1話「降り立つ者」
目を開けると、空が燃えていた。
正確には、空に見えるものが赤黒く脈動していた。雲ではない。大気そのものが病んだ血管のように膨張と収縮を繰り返し、地平線の端から端まで、ゆっくりと明滅している。
オリヴィア・エスメラルダは、自分が立っている地面の感触を確かめた。乾いた土。ひび割れた灰色の大地。風はぬるく、かすかに焦げた匂いを運んでくる。生き物の気配はない。草の一本も見当たらない。
右手に握った杖の感触だけが、いつもと変わらなかった。二股に分かれた先端の間で、琥珀色の水晶がわずかに光を帯びている。残量を確認するまでもない。前の世界で使い切った分の補充はされていない。貯蔵量はほぼ空に等しかった。
「――到着しました」
誰に報告するでもなく、小さく呟いた。
神託は、いつものように曖昧だった。渡航の直前、意識の底に落とされた一文。
『揺籃を灰から掬え』
それだけ。どこの世界で、何が起きていて、誰が困っているのか。一切の補足はない。オリヴィアはすでにそれに慣れていた。慣れてはいたが、もう少し具体的な指示があっても罰は当たらないのではないか、とは毎回思う。
空の脈動を見上げながら、杖の二股部分を天に向けた。世界法則の調律。この世界がどのような理で動いているかを読み取る最初の作業だった。
杖先が微細に振動する。エメラルドの菱形が、かすかに緑の燐光を散らした。
この世界には魔力に相当するものがある。大気中に漂っている。ただし、オリヴィアが知る一般的な魔力とは質が異なった。もっと重く、粘度がある。呼吸のたびに肺の奥がわずかに軋む感覚は、おそらくそのせいだった。
「大気汚染、というわけではなさそうですね」
汚染ではなく、変質。もともとこういう性質のものなのか、それとも何かの影響で変わってしまったのか。今の段階では判断がつかない。
オリヴィアは杖を下ろし、周囲を見渡した。三百六十度、荒野が広がっている。ただ、北東の方角——と暫定的に定めた方向——に、地平線を遮る影があった。建造物か、あるいは山か。距離は読みにくいが、半日も歩けば届くだろう。
歩き始めた。
ケープの裾が乾いた風にはためく。本来なら、この服装は周囲から見ればそれなりに目を引くはずだった。だが、認識を補完する加護のおかげで、仮に誰かに出会っても「少し変わった旅人」程度にしか映らない。そういう風にできている。
一時間ほど歩いたところで、最初の変化があった。
地面に、轍があった。
車輪の跡。二本の平行な溝が、乾いた土の上に刻まれている。比較的新しい。ここ数日のものだろう。轍は北東の影に向かって延びていた。
文明がある。人がいる。少なくとも、車輪を使う程度の技術を持った存在がいる。
オリヴィアは轍に沿って歩くことにした。
さらに二時間。
影の正体が見えてきた。街だった。
高い外壁に囲まれた、かなりの規模の街。壁は灰色の石材で組まれ、所々に煤のような黒い染みが広がっている。見張り塔が等間隔に立ち、その頂上には旗が掲げられていた。赤黒い布地に、銀の紋章。距離があって図柄までは読み取れない。
門が見えた。大きな木製の門扉が片方だけ開いている。その手前に、数台の荷馬車が列を成していた。人の姿もある。
オリヴィアは歩調を落とさずに近づいた。
荷馬車の列の最後尾にいた男が、こちらに気づいた。日に焼けた肌、深い皺、くたびれた麻の上着。商人か、あるいは農夫か。男はオリヴィアの姿を一瞥し、特に関心を持たなかったようですぐに視線を戻した。加護が機能している。
「すみません」
オリヴィアは男に声をかけた。
男は振り返った。警戒の色はない。ただ、少しだけ怪訝そうな顔をした。
「なんだ、嬢ちゃん。一人かい」
「ええ。旅の途中なのですが、この街の名前を教えていただけますか」
男は片眉を上げた。
「カルムザードも知らんで歩いてきたのか。どっから来た」
「遠くから」
嘘ではなかった。男はそれ以上追及しなかった。この荒野を一人で歩いてくる人間が珍しくないのか、あるいは他人の事情に踏み込む余裕がないのか。おそらく後者だろう、とオリヴィアは男の顔に刻まれた疲労の深さから推察した。
「カルムザードは自由交易都市だ。通行税は銅貨三枚。持ってるか」
「申し訳ありません、この土地の通貨を持ち合わせておりません」
