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1話「雨の神託」

 神託は、いつも唐突だった。


 目を閉じれば瞼の裏に文字が浮かぶ、というような詩的なものではない。実際には、静かな白い空間に立たされて、どこからともなく声がして、たった一文だけ告げられる。それだけだ。質問は許されず、補足もない。神々は忙しいのか不親切なのか、その両方なのかもしれない。


 その日、オリヴィア・エスメラルダが聞いた一文は、こうだった。


――**「割れぬはずの硝子が、泣いている。」**


 それだけである。


「情報が少なすぎます」


 オリヴィアはいつものように抗議した。声は平坦で、顔もあまり動かない。何も知らない者が見れば、苛立ちすら感じていないように思うだろう。実際には、ほんの少し困っていた。


 返事はない。


 白い空間の床に、薄く波紋のような光が広がる。それが転移の合図だった。


「せめて、気候程度は」


 最後まで言い終える前に、世界が反転した。


     *


 最初に感じたのは、湿り気だった。


 雨の匂い。金属の冷え。煤けた石畳。次いで、無数の色彩が目に入る。空は暗い灰色なのに、街路のあちこちが奇妙に明るい。看板、窓、街灯、陳列棚、果ては排水溝の縁にまで、硝子が嵌め込まれている。赤、青、緑、金。濡れた表面が雨粒を弾き、曇天の光を細かく砕いていた。


 オリヴィアは石造りのアーチの下に立っていた。幸い、雨は直接当たっていない。ケープの端を指でつまんで水気を確かめる。問題ない。


 往来には人が多い。革の帽子をかぶった配達人、厚手の外套の女、腕いっぱいに花を抱えた子ども。誰も彼女を気に留めない。あるいは、見えていても、強く印象に残らないのだろう。外見に対する認識を自然に補完させる加護は、こういう時に便利だった。


 ただし万能ではない。


「……旅人さん?」


 声を掛けられ、オリヴィアはそちらを見た。


 アーチの内側、小さな屋台の前に、十代半ばほどの少年がいた。茶色い髪が雨気で跳ねている。卓上には掌サイズの硝子細工が並び、鳥や花や星の形が鈍い空の光を受けていた。


「ずいぶんぼんやりしてるけど、大丈夫? ここ、立ち止まる人あんまりいないよ」


「お気遣いありがとうございます。到着したばかりで、周辺を確認しておりました」


「とうちゃく」


 少年は目をしばたたかせ、それからオリヴィアの杖に目を向けた。長いスタッフの先端、二股に分かれた金属の間で琥珀色の水晶が淡く眠り、さらにその上のひし形のエメラルドが灰色の空を映している。


「……芸人? それとも学者?」


「どちらでもありません」


「じゃあ、変な人?」


「否定しづらい分類です」


 少年は吹き出した。オリヴィアは真面目に答えたつもりだったが、どうやら冗談として受け取られたらしい。


「私はこの街について少し知りたいのですが」


「観光案内なら銅貨二枚」


「妥当でしょうか」


「嘘。初回サービス」


 屋台の少年は胸を張った。


「俺、フィン。フィン・ロウ。見ての通り、硝子細工売り。旅人さんは?」


「オリヴィア・エスメラルダと申します」


「長いなあ。オリヴィアでいい?」


「構いません」


 フィンは頷き、屋台の端に乗せていた布をぱんと払った。


「で、何が知りたいの」


 何から訊くべきか。オリヴィアは一瞬考えた。


 神託は「割れぬはずの硝子が、泣いている」。この街はどう見ても硝子と縁が深い。まずはその確認が妥当だろう。


「この街の名を」


「硝子街グラス・キア」


「そのままですね」


「わかりやすさって大事だから」


 オリヴィアは頷いた。たしかにそうである。


「この街では、硝子が重要なのですね」


「そりゃもう。建材にもなるし、灯りにもなるし、細工物にもなるし、昔からこの街の守りにもなってる」


「守り」


 フィンは少し声を潜めた。


「知らないのか。『泣かずの硝子』」


 その単語に、オリヴィアの意識が静かに研ぎ澄まされる。


「詳しくお願いします」


「街の中心に塔があって、そこに大きな硝子があるんだ。昔、災厄を退けた聖遺物だとか、街の基盤術式の核だとか、そういう話。とにかく特別で、絶対に曇らない、割れない、泣かないって言われてる」


