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2話「灰の脈」

大聖堂から救護院への帰り道、オリヴィアは意識的に歩調を遅くした。


通りに面した建物の壁を、一つひとつ目で追う。石材の継ぎ目。窓枠の下の水染み。排水溝に溜まった砂の色。些細な情報の断片が、この世界の輪郭を少しずつ描き出していく。


建物の外壁に広がる黒い染みは、街の中心部に近いほど濃かった。外縁部ではまばらだった変色が、大聖堂の周囲では壁面の三割近くを覆っている。中心から外に向かって広がっているのではない。外壁の染みと大聖堂の染みでは、性質が微妙に異なるように見えた。


大聖堂の染みは、地下から這い上がってきている。外壁のそれは、空から降り注いでいる。


二つの方向から、この街は侵されている。


「ねえ、何をそんなに見てるの」


ナディが振り返った。オリヴィアが壁の前で立ち止まっていることに気づいたらしい。


「壁の染みです。場所によって広がり方が違うように見えます」


「染み? ああ、あの黒いの。最近どこにでもあるから、もう気にしなくなっちゃった」


慣れ。人は異常の中にいると、やがてそれを風景の一部にしてしまう。三か月もあれば十分だろう。


「ナディ。この染みが最初に現れた場所を覚えていますか」


ナディは腕を組み、首を傾げた。


「うーん……大聖堂の尖塔が最初に話題になったのは覚えてる。でもその前から、地面にも出てた気がする。排水溝のあたりとか、井戸の周りとか」


地面。地下からの浸出。やはり、下から来ているものが先だった可能性が高い。


「井戸の場所を教えていただけますか」


「いくつかあるけど、一番大きいのは中央広場の共用井戸。でも、あれ——もう使われてないよ」


「なぜですか」


「水が変になったから。色がついて、匂いもおかしくなって。ひと月くらい前に使用禁止になった。今は外縁部の井戸と、雨水を溜めて使ってる」


オリヴィアは頷いた。地下水脈が汚染されている。中央部から始まり、外縁に向かって広がっている。「核」の損傷と連動していると考えるのが自然だった。


「中央広場に寄ってもいいですか」


「いいけど……あそこ、最近ちょっと雰囲気悪いよ」


「雰囲気、とは」


ナディは少し言葉を探すように視線を泳がせた。


「モーゲン副官の兵士がうろうろしてる。領主様が倒れてから、警備が厳しくなったっていう名目なんだけど……なんていうか、守ってるっていうより、見張ってる感じ」


ナディの声には不信感が滲んでいた。ベーレが見せたものと同じ種類の感情だ。この街の住人は、副官モーゲンの統治に疑念を抱いている。


「危険がありますか」


「危険ってほどじゃないと思う。普通に歩く分には何も言われないはず。ただ、あんまりうろうろ調べ回ってると目をつけられるかも」


「承知しました。では、通りすがりに見るだけにしましょう」


二人は進路を変え、中央広場へ向かった。


---


中央広場は、街の規模に見合った広さを持っていた。石畳の円形の広場の中心に、八角形の石造りの井戸がある。井戸には木の蓋が被せられ、鎖で固定されていた。周囲には立ち入りを制限する柵が設けられている。


広場の北側に、領主の屋敷があった。三階建ての堂々とした石造建築。正面に二名の兵士が直立している。屋敷の窓はすべてカーテンが引かれていた。


ナディが言った通り、広場の周囲には巡回中の兵士が数人いた。揃いの革鎧に短剣。門番とは装備の質が違う。よく手入れされた実戦装備だった。


オリヴィアは広場の端を歩きながら、自然な動作で井戸の方に目を向けた。


井戸の周囲の石畳が変色していた。灰色の染みが、井戸を中心にして放射状に広がっている。染みは石畳の目地に沿って細い線を描き、まるで根のように四方に延びていた。


根。地下に根を張る何かが、この地面の下にある。


「——おい」


声がかかった。


オリヴィアとナディの前に、兵士が一人立っていた。二十代半ばくらいの、顎の角張った男だった。目が鋭い。


「見ない顔だな。何をしている」


ナディが前に出た。


「別に何もしてないよ。通りかかっただけ」


「聞いているのはお前じゃない。そっちの——」


兵士の目がオリヴィアに向いた。上から下まで一瞥する。認識を補完する加護があるため、服装が過度に異質に映ることはないはずだった。だが、この兵士の目はやや鋭い。ケープの意匠やブーツの革質に、わずかな違和感を覚えているかもしれなかった。