男は少し困ったような顔をしたが、すぐに首を振った。
「まあいい。門番に事情を話せ。最近は入市者が減ってるから、そう厳しくはしないだろう。身元引受人がいれば通してもらえることもある」
「ありがとうございます。助かります」
「礼を言うほどのことじゃない」
男はそう言って前を向いた。荷馬車の列がゆっくりと動き始めていた。
オリヴィアは列の横を歩きながら、街の外壁をあらためて観察した。壁面の黒い染み。あれは煤ではないかもしれない。もっと有機的な——何かが這った跡のような不規則なパターンだった。壁材自体が内側から変色しているようにも見える。
門に近づくにつれ、人の気配が増えた。荷馬車だけでなく、徒歩の旅人や、背に荷を負った行商人の姿もちらほら見える。ただし、数は少ない。先ほどの男が言った通り、入市者は減っているのだろう。
門の前に、武装した兵士が二人立っていた。革鎧の上に鎖帷子、腰に短剣。槍を持っている方が年配で、もう一人は若い。若い方がオリヴィアに目を留めた。
「旅人か。通行税は——」
「銅貨三枚、ですね。申し訳ありませんが、持ち合わせがございません」
若い兵士は面倒そうな顔をした。年配の方が割って入った。
「身元引受人は。あるいは、街の中に知人が?」
「いいえ、どちらもおりません。本日この地に初めて参りました」
二人の兵士が顔を見合わせた。年配の兵士が短く息を吐いた。
「行き倒れの保護ってことなら入市はできるが、その場合は救護院行きだ。三日以内に通行税を納めるか、街を出るか。それでいいか」
「構いません。ご配慮に感謝します」
年配の兵士は少し意外そうな顔をした。身なりは整っているのに通貨を持っていない旅人というのは、おそらく珍しいのだろう。だが、それ以上の詮索はなかった。
「名前は」
「オリヴィアと申します」
兵士は帳面に何か書き留め、門の内側を顎で示した。
「まっすぐ行って二つ目の十字路を左。『灰の宿り木』って看板の建物が救護院だ。院長のベーレに話を通しておく」
「ありがとうございます」
オリヴィアは一礼して門をくぐった。
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カルムザードの内部は、外壁の印象から想像したよりも活気があった。
石畳の大通りに沿って商店が並び、露店がいくつか開いている。人の行き来もそれなりにある。ただ、オリヴィアの目に映ったのは、活気の裏側にある緊張だった。
人々の歩調が速い。用事を済ませたら一刻も早く屋内に戻りたいとでも言うように、足早に通りを横切っていく。立ち話をしている者はほとんどいない。露店の商人たちも、客を呼び込む声に普段の調子がない。
そして、空を見上げる者が多かった。
あの赤黒い脈動を、街の中からも見ることができた。建物の屋根の向こう、壁に切り取られた空の断片が、ゆっくりと明滅している。人々はそれを見上げて、すぐに目を逸らす。見たくないのに見てしまう。そんな仕草だった。
二つ目の十字路を左に曲がると、すぐにそれらしい建物が見えた。木造二階建て。白壁は少しくすんでいたが、手入れはされている。入り口の上に、灰色の木の絵が描かれた看板が吊るされていた。文字は読めなかったが、おそらくこれが「灰の宿り木」なのだろう。
この世界の文字は読めない。言葉が通じているのは、渡航時に付与される基本的な意思疎通の補助のおかげだ。文字の解読まではカバーされない。これも毎回のことだった。
扉を押して中に入ると、薬草の匂いがした。受付と思われる木のカウンターの奥に、女性が一人座っていた。四十代半ばくらいだろうか。亜麻色の髪を後ろで束ね、実用的な前掛けを着けている。目の下に隈があったが、オリヴィアを見る目は穏やかだった。
「門番から伝令がありました。旅のお方ですね。私がベーレです」
対応が早い。門をくぐってからまだ十分も経っていない。伝令の仕組みが整っているのか、あるいはこの救護院が門から近い利点か。
「オリヴィアと申します。お世話になります」
「大した世話はできませんけれど。食事と寝床は用意できます。ただ、今は部屋が——」
ベーレは言葉を切り、少し困ったように目を伏せた。
「正直に申しますと、空き部屋はあるのですが、状態が良くなくて。相部屋でもよろしければ」