「泣かない」


「うん。硝子が泣くってのは、この街じゃ縁起悪いんだよ。表面に内側から水が浮くみたいに曇ったり、滴がついたりする現象のこと。普通の安物ならたまにあるけどさ」


 フィンは屋台の隅に置かれた少し歪な小瓶を持ち上げた。たしかに内側が白く曇っている。


「でも最近、街じゅうの硝子が変なんだ。夜になると、あちこちが泣く。しかも、割れないはずのやつまで」


「塔の硝子もですか」


 フィンは答える前に周囲を見回した。雨のざわめきの中、通行人たちは足早に過ぎていく。誰もこちらに注意を払っていない。


「……見たって人はいる。俺は見てない。でも、塔の周りの衛士が増えたし、工房組合の連中もぴりついてる。だからたぶん、本当」


 神託の文言に一致する。


 オリヴィアは空を見上げた。低い雲の向こうで、夕刻がじわじわと深まりつつある。調査を始めるには悪くない時間だ。


「塔へ行きたいのですが」


「観光なら昼のほうがいい。今からだと閉まるよ」


「観光ではありません」


「じゃあもっと無理だな」


 もっともである。


「ほかに、最近起きた異変はありますか」


「うーん……夜に変な音がするとか、工房の炉が不調になるとか、硝子職人が急に辞めるとか、そんな噂はいっぱい。あと」


 フィンは口をもごもごさせてから、声を低くした。


「消えた人がいる」


「失踪ですか」


「数は多くない。けど、みんな硝子に関わる仕事してた」


「職人」


「職人、運び屋、研磨師、塔の手伝い人。関係ない人もいるかもだけど、俺はそう聞いた」


 街の異常。泣く硝子。失踪する関係者。十分に匂う。


 オリヴィアはポーチに手を入れ、中を確認した。保存食、筆記具、小型の測定板、結界札。金銭は世界ごとに形が違うため、来訪直後は役に立たないことが多い。今回も同様だろう。


「宿を確保したいのですが、支払い能力に難があります」


「正直だなあ」


「事実です」


「……まあ、紹介だけならできるよ。うちの近所に安いとこあるし」


「助かります」


「その代わり、あとで旅の話聞かせて」


「許される範囲であれば」


「何その秘密いっぱいありそうな言い方」


 秘密は、まあ、ある。


 フィンは屋台を片付け始めた。ガラスの鳥や花を手際よく布で包み、木箱へ収めていく。その手つきは慣れていて、繊細な品を扱う慎重さと、商売の速さが両立していた。


 オリヴィアは何気なくその手元を見て、ひとつ気づいた。


「指を切っていますね」


「え?」


「右手の中指。浅いですが」


 フィンは見下ろして、ようやく気づいたように「ほんとだ」と笑った。


「よく見えるなあ。硝子屋だからしょっちゅうだよ」


「消毒したほうがよろしいかと」


「平気平気」


 平気と口にする者ほど、意外と平気ではないことがある。オリヴィアはそういう事例を多く見てきた。


 だが今は押しつける場面でもない。彼女は頷き、屋台の脇に立って周囲を観察した。


 雨の勢いは弱い。通りの先、運河沿いに背の高い建物が並び、その窓という窓が色硝子で縁取られている。通りの中央には細い水路が走り、そこに落ちる雨粒が、埋め込まれた硝子片に反射して細かい光の筋をつくっていた。


 綺麗な街だ、とオリヴィアは思った。


 だからこそ、泣く硝子という異変は、この街の人々にとって現実以上の意味を持つのだろう。


     *


 宿は「煤けた白鳥亭」という名前だった。白鳥よりも鴉のほうが似合いそうな黒ずんだ外観だったが、掃除は行き届いており、店主の女性も愛想は少ないものの仕事は正確だった。


