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3話「契りの代償」

涙が乾いた跡が頬に残っていた。


桟橋まで戻ったとき、ルカが駆け寄ってきた。ランタンの光がオリヴィアの顔を照らし、ルカの表情が強張るのが見えた。


「おい、泣いて——泣いてたのか?」


「いえ。これは私のものではないと思います」


「……意味がわからないんだが」


わからなくて当然だ。自分でもよくわからない。涙を流すという経験がなかったから、これが自分の感情から出たものなのか、あの存在の悲しみが溢れ出したものなのか、区別がつかない。


ただ——何かが変わった感覚だけは、確かにあった。胸の奥で凍っていたものが、ほんの少しだけ溶けたような。


「話は明日にします。今夜はもう、休んだほうがいい」


「あんたがな」


ルカの声には本気の心配が滲んでいた。オリヴィアは頷いて、食堂への道を歩き出した。


---


翌朝。


ニーナの食堂に、四人が集まっていた。


オリヴィア、ルカ、ニーナ。そして——渋々といった体で椅子に腰を下ろしたドナートが一人。ルカが早朝に叩き起こして連れてきたらしく、不機嫌の塊のような顔をしている。


「……それで、何がわかった」


ドナートが先に口を開いた。腕を組んだまま、灰色の目でオリヴィアを見据える。


オリヴィアは昨夜の経験を、できる限り正確に伝えた。感情の奔流。映像の断片。かつての海の姿。鎖に縛られた痛み。それでも海を守り続けたこと。奪われ続けた末に、自らを硝子で覆ったこと。


話し終えた後、しばらく誰も口を開かなかった。窓の外で風が鳴る音だけが、静寂を埋めている。


最初に声を出したのはニーナだった。


「……やはり、そうだったのかい」


老婦人は粥の入った鍋を竈から降ろし、使い込まれた布巾で手を拭いた。その動作はいつも通り淡々としていたが、目元に光るものがあった。


「祖母の話は本当だった。あの方は——三百年も、ずっと」


「ちょっと待ってくれ」ルカが額を押さえた。「つまり、あの方を——その、封印を解けば海は元に戻るのか?」


「単純に解けばいい、という問題ではありません」


オリヴィアは杖を膝の上に横たえ、琥珀の水晶を指先で示した。昨夜の術で再び消耗した水晶は、かすかな光を残すのみだった。


「封印には構造があります。三百年前に施されたものですが、非常に巧みに組まれている。無理に壊せば、閉じ込められた存在ごと傷つける可能性があります。それに——」


少し迷ってから、言った。


「封印を解くということは、この海からあの方が去る可能性があるということです。あの方がこの場所に留まっていたからこそ、海は豊かだった。解放すれば、この海は普通の海に戻ります」


沈黙が落ちた。その意味を、全員が理解していた。


豊かな漁場は失われる。嵐を退ける力も消える。三百年の間、この町を支えてきた超常の恩恵が、すべて。


ドナートの拳が膝の上で白くなった。


「……元々が、あるべき姿じゃなかったんだろう。誰かを縛りつけて、力を搾り取って得た繁栄なんざ——」


言い切る前に、声が詰まった。三十年間この海で生きてきた男にとって、その海が「本来の姿ではなかった」と認めることがどれほどの重みを持つか。


「ドナートさんの仰る通りです。ですが、その判断はこの町の皆さんがなさるべきことです。私が決めることではありません」


「あんたはどうしたいんだ」


ドナートの目が、真っ直ぐにこちらを向いた。


「——解放したいと、思っています」


言葉に感情を乗せすぎないよう気をつけた。けれど、隠し切れないものがあったかもしれない。昨夜触れた悲しみが、まだ身体の奥にこびりついている。


ニーナが静かに頷いた。ルカは唇を結んで何かを堪えていた。ドナートは——目を閉じ、深い息を吐いた。


「やれ」


短い一言だった。それが三十年分の覚悟を込めたものであることは、声の震えが語っていた。


---


まず必要なのは、封印の正確な構造を知ることだった。


昨夜の対話で、封印の「感触」は掴んだ。しかしそれは水面を撫でただけのようなもので、水底の全容は見えていない。封印を安全に解くには、その設計図——誰が、どのような術で、どのような条件のもとに組み上げたのかを理解しなければならない。


