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2話「海底の声」

朝が来ても、波の音はしなかった。


目を開けた瞬間にそれを認識して、ここが自分の知る場所ではないことを改めて思い出す。天井の木目が見慣れない模様を描いている。窓から差し込む朝日が白く、塩を含んだ空気が鼻腔を満たしていた。


身を起こし、窓辺に寄る。朝日を浴びた硝子の海は白銀に輝いていた。光の角度が変わるたびに色彩が移ろい、凍りついた波頭が虹色の反射を散らしている。人の手では到底作り得ない、あまりにも壮大な光の造形。


美しくて、痛ましい。


昨夜感じた悲しみの残響が、まだ指先に残っていた。他者の感情の残滓を手繰り寄せたのは久しぶりのことで、それだけの強さを持った感情があの硝子の下に眠っているということになる。


寝台の脇に立てかけた杖を手に取り、琥珀の水晶の色合いを確かめた。昨夜の探査で更に減った魔力の残量は、もはや指折り数えるほどしかない。何かひとつ、まとまった術を使えば底をつく。


服装を整え、ケープの留め具を確認してから階下へ降りた。


食堂ではニーナがすでに竈の火を起こし、鍋に何かを煮込んでいた。湯気とともに立ちのぼる穀物の甘い匂い。麦粥だろうか。


「おはよう、早いね。よく眠れたかい?」


「はい。静かでしたので」


言ってから、この町において「静かだった」というのは褒め言葉にならないかもしれないと思い至った。だがニーナは苦笑するでもなく、ただ小さく頷いた。


「そうだろうねぇ。昔はうるさいくらいだったんだよ、この町は。朝は漁師たちの怒鳴り声で目が覚めて、カモメが喧しく鳴いて、波がざぶざぶ打ち寄せて」


皺の深い手が鍋をかき混ぜる。規則正しい動作の中に、長い歳月の習慣が染み込んでいた。


「カモメがいませんね」


「気づいたかい。海が止まってすぐにいなくなったよ。鳥は賢いからね、ここにいても餌がないとわかったんだろう」


麦粥に塩と干した薬草を加えたものを木の器に注ぎ、オリヴィアの前に置いてくれた。その動作の途中で、ニーナの手がほんの一瞬止まったのをオリヴィアは見逃さなかった。老婦人の目がオリヴィアのケープの留め具——エメラルドのブローチ——に触れ、それからすっと逸れた。


「ニーナさん」


「何だい?」


「昨夜のお話の続きをお聞きしてもよろしいですか。海の底に縛られた《あの方》のこと」


ニーナは竈の前の椅子に腰を下ろし、自分の分の粥を啜った。答えるまでに少し間があった。


「私が知っているのは、祖母から聞いた断片だけだよ。祖母もまた、その母から聞いたのだと言っていた。代々、女たちの間で語り継がれてきた話さ。漁師たちの——男たちの間では、いつの間にか忘れられていったけどね」


「忘れられた?」


「町が豊かになればなるほど、ね。海が豊かなのは当たり前だ、この土地が恵まれているのだ——そう思うほうが楽だったんだろうさ。誰かの犠牲の上に成り立っている恵みだなんて、考えたくもなかったんだろうよ」


ニーナの声に責める響きはなかった。ただ事実を述べるような、乾いた諦めがあった。


「昨夜、海に触れてみました。硝子の下に——強い感情が閉じ込められていました」


ニーナの匙が止まった。


「感情?」


「悲しみです。とても、深い」


老婦人はしばらく黙って粥の表面を見つめていた。それから、小さく息を吐いた。


「……そうかい。悲しいのかい、あの方は」


その呟きには、長年抱え込んできた何かが滲んでいた。自分だけが知っていて、誰にも信じてもらえなかった物語を、ようやく分かち合える相手が現れたような——そんな声だった。


---


ルカの家は港から少し離れた坂の中腹にあった。石壁の二階建てで、壁には蔦が絡み、軒下には修繕途中の漁網が無造作に掛けられている。網の目はところどころ破れたまま放置されていた。


