8話「豆の双葉2」
墓所から庭へ戻る道すがら、フィオが唐突に言った。
「あんたに聞きたいことがある」
「何ですか」
「あんたは——自分のことをどう思ってるんだ」
漠然とした問いだった。だが、フィオがそれをどういう意味で聞いているのかは——不思議と分かった。
「空っぽだと、思っています」
歩きながら答えた。
「私は器として作られました。自分の魔力を持たない、空白の器です。だからこそ異なる世界のあいだを渡れる。何も持たないから、どこにでも行ける」
「それは——いいことなのか」
「分かりません。便利ではあります。でも」
言葉を選ぶ。
「何も持たないということは、何も自分のものがないということです。感じていることが本当に自分の感情なのか、設計された反応なのか——ずっと、区別がつかないまま」
「……前にも似たようなこと言ってたな」
「はい。ずっと考えていることなので」
フィオが足を止めた。振り向いて、まっすぐにこちらを見た。
「あんたさ。わたしの魔力を受け取ったとき——何か感じたか」
魔力を受け渡したとき。フィオの手に触れた瞬間。
「……温かかったです。大地の奥から水が汲み上げられるような、静かで絶え間ない力を感じました」
「それ。それは設計された反応か?」
「——え」
「わたしの力を温かいと感じたこと。それは、あんたを作った誰かがそう感じるように仕組んだのか。それとも、あんた自身が感じたことか」
答えられなかった。
いつもならそこで「分かりません」と言うところだった。誠実な回答として。正直な留保として。でも——フィオの目がそれを許さなかった。琥珀の瞳が、逃げ道を塞ぐように、まっすぐにこちらを見ている。
「あんたはわたしの庭をきれいだと言った。芋をおいしいと言った。会えてよかったと言った。結晶を作るっていうわがままも言った。そのどれかひとつでも——嘘だったか」
「嘘では、ありません」
「だったら、それはあんた自身のものだろ」
あまりにも単純な論理だった。
嘘でないなら本物。それだけのこと。設計された反応なら、それを嘘だと感じるはずがない。嘘だと感じないのは、それが本物だから。
「難しく考えすぎなんだよ、あんたは」
フィオが前を向いて歩き始めた。
「魂があるとかないとか、器がどうとか——そんなの、わたしだって同じだ。自分が何なのか分からない。なんで存在してるのかも分からない。でも、花が咲いたら嬉しいし、あんたと飯を食ったら楽しかった。それが借り物でも設計でも何でもいい。今ここにある感覚が本物じゃないなんて——そんなつまらないことがあるか」
足が止まった。自分の足が。
フィオが数歩先で振り返る。
「どうした」
「——いえ」
何かが、胸の中で解けた。
長いこと結ばれていた結び目が——ほどけたわけではない。まだそこにある。でも、少しだけ緩んだ。フィオの言葉が、結び目のいちばん固い部分にすっと染み込んで、わずかに繊維を柔らかくした。
答えは出ていない。自分に魂があるのかどうか。自分を作った神が何を考えていたのか。何も分かっていない。でも——分からないまま、それでも感じていることを「本物」と呼んでいいのかもしれない。少なくとも、フィオはそう言っている。フィオ自身が同じ問いを抱えながら、それでもそう言い切っている。
「フィオ」
「何だ」
「あなたは本当に、強いですね」
「だからそれ、褒めてるのか何なのか分からないって」
「褒めています」
「……まったく」
フィオは背を向けて歩き始めた。その歩き方がほんの少しだけ速くなったのは——照れているのだろうか。確信は持てない。持てないが——そう思いたかった。
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庭に戻った。
午後の光が花壇を照らしている。赤い花は鮮やかに、紫の花は深く、白い花は真珠のように輝いている。水路の水が陽光を受けてきらきらと明滅している。崩れた列柱の白が、空の青に溶けかかっている。
あと数時間でここを去る。
スタッフを手に取り、琥珀の水晶を確認した。帰還用の魔力。淡い光の中に、依頼主の——あの輪郭のぼやけた神の力が残っている。フィオの緑の光とは別の場所に、静かに格納されている。これを使えば、世界の隙間をすり抜けて、元の場所に戻れる。
フィオは花壇の前にしゃがんでいた。朝サボった分の手入れを取り戻すように、黙々と作業をしている。土をほぐし、水の流れを確認し、伸びすぎた蔓を整える。いつもの動作。いつもの手つき。
その背中を見ながら、一つだけ確認しておきたいことがあった。
「フィオ」
「……何だ」
