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4話「潮騒の帰る場所」

広場の井戸を囲むように、灯りが集まっていた。


ランタン、蝋燭、松明。それぞれが手にした小さな光を持ち寄り、夜の広場がぼんやりと照らし出されている。百人に満たない町の住人のほぼ全員が、ここに集まっていた。


漁師たち。その家族。子供を抱いた母親。杖をつく老人。窓から顔だけ覗かせている者もいる。出席しているだけの者も、すでに苛立ちを隠さない者もいた。空気は重く、不安の匂いが充満していた。


広場の北側にファルコ司祭が立っている。白い法衣が松明の光を受けて揺れていた。その周囲には彼を支持する住人が十数人。多くはない。だが少なくもない。


南側に、ドナートとルカ、そしてニーナ。オリヴィアは三人の少し後方に立ち、杖を手にして静かに佇んでいた。


町長が間に立っていた。恰幅のよい中年の男で、名をバルトと言った。額の汗を何度も拭きながら、集まった住人たちを見回している。


「——では、始めよう。今夜の議題は一つだ。この海をどうするか。ファルコ司祭と、旅の方——オリヴィアさん、それぞれ意見を述べてくれ」


ファルコが一歩前に出た。朗々とした声は、広場の隅まで届いた。


「諸君。事態は明白だ。海底の精霊が力の供給を止めたために海が硝子になった。解決策は、契約を更新し、精霊を再び従わせることだ。そうすれば海は元に戻る。漁は再開できる。町は救われる」


言葉を切り、聴衆を見渡す。


「一方で、この旅の術師は精霊を解放しろと言う。解放すれば海の恵みは失われる。嵐を防ぐ力も消える。三百年にわたる繁栄が、すべて水の泡と消えるのだ。それが本当にこの町のためになるのか? よく考えてほしい」


ざわめきが広がった。ファルコの言葉は単純明快で、恐怖に裏打ちされた説得力があった。海を失うことへの恐れ——漁師の町にとって、それは存在そのものの喪失に等しい。


バルト町長がオリヴィアに目を向けた。


「オリヴィアさん、どうぞ」


前に出た。百近い視線が自分に集中している。敵意のある目。縋るような目。無関心を装う目。ここにいる一人一人が、それぞれの生活と、それぞれの恐怖を抱えている。


「私からは、三つの事実をお伝えします」


感情を排し、声を平坦に保った。


「一つ。海底に封じられた存在には意志があります。三百年前、この町の先人たちとの契約によって縛られ、力を供給し続けてきました。しかし近年の過剰な搾取により極度に消耗し、自らを守るために海を硝子で覆いました」


ざわめきが大きくなった。


「二つ。ファルコ司祭が提案する契約の更新——すなわち精霊を再び従わせる方法は、一時的な解決にしかなりません。消耗しきった存在にさらなる負荷をかければ、遠からずあの方は完全に力を失います。そうなれば海は二度と戻りません」


これは推測ではなかった。昨夜触れた存在の力は、かろうじて脈打っている程度まで弱っていた。あの状態でさらに縛り直せば——蝋燭の最後の炎を吹き消すようなものだ。


「三つ。あの方を解放しても、この海が死ぬわけではありません。この海は元々、良い海です。あの方の力に頼らずとも、魚は来ます。潮流は流れます。あの方が去った後の海は、超常の恩恵こそ失われますが——普通の海として、皆さんの生業を支え続けるはずです」


言い終えた後、沈黙が落ちた。


「——根拠はあるのか」


漁師の一人が問い詰めた。四十がらみの痩せた男で、声には険があった。


「解放しても海が死なないっていう保証は? あんたの推測じゃないのか?」


「保証は、できません」


正直に答えた。ざわめきが一段と大きくなる。


「できないって——そんな賭けに町の命を——」


「だったら俺が保証する」


野太い声が割り込んだ。ドナートだった。


大きな身体を群衆の前に進め、漁師たちを見渡す。三十年の経験が——この海で最も長く漁を続けてきた男の言葉が——広場に響いた。


「俺の爺さんは言ってた。この海は元から良い海だと。精霊なんぞいなくても魚は来ると。俺も三十年この海にいて、同じことを感じてきた。潮の匂い、風の向き、魚の動き——この海には、底力がある。あの方に頼らなくても」


