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6話「緑色の結晶2」

帰り道は、行きとは違う沈黙が二人の間に落ちていた。


重い沈黙ではない。だが、何か消化しきれないものを抱えた——思考の途中にある静けさだった。


丘の稜線を越え、庭が見える位置まで戻ったとき、フィオがぽつりと言った。


「あんたは——帰るんだよな。いつか」


足が止まりかけた。


分かっていたはずの問いだった。調査には終わりがある。報告書を仕上げれば、この世界を去る。それが自分の役割であり、存在の意味だ。行って、見て、記録して、帰る。それをくり返す。何度も。


「はい。調査が終わったら」


「いつだ」


「もう少し見るべきものを見て、記録を整理したら。早ければ——明日か、明後日かもしれません」


言葉にした瞬間、自分の声が不自然に平坦であることに気づいた。意識して平らにしたのではなく、感情が声に乗る前に言葉が先に出てしまった。


フィオは前を向いたまま歩いていた。


「そうか」


一言だけだった。


庭に戻り、昼食の支度を始めるフィオの横で、オリヴィアはスタッフを抱えたまま立っていた。


円形の建物で見たものが、頭の中で像を結ぼうとしている。名前を捧げる場所。充たされて還る者たち。笑顔の壁画。そして——その結果として空になった街。


人間たちは、自ら選んで消えたのかもしれない。


その仮説が浮かんだとき、奇妙な親近感を覚えた。自分もまた——選んだわけではないが——空の器としてここにいる。中身のない身体で、世界から世界へ渡り歩いている。人間たちが自分を「充たして」消えたのだとすれば、自分は逆だ。空のまま、どこにも留まらずに移動し続けている。


どちらが幸せなのだろう。空のまま動き続けることと、充たされて消えること。


「——あんた」


フィオの声で意識が戻った。


「ぼうっとしてる。大丈夫か」


「すみません。少し考え事を」


「……座れ。火を起こすから」


言われるまま、花壇の縁石に腰を下ろした。フィオが手際よく小枝を組み、火を起こしていく。昨日と同じ手順。火打ち石の乾いた音。火花。小さな炎。それを丁寧に育てる手つき。


芋を灰に埋め、待つ間に——フィオがこちらを見ていた。


「何か聞きたいことがあるなら聞けよ。あんた、聞きたいことを溜め込む癖があるだろ」


見抜かれている。二日間の観察で、フィオはこちらの性質をかなり正確に把握しつつあるらしい。


「では——ひとつだけ」


「ああ」


「フィオは、寂しくないですか」


聞いてしまってから、聞き方が直接的すぎたかと思った。もう少し遠回りにするべきだったかもしれない。だが——今日見たものの重さが、いつもの慎重さを押しのけていた。


フィオは答えなかった。


長い沈黙が落ちた。火がぱちぱちと音を立てている。風が花を揺らしている。


「寂しいって感覚が、よく分からない」


やがてフィオが口を開いた。声は静かだった。


「ヒトがいた頃を知らないから。最初からひとりだった。ひとりじゃない状態を知らないのに、ひとりが寂しいかって聞かれても——比べようがない」


理屈としては正しい。孤独を孤独と認識するには、孤独でない状態を知っている必要がある。


「でも」


フィオは火を見つめたまま続けた。


「あんたが来てから、二日と少しだ。たったそれだけなのに——あんたがいなくなったら、たぶん、前と同じには戻れない」


風が止んだように感じた。実際には止まっていなかっただろうが、フィオの言葉がそれ以外の音を消した。


「前は、ひとりでいることが普通だった。それしか知らなかったから。でも今は知ってしまった。誰かと一緒に飯を食べて、一緒に歩いて、一緒に黙ってる——その時間がどういうものか」