「構いません。屋根の下で眠れるだけで十分です」
「助かります。では、こちらへ」
ベーレはカウンターの裏手に続く廊下にオリヴィアを案内した。途中、いくつかの部屋の前を通り過ぎた。扉が開いている部屋があり、中に簡易寝台が並んでいるのが見えた。寝台の半分ほどが埋まっている。横になっている人々の顔色は悪く、目を閉じている者が多かった。
「病人の方ですか」
オリヴィアが尋ねると、ベーレは少し間を置いてから答えた。
「病気……と呼んでいいのかどうか。医師にも原因がわからないんです。最初は眠りが浅くなって、それから体が——」
ベーレは首を振り、言葉を飲み込んだ。
「すみません。着いたばかりのお客様に聞かせる話ではありませんね」
「いえ、気になります。もしよろしければ、後ほど詳しくお聞かせいただけますか」
ベーレはオリヴィアの顔を見た。黄緑色の瞳と目が合った。ベーレの表情が少し変わった。何かを感じ取ったのか、あるいは単にオリヴィアの落ち着いた口調に安心したのか。
「……ええ、もちろん。話を聞いてくれる人がいるだけで、ありがたいですから」
案内された部屋は二階の角部屋だった。窓が一つ。寝台が二つ並んでいる。片方には荷物が置かれていたが、人の姿はなかった。
「相部屋のお相手は、ナディという子です。まだ帰っていないようですが、夕刻までには戻るでしょう。あの子も——まあ、ここに身を寄せている一人です」
ベーレはそれだけ言って、食事は一階の広間で出すことを伝え、部屋を出て行った。
一人になったオリヴィアは、杖を壁に立てかけ、窓辺に立った。
窓から見える景色。灰色の屋根が連なり、その向こうに外壁の見張り塔が見える。空は相変わらず赤黒く脈動していた。
ここからでは全体像が見えない。それは神々も同じだと、以前に聞いたことがある。世界の外側から見ると全体は把握できても、細部が潰れてしまう。だから、内側に入って自分の目で見る必要がある。
『揺籃を灰から掬え』
揺籃。ゆりかご。生まれたばかりの何かを守るもの。それが灰に埋もれている。
この街の名は「カルムザード」。救護院の名は「灰の宿り木」。空は赤黒く病み、人々は原因不明の症状に苦しんでいる。
まだ情報が足りない。
オリヴィアは窓から離れ、寝台の端に腰を下ろした。旅の疲れは感じない。この体は人間のそれとは少し違う。疲労はするが、回復も早い。それでも、動き始める前に状況を整理する時間は必要だった。
腰のポーチを開き、中身を確認した。小さなガラス瓶がいくつか。中身は空の調合用容器だ。乾燥した薬草の束。筆記具。それから、白い石の欠片が一つ。何に使うものでもない。以前の世界で拾ったもので、滑らかな手触りが気に入って持ち歩いている。
ポーチを閉じ、階下に降りることにした。
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一階の広間には、数人の人間がいた。壁際の長椅子に座っている老人。テーブルに突っ伏して眠っている若者。隅で膝を抱えている子供が二人。いずれも顔色が優れない。
ベーレが厨房から出てきて、オリヴィアに椀を差し出した。薄い粥のようなものに、干し肉の欠片が浮いている。
「豪華とは言えませんが」
「十分です。いただきます」
オリヴィアはテーブルに着き、匙を取った。味は薄かったが、温かかった。体が食事を必要とする仕組みは人間と同じだ。少なくとも、空腹は感じる。
粥を半分ほど食べたところで、ベーレが向かいに座った。他の人間たちとの間に、聞こえない程度の距離があった。
「さっきの話の続きですが」
ベーレは声を落とした。
「三月ほど前からです。最初は子供たちでした。夜中に目を覚まして、泣きもしないで窓の外をじっと見ている。親が声をかけても反応しない。しばらくすると元に戻るんですが、朝になると何も覚えていない」
「夢遊病のようなものですか」
「最初はそう思われていました。でも、だんだん症状が広がって。大人にも出始めた。それだけじゃなくて——」
ベーレは自分の腕を見下ろした。袖をまくると、内肘のあたりに灰色の染みがあった。地図のような不規則な形。皮膚の色が抜けているのではなく、別の色に変わっている。
