1話 白い塔と空の署名
白い塔の先端が、朝もやの向こうに何本も突き立っていた。
空気が違う、とオリヴィアは最初の一呼吸で思った。肌を撫でるそよ風の中に、微かな圧がある。魔力の気配だ。この世界では大気そのものに魔力が溶けているのではなく、街の至るところで術式が稼働し、その余波が空気を震わせているのだった。
石畳の道が、緩やかな坂になって続いている。道の両脇には低い石壁が走り、壁の表面に幾何学模様が淡く発光しながら刻まれていた。照明ではない。道案内でもない。オリヴィアがしばらく観察して気づいたのは、それが防護と識別を兼ねた術式だということだった。この道を歩く者の魔力を読み取り、所属を判別している。
「——やあ、聞こえるかい」
声は背後からでも前方からでもなく、ケープの襟元あたりから聞こえた。ブローチのエメラルドが一瞬だけ明滅する。
「メルクリオ様」
「様はいいよ。堅苦しい」
遊歴神メルクリオ。道と境界を司る放浪の神。オリヴィアを今回この世界に派遣した依頼主である。出発前に一度だけ顔を合わせたが、飄々とした口調と、どこか人を試すような物言いが印象に残っていた。
「到着の報告です。学院都市の外縁部に——」
「見えてるよ。なかなか面白そうな場所だろう? 空気に術式が混じってる世界は珍しくないけど、ここまで政治と学問が癒着してるのは見ものだ」
オリヴィアは歩調を緩めなかった。坂の先に、門らしき構造物が見えてきている。
「依頼内容の確認をさせてください。学派間の魔術体系を観察・記録すること。特に、複数の術式を統合した召喚実験についての報告」
「そう。気楽にやってくれていいよ。——ああ、それと」
メルクリオの声が少しだけ低くなった。
「この世界では魔力を持っていることが、存在証明みたいなものらしい。君には少し居心地が悪いかもしれないね」
通信はそれきり途切れた。エメラルドの明滅が止まり、ブローチはただの留め具に戻る。
居心地の良い世界など、まだ一つも知らない。オリヴィアはそう思ったが、口には出さなかった。
門は白い石でできた半円形のアーチだった。両脇に衛兵が立っている。鎧ではなく、術式の刺繍が施された長衣を着ていた。片方の衛兵がオリヴィアの姿を認めて、形式的に手を挙げた。
「名前と所属を」
「オリヴィア・エスメラルダ。旅の調査学者です」
衛兵は一度だけオリヴィアを上から下まで見た。緑色のケープ、生成りのシャツ、琥珀と翠の杖。見慣れない格好ではあるが、衛兵の目に特段の不審は浮かんでいなかった。認識補完の加護が機能している。旅の学者がこの都市を訪れること自体は、さほど珍しくないのだろう。
「目的は」
「こちらの学院の魔術体系について、見聞を広めたいと思いまして」
「構式派の研究を?」
「はい」
衛兵は小さく頷き、門の脇にある記録台に何かを書き付けた。
「受付は中央棟の一階です。案内の術式が足元に出ますので、それに従ってください」
門をくぐると、石畳の上に淡い青白い線が走り、オリヴィアの足元からまっすぐ先へ伸びていった。
アルス学院都市は、整然としていた。白い石造りの塔が規則正しい間隔で並び、塔と塔を繋ぐ回廊が空中に渡されている。回廊の手すりにも壁面にも、精密な幾何学模様が彫り込まれていた。美しいが、隙がない。余白を許さない設計思想が、街そのものに刻み込まれているようだった。
道を行く人々の多くは長衣姿で、手に書物や巻物を抱えている。研究者か、その見習いだろう。彼らはオリヴィアの方をちらりと見るが、すぐに視線を戻す。旅人が珍しくないのか、それとも加護のおかげで意識に引っかからないのか。おそらく両方だ、とオリヴィアは判断した。
中央棟の一階は、受付というより関所に近かった。
長い石のカウンターの向こうに、眼鏡をかけた中年の男が座っている。オリヴィアが近づくと、男は書類から顔を上げた。
「訪問者ですか」
「はい。旅の調査学者です。こちらの魔術体系について調査をさせていただきたく」
「学者。どちらの学院の」
「どちらにも所属しておりません」
受付官の眉が少しだけ動いた。
「独立の研究者、ということですか」
「はい」
受付官はペンを置いて、カウンターの上に右手を差し出した。掌を上に向け、指を軽く開いた姿勢。
「署名をお願いします」
オリヴィアはその手を見た。署名。文書への署名ではない。受付官の掌の上に、極めて微かな光の粒子が浮いていた。自分の魔力を薄く放出し、相手に見せている。挨拶であり、身分証明であり、所属の表明。
オリヴィアは知っていた。事前の情報にあった慣習だ。そして、自分にはそれが返せないことも。
受付官は手を差し出したまま待っている。
沈黙が数秒。
