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3話「借り受ける火」

その夜、ナディは起き上がらなかった。


オリヴィアは寝台の端に座ったまま、朝まで空の脈動を数え続けた。周期は確実に短くなっている。昨夜は十二拍で一周期だったものが、十一拍になり、夜明け近くには十拍に縮まっていた。


何かが近づいている。


あるいは、何かが限界に近づいている。


ナディの首筋の染みは昨夜より広がっていなかった。だが、消えてもいなかった。薄い灰色が、耳の後ろから鎖骨にかけてうっすらと残っている。ナディはそれに気づいているのだろうか。


窓の外が白んできた。赤黒い脈動が日光に押されて薄まり、病んだ空に束の間の安息が訪れる。オリヴィアは二晩連続の不眠に、さすがにわずかな重さを感じていた。この体は人間より頑丈ではあるが、無限ではない。力が空である今、体の維持機能も低下している。


ナディが目を覚ました。


「……おはよ。あんた、また寝てないの」


「おはようございます。少し微睡みました」


嘘だった。嘘は得意ではないが、ナディにこれ以上心配をかけるべきではないと判断した。不得意な嘘を不得意なままに吐いたので、声の調子が普段とわずかに違っていたかもしれない。ナディは怪訝な目を向けたが、追及はしなかった。


朝食の席で、ベーレが昨夜の急患の容態を教えてくれた。若い男——名前はトーマスというらしい——の灰色の変色は、夜の間も進行していなかった。オリヴィアの探査術が何らかの干渉を残した可能性があったが、それが永続するとは思えない。応急処置に過ぎない。


「父親のグレンさんが、あなたにお礼を言いたがっていました」


「後ほど伺います。ですが、まだ治ったわけではありませんので、過度な期待はされないようにお伝えください」


ベーレは頷いた。その顔には昨夜よりも明確な信頼の色があった。人は、目の前で何かを為す者を信じる。結果が一時的であっても、行為そのものが信頼を生む。


硬いパンを千切りながら、オリヴィアは今日の計画を整理していた。


第一に、大聖堂の書庫の奥——地下深部への入り口を探すこと。第二に、力の調達。この二つは並行して進めなければならない。どちらか一方だけでは意味がない。入り口を見つけても力がなければ何もできず、力を得ても入り口がなければ核に届かない。


そして第三の問題。モーゲン副官。


昨夜の考察を反芻する。モーゲンが核の存在を知っている可能性。彼の行動——兵力の増強、中央区域の警備強化——が、核を守るためなのか、核に近づく者を排除するためなのか。


答えを出すには情報が足りない。だが、今日の行動次第ではモーゲンと直接衝突することになるかもしれなかった。


「ナディ。今日も大聖堂に行きたいのですが、一つ提案があります」


「何?」


「二手に分かれましょう。私が書庫を調べている間に、ナディには街で情報を集めてほしいのです」


「情報って、何の」


「モーゲン副官について。彼が最近、大聖堂に出入りしていないか。地下に何か運び込んだり、逆に持ち出したりしていないか。兵士たちの間で何か噂がないか。あなたはこの街で育った人ですから、私より自然に聞き回ることができるはずです」


ナディは考え込むように眉を寄せた。


「確かに、知り合いは何人かいるけど……モーゲン副官のことを嗅ぎ回ってるってバレたら面倒なことにならない?」


「その通りです。だから慎重にお願いします。直接名前を出す必要はありません。最近の領主屋敷の様子とか、兵士が増えた理由とか、日常の延長で訊ける範囲で構いません」


「……わかった。やってみる」


ナディはパンの最後の一切れを口に放り込み、立ち上がった。


「じゃあ、昼過ぎに大聖堂の前で合流ね。気をつけて」


「ナディこそ」


ナディは片手を上げて出て行った。その背中を見送りながら、オリヴィアは小さな不安を覚えた。ナディの首筋の染み。あれが今日一日の間に広がらないという保証はどこにもない。


