第88話 〜老人〜
十二月二十七日、日曜日の朝。
目が覚めた。
枕元の懐中時計に手を伸ばす。
冷たい。
六日連続。
ノートに記録した。
「十二月二十七日 冷/映像なし/六日連続」
もう、温度のことは書かなくてもよくなっていた。
でも、習慣として書いた。
昨日の余白には、自分の予想と「全部外れ」の文字が残っている。
その一行下に今日の日付を書くと、なんだか、ノートが少しだけ自分のものになった気がした。
窓の外は日曜の朝だった。
空が澄んでいた。
冬らしい、冷えた青空。
雲がほとんどなかった。
コーヒーを淹れた。
瀬川さんの豆はもうない。
代わりに、銀座で新しく買った深煎りの豆。
深いロースト感。
慣れない香り。
でも、悪くない。
ソファに座った。
*(時計が、もう温まらないことを、確信した)*
*(受け入れて、三日が経った)*
*(不思議と、平穏だ)*
窓の外を見ていた。
年の瀬の日曜日。
東京の街には年末の静けさが漂っていた。
平日の朝より、車の音が少ない。
人通りも少ない。
*(みんな、実家に帰っているか、休んでいるんだろう)*
*(俺は、正月の二日に、実家に行く)*
*(電話の続き)*
---
ふと、三年前のある夕方が、頭の中に浮かんだ。
貯金、三万二千円。
無職。
二十八歳。
ギャンブルで4,320万円を溶かした男。
あの男が、府中の競馬場のベンチでぼんやりしていた、その夕方。
白髪の老人と、目が合った。
老人が消えたあと、ベンチに翠色の懐中時計が残っていた。
あれから、三年と二ヶ月。
ノートの最初のページを開いてみた。
「十月 温」
日付の書き方すら定まっていない、最初の一行。
その頃の俺は、これが何なのかもわからずに、ただ毎朝の温度を書き留めていた。
怖かったのだと思う。
書いておかないと、全部が夢だったことになりそうで。
その下に並ぶ字は、ページをめくるごとに大きくなり、また小さくなっていく。
最後のページの今朝の一行は、最初の一行と同じくらいの大きさだった。
*(東京競馬場、行ってみるか)*
*(あのベンチ)*
決めた。
クリスマスイブの夜、電話を切ったあとに浮かんだことを、今朝ようやく決めた。
吉野さんに連絡を入れた。
「吉野さん、日曜にお願いするのは申し訳ないんですけど、府中まで出してもらえますか」
「もちろんです。何時に出発しますか」
「お昼前。十一時半に、自宅で」
「承知いたしました」
「ありがとうございます」
---
昼前。
吉野さんが迎えに来た。
「会長、有馬記念の日に、お一人で競馬場ですか」
「ええ」
「有馬記念は、中山ですよね」
「はい。今日の東京競馬場は場外発売です。有馬記念は、ターフビジョンで流れる」
「了解しました」
中央道は下りが少しだけ混んでいた。
帰省の車だろう。ルーフボックスを積んだワゴンが何台も並んでいる。
吉野さんは何も聞かずに、静かに車線を選んでいた。
車内で、ジャケットの内ポケットに手を入れた。
懐中時計の感触。
*(最後に、ここに持っていこう)*
*(あのベンチに)*
なんとなく、そう思っていた。
時計を捨てるつもりはない。
ただ、最後にあのベンチに座って、三年を振り返りたい。
それだけのつもりだった。
---
午後一時。
東京競馬場に着いた。
有馬記念の日の東京競馬場。
有馬記念は中山だから、こちらは場外発売だけだ。
それでも、家族連れや年配の男性たちが、それなりに来ていた。
いつもより人は少ないけれど、活気はある。
正門をくぐると、冬の日差しの中に、独特の匂いがあった。
焼きそばのソースと、紙の匂い。
新聞と、マークシートと、外れ馬券の匂いだ。
三年前まで、俺の毎週は、この匂いでできていた。
*(三年前、時計を握って、初めて有馬記念を当てた。その時計と迎える、最後の有馬記念だ)*
あの日は中山にいた。
三連単、四、十一、七。
ゴール前で十一番が首を伸ばしたとき、時計を握った手が汗で滑ったのを覚えている。
吉野さんには、駐車場で待っていてもらうことにした。
「会長、何時頃まで」
「わからない。数時間、過ごす」
「では、お待ちしております」
「ありがとうございます」
俺は競馬場の中に入った。
スタンドの一階は、大型モニターの前に人だかりができていた。
中山のパドックが映っている。
有馬に出る馬はまだ出てこない。前のレースの馬たちが、冬毛の光る背中で周回していた。
赤ペンを耳に挟んだ年配の男が、隣の男に向かって言っていた。
「今年はもう、これで取り返さないと正月が来ねえんだよ」
「毎年言ってるじゃないですか」
「毎年、本気なんだ」
二人は笑い合っていた。
柱の陰では、父親らしい男が小学生くらいの息子を肩車して、モニターを見せていた。
息子が好きな馬の名前を大声で叫んでいる。