「旅の者です。この街に昨日着きました。門番の方に入市を許可されております」


「旅人か。このご時世に物好きだな。入市記録は確認するが——その杖は何だ」


杖。オリヴィアの右手に握られた長いスタッフ。先端の二股、琥珀の水晶、菱形のエメラルド。これは、さすがに加護の範囲を超えているかもしれなかった。


「歩行の補助と、旅の護身に使っております」


「護身? 武器の携帯には届け出が必要だが」


「武器ではありません。杖です」


兵士の目が細くなった。もう一歩踏み込んで詮索するか、それとも面倒を避けるか。兵士の中で天秤が揺れているのが見えた。


「エリク」


背後から、別の声がした。


兵士——エリクが振り返った。広場の反対側から、もう一人の人物が歩いてきていた。長身の男。年齢は三十代前半くらいだろうか。黒い髪を短く刈り込み、灰色のサーコートの上に革のゴルジェットを着けている。腰には長剣。歩き方に無駄がなく、体幹がしっかりしている。武人の歩法だった。


「副官殿」


エリクが姿勢を正した。


副官モーゲン。ベーレとナディの口から名前だけは聞いていた人物が、オリヴィアの前に立った。


モーゲンの目は濃い灰色だった。表情は穏やかでも険しくもなく、淡々としている。感情を制御することに慣れた人間の顔だった。


「何事だ」


「旅人が広場を徘徊しておりましたので、職務質問を」


「徘徊というほどのことには見えないが」


モーゲンはオリヴィアに目を向けた。その視線がオリヴィアの全身を走査した。兵士エリクよりもはるかに精密な観察だった。杖に目が留まり、数秒間そこに留まった。ケープの留め具のエメラルドにも。


加護の境界線上にいる。この男には、何かが「見えて」はいないが「引っかかって」いる。オリヴィアはそう判断した。


「昨日入市された旅人のオリヴィアさん、ですか。入市記録は確認しています」


迅速な情報把握。この街の出入りを相当厳密に管理しているということだ。


「はい。ご迷惑をおかけして申し訳ございません。広場を通りかかっただけなのですが」


「迷惑ではありません。ただ、中央区域は現在、警備を強化しております。領主ルクレス様のご病気に伴い、治安維持のために必要な措置です。広場の井戸には近づかないでいただきたい」


丁寧な口調だったが、有無を言わせぬ硬さがあった。


「承知しました」


オリヴィアは素直に頷いた。ここで押し問答をする利点はない。


モーゲンはもう一度オリヴィアを見た。何か言いかけて、やめた。それから、エリクに向き直った。


「巡回に戻れ。旅人一人に過剰な対応をするな。住民の不安を煽るだけだ」


「はっ」


エリクが去り、モーゲンも踵を返した。数歩歩いてから、立ち止まった。振り返らずに言った。


「オリヴィアさん。この街には長居をなさらない方が賢明です。事態は悪化しています」


それだけ言って、モーゲンは領主の屋敷の方へ歩いていった。


ナディがオリヴィアの袖を引いた。


「行こう。あの人の前にいるとなんか居心地悪い」


二人は広場を離れた。


しばらく歩いてから、ナディが口を開いた。


「モーゲン副官、前はもう少しまともな人だったんだよ。領主様の側近で、真面目で、街のために働いてた。でも領主様が倒れてからおかしくなった。兵を増やして、あちこちに巡回を出して、まるで——」