だが、ナディを閉じ込めておくこともできない。あの少女は自分の足で立ち、自分の意志で動く人間だ。それを尊重しなければ、信頼関係は築けない。


オリヴィアは杖を手に取り、救護院を出た。


---


大聖堂までの道を、昨日とは別のルートで歩いた。裏通りを選んだのは、モーゲンの兵士の巡回を避けるためだった。


住宅が密集する細い路地には、大通りとは異なる生活の気配があった。窓から洗濯物が干され、どこかで子供の声がする。だが、その声もすぐに途切れた。母親らしき女性が子供の腕を引いて屋内に連れ戻す姿が見えた。子供の腕に、小さな灰色の染みがあった。


子供にも広がっている。三か月前、最初に症状が現れたのは子供だったとベーレは言っていた。子供は大人よりも命脈が柔らかい。外部からの浸透に対して脆弱なのだろう。


路地の壁にも、黒い変色が這っていた。石材の目地に沿って、毛細血管のように細い線が走っている。指で触れると、冷たかった。周囲の石より明らかに温度が低い。


地下からの浸出が、地上の構造物にまで影響を及ぼしている。建物の基礎を通じて、壁面に、そして空気中に。


大聖堂に着いた。


正面からは入らず、裏手に回った。書庫への入り口は裏手の階段からだ。鍵はイオルグ司祭から預かったまま持っている。


階段を降り、書庫の扉を開けた。昨日と同じ湿った空気、古い紙の匂い。


オリヴィアは昨日開いた大判の書物を再び引き出した。挿絵のページを開く。大聖堂の地下の空洞。揺籃。光る球体。


この絵の空洞は、書庫のさらに下にある。では、書庫からそこに降りる道はどこか。


オリヴィアは書架から離れ、床を調べ始めた。石畳の床。継ぎ目のパターン。壁との接合部。隅に積まれた木箱。


書庫は長方形の部屋で、四方の壁を書架が覆っている。床面に目立った特徴はない。隠し通路があるとすれば、書架の裏か、あるいは床面の下か。


書架を一つずつ確認した。背板を叩いて音を聴く。中空であれば響きが違うはずだ。


北壁。東壁。南壁。すべて同じ詰まった音。


西壁。


三つ目の書架を叩いた時、微かに響きが変わった。より深い反響。壁の向こうに空間がある。


オリヴィアは書架の本を慎重に脇に移し、背板を露出させた。木の板は古びていたが、しっかりと嵌め込まれている。継ぎ目を指先でなぞると、一か所だけ板が他より僅かに浮いている箇所があった。


押した。動かない。引いた。わずかに動いた。横にずらした。


板が滑り、その奥に暗い空間が口を開けた。人一人がかがんで通れる程度の穴。そこから、冷たい空気が流れ出してきた。下降する気流。深部の温度が地表より低いことを示している。


穴の奥は石段だった。急勾配で、闇の中に消えている。


見つけた。


だが、今の自分には、この先に降りたところで何もできない。暗闇を照らす灯りすら作れない。空の器は空のままだ。


オリヴィアは板を元に戻し、書架の本を並べ直した。この入り口の存在は、まだ誰にも知られていない方がいい。少なくとも、力を確保するまでは。


書庫を出て、大聖堂の聖堂に上がった。


イオルグ司祭は祭壇の前にいた。昨日と同じ場所、同じ姿勢。白い法衣の背中が、薄暗い聖堂の中でぼんやりと浮かんでいた。


「司祭様」


イオルグが振り返った。灰色の目がオリヴィアを捉えた。


「おお……昨日の。書庫で何か見つかりましたか」


「はい。いくつかのことがわかりました。そして、お尋ねしたいことがあります」


イオルグは頷き、祭壇の前の長椅子に腰を下ろした。オリヴィアもその隣に座った。杖を膝に立てかける。先端の水晶が光を失ったまま、暗い琥珀色を湛えている。


「この大聖堂の地下に、書庫よりさらに深い空洞があることをご存知ですか」


イオルグの表情が変わった。驚きではなかった。覚悟のようなものが、老いた顔の皺に浮かんだ。


「……知っています。代々の司祭にのみ伝えられる秘密です。あなたは——書庫の記録から?」


「はい。挿絵を見ました。文字は読めませんでしたが」


イオルグは長い溜め息をついた。溜め息というよりも、長年背負ってきた何かを少しだけ降ろすような、そんな呼気だった。


「カルムザードの核。我々は『始祖の灯』と呼んでいます。この街を建設した古の民が遺した、大地の力の結晶です。何百年もの間、始祖の灯がこの地を潤し、人々の命脈を養ってきました」