「これが出るんです。痛みはない。でも、消えない。この染みが広がっている人は、あの——夜の症状も重い」
オリヴィアは匙を置き、ベーレの腕の染みを見た。観察した。灰色の染みは表皮だけでなく、その下の組織にまで及んでいるように見えた。境界線はぼやけている。
「触れてもよろしいですか」
ベーレは少し驚いたが、頷いた。
オリヴィアは指先で染みの表面に触れた。温度は周囲の皮膚と同じ。質感も変わらない。ただ、指先に——。
かすかな引力のようなものを感じた。
自前の魔力を持たないオリヴィアにとって、魔力の流れを感知する能力は限定的だ。だが、これほど近くで直接触れれば、異常な集積くらいは感じ取れる。染みの下に、何かが溜まっている。この世界の大気に漂っていたものと同じ、重く粘度のある力。それが人体の内部に浸透し、沈殿している。
「ベーレさん。この症状が出ている方は、街にどのくらいいらっしゃいますか」
「正確にはわかりません。でも、この救護院だけで二十人以上。街全体だと……数百人はいるかもしれない」
「空のあの現象と、時期は重なりますか」
ベーレは目を見張った。
「……ええ。そうです。空が赤くなり始めたのも、ちょうど三月前。でも、どうしてそれを——」
「推測です。外を歩いてきた時に、大気の状態が通常ではないと感じましたので」
「あなた、薬師か何かですか」
「似たようなものです」
嘘ではなかった。正確でもなかったが、この場で「私はホムンクルスで、神々に派遣されて問題を解決しに来ました」と言うわけにはいかない。そもそも、まだ問題の正体すら掴めていない。
広間の入り口で、足音がした。
振り返ると、少女が一人立っていた。オリヴィアより頭一つ分ほど小柄で、赤みがかった茶髪を短く切り揃えている。革の前掛けをつけ、両手が煤で黒くなっていた。年齢は十五、六といったところ。大きな目がオリヴィアを真正面から捉え、明らかな警戒の色を浮かべていた。
「ベーレさん、この人誰」
「今日から少しの間、ここに泊まるオリヴィアさん。あなたと相部屋になってもらったの」
「聞いてないんだけど」
「あなたが出かけている間に決まったの。ナディ、失礼な口をきかないで」
ナディと呼ばれた少女は、不満を隠そうともせずにオリヴィアを見ていた。視線が上から下へ、そしてもう一度上へ。観察されている、とオリヴィアは感じた。鋭い目だった。
「旅人にしては荷物が少ないね。それに——」
ナディの目が、壁に立てかけてある杖に留まった。一階に降りてくるときに持ってきていた。ナディの目つきが変わった。好奇心。あるいは、もっと切実な何か。
「その杖、何。見たことない作りだけど」
「私の道具です」
「道具って、何の」
「ナディ」
ベーレが諫めるように名を呼んだ。ナディは唇を尖らせたが、それ以上は追及しなかった。代わりに、テーブルの上の粥の椀を見た。
「私の分ある?」
「ありますよ。手を洗ってきなさい」
ナディは厨房に消えた。水の音がして、程なく戻ってきた。ベーレが用意した椀を受け取り、オリヴィアの正面にどかりと座った。遠慮というものが存在しない座り方だった。
粥を口に運びながら、ナディはオリヴィアを見ていた。
「ねえ、あんた。どこから来たの」
「遠くからです」
「それ答えになってない」
「申し訳ありません。具体的な地名を申し上げても、おそらくご存じないかと思いますので」
ナディは眉をひそめた。
「ふうん。まあいいけど。ねえ、あんたさ、怖くないの」
「何がでしょうか」
「空。見たでしょ、あれ。三月前から止まらないの。最初は学者たちが調べるって息巻いてたけど、誰もわからなくて。それで人がどんどんおかしくなって、街から逃げ出す人も増えて——」
ナディは粥を掻き込みながら、矢継ぎ早に話した。口調は乱暴だったが、声の底に怯えが滲んでいた。
「門番の人が入市者が減っていると言っていましたが、それが理由ですか」
「逆。出ていく人が増えてるの。入ってくるのは事情を知らない人か、逃げる場所がない人だけ。あんたはどっち」
オリヴィアは少し考えた。
「どちらでもありません。私は、ここに来る必要がありました」
ナディは匙を止めた。オリヴィアの顔をじっと見た。
「……変な人」
「よく言われます」
「それ、自分で言うことじゃないでしょ」