「まるで?」


「戦争の準備でもしてるみたい」


ナディは自分の言葉に首を振った。


「って、戦争なんてするわけないんだけどね。敵がいないもん。外に敵はいない。問題はぜんぶ内側で起きてる。なのに、兵を増やして何になるんだか」


オリヴィアは黙って聞いていた。モーゲンの行動には二つの解釈がある。一つは、状況の悪化に対して自分の知る方法——軍事的な統制——でしか対応できない無能。もう一つは、何か別の目的があって、混乱に乗じて権力を固めている野心。


あるいは、第三の可能性。何かを恐れている。


あの男の目には、野心よりも恐怖に近いものがあった。何を恐れているのかはわからないが。


「ナディ。この街の領主——ルクレス様について、もう少し教えていただけますか」


「ルクレス様? うーん、私が直接会ったことはないけど。親方は何度かお屋敷に出入りしてた。装飾品の注文で。いい人だって言ってたよ。街の人のことを本当に考えてくれる人だって」


「ご病気の症状は、他の人たちと同じものですか」


「たぶん。詳しいことはわからないけど、夜に起き上がって、灰色の染みが広がって……ただ、領主様の場合はもっと重いらしい。もうほとんど目を覚まさないって噂を聞いた」


症状の重さに個人差がある。地下の「核」に近い場所にいる者ほど影響が大きいのか。あるいは、この世界の力に対する感受性の差か。


領主は街の中心部に住んでいる。「核」の真上に。症状が重いのは当然かもしれなかった。


---


救護院に戻ると、ベーレが一階の広間で包帯を巻く作業をしていた。新しい患者が運び込まれたらしい。担架の上に横たわっているのは中年の女性で、両腕に灰色の染みが斑状に広がっていた。意識はあるようだが、焦点の合わない目で天井を見つめている。


「ベーレさん、何かお手伝いできることはありますか」


オリヴィアの申し出に、ベーレは一瞬驚いたが、すぐに頷いた。


「では、奥の部屋の患者さんたちに水を配っていただけますか。桶と柄杓は厨房に」


オリヴィアは杖を壁に立てかけ、水の配給を始めた。奥の部屋には八人の患者がいた。昨日通りかかった時より二人増えている。


一人ひとりに柄杓で水を飲ませながら、オリヴィアはそれぞれの症状を観察した。


灰色の染みの範囲。位置。進行度。目の状態。呼吸の深さ。


共通点があった。染みは全員、体の中心軸——背骨に沿った部分——から外側に向かって広がっている。心臓の近くから始まるのではなく、脊柱の特定の位置から。


人間の体には、魔力や生命力の通り道がある。世界によって呼び方は異なるが、構造は似通っていることが多い。この世界の住人の体にも、それに相当するものがあるとすれば——。


脊柱に沿った力の流路が、地下から這い上がってくる「何か」に侵されている。


水を配り終えた後、オリヴィアは広間に戻った。ベーレは新しい患者の処置を終え、椅子に崩れるように座っていた。疲労が滲み出ている。内肘の灰色の染みが、昨日よりわずかに広がっているように見えた。


「ベーレさん。少しお尋ねしてもよろしいですか」


「ええ……何でしょう」


「この症状が出た方で、回復した例はありますか」


ベーレは首を横に振った。


「一人もいません。進行が遅い人はいます。でも、良くなった人はいない。染みが広がるのを止める方法もわからない」


「消えた方々——夜に姿を消した方々は、全員この症状を持っていましたか」


ベーレの手が止まった。目が揺れた。


「……ええ。全員、染みが全身に広がった人たちでした。染みが体を覆い尽くすと——その夜に、消える。朝になると、寝台にその人の輪郭だけが灰色の跡になって残っていて——」