戸口でルカが待っていた。昨夜とは違い、寝不足の目をこすりながらも身なりは整えている。


「来たか。親父は中にいる。さっき話は通したんだが、案の定機嫌が悪い。覚悟しておいてくれ」


「承知しました」


玄関の敷居を跨ぐと、干した海藻と木の煙の匂いが鼻をついた。狭い居間の奥、窓際の椅子に一人の男が座っていた。


大きな男だった。ルカより頭半分は背が高く、肩幅は二倍近くある。日焼けした肌に深い皺が刻まれ、塩で白くなりかけた髪を短く刈り込んでいる。椅子の肘掛けに置かれた両手は分厚く、関節が太く、長年にわたって網と舵を握り続けてきた手だった。


彼はオリヴィアが入ってきても振り向かなかった。窓の外——港と、その先の硝子の海を、動かない目で見つめている。


「親父。この人がオリヴィアさんだ。昨日話した——」


「聞いた」


低い声が遮った。海底から湧き上がるような、重く濁った声だった。


男は——ルカの父は——ようやくこちらに目を向けた。深い窪みの中にある灰色の瞳が、オリヴィアを射抜くように見据える。


「ドナート・マレーナだ。で、何が聞きたい」


前置きもなく、世間話もなく。この男にとっては、余計な言葉を費やす時間すら惜しいのだろう。あるいは、海の死んだこの日々の中で、会話そのものに意義を見出せなくなっているのかもしれない。


オリヴィアは杖を壁に立てかけ、ドナートの向かい側に腰を下ろした。


「海底の地形についてお聞きしたいのです。この湾の海の底に、特異な場所はありませんか。深い裂け目、あるいは洞窟のような」


ドナートの目が一瞬だけ動いた。何かが引っかかったような、しかしそれを認めたくないような。


「……何でそんなことを聞く」


「海が硝子になった原因が、海底にあると考えています」


「根拠は」


「昨夜、硝子の下から青い光が近づいてきました。私が触れたことに反応したようでした。何かが海底にいます。それが何であれ、まずはその場所を特定する必要があります」


ドナートは長い沈黙の後、窓の外に目を戻した。港に繋がれたまま動けない漁船たちが、朝日の中で影を落としている。あの中に、この男の船もあるのだろう。


「……湾の中央から少し南に、海溝がある」


ぽつりと、独り言のように言った。


「普段は水深二十尋ほどの浅い海だが、そこだけ底が抜けたように深い。どれだけ綱を伸ばしても底に届かなかった。昔から漁師の間では『竜の寝床』と呼ばれていた。そこだけは網を入れるなと——」


声が途切れた。ドナートが顎を引き、拳を膝の上で握り締めたのが見えた。


ルカが気まずそうに口を挟んだ。


「……二年前に、その場所にも網を入れるようになったんだ。大型の巻き網で、深い場所からも魚を引き上げられるようになって」


「お前たちがやったんだろう」


ドナートの声は平坦だったが、その平坦さに凄みがあった。ルカが言葉を詰まらせる。


「俺は止めた。あそこだけは手を出すなと言った。だがお前たちは——若い連中は聞かなかった。もっと取れる、もっと稼げる、古い迷信に縛られている場合じゃない——そう言って」