「事実ですので」
ナディは一瞬きょとんとして、それから小さく吹き出した。すぐに真顔に戻ったが、警戒の色が少し薄らいでいた。
食事を終えた後、オリヴィアはベーレに街の地理について尋ねた。ベーレは簡単な地図を描いてくれた。カルムザードは円形の城壁に囲まれた都市で、中心部に領主の屋敷と大聖堂がある。商業区、職人区、居住区が同心円状に広がり、救護院があるのは外縁に近い居住区だった。
「領主様は今、どうされていますか」
「ルクレス様は——」
ベーレの声が曇った。
「お体を悪くされて、もうひと月近く公の場に出ていらっしゃいません。政務は副官のモーゲン様が代行しています。ただ、モーゲン様も最近は——」
言い淀む。ベーレの表情から読み取れるのは、信頼の欠如だった。モーゲンという人物に対する、静かな不信。
「大聖堂には、聖職者の方がいらっしゃいますか」
「ええ。司祭のイオルグ様がいらっしゃいます。空の異変が始まってから、毎日祈りを捧げてくださっていますが——」
効果はない。ベーレはそう言わなかったが、言外に滲んでいた。
「明日、街の中を少し歩いてみたいのですが、差し支えありませんか」
「ええ、特に外出禁止というわけではありません。ただ、夜は出歩かないでください。最近は——夜に、よくないことが起きますから」
「よくないこと、とは」
ベーレは立ち上がり、テーブルを片付け始めた。その手が、ほんの一瞬、震えた。
「……人が消えるんです」
それだけ言って、ベーレは厨房に戻っていった。
---
夜。
二階の部屋で、オリヴィアは寝台に横になっていた。隣の寝台ではナディが毛布にくるまっている。まだ眠ってはいないようだった。呼吸が浅く、不規則だ。
窓の外から、赤黒い光がカーテンの隙間を通して部屋に忍び込んでいた。光は脈動している。収縮。膨張。収縮。まるで巨大な生き物の心拍のように。
「……ねえ」
ナディの声。小さく、天井に向かって。
「なんでしょうか」
「あんた、本当は何しに来たの」
暗闇の中で、オリヴィアは天井を見つめた。
「困っている人がいるなら、力になりたいと思っています」
「誰に頼まれたわけでもなく?」
「頼まれてはいます。ただ、詳しいことは教えてもらえませんでした」
「何それ。意味わかんない」
「私もそう思います」
しばらく沈黙があった。赤い光が脈動する。
「ナディさんは、鍛冶のお仕事をされているのですか。手の煤と前掛けから推察したのですが」
ナディが毛布の中で身じろぎした。
「……鍛冶っていうか、細工師。金属の。親方のところで修行してた。してた、っていうのは——親方が、あの病気になっちゃって。もう槌を持てない。だからここに来てるの」
声が震えた。ナディは咳払いをしてそれを隠した。
「お辛いですね」
「同情しないで」
「同情ではありません。事実を申し上げただけです」
また沈黙。今度はもう少し長かった。
「……あんたって、ほんと変な人」
「はい」
「否定しないんだ」
「否定する根拠がありませんので」
ナディがまた小さく吹き出す気配がした。
「ねえ、オリヴィア。明日さ、街を歩くんでしょ。案内しようか。一人だと危ないところもあるし」
「ありがとうございます。ぜひお願いします」
「……うん。じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
ナディの呼吸が次第に深くなっていった。眠りに落ちたようだった。
オリヴィアは目を閉じなかった。
窓の外の脈動を感じていた。あの赤黒い空。大気に満ちた重く粘度のある力。人々の体に沈殿する灰色の染み。夜に消える人間。
まだ何もわかっていない。だが、この世界が静かに壊れかけていることだけは確かだった。
どれほどの時間が経っただろう。
異変が起きた。
隣の寝台から、微かな音が聞こえた。毛布が擦れる音。寝返りとは違う。
オリヴィアは目を開けた。
ナディが起き上がっていた。
寝台の上に座り、目を開けている。ただし、その目に意思の光はなかった。瞳孔が極端に開き、虹彩がほとんど見えない。黒い穴のような目が、まっすぐ窓を見つめていた。
ベーレの言っていた症状だ。
オリヴィアは音を立てずに身を起こした。
「ナディさん」