声が震えていた。しかし言葉は止まらなかった。


「それに——保証がなけりゃ何もしないってのか? 俺たちの爺さんも、そのまた爺さんも、保証なんてなしに海に出てきたんだ。海ってのはそういうもんだろう。わからないことだらけで、それでも船を出す。それが漁師だ」


重い沈黙が落ちた。だが先ほどとは違う——何かが変わりつつある沈黙だった。


ファルコが口を開きかけた。その時——


「俺からも、言わせてくれ」


ルカが前に出た。


若い漁師の顔は青白く、声は上擦っていた。慣れない場所で大勢を前に話すことの緊張が、全身に滲んでいる。だが目だけは——真っ直ぐだった。


「二年前に、竜の寝床に網を入れたのは俺たちだ。親父に止められたのに聞かなかった。もっと取れる、もっと稼げるって——そう思って」


声が震えた。ルカは拳を握り締め、続けた。


「その結果がこれだ。俺たちがやったんだ。海を止めたのは——あの方を追い詰めたのは、俺たち若い漁師だ」


広場が静まり返った。隣でドナートが目を伏せたのが見えた。


「だから——俺は逃げたくない。ここで楽な方を選んで、またあの方を縛り直して、何もなかったような顔で魚を取り続けるなんて——そんなのは、もう嫌だ」


ルカは群衆を見渡した。その中に、同年代の若い漁師たちの顔を見つけたのだろう——視線が何人かの上で止まった。


「あの方がいなくなったら、楽じゃなくなる。魚は減るかもしれない。嵐も来るかもしれない。でも——それが本当のこの海だろ。俺たちの本当の海だ。それで食っていけるように、俺たちが変わればいい。海の恵みを当たり前だと思わないように。取りすぎないように。あの方に押しつけてきたものを——自分たちの手で引き受ければいい」


声は震えたままだった。雄弁ではなかった。言い回しは拙く、途中で何度もつかえた。それでも——その不格好な言葉には、今夜この広場で語られたどの言葉よりも重い何かが乗っていた。


ファルコが何か言おうとした。しかし、群衆の中から声が上がった。


「ルカの言う通りだ」


若い漁師の一人だった。ルカと同年代の、日焼けした青年。


「俺も——あの時、一緒に網を入れた。ずっと気になってた。親父に何も言えなかった」


もう一人が続いた。


「俺もだ。なんか——ずっと、おかしいと思ってたんだ」


声が連なった。若い漁師たちが、一人、また一人と名乗りを上げていく。罪悪感を——あるいは、心のどこかで感じていた違和感を——ようやく言葉にし始めていた。


ファルコの顔が強張った。流れが変わりつつあることを、この男も感じ取っている。


「——待て。感情に流されるな。精霊を解放した後の生活を、具体的に考えているのか? 漁獲量が半分以下になるかもしれんのだぞ。嵐で船が沈むかもしれんのだぞ。そうなった時に——」


「その時は、その時だ」


ドナートが静かに言った。


「海の上に保証はない。昔からずっとそうだった。それでも俺たちはここにいる。精霊に頼らなくても——この町は、俺たちの町だ」


ファルコは唇を噛んだ。反論を探している目が、広場を泳いでいる。だが——群衆の空気は、すでに傾いていた。


ニーナが一歩前に出た。小さな老婦人の声は、大きくはなかったが、不思議と広場の隅まで通った。


「ファルコ司祭さま。あなたもこの町の人間だよ。あなたのご先祖さまも、この海で暮らしてきた。あの方が苦しんでいることを——司祭の記録で知っていたのでしょう? 知っていて、目を瞑ってきた」


