表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/39

5話「海と、それから」

一年が過ぎた。


カレナの海は変わった。


かつてのように、網を下ろせば溢れるほどの魚が獲れることはなくなった。嵐が来るようにもなった。秋の終わりに訪れた最初の嵐では、桟橋の一部が壊れ、船が二隻損傷した。それまで三百年の間、この町が経験しなかったことだ。


だが——町は、まだここにあった。


「——よし、今日はここまでだ。網を上げろ」


ルカ・マレーナの声が、朝の海に響いた。


船の上で若い漁師たちが網を引き上げる。中身は多くない。銀色の鱗が朝日を弾いて光っているが、かつての大漁には遠く及ばない。それでも、誰の顔にも不満はなかった。


「ルカ、もう少し沖に出れば——」


「今日はここまでだ。潮が変わる」


仲間の提案を、ルカは穏やかに、しかし迷いなく退けた。船の舵を切り、港へ向かう。


海面を渡る風を頬に受けながら、ルカは沖を振り返った。


かつて海溝があった辺りは、今では何の変哲もない海域になっている。特別に深いわけでもなく、特別に魚が多いわけでもない。ただの海。ルカたちはもうあの場所に網を入れていない。入れる必要がなくなった——というより、入れるべきではないと、全員が自然に理解していた。


あの場所には、何も残っていない。


けれど時折——本当にごく稀に——夜の海で、水平線のあたりに淡い青い光が見えることがあった。漁師たちはそれを見ると、静かに手を合わせる。帽子を取る者もいる。


誰が始めたわけでもないその習慣は、いつの間にか町全体に広がっていた。


---


港に戻ると、桟橋にドナートが立っていた。


引退したはずの老漁師は、相変わらず毎朝ここに来る。海を見て、風を読み、潮の匂いを嗅いでから一日を始める——それだけは死ぬまで変えないのだと本人は言っている。


「どうだ」


「まあまあだな。悪くない」


ルカが船から魚の入った籠を持ち上げると、ドナートが無言で受け取った。引退したとは思えない力で軽々と肩に担ぎ、広場の方へ歩き出す。


「親父、腰——」


「うるせえ」


背中で遮られた。ルカは肩をすくめたが、その口元には笑みが浮かんでいた。


漁獲量は以前の三分の二ほどに減った。だがゼロにはならなかった。この海には元々の力がある——ドナートの爺さんが言っていた通りだった。超常の恩恵を失っても、風が吹き、潮が流れ、魚が回遊してくる。人間が取りすぎなければ、海は応えてくれる。


減った分を補うために、町はいくつかの変化を受け入れた。内陸の町との交易路を整備し、穀物や野菜を安定して仕入れられるようにした。干物や燻製の技術を磨き、保存食の質を上げた。ニーナの食堂では、魚だけでなく山の幸を使った料理が増えた。


楽ではない。楽ではないが——息ができる。誰かを踏みつけにして得た繁栄ではない、自分たちの手で掴んだ暮らしだという実感が、苦しさの中にも芯を通していた。


---


ニーナの食堂は、昼時になると賑わうようになっていた。


以前は閑散としていた店内に、今では毎日客が来る。海が戻ってからというもの、町全体の空気が変わった。不安が消えたわけではない。むしろ不安は以前よりも多い——嵐の心配、漁獲の心配、将来の心配。だがその不安を、隣の人間と分かち合えるようになった。


「ニーナばあちゃん、今日の煮込みうまいな」


「そうかい。山の向こうの町から届いた豆を使ってみたんだよ」


「へえ、豆か。魚に合うのか?」


「合うように作るのが料理ってもんさ」


カウンターの向こうで、ニーナは相変わらず穏やかに笑っている。ただ——壁に一つだけ、新しいものが掛かっていた。


小さな額縁に入った、エメラルド色の布の切れ端。


食堂を訪れる者のほとんどは気づかない。気づいても、ただの飾りだと思う。だがニーナだけは知っている。あの朝——あの旅人が発つ前に、ケープの裏地がほんの少しだけ擦り切れて残っていたことを。部屋を片付けていた時に見つけた、緑色の糸くず。


それを拾い上げた時、ニーナの指先にほんの微かな温もりが伝わった気がした。気のせいかもしれない。老いた指の感覚など当てにならない。


でも——額に入れて飾っておくくらいは、許されるだろう。


---


神殿は、少し変わった。


ファルコ司祭は相変わらず朝の説教を行っている。だがその内容は、以前とは異なっていた。


「——海は与えてくれるものではない。海とともに生きるのだ。我々が海を敬えば、海も我々に応えてくれる。それは神の恵みではなく、自然の理だ」


言葉はまだ硬く、口調は相変わらず堅苦しい。聴衆の数も多くはない。だが——以前のように恐怖を煽る響きは消えていた。


説教の後、ファルコは神殿の奥の書庫に籠もることが増えた。歴代の司祭が残した記録を読み返しているのだという。三百年分の記録の中に、あの存在について書かれた部分がどれだけあるのか。先人たちが何を考え、何を正当化し、何を見て見ぬふりをしてきたのか。