声をかけた。反応はない。ナディは寝台から降り、裸足のまま窓に向かって歩き始めた。動きは滑らかで、目を閉じていないだけの夢遊病のように見える。
窓の前に立ったナディは、カーテンを開いた。赤黒い光が部屋に流れ込んだ。
その光を浴びた瞬間、ナディの首筋に——灰色の染みが浮かび上がった。
オリヴィアは寝台を離れ、ナディの傍に立った。近くで見ると、染みはゆっくりと広がっていた。脈動する空の光と同期するかのように、収縮と膨張を繰り返しながら。
ナディの唇が動いた。
声はほとんど聞こえなかった。息とも言葉ともつかない、かすかな音。オリヴィアは耳を近づけた。
「——ゆりかご——」
オリヴィアの黄緑色の瞳が、わずかに見開かれた。
ナディはそれ以上何も言わなかった。やがて、空の脈動が一際大きく明滅し——そして、少し弱まった。ナディの体から力が抜けた。倒れかけるのをオリヴィアが支え、寝台に戻した。
ナディの呼吸は規則正しいものに戻っていた。首筋の染みは——消えてはいなかった。うっすらと、確かにそこに残っていた。
オリヴィアは窓辺に立ち、空を見上げた。
赤黒い脈動。その奥に、何かがいる。あるいは何かがある。この街の人間を蝕み、夜ごとに引き寄せ、一人ずつ消していくもの。
『揺籃を灰から掬え』
揺籃という言葉を、ナディは口にした。この街の人間が偶然その言葉を使うとは考えにくい。あの状態のナディは、何かに繋がっていた。空の向こうにあるものと。
オリヴィアは杖を手に取った。琥珀の水晶はほぼ空だ。魔術を行使する余力はほとんどない。この世界で魔力を調達するには、この世界の住人から借りる必要がある。
そのためには、信頼が要る。
オリヴィアはもう一度ナディの寝顔を見た。短い赤茶の髪が額にかかっている。眉間にかすかな皺が寄っていた。眠っていても、安らかとは言い難い表情だった。
明日からが、本番だ。
杖を壁に戻し、寝台に腰を下ろす。
眠る必要がないわけではない。だが、今夜はもう少しだけ起きていようと思った。ナディが再び起き上がった場合に備えて。この体は人間より頑丈にできている。一晩の徹夜くらいは問題ない。
赤い光が明滅する部屋の中で、オリヴィアは静かに座っていた。
膝の上に置いた自分の手を見下ろした。細い指。人間と見分けのつかない肌。爪の形も、関節の皺も、何もかもが精巧に作られている。
自分を作った存在は、なぜこれほどまでに「人間らしく」作ったのだろう。
いつか、その答えを聞ける日が来るのだろうか。
——考えても仕方のないことだった。今はこの世界の問題がある。
オリヴィアは思考を切り替え、空の脈動を数え始めた。規則性があるなら、そこから何かがわかるかもしれない。
十二回の脈動で一つの周期。周期と周期の間に、わずかな揺らぎ。揺らぎの幅は一定ではなかったが、少しずつ間隔が短くなっているように感じられた。
加速している。
何が加速しているのかはまだわからない。だが、時間に余裕がないことだけは確かだった。
窓の外で、街の時計塔が鐘を打った。深夜を告げる四つの鐘。その音が消えた後の静寂は、以前の世界で聞いたどの沈黙よりも重かった。
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翌朝、ナディは何事もなかったかのように目を覚ました。
「おはよ。あれ、あんた顔色悪くない? 寝られなかった?」
「少し考え事をしていました。おはようございます、ナディさん」
「ナディでいいよ、さん付けされると背中がむず痒い」
「わかりました。ナディ」
「うん。じゃ、顔洗って朝ごはん食べよ。今日は案内するんでしょ」
ナディは快活に寝台から飛び降りた。昨夜の異変の記憶は、やはりないようだった。首筋の染みは、ナディの短い髪に隠れてほとんど見えなかった。
一階で簡素な朝食——硬いパンと薄いスープ——を済ませ、二人は街に出た。
朝の空は、赤黒い脈動がやや薄まっていた。完全に消えてはいないが、日中は弱まるようだった。それでも、普通の空とは程遠い。陽光はあるが、どこか色褪せている。影の輪郭がぼやけている。
「どこから行く?」
ナディが訊いた。
「まず、大聖堂を見てみたいのですが」
「大聖堂? 何しに?」
「この街の歴史について知りたいのです。大聖堂であれば記録が残っているかもしれませんから」