手がかりは二つ。ニーナの口伝と、墓地の石碑。


「ニーナさん。お祖母さまの話に、封印の方法や条件について触れた部分はありませんでしたか」


ニーナは椅子に深く座り、天井を仰いで記憶を手繰った。


「……祖母は、こう言っていた。『あの方は契りの言葉で縛られた。解くにも言葉がいる』と」


「契りの言葉」


「そう。契約のようなものだと思う。先人たちがあの方と交わした約束——それが鎖になった。だから、鎖を外すにはその約束を解かなければならない」


約束で結ばれた封印。ならば、約束の内容を知らなければ解除の術式は組めない。


「石碑の文字が読めれば」


オリヴィアは呟いた。墓地の隅にあった風化した石碑。あそこに三百年前の契約の痕跡がある——断片しか読めなかったが、魔力があれば石に刻まれた術式の残滓を読み取れるかもしれない。


「しかし、今の残量では——」


琥珀の水晶をちらりと見た。ルカから借りた力はほぼ使い切っており、石碑の解析と封印の解除の両方を賄うには到底足りない。


「また俺から取ればいい」ルカが即座に言った。


「昨日かなりの量をお借りしました。続けて取るのは身体に障ります」


「平気だ。飯食ったら回復する」


「回復しません。一晩では——」


「じゃあ俺からも取れ」


全員の視線がドナートに向いた。大きな男は窓の外を向いたまま、ぶっきらぼうに言った。


「聞こえなかったか。俺の力でも何でも使え」


「ドナートさん——」


「三十年、毎日あの海に出た。あの海にどれだけ世話になったか——いや、あの方にどれだけ世話になったか。借りを返すにゃ足りねえが、何もしないよりはましだ」


荒っぽい言葉遣いの奥に、不器用な誠意があった。オリヴィアは小さく頭を下げた。


「ありがとうございます。ただし、相性の確認をさせてください。合わない場合は——」


「さっさとやれ」


差し出された手は、ルカのものよりさらに大きく、厚く、硬かった。


触れた瞬間、ドナートの力が流れ込んできた。


重い。ルカの力が潮のうねりだとすれば、この男の力は海底の岩盤そのものだった。動かない。揺るがない。三十年分の経験と、海への畏怖と、自分自身への怒りが分厚い層になって堆積している。


扱いにくい力だ。だが——深い。根が深い。地層のように圧縮された年月の重みが、一つ一つの粒子に染み込んでいる。


琥珀の水晶に流し込む。ルカの力とは色味が異なる——より暗く、より重い橙色の光が水晶の中で渦を巻いた。二つの異なる性質の力が水晶の中で混ざり合い、時折火花のように弾ける。


「……相性は問題ありません。少し気性の荒い魔力ですが、制御できます」


「気性が荒いだと?」


「魔力に持ち主の性質が反映されるのです。荒々しいですが、芯が通っている。悪い力ではありません」


ドナートが鼻を鳴らした。照れ隠しなのか不機嫌なのか判別がつかなかったが、耳の先がわずかに赤くなっていたので、おそらく前者だろう。


「私も——」


ニーナが細い腕を差し出した。


「ニーナばあちゃん、無理するなよ」ルカが慌てて止めに入る。


「無理じゃないよ。私にだって、力の一つや二つはある」


「しかし、お身体に——」


オリヴィアが言いかけるのを、ニーナは穏やかな目で制した。


「あの方のことを知っていながら何もしてこなかった。祖母の話を信じていたのに、声を上げなかった。私にも返すべき借りがあるんだよ」


老婦人の手は薄く、皺だらけで、骨の形が透けて見えた。握れば折れそうな手。けれどその掌を取った時、流れ込んできた力は驚くほど澄んでいた。


清い。泉の底の砂のような、粒子の細かい、静かな力。長い年月を穏やかに生きてきた人間の——他者を慈しみ、記憶を守り続けてきた人間の力。量は多くない。老いた身体から差し出せるものには限りがある。だが質は、三人の中で最も繊細だった。