 紹介者としてフィンの名を出すと、店主はオリヴィアを頭からつま先まで見て、「面倒事は持ち込まないで」とだけ言った。


「善処いたします」


「善処じゃ困る」


「可能な限り努力いたします」


「言い方だけは立派だね」


 店主は鼻を鳴らし、鍵を渡した。


 二階の角部屋は狭いが、窓がひとつあり、寝台も清潔だった。オリヴィアは荷物を置くと、すぐには休まず窓際へ向かった。ガラス越しに見える街路は、夕闇の中で色を深めつつある。


 窓硝子の表面を指先で軽くなぞる。


 冷たい。普通の硝子だ。


 だが、術式の痕跡はある。この街の硝子には、単なる工芸以上の意味が埋め込まれている。都市規模の魔術基盤。灯り、保存、防壁、あるいは認識制御。複数が絡んでいてもおかしくない。


 オリヴィアはスタッフを立てかけ、腰のポーチから薄い銀板を取り出した。掌に収まる円形の板だ。片面には細かい目盛り、もう片面には複雑な魔法陣が彫られている。


 しかし、彼女はすぐには起動できない。


 魔力がないからだ。


 空白の器。自ら燃えることのない炉。彼女がいかに術式に通じていようと、起動の火種は外から与えられねばならない。


 この世界に来てから、まだ誰からも魔力を借りていない。ゆえに今の彼女は、知識と技術はあっても、実行力に欠ける。


「まずは協力者を探す必要がありますね」


 独り言のように呟き、オリヴィアは銀板をしまった。


 焦るべきではない。魔力の貸与には本人の同意が必要で、相性もある。急いで粗雑に選べば、術式が乱れ、調査どころか被害を増やしかねない。


 彼女は椅子に座り、今日得た情報を紙に整理し始めた。


 街の中心塔。泣かずの硝子。夜の異常。失踪者。工房組合。衛士の警戒。


 最後の行に、「フィン・ロウ」と書き、少し考えて、その脇に小さく「観察力は平均、警戒心は低め、善意あり」と付記した。


 その直後、階下から鋭い悲鳴が聞こえた。


 オリヴィアは即座に立ち上がる。


 次いで、何かが割れる音。ざわめき。怒鳴り声。


 彼女は部屋を飛び出し、階段を下りた。


     *


 一階の食堂では、客と店主が壁際に退いていた。


 床には砕けた杯。酒が広がり、その上に雨水のような透明な液体がぽたり、ぽたりと落ちている。


 落ちている、というのは正確ではない。


 それは、窓硝子の**内側**から滲み出ていた。


 食堂の大きな窓一面が、薄く曇っている。曇りの中心は人の顔ほどの大きさで、まるで誰かが向こう側から息を吹きかけたようだった。そこから、滴がゆっくりと形をなし、筋を引いて落ちてくる。


「泣いてる……」

 

