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2話「星屑の路地」

 光の糸は、雨の中でも消えなかった。


 青い星形の硝子片から伸びるそれは、細く頼りない。少しでも視線を逸らせば見失いそうで、それでいて確かに、ある方向を指していた。オリヴィアは杖を片手に、濡れた石畳を急ぐ。


 夜の硝子街は、昼とは別の街だった。


 窓辺に吊られた色硝子の灯りが雨粒を受けて滲み、赤や青や金の色が路面に溶けている。運河沿いの欄干には磨かれた板硝子が嵌まり、揺れる水面を細かく反射して、歩く者の輪郭を何重にもぼかしていた。人通りは減っていたが、完全に絶えたわけではない。外套を寄せて帰路を急ぐ者、荷車を引く夜商いの男、酒場の軒下で煙草に火をつける女。誰もが雨を気にして足早だ。


 その中を、オリヴィアは目立たぬ速度で進んだ。


 加護があるとはいえ、走ればさすがに視線を集める。必要以上の注目は避けるべきだった。だから彼女は、一見すれば少し急ぎ足の旅人程度に見える速度を守る。その代わり、頭の中では複数の可能性を同時に並べていた。


 フィンが自力でこの硝子片を残したのか。何者かが意図的に彼の持ち物を使って誘導しているのか。あるいは、硝子そのものが記録媒体として機能し、接触者の痕跡を引いているのか。


 光の糸は中央区を避けるように、運河の枝流れ沿いへ折れた。表通りの明るさが次第に薄くなる。店の看板も減り、代わりに工房の裏口や資材置き場、煤けた倉庫が増えていく。


 やがて、街の喧騒が一段遠くなった。


 そこは細い裏路地だった。


 両脇の建物は高く、上を見上げても雨空は細い裂け目ほどしか見えない。排水樋を伝う水が、断続的に落ちてくる。足元には、砕けた硝子片が星屑のように散っていた。色のついたもの、透明なもの、曇ったもの。誰かが故意に撒いたかのような量だ。


 光の糸は、その路地の奥で途切れていた。


 正確には、途切れたように見えた。


 オリヴィアは歩みを止め、周囲を見渡す。右に煉瓦の壁、左に木扉の並ぶ倉庫。突き当たりには古い排水口と、使われていない荷揚げ用の滑車。人の気配はない。


 だが、静かすぎた。


 雨音は上からする。路地の外からは遠く車輪の軋みが聞こえる。なのに、この場所だけ音が薄い。まるで、何かに吸われているように。


 オリヴィアは膝を折り、散らばる硝子片のひとつを拾い上げた。透明な欠片。縁は鋭いが、切断面が妙に滑らかだ。新しい破片ではない。古いものに、ほんのわずか術式の残滓がこびりついている。


「……誘導用の配置」


 誰かがこの場所へ導くために、硝子の痕跡を並べた可能性が高い。


 だとすれば、待ち伏せも考慮すべきだ。


 オリヴィアは杖の石突を地に軽く打ちつけた。琥珀の水晶の内側で、借り受けた魔力が小さく回る。簡易感知術式。地面、壁、空間の継ぎ目。反応を探る。


 左前方、倉庫の扉の裏にひとつ。


 上、二階の張り出し窓の陰にひとつ。


 それから、正面の壁面そのものに、薄く広がる異常。


「三名、でしょうか」


 オリヴィアが静かに言うと、すぐに返事は来なかった。


 しかし三秒ほどして、倉庫の扉が軋み、男がひとり出てきた。厚手の革外套、顔の下半分を布で覆っている。次いで上方の張り出し窓から、短弓を持った細身の影。最後に、正面の煉瓦壁に埋め込まれた古い窓硝子の中に、ぬるりと人影が立ち上がった。