「んー、まあ確かに。イオルグ司祭は偏屈だけど、悪い人じゃないから、頼めば書庫に入れてもらえるかも」
二人は大通りを街の中心部に向かって歩き始めた。
通りには昨日よりも人が少なかった。店の半数は戸板を下ろしている。開いている店も、品揃えが寂しい。
「食料の供給は大丈夫なのですか」
「今のところはね。カルムザードは交易都市だから備蓄はある。でも、外からの物資が減ってきてる。噂が広まって、商人が近づかなくなってるの」
ナディは歩きながら、ところどころで建物や通りの名前を教えてくれた。案内は手慣れていた。この街で生まれ育ったのだろう。
商業区を抜け、中心部に近づくにつれて建物の質が変わった。石造りの重厚な建築が増え、道幅も広くなる。だが、ここでも人の気配は薄かった。
大聖堂が見えてきた。
灰色の石で組まれた、荘厳な建物。尖塔が二本、空に向かって伸びている。ただし、その尖塔の先端に——。
「あれは」
オリヴィアは足を止めた。
尖塔の先端から、黒い染みが広がっていた。外壁にあったものと同じ種類の変色。だが、こちらの方がはるかに濃く、広範囲に及んでいた。尖塔の上半分がほとんど黒く染まっている。
「ひと月前くらいから。最初は先端だけだったんだけど、どんどん広がってる。司祭は聖水で清めたり祈りを捧げたりしてるけど、全然止まらない」
ナディの声は平坦だったが、視線は尖塔を避けていた。
大聖堂の正面扉は開いていた。中に入ると、薄暗い聖堂の中に蝋燭の光が点々と灯っていた。長椅子の前で祈りを捧げている人が数人。そして、祭壇の前に一人の男が立っていた。
白い法衣。銀髪を後ろに撫でつけた痩身の老人。背筋は真っ直ぐだったが、顔色は紙のように白い。
ナディが声をかけた。
「イオルグ司祭、お客さんです」
老人が振り返った。深い皺に刻まれた顔の中で、灰色の目だけが鋭く光っていた。その目がオリヴィアを捉え——一瞬、わずかに揺らいだ。
「……旅の方か」
「はい。オリヴィアと申します。この街の歴史について調べたいことがあり、書庫を拝見させていただくことは可能でしょうか」
イオルグはオリヴィアを無言で見つめた。長い沈黙だった。ナディが居心地悪そうに足を動かした。
やがて、イオルグは口を開いた。
「あなたは——何者ですか」
その問いには、単なる身元確認以上の重みがあった。
「旅の者です。この街の異変に興味を持ちました」
「興味、ですか」
イオルグの灰色の目が細まった。
「興味だけで、この街に来る者はもういません。みな逃げ出している。それなのに、あなたは——」
イオルグは言葉を切り、祭壇の方に目を向けた。祭壇の上に置かれた聖典の表紙にも、うっすらと灰色の染みが広がっていた。
「……書庫は裏手にあります。ご自由にお使いください。ただし——」
イオルグは再びオリヴィアを見た。
「一つだけ教えていただきたい。あなたには、この街を救う力がありますか」
オリヴィアは、イオルグの目をまっすぐに見返した。
「今の私には、力がありません」
正直な答えだった。杖の中の魔力はほぼ空。この世界の法則もまだ完全には把握していない。力は、文字通りなかった。
「ですが——」
オリヴィアは杖を握る手にわずかに力を込めた。
「力は、これから集めます。それが、私がここにいる理由です」
イオルグは長い間、オリヴィアの目を見つめていた。そして、ゆっくりと頷いた。
「書庫の鍵をお渡しします。必要なものがあれば、何でも持ち出して構いません」
老司祭は法衣のポケットから古びた鉄の鍵を取り出し、オリヴィアの手に置いた。その指先が、微かに震えていた。
「——この街を、頼みます」
その声は祈りのように響いた。
オリヴィアは鍵を受け取り、深く一礼した。
聖堂の薄闇の中で、蝋燭の炎が揺れた。窓から差し込む色褪せた光の中に、灰色の塵がゆっくりと舞っていた。
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書庫は大聖堂の裏手、地下に続く階段の先にあった。
湿った空気。古い紙と革の匂い。壁面を埋め尽くす書架に、大小さまざまな書物や巻物が並んでいる。
ナディは入り口で立ち止まった。
「私、本とか苦手だから外で待ってるね」