「それが損なわれている」


「ええ。三か月前——正確には、もう少し前から兆候はあったのかもしれません。私が気づいたのは三か月前です。大聖堂の尖塔に黒い染みが現れ、同じ頃に空が変わり始めた」


「司祭様は、地下に降りたことがありますか」


イオルグは首を横に振った。


「私が司祭になった時、先代からこう言い渡されました。始祖の灯は決して触れてはならない。見守ることだけが司祭の務めだ、と。しかし——」


イオルグの声がかすれた。


「見守ることすらできなくなった。先代は地下に降りる方法を教えてくれなかった。いえ——おそらく、先代も知らなかったのでしょう。代を重ねるうちに、方法も理由も忘れられていった。私たちは始祖の灯の恩恵を受けながら、それがどういうものかすら理解していなかった」


老司祭の告白には、痛みがあった。守るべきものを守れなかった者の痛み。


「司祭様。一つお伝えしなければならないことがあります」


「何でしょう」


「昨夜、患者の体を通じて始祖の灯の状態を探りました。灯は——壊れかけています。そしてその崩壊の過程で、大地の脈を通じて灰のような力を放出しています。人々の体に現れる染みは、その灰が命脈に沈着したものです」


イオルグの顔から血の気が引いた。


「灯が——人々を蝕んでいる、と。守るべきものが、害を為していると」


「意図的ではないと思います。始祖の灯は恐怖の中にあります。崩壊への恐怖。消滅への恐怖。その苦しみが制御できずに漏れ出しているのです。そして、染みが全身に広がった人間は——灯に吸い込まれます。灯が無意識に、生命力を取り込んで自らを維持しようとしている」


イオルグの手が震えていた。杖のように細い指が、法衣の膝を掴んでいた。


「消えた人々は——まだ、そこにいるのですか」


オリヴィアは正直に答えた。


「わかりません。生きているのか、すでに失われたのか。確認するには、実際に地下に降りるしかありません」


「あなたには、それができるのですか」


「できます。地下への道は見つけました。ですが——力が必要です」


オリヴィアは杖を持ち上げた。先端の琥珀の水晶をイオルグに示した。


「この水晶に力を貯め、それを使って術を行使します。今はこの器が空です。この世界の方から命脈の一部をお借りし、力を満たす必要があります」


イオルグの灰色の目が、水晶を見つめた。


「命脈を——預ける」


「はい。ご本人の明確な同意が必要です。そして、預けてくださる方との間に信頼がなければ、力が正しく機能しません。無理にお願いすることはいたしません」


長い沈黙が落ちた。聖堂の中で、蝋燭の炎だけが音もなく揺れていた。


イオルグは目を閉じた。唇が小さく動いた。祈りの言葉だろうか。


やがて、目を開いた。


「私の命脈をお使いください」


「司祭様——」


「老いた身の脈です。量は多くないでしょう。質も、若い者には劣る。ですが、この街を守れなかった私にできることが、これしかないのであれば——」


イオルグは両手をオリヴィアの前に差し出した。細い、骨の浮いた手だった。


「喜んで差し出します」


オリヴィアはイオルグの手を見つめた。差し出された手。信頼の具現。


「ありがとうございます。ですが、今すぐには受け取りません」


イオルグが怪訝な顔をした。


「なぜです」


「受け渡しの前に、準備が必要です。この世界の命脈と私の術式の間にある差異を調律しなければなりません。調律なしに力を受け取れば、司祭様の命脈が変質する恐れがあります」