「……実際に取れたんだ。あそこの魚は大きくて、数も多かった。それで——」


「調子に乗った」


ルカは何も言い返せなかった。壁際に立ったまま、唇を噛んでいる。


オリヴィアは二人のやり取りを黙って聞いていた。ニーナの話と符合する。海の底に縛られた存在。そこだけは手を出すなという掟。それを破った結果が——この硝子の海。


「ドナートさん。その海溝の正確な位置を教えていただけますか」


ドナートはこちらを向いた。灰色の目に、疑念と、それから微量の懇願のようなものが混じっていた。


「……何をする気だ」


「海底のその方に、会いに行きます」


一瞬の沈黙。それからドナートは鼻で笑った。笑いには嘲りではなく、苦さが滲んでいた。


「硝子の海をどうやって潜る。割れもしないんだぞ」


「方法は、これから考えます」


ドナートがオリヴィアの顔をまじまじと見つめた。感情の薄い表情、細められた黄緑色の瞳。冗談を言っているようには見えない——実際、言っていない。


老漁師は立ち上がり、壁に掛けられた古い海図を指差した。日焼けして端が破れかけた羊皮紙に、インクで細かく等深線が書き込まれている。


「ここだ」


太い指が示したのは、湾の南寄り、ちょうど港から沖を見て左手の方角だった。等深線が不自然に密集し、その中心に小さな×印がつけられている。


「印は?」


「俺の爺さんがつけた。近寄るなという意味だ」


オリヴィアは地図の位置を記憶に刻んだ。港からの距離と方角、周辺の地形の特徴。歩いて行ける距離ではある——硝子の上を歩けるのであれば。


「ありがとうございます。大変助かりました」


頭を下げて踵を返しかけた時、ドナートが背中に声を投げた。


「おい」


「はい」


「……気をつけろ。あの場所には、何かがいる。俺も若い頃に一度だけ、あの海溝の上を船で通ったことがある。その時——海の底から、目に見えない何かに見つめられた。あれは忘れられん」


その声には、三十年の歳月を経てなお色褪せない畏怖が宿っていた。


---


ルカの家を出ると、広場の方が騒がしかった。


何事かと足を向けると、井戸の前に十数人の町の人間が集まっており、その中心に白い法衣をまとった痩身の男が立っていた。


「——であるからして、海神のお怒りを鎮めるには、我々の側がまず悔い改めねばならぬ! 贄を用意し、祈りを捧げ、七日七晩の断食をもって——」


法衣の男は甲高い声で聴衆に語りかけていた。年の頃は四十半ばか。鉤鼻の下に薄い唇があり、その唇が忙しなく動くたびに、唾の飛沫が朝日にきらめいている。


「ファルコ司祭だ」隣に追いついたルカが小声で教えてくれた。「この町の神殿の司祭。海が止まってから、毎朝ああやって演説してる」


「贄というのは?」


「家畜を海に捧げろって話だ。まともに聞いてる奴はほとんどいないけど、最近は食料が心配で不安になってる人も増えてるから……付け込まれかけてる」


ファルコ司祭の演説は続いている。声は朗々としていたが、その視線は聴衆の反応を細かく窺っており、誰が頷き、誰が目を背けるかを計算しているように見えた。


「——海神のお怒りは深い! 我らが長年にわたり海の恵みを貪り、感謝を忘れた報いである!」


その言葉自体は、ニーナや父親の話と似ている部分がある。だが何かが決定的に違った。ニーナの語り口には、海底の存在への同情——あるいは連帯があった。ファルコ司祭の声にあるのは、恐怖を煽る熱だけだ。


オリヴィアは広場の隅に立ち、観察を続けた。


「あの方は、海底に何かがいることをご存じなのでしょうか」


「さあ、どうだろうな。司祭は天上の海神の話しかしない。海の底に何かがいるなんて話は——少なくとも俺は、ニーナばあちゃん以外から聞いたことがない」


つまり、司祭の言う「海神の怒り」と、実際に海底にいる存在とは、別のものである可能性が高い。あるいは、本来は同じ存在についての物語だったものが、長い年月の中で分岐し、神殿の教えと民間の口伝として別々に伝わったのかもしれない。


演説が終わり、人々が散り散りになっていく。その中の数人がこちらに気づき、見慣れない姿のオリヴィアに怪訝な目を向けた。ほとんどはすぐに視線を外したが——ファルコ司祭だけは、足を止めてこちらをじっと見つめていた。


細い目が法衣の下から覗き、オリヴィアの全身を舐めるように観察している。やがて司祭は踵を返し、広場の奥にある小さな神殿へ消えていった。


「……睨まれたな」ルカが呟いた。


「そのようですね」


嫌な予感がした。けれどそれは今考えるべきことではない。まずは、海底への道を見つけなければ。


---


港の桟橋から、硝子の海面に一歩を踏み出した。


足裏に硬い感触が伝わる。割れる気配はない。体重をかけても沈みもしなければ軋みもしない。透明な硝子の下に、止まったままの海の風景が広がっている。足元に小さな魚の群れが泳ぐ途中の姿で封じ込められているのが見え、その上を歩くことに奇妙な罪悪感を覚えた。