琥珀の目が火の光を映していた。


「それを知ったあとのひとりは——前のひとりとは違う。たぶん、それが寂しいって感覚なんだろうな」


胸が痛んだ。


静かに、深く。表面には出ない。この顔は感情を映さない。でも——胸の内側では、何かが軋んでいた。


自分がここに来たことで、フィオの孤独の質が変わってしまう。知らなければ感じなかった痛みを、自分の存在が刻んでしまう。それは——良いことなのか、悪いことなのか。


「……すみません」


何に対する謝罪か、自分でもはっきりしなかった。来たことに対してか。去ることに対してか。それとも——聞いてしまったことに対してか。


「謝るな」


フィオの声には怒気がなかった。


「あんたが来たことを後悔してない。知らないままのほうが楽だったかもしれないけど、知れてよかったと思う。芋がおいしいって言ってもらえたのも、庭がきれいだって言ってもらえたのも——全部、あんたが来たからだ」


火が爆ぜた。小さな火の粉が空中で回転し、すぐに消えた。


「だから謝るな。わたしは、あんたに会えてよかった」


その言葉が胸に落ちたとき——目の奥が熱くなった。


泣いているのか。泣けるのか、この身体は。分からない。分からないけれど、目の奥に確かに熱があって、それは設計された機能ではなく——たぶん。


「……私も」


声がかすかに揺れた。気づかれただろうか。気づかれても構わなかった。


「私も、フィオに会えてよかったです」


フィオは何も言わなかった。ただ、火の番をしながら、ほんの少しだけ——口の端が持ち上がったように見えた。樹皮に似た肌は滑らかには動かないが、その変化は確かにそこにあった。


笑ったのだ。たぶん。


--------------------------------------------


芋を食べ終えた後、午後の時間を庭で過ごした。


フィオが花壇の手入れをしている隣で、記録を整理していた。今日見た円形の建物のこと。壁画のこと。台座の名前のこと。最後の記録との関連。仮説として——人間たちは何らかの信仰的行為によって自発的に消滅した可能性がある。暴力的痕跡の不在、最後の記録の「充たされた」という表現、笑顔の壁画。すべてがその仮説を支持する。ただし確定はできない。


記録を進めながら、ふと手が止まった。


報告書に書くべきことと、書きたいことの間にずれがある。


書くべきこと——世界の概要、文明の痕跡、消滅の推定原因、現存する知的存在の情報。


書きたいこと——焼き芋の味。庭の花の色。フィオの笑顔。


後者は報告書には不要だ。派遣元の神は客観的な情報を求めている。焼き芋の感想を知りたいわけではない。でも——記録しなければ消えてしまう。自分の記憶のなかにだけ残って、それもいつかは薄れて、やがて。


「フィオ」


「なんだ」


「お願いがあります」


花壇から顔を上げたフィオに向き合った。


「あなたの魔力を、少しだけ貸していただけませんか」


フィオの表情が変わった。困惑と、警戒と、好奇心が入り混じった目。


「魔力」


「私は魔術の心得がありますが、自分では魔力を持っていません。誰かから分けてもらう必要があるのです」


「わたしに魔力があるか分からないぞ」


「あると思います。この庭を維持できているのは、フィオの中に何らかの力があるからです。植物を育て、水を操り、石を積む——それを可能にしている力」


フィオが言葉を探すように目を泳がせた。


「仮にあったとして——何に使うんだ」


スタッフの琥珀に目を落とした。淡い光。残量はまだあるが、あれは出発前に注がれたもので、今回の依頼主の魔力だ。最低限の用途——帰還の転移に使うぶんは残しておかなければならない。