嘘ではないが、理由はもう一つあった。イオルグの体にも灰色の染みがあった。法衣の袖口からわずかに覗いていた手首の内側。うっすらとした灰色。彼もまた蝕まれている。


汚染された命脈を受け取れば、灰の粒子も一緒に杖に取り込んでしまう。それでは術式が安定しない。受け渡しの前に、命脈から灰を分離する方法を考えなければならなかった。


だがそれは——力のない今の自分には、どうすることもできない問題だった。


鶏が先か卵が先か。


力がなければ浄化できない。浄化しなければ力を受け取れない。堂々巡りだった。


「準備にはどのくらいかかりますか」


「わかりません。ですが、急ぎます」


イオルグは頷いた。差し出していた手を下ろし、膝の上に置いた。


「一つだけ——お伝えしておくべきことがあります」


「何でしょうか」


「モーゲンのことです」


オリヴィアの意識が鋭くなった。


「あの男は——始祖の灯のことを知っています。ルクレス様から聞いたのでしょう。ルクレス様は歴代の領主に伝えられる秘密として、灯の存在を知っていましたから。副官であるモーゲンにも話したのだと思います」


「司祭様は、モーゲン副官をどう見ていますか」


イオルグは言葉を慎重に選ぶように間を置いた。


「……悪人ではない、と思いたい。ルクレス様への忠誠は本物でした。少なくとも、以前は。ですが、ルクレス様が倒れてから——あの男の目が変わった。何かに怯えている。そして怯えている者は、時に取り返しのつかないことをする」


恐怖に駆られた人間。それはオリヴィアが広場でモーゲンから感じ取った印象と一致していた。


「司祭様は、モーゲン副官が地下に降りた可能性があると思いますか」


イオルグは沈黙した。答えないことが、答えだった。


---


大聖堂を出ると、日は中天に近づいていた。色褪せた陽光が石畳を照らしているが、影の輪郭は相変わらずぼやけている。世界の境界線が滲んでいる。


約束の場所で、ナディが待っていた。壁にもたれて腕を組んでいたが、オリヴィアの姿を認めるとすぐに駆け寄ってきた。


「あんた遅い。心配したじゃん」


「申し訳ありません。話が長引きました」


「首尾は?」


「入り口を見つけました。書庫の西壁の裏です」


ナディの目が光った。


「こっちも収穫あったよ。場所変えて話そう」


二人は大聖堂から離れ、人気のない路地裏に入った。ナディは声を潜めた。


「まず、モーゲン副官のこと。職人区にいる知り合いの革細工師——ヨナスっていうんだけど——に聞いた。ヨナスの弟がモーゲンの部隊の兵士なの」


「何かわかりましたか」


「モーゲン副官が、夜中に大聖堂に出入りしてるって。ひと月くらい前から。供も連れずに一人で。弟は衛兵の夜間巡回中に何度か見かけたらしい。でも副官殿のやることだから、誰も口を出せない」


夜中に大聖堂に。一人で。ひと月前から。


それはちょうど、領主ルクレスが倒れた時期と一致する。


「もう一つ。これはヨナス自身が見たことなんだけど、モーゲン副官がヨナスの工房に来て、特殊な器具を発注したことがあるらしい。二か月前。金属製の——何て言うの——」


ナディは言葉を探して手を動かした。


「大きな器みたいなもの。深い鉢みたいな形で、内側に模様を刻んでほしいって。模様は副官が自分で図案を持ってきたんだけど、ヨナスが見たことのない紋様で——」


「その器具は完成したのですか」


「うん。納品したって。でもヨナスは気味悪がってた。あの模様は何かの儀式用じゃないかって」


儀式用の器。内側に紋様。そしてモーゲンは夜中に大聖堂に通っている。


推測が形を成し始めていた。


モーゲンは始祖の灯に何かをしようとしている。あるいは、すでにしている。儀式的な手段を用いて。それが灯の崩壊を加速させているのか、あるいは逆に——灯を何らかの方法で制御しようとしているのか。