 若い給仕が青ざめた声で呟く。


 店主は顔を強張らせていた。「最近ひどくなってるとは聞いてたけど、うちまで来るなんて」


 客の一人が十字にも似た仕草で胸元を押さえる。


「縁起でもねえ。塔が駄目になったんじゃないか」


「黙れ!」


 別の男が怒鳴るが、その声にも怯えが混じっていた。


 オリヴィアは窓へ近づいた。店主が「触るんじゃないよ」と言ったが、彼女は振り向かず、慎重に距離を詰める。


 硝子は泣いている。だが、ただの結露ではない。滴にごく微かな魔力反応がある。それも、この街の基盤術式と同質ではなく、もっと不規則な、ざらついたもの。


 このまま分析したいところだが、魔力がない。


 オリヴィアは周囲を見た。


「この場に、魔術あるいはそれに類する技術の素養をお持ちの方はいらっしゃいますか」


 客たちは顔を見合わせる。沈黙。


 やがて、隅の席にいた女性が手を挙げた。


「少しなら」


 灰色の外套を着た、二十代後半ほどの女性だった。黒髪を後ろでまとめ、目つきは鋭い。旅装だが、商人というより職人か研究者に見える。


「学院で基礎術式を習った程度よ。役に立つかは知らないけど」


「ありがとうございます。私は調査のために微量の魔力を必要としています。あなたの同意があれば、一時的にお借りできます」


「ずいぶん丁寧に言うのね」


「重要な手順ですので」


 女性はオリヴィアをじっと見た。無表情の少女。奇妙な杖。落ち着き払った口調。普通なら警戒される。


「危険は?」


「完全には否定できません。ただし、無断で奪うことはありません」


「今の答え、安心しにくいわね」


「誠実であろうとすると、そうなる場合があります」


 食堂に、少しだけ妙な沈黙が落ちた。女性は口元を引きつらせ、それから小さく笑った。


「いいわ。少しだけ」


「感謝します」


 オリヴィアはスタッフを手に取り、杖先を女性へ向けないよう斜めに構えた。エメラルドの下、琥珀の水晶がかすかに灯る。


「手を」


 女性が差し出した手に、オリヴィアは自分の指先を軽く触れさせた。


 同意を言葉と接触で確認。術式、起動。


 透明な感触が流れ込む。女性の魔力は、冷えた鉄のようだった。整っていて無駄が少ないが、角がある。琥珀の水晶が細く明滅し、その色を受けてオリヴィアの視界に複数の層が開く。


 分析魔術。


 窓硝子の曇りが、ただの白ではなく、極細のひび割れに似た模様の集合だと見えてきた。表面ではない。内部層だ。しかもひびは物理的な破損ではなく、術式の流路に発生している。