ファルコの身体が揺れた。


「私は——町を守ろうとしただけだ」


「わかっているよ。だからこそ——あなたにも、賛成してほしいんだよ」


ニーナの目は穏やかだった。責めてはいない。ただ、静かに問いかけている。


ファルコは長い沈黙の後、ゆっくりと天を仰いだ。法衣の裾を握る手が震えている。


「……私が賛成しなければ、術は成功しないのだろう」


オリヴィアに向けられた目は、もはや敵意ではなかった。疲労と、そしてほんの僅かな——安堵のようなものが、そこにあった。


「——好きにしろ。だが、町が傾いた時は、全員で責任を取れ。私一人のせいにするなよ」


ファルコの声は掠れていた。


バルト町長が一歩前に出た。額の汗を拭い、全員を見渡した。


「では——挙手を取る。海底の精霊を解放することに賛成の者は」


灯りの中で、手が上がっていった。ルカ。ドナート。ニーナ。若い漁師たち。その家族。一つ、また一つと灯りに照らされた手が広場を埋めていく。遅れて——ゆっくりと——ファルコの細い手も上がった。


反対の手は、一つも上がらなかった。


---


真夜中。


オリヴィアは港の桟橋に立っていた。


背後に町の住人たちが並んでいる。全員ではない。だが、各家から少なくとも一人が残り、数十人がランタンを手に桟橋の上に佇んでいた。


ルカが隣に立つ。ドナートがその横。ニーナが椅子に腰かけて。ファルコは少し離れた場所にいたが、立ち去りはしなかった。


「今から、海溝の上へ行きます。封印を解く術を組み上げます。皆さんには——ここで、待っていてください」


「一人で行くのか?」ルカが訊いた。この問いは三度目だ。


「はい。術の制御には集中が必要です。それに——あの方と最後にお話しするのは、私一人のほうがいい」


「なぜだ?」ドナートが眉を寄せた。


「あの方は三百年の間、人間に傷つけられてきました。大勢で近づけば、怯えさせてしまうかもしれません」


ドナートは何か言いかけて口を閉じた。代わりにルカが、拳をオリヴィアの前に差し出した。


「——持っていけ」


拳を開くと、何もない。ただの掌。日焼けした、網の跡が残る、漁師の掌。


「皆の力、ここで足してから行け。一人で行くなら——せめて俺たちの力は全部持っていけ」


オリヴィアはルカの掌を見つめた。それからルカの目を見た。


細められた黄緑色の瞳に、何かが揺れた。


「……はい」


一人一人の手に触れていった。ルカの手。ドナートの手。ニーナの手。若い漁師たちの手。その妻たちの手。子供の小さな手。魚屋の主人の分厚い手。パン焼きの女の粉だらけの手。


一つ一つの手から、力が流れ込んでくる。


荒い力。繊細な力。温かい力。冷たい力。潮の匂いのする力。土の匂いのする力。怒り。後悔。希望。不安。愛情。恐れ。決意。——町に住むすべての人間のすべての感情が、魔力の中に混ざり込んでくる。


琥珀の水晶が眩い光を放った。容量の限界に近い。多色の光が渦を巻き、水晶の内部で複雑な模様を描いている。


最後に——ファルコが歩み寄った。無言で手を差し出す。


触れた。流れ込んできた力は——苦い。苦くて、硬くて、棘がある。しかしその奥に、この男なりの信念があった。町を守りたいという、不器用で頑なな意志。それもまた、必要な力の一部だった。


手を離した。


「ありがとうございます。——行ってまいります」


桟橋から硝子の海へ踏み出した。


月光の下、透明な海の上を歩く。杖の石突きが硝子を打つ音だけが、静寂の中に響いていた。


振り返ると、港の灯りが小さく揺れていた。何十ものランタンの明かりが寄り添うように集まっている。あの一つ一つが、今自分の杖の中に宿っている力の持ち主だ。


---


海溝の上に着いた。


硝子の下、闇の底から、青い光が昇ってきた。昨夜よりも近い。昨夜よりも強い。


まるで——待っていたかのように。


杖を構えた。琥珀の水晶が満ちた光を放ち、エメラルドの変換器がその光を受けて深い緑に輝く。二股の杖先が大きく振動し、この世界の法則と自分の術式を調律していく。


町の人々から受け取ったすべての力を、一つの術式に織り上げる。


異なる性質の力が混ざり合い、反発し、ぶつかり合う。荒い力と繊細な力。温かい力と冷たい力。それらを一本の糸に紡ぐのは——職人の技だ。天才の技だ。生まれ持ったものではなく、果てしない研鑽によって磨き上げた、純粋な技量。