 硝子の中の影だけが、現実離れしていた。


「勘のいいお嬢さんだ」


 外套の男が言う。


「お褒めいただき恐縮です」


「落ち着いてるな」


「逃げる余地が少ないので、慌てても効率が悪いと判断しました」


 男は少し黙ったあと、「変わってるな」と呟いた。


 上の弓持ちが舌打ちする。


「さっさと杖を置け。そっちが素直なら、こっちも乱暴はしない」


「その発言を信じる根拠がありません」


「信じるかどうかはお前の勝手だ」


「ならば、私の判断も私の勝手です」


 オリヴィアは杖を下ろさない。


 相手は三名。うち二名は人間、ひとつは硝子を媒介にした投射か使い魔。問題は魔力残量だ。ミレイユから借りた分では、広範囲制圧は不可能。精密な妨害と離脱を狙うべきだろう。


 外套の男が一歩前へ出る。


「その青い欠片を置いていけ。そしたら見逃す」


「これはあなた方の所有物ですか」


「質問してる立場か?」


「はい。情報は重要ですので」


 男の眉が動いた。面倒な相手を見る目だった。


 そのとき、硝子の中の影が、ぴたりとオリヴィアへ顔を向けた。顔といっても輪郭しかない白い塊だが、視線を向けられた感覚があった。ぞっとするほど濡れた冷気が路地を這う。


「その子を返していただけませんか」


 オリヴィアは青い星形を握ったまま言った。


「フィン・ロウ。ご存じでしょう」


「知らんな」


「即答ですね」


「知らんものは知らん」


「では、その硝子の中にいるものは何ですか」


 上の弓持ちが苛立ったように叫ぶ。


「うるせえな! やれ!」


 矢が放たれた。


 オリヴィアは半歩だけ退き、杖の柄で矢を払う。矢尻が石畳で火花を散らした。ほぼ同時に、外套の男が懐から短い棒状の器具を投げる。地面に落ちたそれが割れ、白い煙が弾けた。


 煙幕。だがただの煙ではない。硝子粉が混じっている。吸えば喉を傷める。


 オリヴィアはケープの襟を少し上げ、足元に簡易風除けの印を切った。借りた魔力がわずかに減る。渦の中心だけ煙が逸れた。


 その隙に、硝子の影が壁から伸びた。


 液体のように薄い腕が、路地を渡って彼女の足首を掴もうとする。オリヴィアは杖先のエメラルドを一閃させ、調律術式を叩き込んだ。異物化した硝子の位相をほんの少しずらす。影の腕が、ぎち、と不快な音を立てて空間から外れた。


 外套の男が息を呑む。


「何だ、それ……!」


「調律です」


「意味がわからん!」


「私にも、この世界で説明すると少々難しいです」


 本心だった。


 オリヴィアは煙の薄い側へ体を滑らせ、路地の壁へ寄る。正面突破は避けたい。相手の目的は青い欠片の回収であり、殺害ではなさそうだが、油断できない。


 上から二射目。今度は矢に細い糸がついていた。拘束用らしい。オリヴィアは石突で路面を叩き、散乱する硝子片を跳ね上げる。小さな破片が矢道を乱し、矢は壁へ逸れた。


 その一瞬で、外套の男が距離を詰める。手には短剣。訓練は受けているが、専門の戦闘職ではない。重心の置き方に迷いがある。


 オリヴィアは男の手首の内側へ杖を滑り込ませ、捻って短剣を落とさせた。続けて柄尻で鳩尾を軽く打つ。殺傷ではなく、呼吸を止める程度。男が呻いて膝をつく。


「申し訳ありません」


「謝るなら……やるな……!」


「それは困ります」


 真面目な返答に、男は余計に苦しそうな顔をした。


 だが、その間に硝子の影が増えていた。


 路地の窓、扉の小窓、雨樋の受け皿に嵌められた小さな装飾硝子。あらゆる反射面から白い輪郭が滲み出し、四方からじわじわと距離を詰めてくる。実体は薄いが、数が多い。


 オリヴィアは瞬時に計算した。


 残魔力では一斉排除は難しい。撤退が妥当。だがフィンの痕跡はここで切れている。何か手掛かりを拾ってから下がりたい。


 彼女は青い星形を杖先のエメラルドに近づけた。


「記録再生、最低出力」


 硝子片に残る感情痕を一時的に可視化する。危険な賭けだった。借りた魔力に無理をさせれば、術式が乱れる。だが今は必要だ。


 青い欠片が淡く発光した。


 視界の端に、断片的な像が流れ込む。


 フィンの手。濡れた路地。誰かに肩を掴まれる感触。抵抗。落とされた木箱。散る硝子細工。白く曇る壁面。そこに開く、扉のような縦長の裂け目。硝子の内側へ引き込まれる浮遊感。恐怖。