「大丈夫なのか、それ」


桟橋の上から、ルカが不安そうに見下ろしている。


「今のところは。硝子自体はきわめて強固です」


二歩、三歩と進む。問題なく歩ける。杖の石突きが硝子に触れるたびに澄んだ音が響いた。まるで巨大な楽器の上を歩いているかのようだ。


「ルカさんも来ますか?」


「……遠慮しとく。あんまりその上を歩く気にはなれない。海の上を歩くなんて——漁師としては、なんか違う」


その感覚は、おそらく正しいのだろうとオリヴィアは思った。海の上は歩く場所ではなく、船で渡る場所だ。それを忘れていないことは、この青年の美点だ。


「では、港で待っていてください。戻ったらお話ししたいことがあります」


「話したいこと?」


「はい。少し——お願いしたいことが」


それだけ言い残して、オリヴィアは海溝の方角へ歩き出した。


ドナートの海図で確認した位置を目指し、南寄りに進む。足元の硝子が太陽を反射して眩しく、時折手を翳しながら歩いた。陸から離れるにつれて硝子の下の光景が変わっていく。浅い砂底から岩場へ、岩場から海藻の森へ。色とりどりの珊瑚が止まった海の中で幻想的な景色を作り出していた。


どれほど歩いただろうか。二十分か、三十分か。陸が小さくなった頃、足元の景色が一変した。


暗い。


それまで明るく底が見えていた硝子の下が、急に暗くなった。海底が落ち込んでいるのだ。等深線が密集していた場所——海溝の縁に来たことを、目で確認するまでもなく足裏の感触が教えてくれた。硝子を通じて伝わる温度が、ほんの僅かに変わっている。


膝をつき、硝子の表面に顔を近づけた。


暗い。深い。覗き込むと、硝子の透明度の限界まで闇が続いており、その先は何も見えない。だが——闇の最奥、かろうじて視認できる深さの果てに——


青い光が、ゆっくりと脈打っていた。


昨夜浜辺で見たものと同じ光。しかし、ここではずっと近い。ずっと強い。心臓の拍動のようなリズムで明滅を繰り返す青白い光が、海溝の底から立ち昇っている。


杖を硝子に当てた。二股の先端が振動を始め、琥珀の水晶が淡く光る。残り少ない魔力を慎重に使い、杖先から意識を硝子の奥へ沈めていく。


昨夜よりも深く。昨夜よりも遠く。


硝子の層を一枚、一枚と透過していく。止まった海水の記憶が指先に触れる。塩と、潮流と、生き物たちの——


そこで、意識がぶつかった。


硝子の壁ではない。もっと根源的な障壁——この世界の法則そのものに関わる何かが、海溝の途中で壁を作っていた。古い術式の残滓。三百年の歳月を経てなお機能し続ける、強固な封印の気配。


町を築いた先人たちが海の精霊と取引をした——ニーナの言葉が蘇る。取引ではなく、これは——


封じたのだ。


力ずくで、あるいは何らかの条件を付けて。海底の存在をこの場所に縛りつけ、その力を町の繁栄のために利用した。豊かな漁場、穏やかな海、嵐からの庇護——その全てが、封じられた存在から搾り取った力によるものだったとすれば。


そして——封印は、まだ機能している。だが三百年の歳月と、近年の過剰な搾取が、均衡を崩したのだ。存在は怒ったのではない。疲弊したのだ。力を奪われ続け、悲しみに沈み——最後に残された力で、自らを硝子の殻で覆ったのではないか。


もう何も、取られたくないと。


意識を引き戻した時、琥珀の水晶の光が消えていた。最後の魔力を使い切った。


杖を握る手が微かに震えていた。感情の残滓が——あの存在の悲しみの残響が——まだ身体の中を巡っている。途方もない孤独。何百年も海の底で、声も出せず、姿も見せられず、ただ力だけを吸い上げられ続けた存在の——


「……ごめんなさい」


硝子の表面に額をつけるようにして、オリヴィアは呟いた。


謝る筋合いはないのかもしれない。自分はこの町の人間ではないし、封印を施したわけでもない。けれど——誰かが長い間苦しんでいたことを、今このとき知ってしまった以上、何も感じないことはできなかった。


青い光が、また強く脈打った。


応えてくれているのか。それとも、ただの律動なのか。今の自分には確かめる術がない。魔力が尽きた杖は、ただの長い棒と変わらなかった。


立ち上がり、港へ向かって歩き出した。やるべきことは見えてきた。あの封印を解くか、少なくとも封じられた存在と対話する手段を見つけなければならない。そのためには魔力がいる。自分にはないもの。他者から借りるしかないもの。