自前の力を持たないからこそ、他者の力を扱う術を極めた。それがオリヴィア・エスメラルダという存在の、唯一にして最大の武器だった。


術式が完成する。


杖先から光の糸が伸び、硝子の表面に触れた。そこから波紋のように広がり——古い封印の輪郭が浮かび上がった。


三百年前の契約が、目に見える形で現れた。


硝子の下に、巨大な円環が光っていた。波を模した紋様と鎖の文様が絡み合い、海溝を中心に何百メートルもの範囲に広がっている。その規模に息を呑んだ。三百年前の術師たちは、相当な力を持っていたのだ。


封印の核は海溝の底にある。そこに——あの存在がいる。


「聞こえますか」


声を落とした。杖を通じて、意識を封印の壁の向こうへ送り込む。


応答があった。昨夜と同じ——しかしより明瞭な、感情の波。


こちらを認識している。待っている。怯えながら、けれど——期待しながら。


「契約を解きに来ました。この町の人たちが、あなたの解放に同意しました」


波が揺れた。驚き。困惑。そして——信じられないという、震えるような感情。


「嘘ではありません。ここに、証があります」


琥珀の水晶を掲げた。町の全員の力が詰まった水晶を。一人一人の意志が——後悔が、決意が、感謝が——光の中に混じっている。


封印の壁の向こうで、青い光が大きく脈打った。


「あなたに聞かなければならないことがあります。契約の解除には、双方の合意が必要です。あなたは——自由になることを、望みますか」


問いかけた瞬間、返ってきたのは感情の嵐だった。


自由。その言葉が持つ意味の大きさ。三百年の間、一度も与えられなかったもの。鎖に繋がれ、力を吸い上げられ、忘れ去られた海の底で、それでも諦めきれずに抱き続けた願い。


——はい。


言葉ではなかった。だが意味は明確だった。全身を貫くほどの切実さで、あの存在は応えた。


「わかりました」


目を閉じた。術式を起動する。


契約の解除——それは力で壁を壊すのではなく、結び目を解くことに似ていた。三百年前に結ばれた約束の糸を、一本一本、丁寧にほどいていく。


『汝は此の地の海を守り』——海を守る義務を、解く。


『我らは汝に安息の地を与える』——安息という名の牢獄を、開く。


『汝の力は我らの糧となり』——搾取の鎖を、断つ。


『我らの感謝は汝の糧となる』——果たされなかった約束を、認める。


一本解くごとに、琥珀の水晶から力が流れ出していく。町の人々の意志が、契約の結び目に触れ、溶かしていく。ルカの後悔が。ドナートの覚悟が。ニーナの祈りが。ファルコの苦い決意が。名も知らぬ人々の、小さいけれど確かな決心が。


力が減っていく。身体が軋む。借り物の力を制御し続ける負荷が、四肢の末端から熱として跳ね返ってくる。


最後の一本。


『此の契り、双方の意により解かれるまで永遠に続く』


双方の意——人間の側の意志は、杖の中にある。あの存在の意志は、今この瞬間、封印の壁の向こうで光り輝いている。


二つの意志を、同時に——


結び目に触れた。


ほどけた。


---


硝子が砕けた。


足元から。海溝の中心から。光の奔流とともに、三百年の封印が崩壊していく。


割れたのではない——溶けたのだ。硝子が水に戻っていく。固まっていた波が動き出す。止まっていた潮流が流れ始める。閉じ込められていた魚たちが——三百年分ではなく、ひと月分の時間を取り戻したかのように——一斉に泳ぎ出す。


水が。


海が、戻ってきた。


オリヴィアの足元に水が押し寄せた。冷たい。本物の海の冷たさ。波が——波がある。足首を洗い、膝を濡らし、やがて腰の高さまで——


杖を掲げた。術の反動で身体が動かない。力を使い果たした琥珀の水晶は完全に光を失い、ただの黄色い石に戻っていた。


沈む、と思った瞬間——


水の中から、何かが浮かび上がってきた。


青い光。しかし今度は硝子の向こうではない。目の前に、手の届く距離に、光が現れた。


水面を割って姿を見せたのは——人の形ではなかった。もっと大きく、もっと流動的な、光と水と意志でできた存在。巨大な潮流が意志を持ったかのような、あるいは海そのものが一つの感情を持ったかのような——名前をつけることすらためらわれる、圧倒的な存在。