石碑の解析に、この力が使える。


「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」


琥珀の水晶が三色の光を宿した。ルカの海、ドナートの岩盤、ニーナの泉。三つの異なる力が一つの器の中で共存している。


不安定ではあるが、技量でねじ伏せればいい。それだけの力量は——少なくともそれだけは——自分にはある。


---


午後、墓地へ向かった。


ルカが同行を申し出たが、石碑の解析は集中力を要する作業だと説明して断った。一人のほうが術式に没頭できる。


坂道を登り、町の外れの高台に辿り着く。石積みの墓標が並ぶ静かな場所。風が草を撫で、どこかで虫が鳴いている。


古い石碑の前に膝をついた。風化してほとんど読めなくなった文字。その奥に眠る、三百年前の術式の残滓。


杖先を石碑に触れさせ、ニーナの力を琥珀から引き出す。澄んだ力がエメラルドの変換器を通り、解析の術式に変わっていく。繊細な力には繊細な術が合う。石碑の表面を薄い光の膜が覆い、風化した文字の下に隠された古い刻印が、うっすらと浮かび上がった。


文字ではなかった。もっと古い——紋様だ。


円環の中に、波を模した線が幾重にも重なり、その中心に鎖を象った文様が刻まれている。周囲には小さな記号が螺旋状に配置され、それらが全体で一つの術式を構成していた。


読み解いていく。一つ一つの記号を辿り、その意味と配置の法則を解析する。時間がかかった。三百年の風化で欠けている部分も多く、欠損を推測で補いながら全体像を組み立てなければならない。


やがて——構造が見えてきた。


封印は二重だった。


第一層は束縛。海底の存在をこの場所に縛りつける物理的な鎖。これは力で構成されており、破壊することも理論上は可能だ。ただし、相当な力が必要になる。


第二層は契約。そしてこちらが本体だった。


石碑に刻まれた契約の全文が、ようやく読み取れた。


『我ら、海と契りを結ぶ。汝は此の地の海を守り、我らは汝に安息の地を与える。汝の力は我らの糧となり、我らの感謝は汝の糧となる。此の契り、双方の意により解かれるまで永遠に続く』


安息の地。感謝。


一見すると、対等な契約に見える。海底の存在が海を守り、人間はその存在に安息と感謝を捧げる。だが実態はどうだったか。安息どころか酷使し、感謝どころか存在すら忘れた。契約の一方が義務を果たさなくなっても、もう一方だけは鎖に繋がれたまま義務を果たし続けなければならない——そういう構造になっている。


そして——解除条件。『双方の意により解かれるまで』。


つまり、人間の側とあの存在の側、双方が合意して初めて封印は解ける。


「双方の意——人間の代表は、誰が」


考え込んだ時、背後で足音がした。


石碑の光を消す暇はなかった。振り返ると——ファルコ司祭が立っていた。そしてその後ろに、数人の町の男たち。


司祭の細い目が、光を帯びた石碑と、杖を構えたオリヴィアを交互に見つめている。


「——やはり、ただの旅人ではなかったか」


声は静かだったが、そこに潜む敵意は昨日の比ではなかった。


「術師だな。あるいは、それ以上の何かか」


「ファルコ司祭。私はただ——」


「この石碑に何をした。ここは先祖代々の聖域だ。余所者が術をかけることは許されない」


男たちが一歩前に出た。漁師たちだろう。腕は太く、表情は硬い。ファルコに連れてこられたというよりは、自発的に来た者もいるように見えた。余所者への不信。不安の捌け口。


「この石碑には三百年前の契約が刻まれています」オリヴィアは立ち上がり、杖を下げたまま正面を向いた。「この町の先人たちが海底の存在と交わした——」


「知っている」


ファルコの言葉に、今度はオリヴィアが沈黙した。


「知って——いるのですか」


「神殿の奥に記録が残っている。この町の建立に関わった初代の司祭が記したものだ。先人たちが海の精霊を捕らえ、この地に縛り付けた経緯が。歴代の司祭はそれを知っている」


「では——あの方が苦しんでいることも」


「苦しむ?」ファルコの唇が歪んだ。「精霊の類に苦しみなどあるものか。あれは力の塊だ。契約に基づいて力を供給する装置にすぎない。海が硝子になったのは装置の不調だ。修繕すればいい」