---


港に戻ると、ルカは桟橋の杭に背を預けて待っていた。日が高く昇り、汗が額に光っている。


「遅かったな。何があった?」


「見つけました。海溝の底に、何かがいます」


「何か——って、ニーナばあちゃんの言ってた《あの方》か?」


「おそらく。古い封印で縛られています。三百年ほど前の——この町が作られた頃のものです」


ルカの顔が強張った。何か言いかけて、口を閉じ、また開き、また閉じた。


「……それが原因なのか。海が硝子になったのは」


「断定はできません。ですが、封印された存在が極度に消耗しているのは確かです。自らを守るために海を硝子で覆ったのだとすれば、辻褄は合います」


「守るため——俺たちから身を守るために?」


「はい」


ルカは桟橋の端に座り込んだ。両手で顔を覆い、しばらくそのままでいた。指の隙間から吐き出される息が震えている。


「……俺たちが、あそこの魚を取ったから」


「直接の引き金になった可能性はあります。ですが、問題の根はもっと深いところにあります。三百年前の封印そのものが——」


「三百年前のことなんか知らねえよ。俺が知ってるのは——二年前に、親父の言うことを聞かずにあの海溝に網を入れたのは俺たちだってことだ」


声が裏返りかけていた。怒りと自責が入り混じった、若い声。


オリヴィアは隣に腰を下ろした。桟橋の板が軋む。硝子に閉じ込められた船の影が、足元の透明な海に落ちている。


「あなたのせいだけではありません」


「でも——」


「責任の所在を追及することと、問題を解決することは、別の作業です。今すべきなのは後者です」


ルカは顔を上げた。赤くなった目でオリヴィアを見つめ、それから深く息を吸い込んだ。


「……あんたは、何をするつもりなんだ」


「あの存在と対話したい。封印の構造を調べ、可能であれば解放の方法を探りたい。ただ——」


ここからが難しい。


「ただ?」


「私は今、魔力が尽きています。術を使うための力が残っていません」


ルカが怪訝そうな顔をした。


「魔力って——さっき海の上で何かやってなかったか? 杖が光ってたぞ」


「あれで最後でした。私は自分で魔力を生み出すことができないのです。他者から力をお借りして術を行使する——それが私のやり方です」


言い方を間違えれば、恐ろしく胡散臭い話だ。見ず知らずの旅人が「力を貸してくれ」と言い出す。警戒されて当然だし、断られても仕方がない。


ルカの目が細くなった。


「他人の力を借りる? どうやって?」


「同意していただいた方の身体に触れ、その方が持つ生命の余剰——この世界では何と呼ぶのかわかりませんが、生きる力の一部を、一時的にお預かりします。痛みはありませんが、多少の疲労感は残ります」


「それは——大丈夫なのか? 体に害は?」


「適切な量であれば問題ありません。ただし、条件があります。必ずご本人の同意が必要です。無理に奪い取ることはできませんし、するつもりもありません。そして——相性の問題があります。合わない方から無理にお借りすると、術式に乱れが生じます」


ルカはしばらく黙り込んだ。桟橋の板の木目を指でなぞりながら、何かを考えている。


「それで海を元に戻せるのか?」


「わかりません。正直に申し上げて、まだ何もわかっていないことだらけです。ただ、あの方と話すことができれば——少なくとも、何を望んでいるのかを知ることはできるはずです」