けれど——その存在の中心にある光は、不思議なほど穏やかだった。


怒りはなかった。


憎しみもなかった。


あったのは——安堵だった。途方もなく深い、三百年分の安堵。鎖が外れた手足を伸ばすように、光が四方に広がっていく。海全体を包み込むように。


そして——あの存在がこちらを見た。


感情が流れ込んでくる。感謝。それからもう一つ——問いかけ。


『お前は、何者だ?』


言葉ではなく感覚として伝わった問い。人間ではないことを、この存在は見抜いている。三百年の間に無数の人間の気配を感じてきたのだろう。その中にいなかった種類の存在が、自分だ。


「……私は——」


何と答えるべきか、一瞬迷った。


ホムンクルス。神の作りし器。魂があるかどうかもわからない、空白の存在。


だが——今、この瞬間は。


「私は、オリヴィアです。あなたに会いに来ました」


それだけでいい、と思った。今の自分を説明するには、それだけで十分だった。


あの存在から、温かい波が返ってきた。笑っている——と感じた。三百年ぶりに笑ったのかもしれない。


光が膨らんだ。あの存在が海面から離れ、空へ昇っていく。水面に残した波紋が広がり、月光と混ざり合い、海全体が淡い青に染まった。


昇っていく。


もうこの場所に留まる理由はない。契約は解かれた。鎖はない。あの存在は——自由だ。


最後に、一つだけ感情が降ってきた。


——ありがとう。


それは人の言葉ではなかったが、どんな人の言葉よりも真っ直ぐに胸に届いた。


---


海水に浸かったまま空を見上げていると、遠くから声が聞こえた。


「オリヴィアーーーッ!」


ルカの声だ。波の音に混じって、切迫した叫びが届く。


船だ。硝子から解放された漁船の一隻を漕ぎ出してきたらしい。闇の中にランタンの光が揺れ、波を切る船首が近づいてくる。


船縁からルカの手が伸びた。


「掴まれ!」


杖を片手に、差し出された手を掴んだ。引き上げられ、船底に転がり込む。全身がずぶ濡れで、海水が目に染みた。


「無茶しやがって——泳げるのか!?」


「……その点については、考えていませんでした」


「考えてなかったのかよ!」


ルカが呆れた声を上げた。が、すぐに笑いに変わった。それは今までに聞いた中で最も明るい笑い声だった。


船の上で身を起こすと——海が見えた。


波がある。


月光を受けて揺れる、本物の波だ。白い波頭が生まれては消え、消えては生まれ、潮騒が夜の空気を満たしている。


ざぶん、ざぶん、と。


あの音だ。この町から失われていた音。海が呼吸する音。


港に戻ると、桟橋に人々が押し寄せていた。船から降りたオリヴィアを最初に迎えたのはニーナだった。老婦人は何も言わずにオリヴィアの濡れた手を取り、しわくちゃの掌で包み込んだ。


温かかった。


ドナートは桟橋の先端に立ち、海を見つめていた。波が桟橋の杭を洗う音に耳を傾けるように、目を閉じている。頬に光るものがあったが、誰もそれを指摘しなかった。


ファルコは人垣の後方にいた。表情は複雑だったが——海を見つめるその目には、敵意はもうなかった。


潮騒が、町に帰ってきた。


---


翌朝。


カモメの声で目が覚めた。


窓の外に白い鳥の影が過ぎっていく。波の音が絶え間なく聞こえる。食堂の階下からは何か焼く匂いと、ニーナの鼻歌と、客の声が聞こえていた。


客の声——食堂に客が来ている。


着替えて階下に降りると、食堂は漁師たちで賑わっていた。誰もが声高に話し、笑い、ニーナの料理をかき込んでいる。テーブルの上には、干物ではなく——生の魚の焼き物が並んでいた。