だが、それとは別に。


「この場所を、記録したいのです。報告書の文字ではなく——景色として。音として。匂いとして」


「そんなことができるのか」


「はい。魔術で感覚を結晶化することができます。ただし、それには——相応の魔力が要ります。私のスタッフに残っている分は帰還用に取っておかなければなりません」


「だからわたしの力が要る、と」


「はい。ただ、これは——調査に必要な行為ではありません」


正直に言った。


「報告書に必要な情報は、文字で記録できます。感覚の結晶化は私個人の——わがままです」


わがまま。その言葉を自分の口から聞いたとき、少し驚いた。これまでの調査で、個人的な欲求を現地の相手に伝えたことがあっただろうか。なかった気がする。


「わがまま、ね」


フィオが繰り返した。どこか面白そうに。


「あんたがわがまま言うの、初めてじゃないか」


「……そうかもしれません」


「で、魔力を貸すってのは具体的にどうするんだ。痛いのか」


「いいえ。痛みはありません。ただ——少し、疲れるかもしれません。それと」


言うべきかどうか一瞬迷って、やはり言うことにした。隠す理由がない。


「魔力を受け取ると、そこに持ち主の……性質のようなものが混ざります。フィオの魔力を使えば、フィオの性質が魔術に反映されます」


「わたしの性質」


「どんな形で現れるかは、やってみないと分かりません。ただ、心配するようなことではないはずです」


フィオはしばらく黙っていた。庭を見渡し、それからオリヴィアの顔を見て、最後にスタッフの琥珀を見た。


「同意が必要なんだろ。そういうルールだって顔してる」


「はい。本人の同意が——」


「いいよ」


思ったよりも早い返答だった。


「え」


「いいって言った。貸す。わたしの力が使えるなら使え」


「理由を聞いても」


「あんたがわがまま言ったからだ。初めて自分のためのことをしたいって言ったんだろ。だったら手伝う。理由なんてそれで十分だ」


フィオの目はまっすぐだった。琥珀の中に、迷いはなかった。


「……ありがとうございます」


頭を下げた。深く。


立ち上がり、スタッフを構える。琥珀の水晶の光を確認し、そのすぐ上のエメラルドの状態を確かめた。変換器は正常。貯蔵器の空き容量も——フィオの力を受け取るには十分ある。


「では、手を」


フィオがこちらに手を伸ばした。樹皮に似た——だが温かい手。


その手に触れた瞬間、流れ込んできたものがあった。


温度でも光でもない。もっと根源的な——大地の奥から汲み上げられた水が根を通り、幹を昇り、枝先のつぼみに届いて花を開かせる、あの静かで絶え間ない力の流れ。それがフィオの魔力だった。


スタッフの琥珀が脈動した。淡い光が深みを増し、それまでの無色透明な輝きに——緑が混じった。薄い、新芽のような緑。フィオの色が、魔力に混ざっている。


フィオの手がわずかに震えた。


「大丈夫ですか」


「……平気。ちょっと不思議な感じがするだけだ。何かが流れ出していく感覚」


「もう少しで終わります。無理はしないでください」


「無理じゃない。続けろ」


流入が安定する。必要な量が琥珀に貯まるまで、数十秒。やがて十分な量に達したことを感じ取り、手を離した。


「終わりました」


フィオが自分の手を見下ろしている。表面上の変化はないが、少し息が荒い。


「疲れましたか」


「少し。でも——悪くない」


フィオが手を握ったり開いたりしながら、不思議そうに呟いた。


「何かを渡したのに、減った気がしない。むしろ——巡った、って感じだ」


スタッフを掲げた。琥珀の中で、緑を帯びた魔力が穏やかに脈打っている。


エメラルドの変換器に意識を向ける。魔力を術式に変換する。感覚の結晶化——経験した景色、音、匂い、温度、味を、一つの結晶体として凝縮する魔術。高度な術式だが、技量には自信がある。問題は魔力の質であって、それは——。


術式を起動した。


スタッフの先端から、光が溢れた。


緑色の光だった。


光は球体を形成し、その中に——像が浮かび始めた。丘から見下ろした白い廃墟。風の音。草の匂い。初日の記憶が、光の中に再現されていく。噴水の白い花。墓石の列。石段の植え込み。そして——庭。色とりどりの花が揺れ、水路がきらめき、崩れた列柱が空を切り取る庭の全景。