 そして最後に、低い女の声。


――「急いで。『工房長』に見つかる前に」


 映像はそこで切れた。


「女……?」


 オリヴィアが呟いたその瞬間、路地の奥から別の声が飛んだ。


「全員、伏せなさい!」


 鋭い女声。次いで、強い白光。


 オリヴィアは反射的に目を閉じ、身を低くした。上空から降った光の帯が、路地じゅうの硝子面を一斉に叩く。甲高い共鳴音。白い影たちが悲鳴のような軋みを立てて引き裂かれ、窓や装飾片の中へ押し戻された。


 煙が流れ、視界が開ける。


 路地の入口に立っていたのは、長い防水外套を羽織ったミレイユだった。片手に持つ細身の金属杖の先端で、青白い火花が跳ねている。昼間の記録係とは思えない手際だった。


「無事?」


「概ね」


「概ねって顔じゃないけど」


「少々息苦しい程度です」


 ミレイユは素早く周囲を確認する。上の弓持ちは既に姿を消していた。外套の男も、うずくまりながら後退し、裏口へ逃げ込んでいる。追うには遅い。


「ちっ、逃がした」


「来ていただき助かりました」


「感謝はあと。聞きたいことが山ほどあるわ」


「こちらもです」


 オリヴィアは頷き、床に落ちた短剣や煙幕の残骸に目を向けた。ミレイユも視線を追う。


「組合製じゃない。非正規の硝子加工屋か、横流し品ね」


「彼らは青い欠片の回収を優先していました」


「その欠片、見せて」


 オリヴィアは少しだけ迷ってから、手の内を開いた。ミレイユは欠片を一瞥し、顔色を変える。


「……それ、星屑印」


「ご存じですか」


「下層の屋台連中がよく使う意匠よ。大量生産の土産物。でも、印の切り方が少し違う」


 彼女は指先で星の縁を示した。


「これ、工房組合の正式流通じゃない。旧式の刻印。十年近く前に閉鎖された工房の癖だわ」


「閉鎖された理由は」


「事故」


 短い答えだったが、その語尾は硬かった。


「どのような」


「硝子に人が呑まれた、って噂になった」


 雨音が、やけに大きく聞こえた。


 オリヴィアは無言で青い欠片を見下ろす。さきほどの断片映像、白く開いた裂け目、引き込まれる感覚。その話と綺麗につながる。


「迷信で片づいた話だと思ってた。でも今のを見る限り……」


 ミレイユは言葉を切った。


 オリヴィアは路地の正面、白い影が最初に立ち上がった古い窓へ近づく。曇った板硝子の表面には、細かな傷が蜘蛛の巣のように走っている。だが物理的な破損ではない。術式の焼け跡だ。