ベーレの声が途切れた。目に涙が浮かんでいた。


「最初に消えたのは、この救護院の患者でした。私が見ていたのに。隣の部屋にいたのに。何の物音もしなかった。朝、見に行ったら——」


灰色の輪郭。人の形をした染み。その人がいた証だけが残り、本人は消えている。


「何人ですか。これまでに」


「……十一人」


ベーレは両手で顔を覆った。


オリヴィアは黙ってベーレの傍に座った。言葉をかけるべきか迷い、迷った末に何も言わなかった。安易な慰めは、時に相手を傷つける。ただ傍にいること。それが今できる最善だと判断した。


しばらくして、ベーレは顔を上げた。目が赤かったが、声は落ち着きを取り戻していた。


「すみません。取り乱しました」


「いいえ。お辛い中、話してくださってありがとうございます」


ベーレは微かに笑った。痛みを含んだ笑みだった。


「オリヴィアさん。あなた、不思議な人ですね。初めて会った気がしない」


「よく言われます」


「ナディにも同じことを言われたでしょう」


「はい。変な人だと」


ベーレは今度は少しだけ本物の笑みを見せた。


---


午後、ナディが外から戻ってきた。朝の案内の後、一度出かけていたらしい。手に油紙の包みを持っていた。


「親方のところに行ってきた。具合、あんまり良くない」


ナディの声は平坦だったが、目の縁がわずかに赤い。


「食事は摂れていますか」


「少しだけ。染みが背中全体に広がってきてる。あと、ひと月——いや、もっと短いかも」


ひと月。それは、染みが全身を覆い尽くすまでの猶予だろう。その先に待つのは「消失」だ。


ナディは油紙の包みをテーブルに置いた。中身は金属の破片や細い針金、小さな工具類だった。


「親方の工房から持ってきた。道具を錆びさせたくないから、手入れだけでもしようと思って」


ナディは椅子に座り、工具を広げ始めた。細い指が針金を選び、小さなペンチで形を整えていく。手つきは迷いがなく、正確だった。修行の成果が手に染みついている。


オリヴィアはその作業を眺めながら、考えていた。


地下の「核」に到達する方法。大聖堂の書庫で見つけた図には、大聖堂の地下に空洞が描かれていた。書庫のさらに下。ということは、書庫のどこかに、さらに深部へ続く入り口があるはずだ。


だが、仮にそこに辿り着いたとして——何ができる。


杖の中の魔力はほぼ空だ。大気中のこの世界の力を直接取り込むことはできない。自前の魔力を持たないオリヴィアの体は、他者から明確な同意のもとに預けられた魔力しか扱えない。


この世界の住人から、力を借りる必要がある。


だが、それには問題がある。まず、この世界の住人が「魔力」に相当するものを自覚的に持っているかどうか。次に、仮に持っていたとして、見ず知らずの旅人に預けることに同意するかどうか。そして最も大きな問題——相性。相性が悪ければ術式が乱れる。異なる世界の法則の中で、不安定な魔力を使えば、何が起こるかわからない。


「ナディ」


「ん?」


ナディは針金を曲げる手を止めずに返事をした。


「一つ、変なことを訊いてもいいですか」


「あんたはいつも変なこと言ってるから、今さらだけど。何?」


「この世界には——人の体の内側に流れる、目に見えない力のようなものについての言い伝えや知識はありますか」


ナディの手が止まった。


「……それ、命脈のこと?」


「命脈」


「うん。体の中を巡ってる、生きるための流れ。命の脈って書く。学者とか医師が研究してるやつ。大聖堂の教えだと、命脈は大地の脈と繋がっていて、だから人は大地に生かされているんだ、って」