嘘はつきたくなかった。確実に解決できるとは言えない。言ってはいけない。できるのは、最善を尽くすことだけだ。


ルカは空を見上げた。雲ひとつない、青い空。潮風が乾いた髪を揺らしている。


「……やってくれ」


「え?」


「俺の力を使ってくれって言ってるんだ。相性がどうとか知らねえけど——とにかく、このままじゃどうにもならない。何かやれることがあるなら、やりたい」


真っ直ぐな目だった。後悔と、それを行動に変えようとする意志が同居している。


「……ありがとうございます。では、確認させてください。ルカ・マレーナさん。あなたの意思で、あなたの力の一部を私にお貸しいただけますか」


「ああ。貸す」


迷いのない声だった。


オリヴィアは杖を脇に置き、両手を差し出した。


「手を」


ルカがためらいがちに手を伸ばす。日焼けした大きな手が、オリヴィアの細い手に重なった。


目を閉じる。意識を研ぎ澄まし、触れた掌から相手の内側に意識を向ける。


ルカの力が流れ込んできた。


荒い。潮の匂いがする。波のうねりのように不規則で、しかし芯には一本の太い流れがある。海で生きてきた人間の力——力強く、素朴で、真っ直ぐだ。


そして——その力の奥に、海への複雑な感情が渦巻いていた。愛着。畏怖。罪悪感。失ったものへの怒り。取り戻したいという渇望。それら全てが、渡される魔力の中に色濃く混じっている。


魔力には持ち主の性質が混ざる。それは避けられないことであり、必ずしも悪いことではない。この力でどんな術が編めるか——それはこちらの技量次第だ。


受け取った力を杖の琥珀の水晶に流し込む。水晶が温かい橙色の光を灯し、ルカの力を蓄えていく。十分とは言えないが、対話を試みる程度の術なら組み立てられるだけの量は確保できた。


手を離すと、ルカが僅かによろめいた。


「……っと。結構抜けた感じがするな」


「無理をさせました。今日は早めに休んでください」


「まだ昼だぞ」


「それでもです」


ルカは苦笑した。それから、少し驚いたように自分の手を見下ろした。


「不思議な感じだ。力を取られたっていうより——何かを渡した、って感覚のほうが近い。嫌な感じはしなかった」


「それは——よかったです」


同意の上で渡された力は、奪われた力とは質が異なる。それを感じ取れるのは、この青年の感性が素直だからだろう。


オリヴィアは杖を握り直した。琥珀の水晶が新たな光を宿し、内側でルカの力がゆらゆらと揺れている。海の色を帯びた、温かい力。


「今夜——もう一度、海溝へ行きます」


「夜に? 一人でか?」


「昨夜の様子から、あの方は夜のほうが反応が強くなります。光が見えるのも夜だけです。対話を試みるなら、夜が最善だと考えます」


ルカは明らかに不安そうだったが、口を挟みかけた言葉を飲み込んだ。代わりに言ったのは——


「桟橋で待ってる」


「来なくて結構です。休んでくださいと——」


「聞こえなかったのか? 桟橋で待ってるって言ったんだ」


オリヴィアは瞬きをした。それから、わずかに——本当にわずかに——口元が緩んだ。表情の変化としてはほとんど知覚できない程度のものだったが。


「……わかりました。ありがとうございます」


---


夜が来るまでの間、オリヴィアは町を歩いて回った。


情報を集めるためだ。住人たちの表情、食料の備蓄状況、建物の状態、人々の会話の断片。町全体の空気を肌で感じ取ること——それが問題の全体像を掴むためには欠かせない。


見えてきたのは、ゆっくりと追い詰められていく共同体の姿だった。干物と保存食の在庫は減り続けており、内陸との交易路はあるものの、この町の主要な交易品は魚だった。売るものがなければ買うこともできない。


井戸端で話す女たちの声は沈んでいた。「隣町に親戚がいるから」「子供だけでも先に」——町を離れる話が、すでに現実味を帯びて語られている。


一方で、ファルコ司祭の周囲には少しずつ人が集まり始めていた。広場の神殿の前に供え物が増えている。根菜や干し肉——貴重な食料を、見えない神への捧げ物として差し出す人々。追い詰められた人間が縋るものは、いつだって目に見える解決策ではなく、見えない何かへの祈りだ。