「ここに出入口の痕跡があります」


「出入口」


「空間転移と呼ぶほど完成度は高くありません。媒介面を一時的に通路化しています」


「……さらっと恐ろしいこと言うわね」


「恐ろしいことではあります」


 ミレイユは額を押さえた。


「明日の朝まで待てないわね、これは」


「同感です」


 彼女は少し苛立ったようにオリヴィアを見る。


「あなた、どうしてこんな場所に先回りできたの」


「フィン・ロウの痕跡です」


「昼間の屋台の子?」


「おそらく異変に巻き込まれました」


「おそらく、で夜中に単独突入したの?」


「はい」


「無茶をするタイプ?」


「必要があれば」


「自覚がないのが一番厄介ね」


 オリヴィアは事実を述べただけだったのだが、どうも叱られているらしい。


「あなたこそ、なぜここへ」


「宿に寄ったら、店主が『あんたの連れみたいなのが飛び出していった』って。連れじゃないって否定する時間が惜しくて追ってきたの」


「ご迷惑をおかけしました」


「本当にそう思うなら、次は最低でも一言残して」


「善処ではなく実行いたします」


「そこは信用していいのかしら」


「努力します」


「不安になる返しやめて」


 ミレイユはため息をつく。だが目元には、先ほどの戦闘の緊張がまだ残っていた。


 彼女は路地の入口へ向かって、低く口笛を吹いた。少しして、暗がりから細い人影がひとつ現れる。まだ若い、組合の下働きらしい青年だった。


「ラウル。衛士にはまだ知らせない。先に記録庫を開ける準備。あと、この区画の閉鎖理由が載ってる古い事故報告書、全部出して」


「全部ですか?」


「全部」


 青年はオリヴィアをちらりと見たが、何も言わずに頷き、駆け去った。


「信用されているのですね」


「こき使ってるだけよ」


「それは信用の一形態かと」


 ミレイユは返事をせず、逆に問い返した。


「さっき、何か見たんでしょ。その欠片で」


「ええ。断片的ですが」


「話して」


 オリヴィアは見たものを簡潔に伝えた。フィンが路地で襲われ、硝子の裂け目に引き込まれたこと。そこに女の声があったこと。『工房長に見つかる前に』という文言。


 ミレイユは聞き終えると、しばらく黙った。


「工房長……」


「心当たりが」


「組合では工房主をそう呼ぶことがある。でも今どきは古い言い方ね。年配の職人か、閉鎖された古い系譜の連中か」


「先ほどの旧式刻印と符合します」


「ええ」


 ミレイユは古窓に触れかけて、やめた。


「硝子に呑まれた事故っていうのは、正確には『第七研磨工房の炉心崩落』。十七年前。死者三名、行方不明五名。記録上はそうなってる」


「行方不明」


「遺体が出なかっただけかもしれない。けど、昔から街では変な噂があった。硝子の向こう側に空間がある、呑まれた人間はそこで生きてる、泣く硝子は助けを求める声だ、とか」


「迷信として処理された」


「そう。だって、そんなの真面目に取り合ってたら街が回らないもの」


 それはひどく現実的な言葉だった。


 どれほど不穏な噂があろうと、人は仕事をし、食べ、眠り、翌日を始める。そのために、理解しきれないものへ蓋をする。珍しいことではない。


 オリヴィアは路地の上を見上げた。細い空から、雨が落ちてくる。


「今夜のうちに第七研磨工房跡地へ行けますか」


 ミレイユが顔をしかめる。


「本気?」


「時間経過は痕跡を薄めます」


「夜中の廃工房、硝子の怪異、正体不明の連中。あなた、危険って言葉に何か恨みでもあるの?」


「特にはありません」


「ならもう少し遠慮して」


「しかしフィン・ロウの生存可能性を考えると」


「……わかってるわよ」


 ミレイユは少しだけ目を閉じ、考える。そして決めたらしい。


「行く。ただし準備をしてから。私は記録庫で位置と構造図を取る。あなたは宿に戻って装備を整えて。あと」


「はい」


「単独で先に向かわないこと」


「承知しました」


「本当に?」


「本当です」


「顔が信用しづらい」


「遺憾です」


 ミレイユが吹き出した。


 雨の路地で笑うには不釣り合いな場面だったが、その一瞬だけ張りつめた空気が緩む。オリヴィアは、自分が何かおかしなことを言ったのだろうかと少し考えたが、よくわからなかった。


     *


 記録庫は、組合本館の裏手にあった。


 時刻はもう深夜に近い。通常なら灯りが落ちているはずだが、今夜は二階の一室だけが明るい。オリヴィアが到着した時には、すでにラウルが何冊もの台帳や地図を机に並べ、ミレイユが乱暴な速さで頁を繰っていた。