大地の脈と人体の脈が繋がっている。地下の「核」が大地の脈の源だとすれば、それが損なわれることで人体の脈にも影響が出る。理屈は通る。


「命脈を人に預けることは可能ですか」


ナディは怪訝な顔をした。


「預けるって……どういう意味?」


「自分の命脈の一部を、他者に一時的に渡す。そういう概念や技術がこの世界にあるかどうか」


ナディは首を傾げた。


「聞いたことない。普通はそんなことしないと思う。命脈って、その人の生きる力そのものだから。渡したら自分が弱るじゃん」


当然の反応だった。自分の生命力の一部を他人に渡す行為は、どの世界でも軽い選択ではない。


「なんでそんなこと訊くの」


ナディの大きな目が、まっすぐにオリヴィアを見ていた。好奇心だけではない。何かを察し始めている目だった。


オリヴィアは少し迷った。


どこまで話すべきか。全てを話すことはできない。神々のこと、自分の正体、世界を渡る仕組み。そんなものを一度に開示すれば、信用を得るどころか正気を疑われる。だが、あまりに隠しすぎれば、必要な時に協力を得られない。


嘘をつくのは得意ではなかった。作り物の体でありながら、嘘をつく機能は搭載されていないらしい。不便なことだと思う。


「私には、特殊な技術があります。それを使えば、地下の『核』に何が起きているかを調べることができるかもしれません。ですが、その技術を使うためには——力が必要です。私自身の力ではなく、この世界の力が」


半分だけの真実。だが、嘘は含まれていない。


ナディは長い間、オリヴィアの顔を見つめていた。


「あんた、ほんとに何者なの」


「それにお答えするには、もう少し時間をいただく必要があります」


「ずるい言い方」


「申し訳ありません」


ナディは息を吐き、手元の針金を見下ろした。しばらく無言で作業を続けていたが、やがてぽつりと言った。


「親方がさ。昔、言ってたことがあるの。金属を鍛える時、一番大事なのは火の温度でも槌の振り方でもなくて、金属を信じることだって」


「信じる」


「うん。この一振りで形になるって信じて打たないと、金属がそれを感じ取って、変な方向に曲がるんだって。そんなわけないじゃんって笑ったけど——実際、親方が打つと、同じ材料でも仕上がりが全然違った」


ナディは出来上がった針金の小さな輪を持ち上げ、光に透かした。


「何が言いたいかっていうと——信じるのって、根拠がなくてもいいんだと思う。たぶん」


オリヴィアは目を瞬いた。


「今のは、私を信じてくださるということですか」


「全部じゃないよ。三割くらい。残りの七割はまだ保留。でも——あんた、悪い人じゃなさそうだから」


ナディは照れたように目を逸らした。


三割。それでも十分だった。信頼は一度に完成する必要はない。今はこの三割を大切に扱えばいい。


「ありがとうございます。三割の信頼に応えられるよう、努力します」


「大げさだな、もう」


---


夕刻。


日が傾き始めると、空の脈動が再び強まってきた。赤黒い明滅がはっきりと見えるようになり、通りから人の姿が急速に消えていく。


オリヴィアは二階の窓辺から外を見ていた。


昨夜、ナディが口にした「ゆりかご」という言葉。あれは何だったのか。ナディ自身の無意識が発した言葉か。それとも、地下の「核」——揺籃——が、ナディを通して何かを伝えようとしていたのか。


夜に消える人々。染みが全身を覆った者から順に。消えた後に残るのは灰色の輪郭だけ。


消えた人々は、どこに行ったのか。死んだのか。それとも——。


思考を遮るように、階下で物音がした。


扉が激しく叩かれる音。ベーレが応対する声。それから、荒い呼吸と、複数の足音。


オリヴィアは階段を降りた。


玄関口に、男が二人立っていた。片方は市民らしい中年の男で、もう片方を肩で支えている。支えられている方は若い男——二十歳前後だろうか——で、体の左半分が灰色に変色していた。右目だけが焦点を結んでおり、左目は灰色に濁っている。