「ナディ。あなたの親方は、その紋様について何か心当たりはありませんか」


「親方は今、話ができる状態じゃ——」


ナディは言葉を切り、唇を噛んだ。


「……でも、工房に残ってるかも。図案の控えとか。親方は仕事の記録を全部残すタイプだったから」


「見に行けますか」


「行ける。鍵は預かってるし。行こう、今から」


ナディは迷いなく歩き出した。オリヴィアはその背中を追った。


---


親方の工房は職人区の一角にあった。石造りの平屋建て。看板には金属の装飾が施されていたが、今は錆が浮いている。手入れをする者がいなくなって久しいのだろう。


ナディが鍵を開け、中に入った。鍛冶場の残り香——金属と炭の匂い——が、冷えた空気の中に漂っていた。


炉は冷たい。金床の上に叩きかけの金属片が置かれたままだった。親方が倒れた日の作業がそのまま残されている。ナディはそれをちらりと見て、視線を逸らした。


「記録は奥の棚。ちょっと待って」


ナディは工房の奥に入り、棚から何冊かの帳面を引き出した。ページをめくっていく。


「あった。これ」


ナディが帳面をオリヴィアの前に広げた。ページの右半分に、図案が描かれていた。円形の器の展開図。内側の面に刻む紋様の詳細。


オリヴィアはその紋様を見た。


知っている。


正確には、「類似したもの」を知っていた。以前の世界ではなく、もっと以前。神々の領域に近い場所で見た、力の制御に用いる古い文法。この世界独自のものではない。世界の壁を超えて共通する、もっと根源的な——。


「束縛紋」


オリヴィアの口から、その名が漏れた。


「何? 束縛?」


「この紋様は——力を封じ込めるためのものです。対象の力を器に吸い込み、閉じ込める」


ナディの顔が強張った。


「始祖の灯を——封じるってこと?」


「あるいは、灯の力を抽出しようとしている。灯そのものではなく、灯が持つ力だけを引き剥がして、この器に移そうとしている可能性があります」


灯から力を引き剥がす。それは、灯を殺す行為に等しい。力を失った灯は崩壊し、カルムザードは大地の脈の恩恵を完全に失う。


だが、モーゲンの目的は何だ。灯の力を手に入れて何をする。


「ナディ。モーゲン副官は、この紋様をどこで知ったのだと思いますか」


「わかんない。でも——領主様の屋敷には書庫がある。古い文献がたくさんあるって親方が言ってた。領主家に代々伝わる記録の中に、こういう知識があったのかも」


ありえる話だった。始祖の灯の存在が領主家に伝えられているなら、灯に関連する技術や紋様も同じく伝わっていておかしくない。ルクレスが倒れた後、モーゲンがそれらの文献を漁った。そして——何かを見つけた。


問題は、モーゲンの動機だ。


イオルグは言った。あの男は怯えていると。忠誠心は本物だったと。


もしモーゲンが、灯の崩壊を止めようとして——間違った方法を選んだのだとしたら。


崩壊する灯を見て、灯の力を器に移し替えることで保存しようとした。だが束縛紋は保存ではなく抽出に近い。灯から力を引き剥がす行為が、逆に灯の崩壊を加速させ、灰の放出を悪化させた。