「ありがとう。少し時間がかかるかもしれません」
「いいよ。急がないから」
ナディが去った後、オリヴィアは書架の前に立った。文字は読めない。だが、文字が読めなくても、わかることはある。
書物の配置。古さ。使用頻度。背表紙の色褪せ方。ここ最近誰かが手に取った形跡のある本。
一冊の大判の書物が、他より少し引き出された状態で棚に収まっていた。誰かが最近参照して、完全には戻さなかった。
オリヴィアはそれを引き出し、開いた。
文字は読めない。だが——挿絵があった。
最初の数ページは、街の建設に関するものらしかった。城壁の図面。大聖堂の設計図。
そして、一枚の絵が目に留まった。
大聖堂の地下。現在オリヴィアがいる書庫のさらに下。そこに、大きな空洞が描かれていた。空洞の中心に——。
揺籃。
文字通りの、揺りかごの形をした構造物。ただし、人間の赤子を入れるようなものではない。巨大だった。絵の中でスケールを示す人物の影と比較すると、高さは人の何倍もある。揺籃の内部には、光を放つ球体のようなものが描かれていた。
オリヴィアはページをめくった。次の挿絵。揺籃から光が溢れ、街全体を包んでいる様子。光は人々に降り注ぎ、大地に染み込み、空に昇っている。
その次のページ。光が弱まっている。揺籃の表面に、ひび割れが描かれていた。
そしてその次。
揺籃が灰に覆われている絵。
オリヴィアはゆっくりと本を閉じた。
この街の地下に、何かがある。かつてこの街を支えていた何かが。それが損なわれている。灰に覆われ、力を失いつつある。
空の脈動。人々の身体に現れる灰色の染み。夜ごとの異変。消える人々。
すべてが繋がり始めていた。
オリヴィアは本を抱え、書庫を出た。階段を上がり、聖堂を通り、外に出た。ナディが壁にもたれて待っていた。
「見つかった? 何か」
「ナディ。一つ訊いてもいいですか」
「何?」
「この大聖堂の地下に、書庫よりさらに深い場所があることを、知っていますか」
ナディの顔から、一瞬だけ表情が消えた。
「……どうして、それを」
「本に書いてありました。絵だけですので詳しいことはわかりませんが」
ナディは壁から背を離し、周囲を見回した。人の目がないことを確認してから、低い声で言った。
「親方から聞いたことがある。カルムザードの地下には『核』がある。街を作った人たちが遺したもの。何百年も前から、街を守ってきたもの。でも——」
ナディは空を見上げた。赤黒い脈動は、日中でもうっすらと見えていた。
「それが壊れかけてるんじゃないか、って。親方はそう言ってた。病気になる前に」
オリヴィアは頷いた。
パズルのピースが揃い始めていた。まだ全体像は見えない。だが、方向は見えた。
この街の地下に降りる必要がある。「核」を——揺籃を、自分の目で確かめる必要がある。
そのためには、まだやるべきことがある。地下への道を見つけること。そして——。
オリヴィアは杖を見た。琥珀の水晶は暗い。力の貯蔵はほぼゼロ。
魔力が要る。
この世界の問題を解決するために、この世界の誰かの力を借りなければならない。
それは信頼の問題だった。
オリヴィアはナディを見た。赤茶の短い髪。煤に汚れた手。大きな目に浮かぶ、不安と好奇心と、その奥にある小さな決意。
「ナディ」
「なに」
「この街を助けたいと思っています。そのために、あなたの協力が必要になるかもしれません」
ナディは目を丸くした。
「私の? 何ができるの、私に」
「まだわかりません。ですが——あなたがいてくれると、心強いです」
ナディは顔を赤くして、ぷいと横を向いた。
「……変な人。会ったばかりなのに、そういうこと言う」
「事実ですので」
「またそれ」
ナディは横を向いたまま、小さく笑った。
「——いいよ。手伝う。どうせ他にやることないし」
赤黒い空の下で、二人は大聖堂の前に立っていた。
灰に覆われた揺籃。壊れかけた街の核。消えていく人々。
何一つ解決していない。けれど、オリヴィアの隣には今、一人の協力者がいた。それは小さな一歩だったが、確かな一歩だった。
風が吹いた。オリヴィアのケープが翻り、留め具のエメラルドのブローチが色褪せた陽光の中で一瞬だけ、鮮やかな緑を放った。
この世界で、これから為すべきことの輪郭が、少しずつ見え始めていた。