「助けてくれ、うちの息子が——さっき急に倒れて——」


中年の男は半ば叫ぶように言った。ベーレが寝台を用意するために奥に走った。


オリヴィアは若い男の傍に近づいた。灰色に変色した肌は、通常の染みより進行が急速に見えた。境界線が脈動している。空の明滅と同じリズムで。


「いつからこの状態ですか」


父親らしき男がオリヴィアに目を向けた。旅人風の見慣れない人間だったが、この状況では詮索している余裕はなかったのだろう。


「今朝までは腕に少しだけだったんだ。それが夕方になって急に——半分まで——」


急速な進行。通常であれば数週間かけて広がるものが、数時間で半身を覆った。何が引き金になったのか。


若い男が、突然口を開いた。


「——聞こえる」


灰色に濁った左目が、宙を見つめていた。


「何が聞こえますか」


オリヴィアが尋ねると、若い男は首をゆっくりと窓の方に向けた。


「泣いてる。地面の下で——泣いてる」


その声は、彼自身のものであると同時に、別の何かを映し出しているようだった。昨夜のナディと同じだ。だが、症状が進行している分、もっと明瞭に「繋がって」いる。


「何が泣いているのですか」


「——わからない。でも、苦しい。苦しくて、冷たくて——消えたくないのに——」


若い男の体が痙攣した。父親が悲鳴を上げた。ベーレが駆け戻ってきた。


オリヴィアは判断を迫られた。


杖の魔力はほぼ空。だが「ほぼ」であって、完全にゼロではない。残滓程度の力でも、探査——対象の状態を読み取る程度の術式であれば、一度だけなら使えるかもしれない。


代償はある。残滓を使い切れば、次の補充まで完全に無力になる。この世界の法則との相性も未知数だ。術式が乱れれば、自分自身が傷つく可能性もある。


だが、今この若者の体を通じて、地下の「核」と繋がることができるかもしれない。この機会を逃せば、次はいつ来るかわからない。そして彼の進行速度から考えて、今夜が——。


間に合わなくなるかもしれなかった。


「ベーレさん。この方に触れることを許可していただけますか。状態を調べます」


ベーレは一瞬戸惑ったが、頷いた。父親も、藁にもすがる思いだったのだろう、無言で首を縦に振った。


オリヴィアは壁に立てかけていた杖を手に取った。


先端の二股を若い男の胸の上に向け、わずかに離した位置で保持する。琥珀の水晶に残された最後の魔力を、意識的に引き出す。


水晶がかすかに光った。本来の力の十分の一にも満たない、消え入りそうな光。


探査術式を組み上げる。エメラルドの変換器を通して、わずかな魔力を適切な形に変える。この世界の法則に合わせるための調律を、二股の杖先が自動的に行う。微細な振動。空気がわずかに歪む。


ベーレとナディが息を呑んだ。ナディは二階から降りてきていたらしく、階段の途中で目を見開いていた。


オリヴィアの意識が、若い男の体内を透過した。


命脈。この世界の住人の体に流れる力の通り道。本来は温かく、緩やかに循環しているものだろう。だが、今この若者の命脈は——凍えていた。


灰色の染みの正体が、ようやく見えた。


命脈の中に、異物が入り込んでいる。灰色の、粉のような微粒子。それが命脈の壁面に付着し、流れを阻害し、少しずつ組織を変質させている。粒子の源は——下だった。足元。地面の下。遥か深部から、大地の脈を通じて、人体の命脈に流れ込んできている。


そしてその粒子は、ただの汚染物質ではなかった。


微かに——本当に微かに——震えていた。


恐怖。孤独。消えたくない。


「核」の感情だ。


地下の揺籃——カルムザードを支えてきた「核」が、何らかの理由で崩壊しかけている。その苦痛と恐怖が灰のような粒子となって大地の脈に流れ出し、住人の命脈に入り込んでいる。住人は「核」の苦しみを、体で受け止めているのだ。


そして、染みが全身を覆った者は——「核」に吸い込まれる。消えるのではなく、取り込まれるのかもしれない。崩壊する「核」が、命脈を通じて人間の生命力を吸い上げ、自らを維持しようとしている。