「朝一番に網を入れたんだ」ルカが入口から顔を覗かせた。潮と汗の匂いがする。すでに海に出てきたのだ。「たくさんは取れなかったけど——魚がいた。ちゃんと、生きた魚が」


その声には、子供のような喜びがあった。


「昨日までより少ないだろ?」隣の席の漁師が茶化す。


「少なくていいんだよ。これからは——取りすぎないようにしなきゃいけないんだから」


ルカの言葉に、漁師たちが頷いた。昨夜の広場での決意が、まだ鮮明に残っている。


オリヴィアは隅の席に座り、ニーナが出してくれた焼き魚と粥を食べた。焼きたての魚は、干物とは比べものにならないほど美味しかった。身がほろりとほどけ、塩だけの味付けなのに、海そのものの旨味が舌に広がる。


「美味しいです」


「そうかい。よかったねぇ」


ニーナが微笑んだ。老婦人の目尻が下がり、皺の一本一本が笑っていた。


食事を終え、オリヴィアは杖を手にして立ち上がった。ニーナの目が、一瞬だけ鋭くなった。


「……もう行くのかい」


「はい。役目は終わりましたので」


周囲の喧騒の中で、その会話は二人だけのものだった。ニーナは最初からわかっていたのかもしれない。この旅人がただの旅人ではないこと。来た時と同じように、いつか突然いなくなること。


「どこへ行くんだい」


「わかりません。呼ばれた場所へ」


ニーナは頷いた。それから、カウンターの下から小さな包みを取り出した。


「持っておゆき。道中、お腹が空いたら食べなさい」


布に包まれた焼き魚とパン。まだ温かい。


「……ありがとうございます」


受け取った。ケープの下のポーチにしまう時、指先が少しだけ震えた。


食堂を出ると、港の方角からルカが走ってきた。


「おい、どこ行くんだ。もう一回くらい飯——」


オリヴィアの表情を見て、足が止まった。いつもと同じジト目。いつもと同じ薄い表情。でもルカにはわかったのだろう。何かが——違うことが。


「……帰るのか」


「はい」


「帰るって——どこに?」


「少し遠い場所です」


ルカは口を開き、閉じ、それからもう一度開いた。


「また来いよ」


簡潔な言葉だった。意味のない約束かもしれない。二度と会えないかもしれない。それでも——言わずにはいられなかったのだろう。


「機会があれば」


嘘はつかない。だから約束もしない。ただ——


「ルカさん」


「何だ」


「海を、大事にしてください」


ルカは笑った。朝日に照らされた笑顔だった。


「当たり前だろ」


---


町の外れの崖の上。


最初にこの世界に降り立った場所に、オリヴィアは立っていた。


眼下には港町カレナ。色褪せた赤茶の屋根。石造りの堤防。そして——波。白い波頭が砕け、潮騒が崖の上まで届いてくる。あちこちにカモメが舞い戻り、甲高い声で朝を告げている。


硝子の海は、もうどこにもなかった。


杖を両手で握り、目を閉じた。琥珀の水晶は空っぽだ。エメラルドの変換器も沈黙している。借り物の力は全て使い果たした。


けれど——不思議と、空虚ではなかった。


胸の奥にまだ残っている。あの存在の安堵。ニーナの温かい手。ルカの真っ直ぐな目。ドナートの不器用な覚悟。町の人々の、小さな光の一つ一つ。


それらは魔力ではない。杖に貯蔵することもできない。何の術にも変換できない、ただの記憶だ。


でも。


「——これが、魂なのでしょうか」


誰にともなく呟いた。答えはない。いつものことだ。


自分に魂があるのかどうか、まだわからない。自分を作った存在の意図も、まだわからない。けれど——誰かの悲しみに触れて涙を流し、誰かの温もりに触れて胸が震えた。それが魂でないなら、何なのだろう。


いつか答えは見つかるのだろうか。見つからなくても——探し続けることに意味はあるのだろうか。


足元の地面がひび割れるように裂け、白い虚空が滲み出してくる。帰還の道が開いた。


最後にもう一度、海を見た。


朝日に輝く海は青く、広く、どこまでも自由だった。


一歩を踏み出す。世界と世界の隙間へ。


潮騒の残響が、しばらくの間、耳の奥で鳴り続けていた。

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