「もし——今後、この世界に誰かが来ることがあったら」
手が止まった。
「あなたは、その人を受け入れてくれますか」
フィオがゆっくりと振り返った。
「どういう意味だ」
「私の次に、調査員が来るかもしれません。私を派遣した神とは別の神が、別の目的で、別の誰かを送り込んでくるかもしれない。そのとき——フィオが一人でここにいることを、報告書に書きます。それを読んだ誰かが、この場所を訪れるかもしれない」
フィオは黙って聞いていた。
「もちろん、来ないかもしれません。神々はそれぞれ関心が違いますから。でも——万が一、誰かが来たときに」
「追い返さないでくれ、って言いたいのか」
「……はい。それと」
少し迷って——言った。
「芋を焼いてあげてください」
フィオがぽかんとした。琥珀の目が丸くなり、蔓の髪がわずかに揺れた。
「……あんたな」
「はい」
「最後に言うことがそれか」
「おいしいものを食べると、緊張がほぐれます。初対面の相手にまず食事を出すのは、とても良い方法だと——身をもって学びましたので」
フィオが小さく笑った。はっきりと、笑った。樹皮に似た口元が持ち上がり、琥珀の目が細くなった。木の葉が風を受けてさざめくように——柔らかく、自然に。
「分かった。芋でも豆でも、来たやつに食わせてやる」
「ありがとうございます」
「でも、あんたみたいに毎回おいしいって言うやつが来るとは限らないぞ」
「来るかもしれません」
「……来るといいな」
最後の言葉は——小さかった。でも確かに聞こえた。
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すべての準備が終わった。
報告書は完成した。スタッフの帰還用魔力は十分。腰のポーチの横には、小さな石鉢が括りつけられている。豆の双葉が午後の光を受けて、小さく揺れている。
庭の中央に立った。
スタッフを正面に構える。琥珀の水晶が脈打ち始めた。帰還の術式を組み上げる。エメラルドの変換器に魔力を通し、世界の境界を開くための準備を整える。
ここから先は——一瞬だ。術式を起動すれば、世界の隙間が開き、身体が薄く引き伸ばされ、輪郭が曖昧になり、この世界から消える。来たときと同じ。何度もくり返してきたこと。
だが——まだ起動しなかった。
フィオが、目の前に立っていた。
「見送るよ」
「ありがとうございます」
向かい合う。背丈は自分のほうが少し高い。フィオの琥珀の目を見下ろすかたちになる。その目に映っているのは、プラチナブロンドの髪と、緑のケープと、黄緑色の瞳の——表情の薄い顔。
「あんた、最後くらい笑えよ」
「……すみません。あまり得意ではなくて」
「知ってる」
フィオが手を差し出した。
握手ではなかった。手のひらを上に向けて、こちらに差し出している。その上に——あの緑色の結晶体が載っていた。昨日渡したもの。
「返す——」
「違う。見せたいだけだ」
フィオの手のひらの上で、結晶がほのかに光っていた。昨日渡したときと同じ緑の光。だが——少しだけ温度が高いように感じた。
「昨夜、ずっと持ってた。何度も触った。あんたが見たものを、何度も感じた」
フィオの声は落ち着いていた。震えはなかった。
「それで分かったことがある」
「何ですか」
「あんたはきれいだって言ったけど——あんたの目を通して見た庭は、わたしが見てる庭よりきれいだった」
「——」
「同じ庭なのに。同じ花で、同じ水で、同じ石なのに。あんたが見るとこんなに違うのかって。ちょっと悔しかった」
フィオがわずかに笑って——その笑みをすぐに引っ込めた。
「だからこれは返さない。約束通り、預かる。大事にする。あんたがこの庭を見た目で——わたしもこの庭を見る。あんたがいなくなっても」
結晶を手のひらに包み込んだ。
胸が満ちていた。
空の器が——いま確かに、何かで満ちていた。名前のつけられない何かで。設計された機能ではない何かで。フィオの言葉が、フィオの目が、フィオの手の温かさが、この器のいちばん奥の——空っぽだと思っていた場所に、静かに沈んでいく。
目の奥が熱かった。昨日と同じ熱。こぼれるかもしれない。こぼれても——たぶん、いい。
「フィオ」
声は震えなかった。不思議と。
「私はたぶん、あなたのことを忘れません」
「当たり前だ。忘れたら許さない」
「どのように許さないのですか」
「——あんた、最後の最後までそれか」
フィオの声が——ほんの少しだけ掠れた。
「忘れるな。庭のことも、芋のことも、豆のことも。あんたがおいしいって言ったこと全部。わたしが覚えてるのと同じだけ——あんたも覚えてろ」
「はい」
「あと、その豆。枯らすな」
「はい」