フィオが息を呑んだ。


映像は続く。焼き芋の匂い。果実の甘さ。豆のほっくりとした風味。朝露の冷たさ。火の温かさ。壁画の笑顔。書庫の巻物。フィオの声。


すべてが一つの結晶体に凝縮されていく。光球が徐々に小さくなり、密度を増し、やがて——手のひらに載るほどの小さな結晶になった。


緑色に輝く結晶体。触れると——ほんのりと温かかった。


「これは……」


フィオが結晶を覗き込んでいた。


「記録です。この場所で私が経験したすべての感覚を閉じ込めたもの」


「感覚を……」


「触れれば追体験できます。見たもの、聞いたもの、感じたものが、そのまま」


フィオが手を伸ばしかけて、止めた。


「わたしが触っても——いいのか」


「もちろん」


フィオの指先が結晶に触れた。


一瞬——フィオの目が大きく見開かれた。結晶を通じて、オリヴィアの感覚が流れ込んでいるのだ。初めてこの世界を見たときの新鮮さ。庭を美しいと思った気持ち。果実をおいしいと思った気持ち。フィオに会えてよかったと思った気持ち。


フィオの魔力で作られた結晶だから、フィオの性質が浸透している。植物が水を吸い上げるように、感覚が自然に伝わっていく。


フィオが指を離した。琥珀の目に——光が滲んでいた。涙とは違う。樹液のような、透明な雫がまなじりに浮かんでいた。


「あんた——こんなふうに、見てたのか。この場所を」


「はい」


「きれいだって、思ってたのか。こんなにも」


「はい」


声が震えそうになった。こらえた。


フィオは結晶から手を離し、自分の目元を拭った。樹液の雫が指先に光る。


「……ずるいな。あんた、顔には出さないくせに、中身はこんなに——」


言葉の後半が掠れて消えた。


二人は庭に立ったまま、しばらく黙っていた。夕方の風が吹いていた。花が揺れていた。崩れた列柱の影が長く伸びて、二つの人影と重なっていた。


結晶体をフィオに差し出した。


「これを、あなたに」


「え」


「私の手元になくても大丈夫です。記憶はここにありますから」


こめかみに指を当てた。


「でも——フィオがこれを持っていれば、私が去ったあとも。ここに来た誰かが、この場所を美しいと思っていたことを——忘れないでいてもらえると思って」


口にしてから、自分のわがままが加速していることに気づいた。これは調査でもなく、報告書でもなく——ただの、個人的な願いだ。


フィオは結晶体を受け取った。両手で包み込むように。壊れ物を扱うように。


「……預かる」


低い声だった。だが——どんな大声よりも確かな重さがあった。


「大事にする」


--------------------------------------------


その夜、オリヴィアは眠れなかった。


壁の隙間から見える星空が、この世界で見る最後のものになるかもしれないと思うと——目を閉じることがもったいなかった。


明日、報告書を仕上げる。仕上がれば——帰還する条件が整う。スタッフの琥珀にはまだ帰還用の魔力が残っている。感覚の結晶化で使った分はフィオの魔力だから、元の貯蔵分は減っていない。帰ることはできる。帰らなければならない。それが自分の役割だ。


でも——。


星を見つめながら、考えた。


自分は何のために作られたのか。世界を渡り、調査し、報告する。その繰り返しのどこかに、自分という存在の意味があるのだろうか。空の器は空であることに意味がある。異なる世界法則の間を渡りやすいように、何も持たずに作られた。何も持たないから、どこにでも行ける。どこにでも行けるから——どこにも留まれない。


フィオの言葉が蘇る。


『あんたがいなくなったら、たぶん、前と同じには戻れない』


自分も同じだった。この世界を去ったあと、次の世界で——前と同じようにいられるだろうか。たぶん、いられない。フィオの庭を知ってしまった。焼き芋を分け合う時間を知ってしまった。雑草を一緒に抜く朝を知ってしまった。


知ってしまったことは、消せない。


それは——喜ぶべきことなのだろう。


フィオがそう言った。知れてよかった、と。会えてよかった、と。


その言葉を信じたい。信じることくらいは——空の器にも、許されるはずだ。


寝返りを打ち、壁際に立てかけたスタッフを見た。琥珀の光が——今は緑を帯びたまま——静かに脈打っている。フィオから受け取った魔力が、琥珀の中で眠っている。


明日。


明日で、ここでの時間が終わる。


目を閉じた。星の残像が瞼の裏に焼きついて、ゆっくりと消えていった。

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