「修繕」


「贄を捧げ、契約を更新する。三百年前の先人たちがそうしたように、新たな縛りを加え、力の供給を再開させる。それが最も合理的な解決策だ」


オリヴィアの手が杖を握り直した。指先が白くなるほど強く。


「……あの方には意思があります。感情があります。痛みも悲しみも——」


「感傷だ。術師ならわかるだろう。精霊の放つ力の波動を感情だと思い込んでいるだけだ」


違う、と言いたかった。あの悲しみは本物だった。力の波動などではない。三百年の孤独が降り積もった、どうしようもなく深い嘆きだった。


だが——証拠はない。あの存在の感情を、他の人間に証明する手段を持っていない。


「司祭さまの仰るとおりにすれば、海は元に戻るんですか?」


背後の漁師の一人が、縋るような声で尋ねた。


「もちろんだ」ファルコは振り返り、穏やかな笑みを作った。聴衆を前にしたときの顔だ。「海神の加護は我々の権利だ。三百年の契約がそれを保証している。この術師のように感傷に流されて契約を解いてしまえば——この町は終わる。海の恵みは失われ、嵐が来れば一溜まりもない。それでもいいのか?」


漁師たちの間に動揺が走った。その恐怖は理解できる。海に依存して生きてきた人々にとって、海の恩恵を手放すことは死活問題だ。


「あの方を——あの存在を、これからも縛り続けるおつもりですか」


「町を守るためだ」


ファルコの目に迷いはなかった。そしてその目は——恐ろしいことに——純粋だった。悪意ではないのだ。この男は本気でこれが最善だと信じている。町を守るために、一つの存在の苦しみを代償として差し出すことを、正当な選択だと。


「この女は危険だ」ファルコが漁師たちに向き直った。「封印を解こうとしている。町の生命線を断とうとしているのだ。今すぐ——」


「——やめな」


低い声が割り込んだ。


坂道の下から、ドナートが登ってきた。その後ろにルカがいる。二人とも息を切らしていた。ルカが集落の方角を振り返りながら叫ぶ。


「ニーナばあちゃんが教えてくれたんだ。ファルコが人を集めて墓地に向かったって——」


ドナートはファルコの前に立ちはだかった。大きな身体が司祭の視界を塞ぐ。


「ドナート、退け。これは神殿の——」


「黙れ。俺はお前より二十年長くあの海にいた。あの海溝の上を通った時に感じたものを——あれがただの力の波動だと? 冗談じゃねえ」


ドナートの声が震えていた。怒りではない。三十年前の記憶が、あの海溝の底から見つめ返してきた何かの記憶が、今になって意味を持ったのだ。


「あれは——生きていた。俺を見ていた。助けてくれと言っていたのかもしれない」


ファルコの顔から表情が消えた。


漁師たちの間にざわめきが広がる。ドナートの言葉は、司祭の言葉とは別の重みを持っていた。三十年の漁師としての実績が、その言葉に裏付けを与えている。


「……このまま埒が明かないようであれば、町の全員で話し合うべきでしょう」


オリヴィアの声が、ざわめきの上に静かに落ちた。


「あの存在を解放するか、再び縛るか。それはこの町の皆さんが決めることです。私が強制できることではありませんし——ファルコ司祭にも、強制はできないはずです」


ファルコの目が鋭く光った。だが反論はしなかった。周囲の漁師たちが明らかに動揺している以上、ここで押し通すのは得策ではないと判断したのだろう。


「……いいだろう。今夜、広場で話し合おう。だが覚えておけ、術師。町の人間がどちらを選ぶか——お前の思い通りにはならんぞ」


法衣の裾を翻して、ファルコは坂道を降りていった。漁師たちが後に続く。何人かがこちらを振り返ったが、その目には敵意よりも困惑が勝っていた。


残されたドナートが、深い溜息をついた。


「面倒なことになった」


「すみません。私の不注意です」


「あんたのせいじゃない。あの司祭は前からああだ。事が起これば自分の筋書き通りに運ぼうとする」


ルカが不安そうに尋ねた。


「今夜の話し合い、大丈夫かな。ファルコの話は——怖い話だけど、理屈は通ってる。海の恵みがなくなるって言われたら、皆……」


「理屈は通っていても、正しいかどうかは別です」


オリヴィアは石碑に目を戻した。光は消えていたが、解読した契約の全文は記憶に刻まれている。


『此の契り、双方の意により解かれるまで永遠に続く』


双方の合意が必要。あの存在は解放を望んでいる——それは昨夜の対話で感じ取った。ならば人間の側が、この契約を手放す意志を示せばいい。


だが「手放す」ことを、人は恐れる。


「——一つ、お聞きしてもいいですか」


「何だ」ドナートが振り返る。


「あの方が去った後、この海は本当にただの海になるのでしょうか。あの方の力がなくても、この海には元々魚がいて、潮流があって、漁場としての素質はあったはずです。三百年前、先人たちがあの方を縛る前から——この海はここにあった」