「早いわね」


「約束を守りました」


「それは褒める」


 オリヴィアは机へ近づく。紙の匂い、インクの乾いた匂い、古い木箱の匂い。その中に、ごくわずかだが硝子粉の冷たさが混じっている。


「第七研磨工房は旧河岸区の端。今は立入禁止区域になってる」


 ミレイユが地図上を指で叩く。運河の支流が大きく湾曲した先、現在地から歩いて三十分ほどの場所だ。周辺に現役工房は少なく、倉庫群と廃屋が多い。


「炉心崩落の後、地盤が不安定になったって名目で封鎖。でも実際には……見て」


 彼女は事故報告書の写しを示した。


 紙面には、当時の調査官による簡潔すぎる記述が並ぶ。高熱。破裂。硝子塵の噴出。視界不良。行方不明者の捜索不能。封鎖推奨。


 その余白に、別人のものらしい書き込みがあった。


**「壁面硝子に不自然な残響あり。応答音、三回。内部に空洞?」**


 書き込みは後から黒く塗りつぶされ、判読しづらくなっている。だが消しきれていない。


「隠蔽ですか」


「大げさに言えばね。小さく言えば、面倒の先送り」


「本質的には同じかと」


「同じね」


 ラウルが別の箱を持ってくる。


「ミレイユさん、これも。事故の前後に失踪した下請け職人の届け出です」


 ミレイユが受け取り、目を通す。眉間にしわが寄る。


「多い……」


「最近の失踪と重なりますか」


「直接じゃない。でも職種が似てる。研磨、接合、細工、搬送。硝子の流れを知ってる人間ばかり」


「無作為ではない」


「ええ」


 オリヴィアは台帳の隅に挟まっていた薄紙を引き出した。粗い手描きの見取り図。第七研磨工房の地下区画まで記されている。


「地下があります」


「研磨粉と素材の保管庫。事故後は埋めたはずだけど」


「埋めた、ではなく『埋めたことにした』可能性は」


「ある」


 ミレイユは即答した。


「うちの街、見栄と沈黙で保ってる部分があるから」


「率直ですね」


「嫌いなのよ、そういうの」


 その言い方に、オリヴィアは少しだけ彼女を見た。昼間、窓の異変に魔力を貸した時にも感じたが、この女性は正確さを好む。曖昧なまま蓋をすることに耐えにくい質だ。魔力の性質とも一致する。


 相性は悪くないかもしれない、とオリヴィアは思った。


「オリヴィア」


「はい」


「あなた、戦えるのはわかった。でも魔力が足りてないんでしょう」


「はい」


「どのくらい必要?」


「何を想定するかによります。索敵、結界、切断、調律、保護。最低限なら中級術者一名分で十分ですが、余裕は少ないでしょう」


「つまり、私一人でも足しになる」


「かなり」


 ミレイユは少し迷う顔をしたあと、机の端に置いてあった革手袋をはめ直した。


「なら正式に貸す。条件は二つ。無駄遣いしないこと、私の許可なく命を削るような術式に使わないこと」


「承知しました」


「命を削る術式ってあるの?」


 ラウルが青ざめて聞く。


「理論上は」


 オリヴィアが答えると、ミレイユが即座に付け足した。


「今は使わせない」


「その方針に賛成します」


「そこは賛成しなくていいの」


 ラウルは二人を見比べて、何とも言えない顔になった。


 魔力の受け渡しは記録庫の隅で行われた。明かりの下、オリヴィアがスタッフを膝の上に置き、ミレイユが向かいの椅子に座る。


「言っておくけど、私は専門の供給役じゃないから」


「問題ありません。必要なのは同意と接続の安定です」


「変な感じはする?」


「多少。ですが調整できます」


「便利ね、その杖」


 オリヴィアは無言で頷く。スタッフの琥珀色の水晶に、ミレイユの魔力がゆっくりと流れ込む。先ほどの即席より、今度はずっと滑らかだった。彼女が意識的に協力しているためだろう。


 冷たい鉄のような魔力。だが中心には、消えにくい炉の熱がある。記録係という肩書だけでは測れない、粘り強さ。


 琥珀の水晶の内側に、淡い光が幾筋も積もった。


「十分です。ありがとうございます」


「……何だか吸われたっていうより、整えられた感じね」


「変換の過程で雑味を除いています」


「雑味って言い方、ちょっと引っかかるわ」


「失礼しました。不要な揺らぎです」


「もっと引っかかる」


 オリヴィアは本気で言い換えたのだが、ミレイユは頭を抱えた。


     *


 旧河岸区へ向かう道は暗かった。


 表通りの華やかな色硝子灯は減り、雨に濡れた倉庫の壁が沈んだように並ぶ。時折、遠い運河の上を渡る船灯りが鈍く揺れるだけだ。ミレイユは携帯用の光珠をひとつ持っていたが、必要以上に目立たぬよう、布で覆って明度を絞っている。