善意の暴走。恐怖に駆られた者が犯す、最悪の種類の過ち。


あるいは——そうであってほしいと思うのは、オリヴィアの内面にある甘さのせいかもしれなかった。


「帳面をお借りしてもいいですか。紋様の図案だけで構いません」


「持ってって。親方も——きっと許してくれる」


ナディは帳面からそのページを慎重に切り取り、オリヴィアに渡した。オリヴィアはそれを折り畳み、腰のポーチにしまった。


工房を出た。


日が傾き始めていた。午後の空は、朝よりも赤みを増している。脈動の間隔が狭まっている。今夜は昨夜より激しくなるかもしれない。


「ナディ。今夜中に地下に降りたいと考えています」


「え——今夜? でも、まだ力が——」


「ありません。ですが、待っている時間がない。脈動が加速しています。始祖の灯の崩壊が進んでいる。あと何日持つかわかりませんが、余裕がないことは確かです」


「力なしで降りてどうするの。真っ暗な穴に落ちるだけじゃん」


「まず確認したいのです。灯の状態を。そして、モーゲン副官が地下で何をしているのかを。力が必要になるのはその後です」


ナディは不安そうな顔をしたが、反論はしなかった。代わりに、別のことを言った。


「私も行く」


「危険です」


「知ってる。でもあんた一人の方が危ないでしょ。力がないんでしょ。灯りだって持てないのに。私が松明を持つ。あんたは前を見る。そういう分担」


反論しようとして、やめた。ナディの目に宿っているのは、恐怖を承知の上での決意だった。それを否定する権利はオリヴィアにはない。


「……わかりました。ですが、危険を感じたら即座に引き返してください。約束できますか」


「あんたもね」


「私は——」


「あんたもだよ。あんただって危ないの。力がない状態なんでしょ。無茶したら——」


ナディは言葉を切った。何かを言いかけて飲み込んだ。


「……とにかく、お互い無茶はしない。約束」


「約束します」


---


救護院に戻ると、ベーレが待っていた。


「お二人とも、ちょうどよかった。お客様が見えています」


広間に入ると、昨夜の患者の父親——グレンが座っていた。昨夜は疲労で憔悴していた顔に、今は少し血色が戻っている。隣には若い男、トーマスが座っていた。まだ体の左半分は灰色に変色していたが、自力で座れるまでに回復していた。


グレンがオリヴィアを見て、すぐに立ち上がった。


「あんたがトーマスを助けてくれた人か。礼を言わせてくれ」


「まだ治ったわけではありません」


「わかってる。でも、進行が止まった。それだけでも——」


グレンの声が詰まった。太い腕で目を拭った。


「息子が消えるかと思った。もう何人も消えてるだろう。次はうちのトーマスだって——」


「お父さん、もういいよ」


トーマスが父親を宥めた。灰色に濁った左目のまま、オリヴィアを見た。


「あなたが何をしてくれたかは、正直よくわかってない。でも、体が楽になったのは確かだ。あの——地面の下の声も、少し遠くなった」


「声がまだ聞こえていますか」


「うっすらと。でも昨夜ほどじゃない。遠くで誰かが泣いてるような——」


トーマスは首を振った。


「俺に何かできることはないか。あんたが俺を助けてくれたように、俺も何かしたい」


オリヴィアはトーマスを見た。命脈が灰に侵されている体。だが、彼の命脈には、探査術式の残響がわずかに残っている。オリヴィアの術に一度触れたことで、彼の命脈は——ほんの少しだけ——異なる世界の法則を「知って」いる。


相性。


術者と提供者の間の信頼だけでなく、力そのものの親和性。一度接触した命脈は、二度目の接触に対して抵抗が少ない。


そして何より——トーマスの命脈には、灰の中に純粋な部分が残っている。探査術の残響が、灰の浸食から一部の命脈を守っている。その部分だけを借りることができれば——。


量は少ないだろう。だが、灯りを灯し、探査を行う程度の力は確保できるかもしれない。


「トーマスさん。一つ、不思議なお願いをしてもよろしいですか」


「何だ」


「あなたの命脈の一部を、私に貸していただきたいのです」


グレンが息を呑んだ。トーマスは眉を寄せた。


「命脈を——貸す? それは、どういう——」


「あなたの生きる力の一部を、一時的に私の道具に預けていただく。それを使って、地下で起きていることに対処します。お返しできるかどうかはわかりません。差し出していただいた分だけ、一時的に衰弱します。危険が伴います」


