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7話「豆の双葉1」

最後の朝は、風のない朝だった。


目を開けたとき、世界が静止しているように感じた。草は揺れず、水路の水だけがかすかに音を立てている。空は高く、淡い。雲が一筋、東の地平に貼りついたまま動かない。


今日で終わる。


その認識は、目覚めた瞬間からすでに身体の中に座っていた。昨夜のうちに沈み込んだ重石のように、胸の底で静かに存在を主張している。


身体を起こし、いつものようにケープの裾を直す。スタッフを手に取る。琥珀の水晶は緑を帯びたまま穏やかに光っている。帰還用の魔力は元の依頼主から注がれたもので、そちらは変わらず残っている。帰る手段はある。あとは報告書を仕上げれば——条件は整う。


壁の外に出た。


庭にフィオの姿がなかった。


一瞬、胸が冷えた。いつもなら日の出前から花壇にいるはずのフィオが、いない。視線を巡らせる。花壇、食用区画、水路、石の列柱——。


列柱の向こう、テラスの縁に背中が見えた。


腰を下ろしたフィオが、眼下に広がる廃墟の街を見下ろしていた。いつもの花壇ではなく、街を眺めている。その背中には、朝の仕事に向かうときの実直さがなかった。代わりにあったのは——何かを待っているような、静かな姿勢だった。


近づいて、隣に立つ。


「おはようございます」


「……ああ」


フィオは振り向かなかった。琥珀の目が街を見つめている。白い建物の列が朝の光に照らされ、影を落としている。蔦に覆われた壁、草に埋もれた通り、崩れた屋根。すべてが静かに、ただそこにある。


「今日は庭仕事をしないのですか」


「今日くらいはいいかと思って」


「サボりですか」


「サボりだ」


短いやりとり。フィオの声にはいつもの素っ気なさがあったが、その底に薄く敷かれた温度を——今の自分には聞き取れる。三日前には聞き取れなかったものだ。


隣に腰を下ろした。テラスの縁に二人で座り、足を投げ出す格好になる。黄土色のブーツと、フィオの裸足の——木の根のような足が並ぶ。


「朝飯」


フィオが横に置いてあった籠を差し出した。中身を見て、小さく息をついた。


果実と、焼いた穀物の薄焼き。それに加えて、豆を潰して丸めたものが並んでいる。初めて見る料理だった。


「これは?」


「豆を潰して、穀物の粉と混ぜて焼いた。前から試そうと思ってたやつだ。まだ作ったことがないから、味は保証しない」


新しい料理。今日のために——とは言わなかった。フィオも言わなかった。でも、前から試そうと思っていたものを今日作った、その事実だけで十分だった。


一つ手に取り、口に運ぶ。


表面は薄く焼き固められていて、ぱりっとした歯触りがある。噛むと豆の風味が広がり、穀物の香ばしさがそこに重なる。そしてほんのわずかに——甘い。果実の果汁を混ぜ込んであるのだと気づいた。


「……おいしいです」


「だろうと思った」


フィオの声に、こらえきれなかった笑みのようなものが混ざっていた。


「あんたがおいしいって言わなかったこと、一度もないからな」


「今回は特に、おいしいです」


「はいはい」


軽く流すような口調。でもフィオ自身も一つ齧って、その味を確かめるように咀嚼していた。


「……うん。悪くない」


二人で黙って食べた。静かな街を見下ろしながら。風のない朝の空気のなかで、穀物と豆の素朴な味が口に広がるのを味わっていた。


何度目かの食事。そして——最後の食事。


そのことを二人とも分かっていて、二人とも口にしなかった。


--------------------------------------------


朝食のあと、報告書の仕上げにかかった。


庭の片隅で記録を整理する。すべてを書き出す必要はない。依頼主が求めているのは世界の概要であって、細部の感傷ではない。事実を簡潔に。推測には根拠を。未確定の事項には留保を。


——世界の状態:人間文明は消滅済み。建造物は石造り、都市計画に基づく集落が一つ確認された。推定最盛期人口は約三百名。農耕を基盤とした閉鎖的共同体。


——消滅の推定原因:暴力的痕跡なし。疫病の記録なし。信仰施設と思われる円形建物にて「名を捧げる」儀式の痕跡を確認。最終記録に「充たされた」の表現あり。自発的な消滅の可能性が高いが、確定には至らず。


——現存する知的存在:一体。植物的特性を持つ非人間の知的存在。自称「フィオ」。人間消滅後に発生したと推定される。人間の文字を独力で解読し、農耕・建築の技術を習得。廃墟内に庭園を維持管理している。敵意なし。高い知性と感情を有する。


報告書の骨子はこれで足りる。だが——。


筆が止まった。


書くべきことは書いた。でも、書いていないことのほうが多い。焼き芋の味。朝露の冷たさ。雑草を抜く手つき。火打ち石の音。書庫の薄暗い光。歌の巻物。噴水に咲いた白い花。壁画の笑顔。フィオの声。フィオの目。フィオの手の温かさ。


それらは報告書の外にある。報告書の言葉では掬い上げられないものたちだ。


——でも、結晶がある。


フィオに渡した緑色の結晶体。あそこにはすべてが入っている。自分が見て、聞いて、感じたすべてが。報告書には書けないものが、あの結晶の中に閉じ込められている。


それでいい。報告書は報告書。結晶は結晶。世界は一つの文書で要約できるほど単純ではないし、要約すべきでもない。自分にできるのは——見たものを正直に記すことと、感じたものを正直に覚えておくことだけだ。