オリヴィアは静かに右手を差し出した。同じように掌を上に向ける。何も起きない。光の粒子も、魔力の気配も、何一つ。空の掌が、ただそこにあった。
受付官が目を瞬いた。
「……失礼、もう一度」
「申し訳ございません。私には、お返しできるものがありません」
受付官の表情が変わった。困惑。不審ではなく、困惑だった。魔力署名を返せない者と対面するのが、おそらく初めてなのだ。
「それは——体調の問題ですか。あるいは、術式で遮蔽を」
「いいえ。持っていないのです」
受付官は眼鏡の位置を直し、オリヴィアの顔と手元を交互に見た。それから背後の棚から別の書類を引き出し、何かを確認し始めた。
「……通常の手続きとは異なりますが、訪問者としての受け入れは可能です。ただし、行動範囲に制限がつきます。研究区画への立ち入りには学院研究者の同行が必要です」
「承知しました。ありがとうございます」
受付官は最後までどこか居心地悪そうにしていた。オリヴィアが立ち去るとき、背後で小さな溜息が聞こえた気がした。
——魔力を持たないことが、これほど不自然に映る世界。
回廊を歩きながら、オリヴィアは自分の右手を見た。何も灯らなかった掌。この世界の人間にとって、それはおそらく顔のない人間と向き合うようなものだ。
自分が空であること。それはいつものことだった。ただ、世界によって、その空白が持つ重さが違う。
ここは、重い方だ。
研究区画に自由に入れない以上、まずは一般区画で情報を集める必要がある。オリヴィアは回廊沿いの掲示板に目を向けた。研究発表の告知、実験区画の使用予定表、学院行事の案内。その中に、一枚だけ色の違う紙が貼られている。
合議塔における共同召喚実験の一時中断、および関係者の一時的な活動制限について——
掲示は事務的な文面だったが、「一時中断」という言葉の選び方に含みがあった。中断であって、失敗とは書かれていない。しかし、掲示の周囲に他の紙が一枚も貼られていないのは、これを話題にすること自体を避ける空気があるからだろう。
オリヴィアは掲示の内容を記憶に刻み、回廊の奥へ歩を進めた。
声が聞こえたのは、研究棟の三階だった。
同行者なしでも入れる一般閲覧区画を探して歩いていたオリヴィアの耳に、半開きの扉の向こうから早口の独り言が漏れ聞こえてきた。
「——違う、ここの接続点が問題なんじゃない、位相の同期が三手目で崩れてるのが先で、だから構式の第二層を……いや、それだと詠唱側の干渉波と……ああもう、だからこの図じゃ足りないんだって——」
声は高く、早く、そして怒っていた。ただし、怒りの対象は目の前の紙に向けられているらしい。
オリヴィアは足を止めた。扉の隙間から室内が少しだけ見える。壁一面に術式図が貼り出されていた。紙の上に描かれた幾何学模様は、回廊の壁に刻まれていたものと系統は同じだが、はるかに複雑で、何箇所かが赤い顔料で激しく修正されている。
その紙の前に、小柄な女性が立っていた。赤みがかった茶色の髪を無造作に一つに結び、白い長衣の袖を肘まで捲り上げている。右手にペン、左手に別の紙。自分の描いた図に向かって、反論しているのだった。
「——結合部は正しかった。正しかったはずなのに、なんであの瞬間に——」
オリヴィアが扉に指先で触れた。軽い音が立った。
女性が弾かれたように振り返った。
「見学なら受け付けてない。取り調べなら管理官を通して」
即座に、一息で。声には棘があったが、怯えの気配もあった。
「どちらでもありません」
オリヴィアは静かに答えた。
女性は目を細めた。オリヴィアの姿を——ケープ、杖、見慣れない服装を——素早く見回す。
「外の人間? この時期にアルスに調査に来る酔狂がいるとは思わなかった」
「酔狂かどうかは分かりませんが、調査には来ました。こちらの魔術体系について」
「魔術体系。大きく出たね」
女性はペンを持ったまま腕を組んだ。インクで薄く染まった指先が、長衣の袖に跡をつけていた。
「それで、構式派の研究者に話を聞きに来たと。生憎だけど、今の私に人と話してる暇は——」
女性の言葉が途切れた。オリヴィアが部屋に一歩入ったとき、何かに気づいたらしい。視線がオリヴィアの全身を走り、そして——止まった。
「……待って」
「はい」
「あなた、魔力がない」
断定だった。問いかけではなく、観測結果の報告。
「はい、ありません」
「——全く?」
「全くです」
「潜伏でもなく? 遮蔽でもなく?」
「いいえ」
「生まれつき?」
「生まれつきです」
女性の目が大きく見開かれた。学者の目だった。恐怖でも嫌悪でもない、純粋な驚愕と探究心が混ざった眼差し。
「そんなことが——この街の術式壁を通れたの? 署名なしで? いや、受付は通ったんだろうけど、門前の識別術式が反応しなかった? それとも反応はしたけど閾値以下で——」