 ラウルは連れていかなかった。本人は行きたそうだったが、ミレイユが即座に却下した。


「若いのを危険地帯に連れ込む趣味はないの」


 そう言った彼女の声に迷いはなかった。


 今は、オリヴィアとミレイユの二人だけだ。


 歩きながら、オリヴィアは青い星形の硝子片を再度確認する。反応は弱くなっているが、まだ完全には途切れていない。方角は第七研磨工房と一致していた。


「先ほどの連中、組合員ではないのでしょうか」


 オリヴィアが問うと、ミレイユは少し考えてから答えた。


「少なくとも表向きにはね。組合所属ならあんな雑な襲い方はしない」


「裏では」


「……いても不思議じゃない」


 雨がケープの縁を濡らす。オリヴィアは足元に注意しながら進む。


「この街では、硝子は生活と防衛の基盤なのですよね」


「そうよ」


「それが異常を起こし、人が呑まれるという話が事実なら、街の根幹を揺るがします」


「だからこそ隠したい人間もいる」


「あなたは隠したくない」


 ミレイユはふっと息を吐いた。


「嫌いなのよ。見ないふりして、あとで大きく壊れるの」


「私も、あまり好みません」


「“あまり”なのね」


「好み以前に、被害が増えますので」


「そういうところ、ものすごく実務的」


「褒め言葉として受け取ります」


「ええ、褒めてる」


 会話が途切れる。だが気まずさはなかった。雨音がその隙間を埋める。


 やがて、二人の前に黒い建物が現れた。


 第七研磨工房跡地。


 運河から少し離れた、三階建ての煉瓦建築。大きな煙突は途中で折れ、窓のほとんどが板で打ちつけられている。正面門には古びた封鎖印。雨に打たれすぎて文字が滲み、形だけになっていた。


 しかし、その敷地の空気は明らかに異常だった。


 冷たい。音がこもる。板打ちされた窓の隙間から、ごく淡い青白い光が時折滲む。


「本当に入るのね」


 ミレイユが低く言う。


「はい」


「確認だけど、慎重に行くのよ」


「はい」


「単独行動なし」


「はい」


「返事だけは完璧ね」


「事実ですので」


 ミレイユは苦笑し、封鎖印に手をかけた。


 オリヴィアはその前にしゃがみ込み、印章の残滓を確認する。封鎖術式はとっくに死んでいる。だが、別の開閉痕が新しい。最近、誰かが出入りした。


「破ります」


「お願い」


 オリヴィアは杖先のエメラルドを封印線へ滑らせる。調律。古い術式と現在の街法則のズレを揃え、鍵穴のように合わせる。青白い火花が一瞬だけ散り、封鎖印が乾いた紙のように裂けた。


「便利すぎる……」


「ありがとうございます」


「感心してるけど警戒もしてる」


「それは健全です」


 門がきしんで開く。


 内部は、外から見るより広かった。石敷きの中庭。雨水を溜めた樽。錆びた運搬車。建物の正面扉は半開きで、暗がりの中に硝子粉の白い筋がうっすら続いている。


 フィンがここへ連れてこられたのか。


 オリヴィアは杖を握り直した。


 助けを求めるように窓へ貼りついた、あの顔を思い出す。幻視や擬態の可能性はある。だがもし本当に彼なら、時間は惜しい。


「行きましょう」


 ミレイユが頷く。


 二人は扉の内側へ足を踏み入れた。


 途端、背後で門が、ひとりでに閉まる音がした。


 振り返るより早く、工房の奥――地下へ続くと思しき暗い廊下の向こうから、かすかな声が響く。


「……オリヴィアさん」


 少年の声だった。


 フィンの声に、よく似ていた。


 ミレイユが息を呑む。


 オリヴィアは目を細め、闇の先を見据える。


 それは救難信号か、誘い罠か。まだわからない。


 だが、硝子街の涙は確かに、ここへ続いていた。

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