報告書の末尾に、一文だけ付け加えた。


——補記:当該世界には、記録に残しきれないものがある。


依頼主がこの一文をどう受け取るかは分からない。不要だと切り捨てるかもしれない。何を言いたいのかと問い返すかもしれない。それでもいい。書きたかった。書かなければ、自分自身に対して嘘になる。


--------------------------------------------


報告書を仕上げた後、残りの時間を——どう使うべきか考えた。


調査として見るべきものは、もう見た。報告書も書き終えた。帰還の手段もある。もう、ここにいる理由がない。理由がないのに——立ち上がれなかった。


庭の花が揺れている。風がようやく出てきたらしい。午前の遅い風が、色とりどりの花弁を揺らしている。赤。紫。白。黄色。どの花も名前を知らない。この世界にしかない花たち。名前を知らないまま去ることになる。


「オリヴィア」


名前を呼ばれた。


振り返ると、フィオが水路の傍に立っていた。手に何かを持っている。


「これ」


差し出されたのは——小さな鉢だった。石を削って作ったらしい、手のひらに載る大きさの鉢。その中に土が入っていて、土から一本の芽が顔を出していた。双葉が開いたばかりの、ごく小さな芽。


「何、ですか」


「豆だ。昨日の——あんたがおいしいって言ったやつ。朝のうちに芽が出てるのを見つけたから、鉢に移した」


フィオは鉢を突き出すようにして、こちらを見なかった。


「持っていけ」


「え」


「あんたが次にどこに行くか知らないけど、豆くらいどこでも育つ。土と水と光があれば。あんたは食べるのが好きなんだから、自分で育てて食え」


言い方はぶっきらぼうだった。でも、鉢を持つ手が——ほんの少し震えていた。


「フィオ」


「何だ」


「……ありがとうございます」


両手で鉢を受け取った。石の鉢は冷たくて、重くて、中の土はほのかに湿っていた。双葉がぴんと開いている。緑色の、小さな命。


ポーチに入るだろうか。入らなければ——ケープの内側に抱えていこう。


「大事に育てます」


「当たり前だ。枯らしたら許さないからな」


「許さない、というのは具体的にどのような」


「……あんたな、そういうところだぞ」


フィオが呆れた声を出した。いつもの——冗談を真面目に返す自分に対する、呆れ。その呆れの中にある温度を、今は正確に聞き取れる。


鉢を腰のベルトのポーチの横に括りつけた。不格好だが、安定している。これでいい。歩いても落ちない。転移のときも——たぶん、大丈夫だ。小さなものなら一緒に持っていける。


「あんた、いつ発つんだ」


フィオの声は静かだった。


「……今日の午後には」


「そうか」


短い沈黙。


「じゃあ、一つ付き合え」


「何ですか」


「墓参りだ」


--------------------------------------------


丘の途中にある墓所へ向かう道を、二人で歩いた。


石畳の断片を踏みながら、並んで歩く。フィオの歩調はいつもより少し遅かった。こちらに合わせているのか、それとも——この時間を引き伸ばそうとしているのか。どちらとも取れた。どちらでもあるのかもしれなかった。


墓所に着いた。


板状の石が規則正しく並ぶ空間。初日にここを訪れたとき、墓石が一本も倒れていないことに気づいた。あのとき浮かんだ推測が——今は確信に変わっている。


「やはり、フィオが立て直していたのですね」


「ああ。たまに傾くやつがある。地面が緩んだり、根が押したりして。見つけたら直す」


フィオは墓石の列のあいだを歩き、一つ一つに手を触れていった。樹皮に似た指先が、風化した文字の上を滑る。


「名前を読めるようになってから、習慣になった。この石の下にいた人たちの名前を知ってるのは、もうわたしだけだから」


知っている者がいなくなれば、名前は消える。文字が石に残っていても、それを読める者がいなければ——ただの模様に戻ってしまう。


フィオが最後の一本の前で立ち止まった。他の墓石よりも少しだけ小さい。子供の墓だろうか。


「こいつの名前は、発音が難しくていまだにうまく読めない。でも——この文字の組み合わせが好きなんだ。丸い形の字が三つ並んでる」


フィオがしゃがんで、墓石の文字を指でなぞった。


「あんたに見せたかった。ここを。ヒトがいた証拠を」


「……はい」


「あんたは調べに来たんだろ。報告するんだろ。どこかの——神ってやつに」


「はい」


「だったら、これも報告に入れてくれ。ここにヒトがいた。名前があった。丸い字が三つ並ぶ、かわいい名前の子供がいた。わたしが覚えてる。わたしだけが覚えてる」


フィオの声は震えなかった。だが——いつもより低く、いつもより慎重に選ばれた言葉だった。


「覚えてる誰かが、いたことも——書いてくれ」


オリヴィアは黙って頷いた。言葉を返すよりも、頷くほうが正確だった。声を出せば揺れてしまう気がした。


二人は墓所にしばらくいた。風が戻ってきていて、草のあいだを吹き抜けていく。墓石のそばに小さな花が咲いていた。白い花。噴水で見たのと同じ種類かもしれない。フィオが植えたのか、自然に根づいたのか。聞かなかった。どちらでもいいと思った。花が咲いている。それだけで十分だった。

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