笑い声とも怒りともつかない音が追ってくる。通路の硝子面という硝子面に、白い手が這い、ひびが走り、空間が軋む。


 フィンがかすれた声で言った。


「……ごめん、俺、変なもの、見ちゃって……」


「後で聞きます。今は喋らなくて構いません」


「うん……でも、オリヴィアさん」


「はい」


「塔の、硝子……」


 彼の息が乱れる。言葉が途切れ途切れになる。


「あれ……泣いてるんじゃ、なくて……」


 オリヴィアは走りながら耳を寄せた。


 フィンの唇が、震える。


「……外へ、出ようとしてる」


 その瞬間、通路の先の壁が一面、青白く光った。


 出口ではない。


 巨大な円形の硝子が、道を塞ぐように現れていた。塔の聖遺物に似た紋様が、その表面に浮かんでいる。


 ミレイユの顔色が変わる。


「まさか、接続点がもうここまで……!」


 逃げ道が、塞がれていた。

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