無意識の、悲鳴のような自己保存。


琥珀の水晶の光が消えた。魔力が完全に尽きた。


オリヴィアは杖を下ろし、一歩後退した。軽い眩暈。体の芯が冷えている。空の器が、本当に空になった感覚だった。


若い男の痙攣は収まっていた。灰色の変色はそれ以上進行していないように見えた。探査術式の副次的な効果だろうか。あるいは、一時的なものに過ぎないか。


「あんた——今、何をしたの」


ナディが階段を駆け降りてきた。目が大きく見開かれていた。驚きと、それから——何か別の感情。


「探査をしました。この方の体の中で何が起きているかを調べる術です」


「術って——魔法? あんた、魔法使いなの?」


オリヴィアは少し考えた。


「近いものです。ただ、今ので力を使い切ってしまいましたので、しばらくは何もできません」


ナディはオリヴィアの顔を凝視した。窓の外の赤い光に照らされたオリヴィアの顔は、いつもより白く見えただろう。黄緑色の瞳が、力を失ったことで僅かに色が薄くなっている。


「顔色、やばいよ。座りなって」


ナディがオリヴィアの腕を取り、椅子に座らせた。その手は温かかった。


ベーレは若い男の手当てを続けていた。父親は息子の傍に座り、その手を握っている。進行が止まったことに気づいたのか、父親の目に涙が浮かんでいた。


「あの人——あんたが止めたの?」


「一時的に、です。根本的な解決ではありません」


「でも——すごいよ。誰も止められなかったのに」


オリヴィアは首を振った。


「すごくはありません。これは表面的な処置です。根本的には、地下にあるものを直接見に行く必要があります」


「地下って、大聖堂の下の——」


「はい。この街の核。揺籃。あれが壊れかけている。壊れる恐怖と苦しみが、灰になって街中に漏れ出しているのです。人々の体に入り込んでいる灰色の染みは、核の悲鳴のようなものです」


ナディは絶句した。ベーレも手を止めてオリヴィアを見ていた。


「核が——泣いてる、って……さっきこの人も言ってた……」


ナディの目に、理解と恐怖が同時に浮かんだ。


「どうすればいいの。地下に行って、何をすれば——」


「まだわかりません。核が何によって損傷したのか。自然な劣化なのか、何者かが傷つけたのか。それを確認しないことには、対処のしようがありません。ですが——」


オリヴィアは自分の手を見た。空になった体。力のない器。


「今の私には、地下に降りたとしても、何かを為す力がありません。力を取り戻す必要があります」


「力って——さっきの、あの光? あれがもうないの?」


「はい」


ナディの表情が険しくなった。歯を食いしばるように、何かを考えている。


「あんたが言ってた『この世界の力が必要だ』って——もしかして、命脈のこと? 私たちの命脈を、あんたに渡すってこと?」


鋭い。ナディは察しが良かった。


「はい。ただし、無理にお願いするつもりはありません。命脈はあなたの生きる力そのものです。一部とはいえ他者に預ければ、一時的に衰弱します。危険が伴います。そして——」