率直な説明。飾らない。隠さない。リスクを正確に伝える。それが、力を借りる者の義務だった。


トーマスは長い間黙っていた。父親のグレンが口を開きかけたが、トーマスが手で制した。


「親父、俺に決めさせてくれ」


グレンは口を閉じた。


トーマスはオリヴィアを見た。灰色の左目と、まだ澄んでいる右目の、両方で。


「あんたは昨夜、俺の体に触れた。あの時——なんて言えばいいかわからないけど——あんたの中に何もないのを感じた」


「何もない?」


「命脈が。普通の人間なら感じるはずの、体の中の流れが——あんたにはなかった。空っぽだった。なのに、あんたは俺を助けようとした。空っぽの体で」


オリヴィアは目を伏せた。


見抜かれていた。探査の際に直接触れたことで、トーマスの方もまた、オリヴィアの内側を感じ取っていたのだ。空の器。自前の力を持たない体。


「……はい。私には自分の力がありません。だから、お借りするのです」


トーマスは右手を差し出した。


「持ってけ。空っぽの体で人を助けようとする奴を、信じない理由がない」


グレンが声を殺して泣いた。ベーレが目を押さえた。ナディは黙ってオリヴィアの隣に立っていた。


オリヴィアはトーマスの手を取った。


「ありがとうございます。——始めます」


杖を左手で持ち、先端をトーマスの手の上にかざした。琥珀の水晶を、二人の繋いだ手の間に位置させる。エメラルドの変換器が微かに光を帯びた。


命脈の受け渡し。同意に基づく力の移譲。


杖の二股が振動を始めた。この世界の法則と、オリヴィアが持つ術式の間の差異を調律する。振動が安定するまで数秒。


トーマスの手から、温かいものが流れ込んできた。


命脈。この世界の人間が持つ、生きる力の流れ。それはオリヴィアが今まで触れたどの世界の魔力とも異なっていた。もっと柔らかく、もっと有機的で——そして、悲しみの粒子が混ざっていた。


灰。だが、量は少なかった。探査術の残響が守った領域から引き出された命脈には、純粋な部分が多く残されていた。


琥珀の水晶がゆっくりと光を取り戻していった。暗い琥珀色から、温かい黄金色へ。光は微弱だったが、確かにそこにあった。


十分な量ではない。杖の容量に対して、一割にも満たないだろう。だが——ゼロではなくなった。


流入が止まった。トーマスの命脈がこれ以上の放出を拒んでいる。体の自己防衛機能だ。無理に引き出せば命に関わる。


オリヴィアは杖を下ろし、トーマスの手を離した。


トーマスの顔色がやや青ざめていた。だが、意識ははっきりしている。


「……ちょっとふらつくな。でも、大丈夫だ」


「横になってください。今日は安静に」


「ああ——」


トーマスはグレンに支えられて寝台に向かった。途中で振り返り、言った。


「頼んだぞ。あの——地面の下で泣いてるやつを、助けてやってくれ」


オリヴィアは頷いた。


杖の先端で、琥珀の水晶がかすかに脈動していた。借り受けた命脈。トーマスの生きる力。その中に混ざった、この世界の大地の記憶。街を支えてきた灯の残響。そして——ほんのわずかに——灰色の悲しみ。


十分ではない。だが、始めることはできる。


ナディが横に立った。


「準備、できた?」


「はい。完全ではありませんが——」


「完全じゃなくていいよ。完全を待ってたら間に合わない。あんたが昨日、自分で言ったことでしょ」


その通りだった。


オリヴィアは窓の外を見た。日が沈みかけている。空の脈動が強まり、赤黒い光が街を塗り替え始めていた。


今夜、地下に降りる。


---


夜。


大聖堂の裏手に、二つの影が立っていた。


ナディが手にしているのは油を染み込ませた松明と火打ち石。オリヴィアは杖を握り、書庫の鍵を確認した。


「ベーレさんには、少し出かけると伝えてあります」


「心配してたね、すごく」


「心配されるのは——慣れていません」


「慣れなよ。心配する人がいるってことは、あんたのことを大事に思ってる人がいるってことだから」


ナディはさらりと言った。オリヴィアは一瞬、返答を失った。


書庫に入り、西壁の書架の前に立った。本を脇に移し、背板を外す。冷たい闇がぽっかりと口を開けた。


ナディが松明に火をつけた。橙色の光が書庫の壁を揺らし、穴の奥の石段をわずかに照らし出した。


「行こう」


ナディが先に松明を穴に差し入れた。オリヴィアが続いた。


石段は急で、幅が狭かった。壁面は湿っており、ところどころに苔のようなものが生えている。空気は冷たく、松明の炎が小さく揺れた。酸素が薄いのかもしれない。


降りる。降りる。どこまでも降りる。


百段を超えたあたりで、石段の質感が変わった。人工的に切り出された石材から、自然の岩盤に変わっていた。この先は、街の建設者が作ったものではなく、もともと存在していた自然の空洞なのだろう。