ドナートは目を見開いた。


それからゆっくりと、視線を港のほうへ向けた。硝子に閉ざされた海。その向こうに広がるはずの水平線。


「……俺の爺さんが言ってたな。この海は元から良い海だと。精霊なんぞいなくても魚は来ると。だから尚更、あの場所には手を出すなと——」


「ドナートさんのお爺さまは、正しかったのかもしれません」


「じじいが聞いたら喜ぶだろうよ」ドナートは鼻の頭を擦った。「もう四十年前に死んでるがな」


---


食堂に戻り、今夜の話し合いに向けた準備を始めた。


準備といっても、オリヴィアにできることは限られている。この町の人間ではない自分が、町の未来に関わる決断を左右するような言葉を振りかざすべきではない。できるのは事実を提示すること——封印の構造、あの存在の状態、解放した場合に起こること、しなかった場合に起こること。


ただし、一つだけ確認しておかなければならないことがあった。


「ルカさん。少しお時間をいただけますか」


食堂の裏手、石塀に囲まれた小さな庭で、ルカと向かい合った。


「今夜の話し合いとは別に、術の面で確認しておきたいことがあります」


「何だ?」


「封印を解くには、契約を破棄する意志と、それを実行に移すだけの力が必要です。意志はこの町の方々に委ねるとして——力のほうが心配です。今の貯蔵量では足りない可能性が高い」


杖の琥珀を見せた。三人分の力が渦巻いているが、三百年の封印を解くにはまだ不十分だった。


「もっと力が必要ってことか? 他の人にも頼むのか?」


「いえ。量の問題だけではありません。質の問題です」


オリヴィアは言葉を選んだ。


「この封印は契約に基づいています。解くためには、契約の当事者——つまりこの町の人間の意志が力に込められている必要があります。私の力では——たとえあったとしても——駄目なのです。余所者の力では、契約に触れることすらできない」


ルカの目が真剣になった。


「じゃあ、俺たちの力を——」


「ええ。できるだけ多くの方から。ただし、全員が解放に同意していなければなりません。一人でも反対があれば、力が相殺されて術式が崩れます」


それは同時に、今夜の話し合いで全員の合意を得なければならないことを意味していた。一人でも反対すれば——たとえばファルコが反対すれば——封印の解除は不可能になる。


ルカは黙り込んだ。庭の石塀の向こうから夕日が差し込み、影が長く伸びている。


「……難しいな」


「はい」


「でも——やるしかないんだろ」


「はい」


ルカが不意に笑った。力のない、けれど温かい笑い。


「あんたさ、最初に会った時は愛想のない怖い人だと思ったけど——全然違うな」


「愛想がないのは事実です」


「そうじゃなくて。怖くないって意味だ。むしろ——なんていうか、真面目すぎるくらい真面目で、他人のことばっかり考えてて」


「自分のことを考えても仕方がないので」


嘘ではない。自分のことを考えても、答えの出ない問いが増えるだけだ。自分に魂はあるのか。なぜ作られたのか。いつか終わりが来るのか。そんなことを考えるより、目の前の誰かのためにできることをするほうが——ずっと意味がある。


「ルカさん」


「何だ」


「今夜、あなたの言葉が必要です。司祭でもドナートさんでもなく——若い漁師であるあなたの言葉が」


ルカの笑みが消え、真剣な目に戻った。


「この町の若い世代が、海とどう向き合うかを決めなければなりません。過去の過ちを認め、それでもこの海で生きていくことを選ぶのか。それを語れるのは——あなたです」


ルカは何も言わなかった。夕日が沈んでいく。硝子の海が、最後の光を受けて赤く燃えていた。


やがて、ルカは小さく頷いた。


「——わかった。考えとく」


日が落ちた。


夜の広場に、町中の灯りが集まろうとしていた。

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