「落ち着いてください」
「落ち着いてる。で、どうやって門を——」
「旅の調査学者として受け入れていただきました。行動制限つきですが」
女性はようやく言葉を切った。ペンを机に置き、オリヴィアをまじまじと見つめる。
「……怒らないの」
「何にですか」
「今の——私が矢継ぎ早に。普通は気分を害するでしょう。初対面で『魔力がない』なんて言われたら」
「事実ですので」
オリヴィアは表情を変えなかった。ジト目がちな目元も、薄い表情も、いつものままだ。女性はしばらくオリヴィアの顔を見ていたが、やがて短く息を吐いた。
「……変な人」
「よく言われます」
「褒めてない」
「存じております」
不思議な間が流れた。女性の硬い表情が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
「ルティア・ノール。構式派——一応」
「オリヴィア・エスメラルダです。お仕事の邪魔をして申し訳ございません」
「仕事なんかじゃない。ただの——」
ルティアは壁の術式図に視線をやった。赤い修正の跡が何層にも重なった紙。その言葉の続きを、彼女は飲み込んだ。
代わりに、彼女は机の上から何かを取り上げた。布に包まれた、手のひらほどの大きさのもの。布を開くと、白い丸パンが出てきた。表面に精密な紋章が刻印されている。幾何学的な意匠。アルス学院の紋だろう。
ルティアはそれをオリヴィアに差し出した。無言で。
「——これは、賄賂ですか」
「違う!」
ルティアの声が裏返った。
「朝の配給の余りが——いや、違う、そうじゃなくて。あなた、外から来たばかりでしょう。食堂がどこかも知らないだろうし、この区画は今いろいろ——とにかく、食べなさい。硬くなる前に」
オリヴィアは差し出されたパンを受け取った。小さく割ると、中はまだ柔らかかった。口に含む。塩気の利いた素朴な味で、微かに温かい。保存の術式が温度まで保っているのだろう。
「おいしいです」
「……そう」
ルティアは別の作業に戻ろうとして、戻りきれず、結局オリヴィアがパンを食べ終わるのをちらちらと横目で確認していた。
オリヴィアはパンの最後のひとかけらを口にしながら、壁に貼られた術式図を眺めた。理解できる部分とできない部分がある。この世界特有の記法だが、根底にある論理構造は読み取れた。そして、赤い修正の集中している箇所——それは一つの術式の中に、明らかに異なる系統の要素が組み込まれている部分だった。
「ルティアさん」
「ルティアでいい。さん付けされる立場でもないし」
「では、ルティア。一つだけ伺ってもいいですか」
「内容による」
「この図は、合議塔での召喚実験に関するものですか」
空気が変わった。ルティアの指先が止まり、背中がわずかに強張った。
「……何を知ってるの」
「掲示板に告知が出ていました。それだけです。共同実験の一時中断と、関係者の活動制限」
「それだけ」
「はい。何が起きたのかは知りません」
ルティアは壁の図を見つめたまま、長い沈黙を落とした。オリヴィアは待った。急かさず、促さず、ただそこに立って。
「——あの実験は」
ルティアの声は低く、独り言に近かった。
「失敗じゃなかった……かもしれない」
言葉はそこで止まった。ルティアは口を閉じ、何かを堪えるように唇を引き結んだ。それ以上は出てこなかった。
オリヴィアは一拍だけ間を置いた。
「明日、合議塔に行きます」
ルティアが振り返った。驚いた顔だった。
「行くって——あそこは今、半分封鎖されてるのよ。外部の人間が簡単に入れる場所じゃ——」
「調査学者として、手続きを踏みます。入れるかどうかは、やってみなければ分かりません」
「……なんで」
「依頼された調査の範囲内です」
それだけを言って、オリヴィアは部屋を出た。背後で、ルティアが何か言いかけて止める気配がした。
回廊に出ると、午後の光が白い石壁を照らしていた。壁面の幾何学模様が光を受けて淡く輝いている。整然として、美しくて、隙がない。
けれど今この街には、隙間から漏れ出しているものがある。
オリヴィアは壁に貼られた術式図の残像を思い返した。あの赤い修正の跡。あの図に向かって独り言で反論し続けていた、インクに染まった指先。
失敗じゃなかった、かもしれない。
その言葉の重さを、ルティア自身がまだ測りかねているように見えた。
オリヴィアはスタッフを握り直し、歩き始めた。琥珀の水晶には何も蓄えられていない。エメラルドの触媒も沈黙している。空の器は、この世界でもやはり空のままだ。
それでも——確かめるべきことがある。
明日、合議塔へ。