さらに降りると、空気が変わった。


重い。粘度がある。外の大気に感じていたものと同じ質感だが、桁違いに濃い。呼吸が重くなる。ナディも息が荒くなっていた。


「大丈夫ですか」


「平気——ちょっと、息苦しいだけ」


強がりだったが、足を止める気配はなかった。


やがて、石段が終わった。


二人は広い空間に出た。松明の光が届く範囲は限られていたが、天井が高いことは反響でわかった。足元は平らな岩盤。壁面は遠く、闇に溶けている。


そして——部屋の中央に。


揺籃があった。


書庫の挿絵で見たものと同じ形。巨大な揺りかご状の構造物。だが、挿絵とは決定的に違っていた。


灰に覆われていた。


構造物の表面全体を、灰色の物質が厚く覆い尽くしていた。かつては光り輝いていたであろう表面は、灰の層の下に完全に埋もれている。ところどころにひび割れがあり、そこからかすかな——本当にかすかな——緑色の光が漏れていた。


始祖の灯。カルムザードの核。


それは、確かに泣いていた。


音ではない。空間そのものが震えていた。悲しみと恐怖の振動が、岩盤を通じて足元から伝わってくる。


そして——揺籃の前に。


金属製の器が置かれていた。


深い鉢のような形。内側に紋様が刻まれている。帳面の図案と同じもの。束縛紋。


器の中には、緑色の光が溜まっていた。灯から引き剥がされた力が、この器に吸い込まれている。


モーゲンの仕業だ。


ナディが息を呑んだ。松明を持つ手が震えていた。


「これ——これが——」


ナディの声は、震えていたが、途切れなかった。


オリヴィアは揺籃に近づいた。杖の二股を向けた。琥珀の水晶が微かに光を放ち、調律が始まった。


わずかな力しかない。だが、この距離で直接触れることができれば——灯の状態を、より正確に把握できる。


杖先が揺籃の灰の表面に触れた瞬間。


声が聞こえた。


声ではなかった。感情の奔流。言語以前の、純粋な感覚の塊。


——痛い。寒い。怖い。消えたくない。助けて。誰か。誰か——。


オリヴィアの体が揺れた。感情が直接意識に流れ込んでくる。灯が何百年も蓄積してきた孤独と恐怖が、堰を切ったように。


そして——その奔流の底に、別の感情があった。


申し訳ない。みんなを傷つけている。わかっている。でも止められない。自分が消えるのが怖い。怖くて、吸い込んでしまう。止めたいのに。止めたいのに——。


オリヴィアは杖を離した。


体が冷たかった。空の器に、灯の感情が直接注ぎ込まれた衝撃で、意識が白く明滅していた。


「オリヴィア!」


ナディの声。腕を掴まれた。温かい手。その温もりで、意識が引き戻された。


「大丈夫……です」


「全然大丈夫に見えないんだけど! 何があったの」


「灯が——話してくれました」


灯の声。灯の恐怖。灯の罪悪感。


始祖の灯は、意識を持っていた。何百年もこの街を支え、人々を養い、そして今——壊れかけている自分を止められずに苦しんでいた。


束縛紋の器が、灯の力を引き剥がしている。外部からの侵害が灯の崩壊を加速させ、恐怖に駆られた灯が無意識に人間の命脈を吸い上げ——悪循環が回り続けている。


器を取り除けば、崩壊の加速は止まるかもしれない。だが、それだけでは足りない。灯はすでに自力では回復できないほど弱っている。灰を取り除き、灯に力を戻す必要がある。


力が足りない。トーマスから借りた命脈では、器を取り除くことすらできるかどうか。


背後で、足音がした。


石段の方から。重い、規則正しい足音。


オリヴィアとナディが振り返った。


松明の光の向こうから、一つの影が降りてきた。


モーゲンだった。


灰色のサーコート。腰の長剣。短く刈り込んだ黒髪。濃い灰色の目が、松明の炎に照らされて光っていた。


「——やはり、ここに来ましたか」


その声は、広場で聞いた時と同じように平坦だった。だが、目の奥にあるものが違っていた。


恐怖。そして——疲弊。


モーゲンは揺籃を見た。灰に覆われた巨大な構造物を。自分が置いた器を。そしてオリヴィアの杖を。


「あなたが何者かは知りません。ですが——ここから先には、踏み込ませるわけにはいかない」


モーゲンの手が、長剣の柄にかかった。


地下の空洞に、三つの影が対峙した。揺籃が微かに震え、緑色の光がひび割れから漏れ出していた。


灯が、泣いていた。

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