それが悪いこととは思わない。祈りそのものに罪はない。ただ——その祈りが、正しい相手に、正しい形で届いているかどうかは、別の話だ。


日が傾き始めた頃、町の外れの高台に足を運んだ。


そこには小さな墓地があった。石を積んだ素朴な墓標が並び、その多くに貝殻や珊瑚の欠片が供えられている。海とともに生き、海とともに逝った人々の眠る場所。


墓地の隅に、他より古い石碑が一つだけ立っていた。文字は風化してほとんど読めないが、かろうじて「我ら、海と契りを結び——」という断片が判読できた。


三百年前の契約の痕跡。


指先で風化した文字をなぞる。石の冷たさが指に伝わるが、それだけだ。魔力のない今の自分には、石碑に残る古い術式の気配を読み取ることもできない。


「——こんなところで何をしている」


振り返ると、ファルコ司祭が墓地の入口に立っていた。白い法衣が夕日に染まっている。


「散歩です。失礼いたしました」


「散歩で墓地に来る者はあまりいないがな」


司祭はゆっくりと歩み寄ってきた。細い目がオリヴィアの手元——石碑に触れている指先を見つめている。


「余所者が町をうろつくのは感心しないな。住人は不安に思う」


「ご迷惑をおかけしていますか」


「海が硝子になり、生活が脅かされている時に、見慣れない格好の旅人が長い杖を持ってうろつく。不安にならないほうがおかしい」


言葉は丁寧だが、口調には明確な敵意があった。余所者の排除。自分の管轄への干渉に対する警戒。あるいは——自分の影響力が削がれることへの恐れ。


「この町のために祈ってくださっているのですね。ご苦労様です」


嫌味ではなく、本心から言った。方法が正しいかどうかはともかく、この司祭なりにこの町のことを考えてはいるのだろう。多分。


ファルコは一瞬面食らったような顔をした。皮肉を予想していたのかもしれない。


「……まあ、いい。ただ忠告しておく。この事態は海神のお怒りによるものだ。人の手でどうにかなる問題ではない。余計なことをしないことだ」


「ご忠告、ありがとうございます」


それだけ言って、オリヴィアは墓地を後にした。背中にファルコの視線が刺さっているのを感じたが、振り返りはしなかった。


---


夜が来た。


月が昇り、硝子の海が銀色に輝き始めた頃、オリヴィアは桟橋に立っていた。


約束通り、ルカが来ていた。上着の襟を立て、ランタンを手にしている。


「——気をつけろよ」


「はい」


短いやり取りだけで十分だった。


一歩を踏み出す。硝子の海の上に。


月光と、足元から透ける青い光だけが道標だった。昼間歩いた同じ道を辿り、海溝の上を目指す。夜の海は昼とは全く異なる表情を見せていた。月の光が硝子の内部で乱反射し、止まった海の底にまるで星空があるかのような錯覚を生んでいる。


そして——青い光が近づいてくる。


海溝の上に辿り着く前に、光のほうからこちらに向かってきた。昨夜の浜辺と同じだ。硝子の下を這うように、脈打ちながら、ゆっくりと。


海溝の縁で立ち止まった。足元の硝子の下、深い闇の中から、青い光が渦を巻いて浮かび上がってくる。


杖を構えた。琥珀の水晶の中で、ルカから借りた力が脈動している。海の色を帯びた力。この世界の海で生きてきた人間の力。


あの存在に届くための術式を組み上げる。対話の術——声なき声を聞き、言葉なき言葉を伝えるための魔術。エメラルドの変換器を通して、ルカの力を適切な形に変換していく。


杖先の二股が大きく振動した。新たな世界の法則と、自分の術式を調律する。


琥珀が輝き、エメラルドが深い緑の光を放った。


オリヴィアは目を閉じ、意識を——


硝子の下の、あの存在へ向けて——


「聞こえますか」


声は、沈んでいった。硝子を透過し、止まった海を透過し、三百年の封印の壁を——


かすかに、震えた。


壁の向こう側で、何かが応えた。言葉ではない。感情の奔流。映像の断片。色と、音と、温度が一度に押し寄せてくる。


——青い、青い海。生き物たちが泳ぎ、珊瑚が育ち、潮流が歌う。かつてのこの海。

——鎖。見えない鎖が身体を縛り、海底に縫い止める。痛み。叫び。

——それでも守った。魚を導き、嵐を退け、町を守った。

——それなのに、取られる。奪われる。もっと、もっと、もっと——

——もう、疲れた。


最後の感情が胸を貫いた時、オリヴィアの頬を——生まれて初めて——涙が伝った。


自分のものか、あの存在のものか、わからなかった。


ただ、指先が硝子の表面に触れた場所で——ほんの一瞬——硝子が揺らいだ。


波紋のように。海が、思い出したかのように。

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