「……なるほど」


「何かわかった?」


「この硝子そのものが壊れているわけではありません。内部に刻まれた機能の一部が、異物を噛んでいます」


「異物?」


「この街の術式ではない性質です」


 女性が眉をひそめる。「外部犯?」


「現時点では断定できません」


 オリヴィアは窓の滴を一つ、指先で受けた。冷たい。雨水に近いが、ほんの微かに甘い匂いがする。


 懐から小瓶を取り出して採取する。さらに、銀板を起動して反応を写し取った。


 その瞬間、窓の曇りの中心に、すっと線が走った。


 店主が息を呑む。


 線は横一文字に伸び、しかし割れはしない。代わりに、向こう側の夜景がその線を境に歪み、ひどく遠く見えた。


 オリヴィアは目を細める。


 硝子の向こうに、**人影**が立っていた。


 外ではない。反射でもない。窓の奥、硝子の層の中に、痩せた人の輪郭が白く浮いている。こちらへ手を伸ばしているように見えた。


 給仕が悲鳴を上げた。


 次の瞬間、影はふっと消え、窓の曇りも急速に薄れていった。滴だけが数本、筋を残している。


 食堂は水を打ったように静かになった。


「今のを見ましたか」


 オリヴィアが問うと、店主は青い顔で何度も頷いた。


「見たよ……見ちまったよ。何なんだい、あれは」


「まだ不明です」


 女性が腕を組む。


「不明で済ませる顔じゃないでしょう。あなた、何者?」


「旅人です」


「便利な言葉ね」


「便利です」


 女性は呆れたように息をついた。


「私はミレイユ。ミレイユ・ヴァルク。工房組合の記録係よ」


 オリヴィアは彼女を見る。偶然にしては都合がよい。


「では、失踪者の記録にもアクセスできますか」


「……話が早いわね」


「急ぐべき状況と判断します」


 ミレイユはしばらく考え、それから窓を見た。


「本来なら部外者に見せるものじゃない。でも、今のを見て放っておく気にもなれない。明日の朝、組合の記録庫に来なさい」


「場所を」


 ミレイユは簡単な地図を紙片に描いた。中央区の運河沿い、青い尖塔の建物。


「ただし、私の紹介だって言って。勝手に漁ったら衛士を呼ぶ」


「承知しました。ご協力に感謝します」


「まだ感謝されるほどじゃないわ」


 彼女はそう言って席に戻ったが、もう飲む気分ではないらしく、杯には手をつけなかった。


 オリヴィアもまた、これ以上この場で得られるものは少ないと判断した。魔力を貸してくれた礼を伝え、対価を尋ねたが、「今はいい」と断られる。


 部屋へ戻る前に、彼女は食堂の窓をもう一度見た。


 硝子は静かだ。さきほどの異変が嘘のように。


 だが、滴の筋だけが残っている。


 泣いた痕だ。


     *


 深夜。雨はまだやまない。


 オリヴィアは寝台に腰かけたまま、採取した滴を小瓶越しに眺めていた。


 蝋燭の火にかざすと、透明な液体の中に、ごく微細な銀の粒子が浮かぶ。記録板の反応と照合しても、やはり街の基盤術式に使われる通常の媒体とは一致しない。


 別系統の術理。あるいは、何者かの介入。


 問題は、その介入が外部からの侵蝕なのか、内部で発生した歪みなのかという点だ。


 窓の向こうに見えた人影も気になる。見間違い、投影、残留思念、あるいは閉じ込められた何か。可能性はいくらでもある。


 オリヴィアは机に紙を広げ、簡単な仮説を書き並べた。


 一、都市術式の中枢に異常。

 二、硝子媒介を通じて全域へ伝播。

 三、関係者の失踪との関連あり。

 四、人影は被害者、犯人、もしくは術式副産物。


「明日、記録庫。可能なら塔の周辺も確認」


 呟き、紙を畳む。


 その時だった。


 窓が、こん、と鳴った。


 風ではない。明確に、何かが叩いた音。


 オリヴィアは即座に立ち上がり、スタッフを手にする。窓に近づき、外を見る。


 二階の高さだ。足場になるものはない。細い雨が斜めに降るだけで、人の姿などあるはずがない。


 だが、窓の向こうに、**少年の顔**が貼りついていた。


 フィンだった。


 正確には、フィンに見えた。


 顔は雨に濡れていない。硝子に押しつけられたように平たい。口が動く。音は聞こえない。


 助けて。


 そう言った気がした。


 オリヴィアは勢いよく窓を開けた。


 冷たい雨と夜気が流れ込む。だがそこには誰もいない。下の路地にも、人影はない。


 代わりに、窓枠の外側に小さな硝子片が引っかかっていた。星形の、安い土産物めいた細工だ。淡い青色。


 オリヴィアはそれを摘み上げる。


 フィンの屋台に、同じ意匠のものがあった。


 握った瞬間、硝子片が微かに震えた。


 次いで、オリヴィアの掌に、冷たい囁きのような感触が流れ込む。


 言葉ではない。映像でもない。ただ、濃い恐怖と、暗い場所の湿り気と、何層もの硝子を隔てた圧迫感。


 彼女は無意識に眉を寄せた。


「……捕まっていますか」


 返事はない。硝子片はただの物に戻った。


 だが、十分だった。


 フィンが異変に巻き込まれた可能性が高い。しかも今夜のうちに。


 オリヴィアは迷わずケープを羽織り直し、ポーチの留め具を確認した。魔力はミレイユから借りた分がまだ少量、琥珀の水晶に残っている。大規模な術は使えないが、追跡や感知なら足りるかもしれない。


 部屋を出ようとして、彼女はふと立ち止まった。


 窓辺のガラスに、自分の姿が映っている。


 薄い顔。黄緑の瞳。感情の読み取りにくい目元。人間の少女に見える、その輪郭。


「……私にできることを」


 それだけ言って、オリヴィアは部屋を飛び出した。


 階段を下り、まだざわつく宿を抜け、雨の街へ出る。


 硝子街グラス・キアの夜は、昼よりもずっと明るく、ずっと不穏だった。色硝子の灯りが濡れた石畳を染め、運河は砕けた星のように揺れている。どの窓も静かな顔をしているのに、そのどれかの奥で、誰かがこちらを見ているような気がした。


 オリヴィアは青い星形の硝子片を掌に包み、杖先のエメラルドに意識を通す。


「追跡術式、簡易展開」


 琥珀の水晶が細く灯る。借りた魔力は鉄のように冷たく、真っ直ぐだ。ミレイユという女性の性質が少し混じっている。余計な装飾を嫌う、鋭い線の魔力。


 硝子片から伸びる痕跡は、雨の中でもかすかに見えた。


 細い光の糸。


 それは街の中心へではなく、運河沿いの裏路地へと続いている。


 オリヴィアは走り出した。


 神託の曖昧さに文句を言うのは後でいい。今はただ、泣く硝子の奥へ手を伸ばす者を、見過ごしてはならない。


 雨の中、緑のケープが翻る。


 その先で、街のどこかの硝子が、またひとつ静かに涙をこぼした。

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