それを知って何になるのかと問われれば、ファルコにも答えられないだろう。ただ——知らなければならないと、あの夜以来思い続けている。


ある日、書庫の片隅から一冊の古い日記が見つかった。初代の司祭のものだった。


最後のページにはこう書かれていた。


『我々は過ちを犯したのかもしれない。あの方の目に宿る光を、私は忘れることができない。後の世の者が、いつかこの過ちを正してくれることを祈る』


ファルコはその頁を長い間見つめていた。それから、静かに日記を閉じた。


---


墓地の石碑は、そのまま残されていた。


風化した文字はもう読めない。オリヴィアが浮かび上がらせた紋様の光もとうに消えている。ただの古い石が、草の中に佇んでいるだけだ。


だが石碑の前には、いつからか花が供えられるようになっていた。誰が置いたのか、誰も名乗らない。朝になると新しい花が添えられ、夕方には風に散っている。翌朝にはまた新しい花がある。


それが毎日続いていた。


---


季節が巡り、二度目の春が来た頃——ルカは港の桟橋の先端に座り、夕暮れの海を眺めていた。


手にはロープを編む道具。あの日——オリヴィアと初めて会った日と同じだ。だが今は、修繕すべき網がちゃんとある。使い込まれた網を丁寧に繕いながら、波の音を聞いている。


「……なあ」


隣に誰もいないのに、声が出た。


「もし聞こえてたら——元気でやってるよ、こっちは」


馬鹿みたいだと思った。あの旅人が聞いているはずもない。どこにいるかもわからない。そもそも、あの人が何者だったのか——本当のところは誰も知らない。


ただ、ルカは覚えている。


あの薄い表情。細められた黄緑色の瞳。真面目すぎる受け答え。冗談が通じない会話。そして——硝子の海の上で、膝をついて、誰にも聞こえない声で「ごめんなさい」と呟いていた横顔。


愛想がなくて、表情が乏しくて、何を考えているかわからなくて。


でも——この町の誰よりも、あの海の底の悲しみに寄り添おうとしていた人だった。


「海、大事にしてるからな。約束通り」


波が応えるように、ざぶんと桟橋を洗った。


網を繕う手を止め、ルカは立ち上がった。西の空が茜色に染まり、海が燃えるような夕焼けを映している。硝子ではない、本物の水面が、光を揺らめかせている。


明日も海に出る。明後日も。その次の日も。


取りすぎず、敬い、感謝して。


それがルカ・マレーナの——この町の——新しい生き方だった。


---


世界と世界の隙間で、オリヴィア・エスメラルダは目を閉じていた。


白い虚空の中に漂いながら、耳の奥に残る音を聞いている。


潮騒。


もう遠い世界の音だ。次の神託が降ってくるまでの、束の間の静寂。この虚空には何もない。音も光も温度もない。あるのは自分だけだ。空白の器が一つ、どこでもない場所に浮かんでいるだけ。


けれど——空っぽではなかった。


腰のポーチの中に、布に包まれた小さな塊がある。ニーナがくれた焼き魚とパンは、とうに食べてしまった。でも包んでいた布はまだ残っている。洗いざらしの木綿の布に、かすかに残る潮と煙の匂い。


それから、記憶がある。


ルカの笑い声。ドナートの不器用な優しさ。ニーナの温かい手。ファルコの苦い降伏。町の人々の小さな灯り。海底の存在が最後に見せた、あの安堵の光。


そして——自分の頬を伝った涙の感触。


あれは本物だったのだろうか。魂のない器にも涙は流せるのだろうか。


わからない。まだわからない。


でも。


「……少しだけ」


誰もいない虚空に、オリヴィアは呟いた。


「少しだけ、わかったことがあります」


誰かの悲しみに触れて胸が痛むこと。誰かの笑顔を見て安堵すること。別れ際に振り返りたくなること。もらった布を捨てられないこと。


それが魂の証だという確信はまだない。


けれど——空白の器は、もう完全には空白ではなかった。カレナの海で拾い上げたものが、器の底に薄く積もっている。砂浜に打ち寄せられた貝殻のように、小さくて、壊れやすくて、でもたしかにそこにある。


次の世界でもきっと、何かを拾うだろう。そしてまた少しだけ、器の底に積もるものが増えるだろう。


それを繰り返した先に何があるのか、今はまだ見えない。


でも——悪くない。


声が落ちてきた。


新しい神託だ。今度はどんな曖昧な一文が降ってくるのか。


『止まない雨の下で、影が歌を忘れた』


オリヴィアは薄く目を開けた。黄緑色の瞳が、白い虚空の中でかすかに光を帯びる。


「——行きましょう」


杖を握り直す。琥珀の水晶は空っぽだ。エメラルドは沈黙している。力はない。手がかりもない。あるのはただ、どこかの誰かが困っているという、たった一文の手がかりだけ。


それでも、足を踏み出すことはできる。


虚空がひび割れ、新しい世界の色彩が滲み出してくる。身体が引き寄せられる。杖先の二股が振動し、未知の法則に身体を馴染ませていく。


最後に一瞬だけ——本当に一瞬だけ——潮の匂いがした気がした。


気のせいだろう。


でも悪くない。


光が弾け、オリヴィア・エスメラルダは次の世界へ消えていった。


カレナの海では、今日も波が寄せて返している。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