オリヴィアは言葉を選んだ。


「相性の問題があります。預けてくださる方と私の間に不和があれば、力が正しく機能しません。最悪の場合、預けてくださった方にも害が及びます」


「相性って、何で決まるの」


「信頼です」


ナディは黙った。


広間に沈黙が落ちた。赤い光が窓から差し込み、壁に揺れる影を作っている。


やがて、ナディは口を開いた。


「三割って言ったでしょ、さっき」


「はい」


「今ので、もうちょっと増えた。四割五分くらい」


オリヴィアは、ほんの少しだけ目を見開いた。それが彼女にとっての驚きの表情だった。


「ありがとうございます」


「まだ礼を言う段階じゃないでしょ。半分にも届いてないんだから」


ナディは照れを隠すように鼻を鳴らした。


「とにかく——まず、地下に降りる方法を探さないと。大聖堂の書庫の奥にあるんでしょ? 明日、もう一回行こう」


「ええ。ただ、一つ気がかりがあります」


「何」


「モーゲン副官が、中央区域の警備を強化しています。大聖堂に頻繁に出入りしていれば、目をつけられる可能性があります」


「あー……確かに。あの人、最近どこにでも目を光らせてるし」


「それに——」


オリヴィアは一拍置いた。


「モーゲン副官は、核の存在を知っている可能性があります」


ナディの目が鋭くなった。


「知ってて、何もしてないってこと?」


「わかりません。知っていて何もできないのか。知っていて隠しているのか。あるいは——知っていて、何かをしている最中なのか」


三つ目の可能性を口にした時、ナディの顔から血の気が引いた。


「まさか。核を壊してるのがモーゲン副官だって言いたいの」


「可能性の一つとして、排除はできないということです。現時点では証拠がありません」


「でも——あの人、領主様が倒れてから急に変わったって——」


「ええ。動機があるとすれば、それは権力の掌握かもしれません。領主が倒れ、街が混乱する中で実権を握る。ですが、それなら核を壊す必要はない。むしろ、核を守って街を安定させた方が統治は楽になります」


「じゃあ、何のために」


「わかりません。だからこそ、調べる必要があります」


ナディは唇を噛んだ。


夜が深まっていた。空の脈動が一段と強くなり、建物の壁にも赤い光の明滅が映り込んでいる。


ベーレが近づいてきた。若い男の容態が落ち着いたらしい。父親は息子の傍で疲労に負けて眠りに落ちていた。


「オリヴィアさん。先ほどの——あなたがなさったこと。あれは、何だったのですか」


ベーレの目には恐れはなかった。あるのは、純粋な問いかけだった。


「探査術です。目に見えないものを見る技術です」


「あなたは——この街を助けてくださる方なのですか」


その問いは、昨日イオルグ司祭が発したものと同じだった。


オリヴィアは、同じ正直さで答えた。


「助けたいと思っています。ですが、一人ではできません。力を貸してくださる方が必要です」


ベーレは静かに頷いた。そして、自分の内肘の灰色の染みに目を落とした。


「私の命脈でよければ——」


「ベーレさん」


オリヴィアは穏やかに、しかし明確に遮った。


「今夜はお休みになってください。判断は急ぎません。疲労の中で決めるべきことではありません」


ベーレは何か言いかけたが、オリヴィアの黄緑色の瞳を見て、口を閉じた。


「……わかりました。おやすみなさい」


「おやすみなさい」


ベーレが奥に去った後、ナディとオリヴィアは二階に上がった。


部屋に入り、扉を閉めた。ナディは寝台に座り、膝を抱えた。


「ねえ、オリヴィア」


「はい」


「あんた、力を使い切ったんだよね。今、何もできないんだよね」


「はい」


「じゃあ——もし今夜、私がまたあの状態になったら、止められないってこと?」


オリヴィアは答えなかった。答えられなかった。


ナディは膝に顔を埋めた。


「……怖い」


その声は、とても小さかった。


オリヴィアは自分の寝台から立ち上がり、ナディの寝台の端に腰を下ろした。手を伸ばし——少し迷ってから、ナディの肩にそっと触れた。


「私がここにいます。何もできなくても、ここにいます」


「それ、慰めになってない」


「すみません。慰めるのが得意ではないのです」


ナディは顔を上げた。目が潤んでいた。唇が震えていたが、その震えを止めるように、唇を引き結んだ。


「——馬鹿。いてくれるだけでいいんだよ、そういうのは」


オリヴィアは瞬きをした。


「では、います」


ナディは鼻を啜り、袖で目を拭いた。


「……うん」


窓の外で、空が脈動していた。赤黒い光が部屋を染め、二人の影を壁に映していた。


オリヴィアは今夜もまた眠らないつもりだった。力は空でも、目だけは開けていられる。


空の器。何も持たない体。


それでも——ここにいることだけは、できる。


脈動を数えた。周期が昨夜より短くなっている。加速は続いていた。


時間は、確実に減っている。

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