「……元気で」
最後の二文字が——いちばん小さかった。
「——フィオも」
スタッフを掲げた。
琥珀の水晶が強く脈打つ。エメラルドの変換器が起動する。足元に光の紋様が広がり、世界の境界が薄く震え始める。身体が軽くなっていく。輪郭が曖昧になっていく。いつもの感覚。来たときと同じ——世界の隙間をすり抜ける感覚。
最後に見たのは、フィオの目だった。
琥珀色の目が、まっすぐにこちらを見ていた。その目に——涙ではなく、樹液のような透明な雫が浮かんでいた。笑っていた。泣いて、笑っていた。
光が視界を覆った。
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帰還は、いつも通りだった。
身体が再構成される感覚。指先から、足の裏から、輪郭が戻ってくる。重力が足を引き留め、空気が肺を満たし——光が瞼の裏を白く染める。
目を開けた。
見慣れた空間。神域と呼ばれる、世界と世界のあいだの——どこでもない場所。白い空間。壁も天井もないが、足元には確かな床がある。
依頼主の気配があった。あの輪郭のぼやけた神が、どこか近くにいる。
「戻りました。報告書をお渡しします」
記録を渡す。形式的な手続き。報告書は受け取られ、目を通されるだろう。あるいは、通されないかもしれない。神々の関心はまちまちだ。
依頼主の気配が薄れていく。去っていくのだ。それもいつものこと。
一人になった。
白い空間に一人で立っている。スタッフを持ち、ケープを纏い——腰に小さな石鉢を括りつけた姿で。
鉢に目を落とした。
豆の双葉は——生きていた。転移を越えて、この空間にあっても、緑の葉がぴんと開いている。小さな生命が、フィオの庭から自分の手元に渡ってきた。
触れると——ほんのかすかに、あの温かさがあった。フィオの魔力の残滓か、土そのものの温度か、あるいは——ただの気のせいか。
どれでもいい。温かいと感じている。それが本物だ。
白い空間に立ったまま、今回の出来事を振り返った。
丘から見下ろした白い廃墟。風の鳴る石壁。煤けたパン窯。枯れた噴水に咲く白い花。倒れない墓石。手入れされた植え込み。書庫の巻物。歌の記録。円形の建物。名前を捧げた台座。壁画の笑顔。
そして庭。フィオの庭。人のいない世界の、最後に残ったもの。
果実の甘さ。穀物の焼き物の香ばしさ。豆のほっくりとした風味。焼き芋のほくほくとした食感。最後の朝の、豆と穀物を混ぜた丸い焼き菓子の——やさしい甘さ。
全部覚えている。全部——自分のものだ。
報告書にはこう書いた。
——補記:当該世界には、記録に残しきれないものがある。
それは嘘ではなかった。記録に残しきれないものが、確かにそこにはあった。ここにも——ある。この胸のなかに。空っぽだと思っていた器の底に、確かに。
魂があるのかどうかは、まだ分からない。自分を作った神の意図も分からない。次にどの世界に送られるかも分からない。分からないことだらけの中で——一つだけ、確かなことがある。
庭は、残る。
フィオがそう決めた。人間たちの最後の言葉を継いで、庭を作り、守り続けると決めた。
そして自分も——何かを残した。フィオの手のひらの上に、緑色の結晶として。あの結晶がある限り、自分がこの世界を美しいと思ったことは消えない。フィオがそれを見るたびに——自分の目を通した庭が、もう一度そこに咲く。
腰の鉢に手を添えた。豆の双葉が、指先に触れた。
「……枯らしませんよ」
誰に言うでもなく、呟いた。白い空間に声は吸い込まれて消えたが——それでいい。聞かせたい相手には、もう伝えてある。
次の派遣がいつ来るかは分からない。明日かもしれないし、長い時間が経つかもしれない。それまでのあいだ、この豆を育てよう。土と水と光を見つけて、どこかで根を張らせよう。実がなったら——食べよう。そしてそのとき、おいしいと思うだろう。
それは設計でも、借り物でも、真似事でもない。
自分自身の——本物だ。
スタッフの琥珀に、まだほんのわずかに緑の光が残っていた。フィオの魔力の最後の欠片が、琥珀の奥底で静かに脈打っている。
使い切る必要はない。このまま残しておこう。空の器のなかの、小さな灯として。
オリヴィアは鉢を抱え直し、歩き始めた。
白い空間のどこかに、次の扉がある。次の世界がある。次の出会いがある。そのどれもがまだ見ぬもので——だからこそ、怖くはなかった。
空っぽの器は、もう空っぽではなかった。
少なくとも——豆の芽が一つと、芋の味の記憶と、庭の花の色と、琥珀の中の緑の光と、あの声が。
『元気で』
その二文字の温かさが、ずっと、胸の底に残っていた。