父親は、それを聞きながら、手元の新聞にこっそり別の馬の番号を書き込んでいた。
パドックの方には行かなかった。
馬券も買わなかった。
時計が冷たいから、賭ける気はなかった。
昨日、自分の予想が一頭も来なかったから、でもある。
ただ、競馬場の奥の方へ歩いた。
途中で、スタンドの前の柵まで出てみた。
目の前のコースには一頭の馬もいなかった。
開催のない日の府中の芝は、冬でも緑が残っていて、低い日差しを受けて静かに光っていた。
誰も走らない長い直線の向こうで、巨大なターフビジョンだけが、遠い中山の映像を映している。
ここにいる全員がここではない場所を見ていた。
*(三年前の俺も、ずっとそうだった)*
*(いつも、ここじゃないどこかの、次のレースを見ていた)*
柵にもたれていた若いカップルが、スマートフォンで画面を撮っていた。
女の子のほうが、「本物、こっちじゃないんだね」と笑った。
スタンドの東側。
あのベンチがあった場所。
三年前、俺がぼんやり座っていたベンチ。
あった。
ベンチはそこにあった。
三年経っても変わらない場所。
木と鉄でできたベンチ。
経年の汚れと、傷。
座面の端に、誰かが煙草を押しつけた焦げ跡が一つある。
三年前にもあったのかどうかは、覚えていない。
俺は座った。
三年前、ここで握りしめていた外れ馬券を思い出した。
府中ステークス。三番、アサヒライジング。二万円。七着。
財布には六千円しか残っていなくて、今月の家賃が五万八千円だった。
あの日の数字は三年経っても全部言える。
勝った日の数字より、よほどはっきり覚えている。
---
少し離れたところに、ゴミ箱があった。
その前に、若い男が立っていた。
くたびれたパーカー。
片方だけかかとの潰れたスニーカー。
十月に、川崎のスタンドで見た男に似ていた。
男は、手の中の馬券を一枚ずつ破って、ゴミ箱に落としていた。
破り方が丁寧だった。
怒りに任せてではなく、一枚ずつ、確かめるように。
*(あいつも、今日、ここにいるのか)*
本当に同じ男かどうかは、わからない。
競馬場にはああいう背中がいくらでもある。
三年前の俺もその一つだった。
男は、最後の一枚を落とすと、ポケットに手を突っ込んでスタンドの方へ歩いていった。
---
しばらく、目を閉じていた。
三年前の自分がここに座っていた。
貯金、三万二千円。
無職。
二十八歳。
負け続けた人生の、底。
目を開けた。
年の瀬の、府中の空。
澄んだ、青い空。
冬の太陽が傾き始めていた。
遠くで、ターフビジョンの音が聞こえていた。
中山の第十一レース。有馬記念が始まろうとしていた。
俺は、ジャケットの内ポケットから懐中時計を出した。
ベンチの上に置いた。
翠色の蓋。
針は相変わらず逆向きに動いている。
握ってみた。
冷たい。
*(三年、ありがとう)*
*(俺を、ここまで運んでくれた)*
時計を、ベンチの上に戻した。
ファンファーレが、遠くのスピーカーから流れてきた。
スタンドの方で、拍手と手拍子が起きる。
府中の空の下で、中山の音を聞いている。
目を閉じたまま、その音を聞いていた。
ゲートが開いた音は聞こえなかった。
代わりに、スタンドのざわめきが、一段ずつ高くなっていくのがわかった。
三コーナー。四コーナー。
直線に入ったところで、ざわめきが叫び声に変わった。
誰かの名前を呼ぶ声。誰かの番号を呼ぶ声。
それから、ひときわ大きなどよめき。
そして、ため息と、歓声と、紙の破れる音が、一度に押し寄せてきた。
今年の有馬記念が終わった。
どの馬が勝ったのか、俺は知らなかった。
この三年で初めて、知らないまま、レースが終わった。
しばらく、目を閉じていた。
---
隣で、誰かが座る気配がした。
目を開けた。
白髪の老人がいた。
俺の、隣に。
三年前と、同じ姿。
小柄。
皺の深い顔。
澄んだ目。
古めかしい服装。
俺はしばらく無言で、老人を見ていた。
老人がこちらを向いた。
「あんた、まだ、生きてたんだな」
声が低く、暖かい。
「……あなたも」
「私は、生きてる、というのとは、ちょっと違うんだがな」
老人がゆっくりと笑った。
俺はしばらく何も言えなかった。
三年前。
あの日。
目が合った。
そして、老人は消えた。
今、目の前にいる。
「お久しぶり、ですね」
俺は言った。
「ああ。あんたから見れば、お久しぶり、だな」
「あなたから、見れば」
「私には、時間の流れ、というのが、ちょっと違うんだ」
「……」
「お前さんの三年は、私には、瞬きみたいなものだ」
「あなたは、何者ですか」
「うん?」
「あの時計、あなたが置いていったんですよね」
「置いていったのか、忘れたのか。それは、わからない」
「あの時計、何だったんですか」
「うん」
老人が空を見上げた。
冬の青い空。
「あれは、時計だ」
「それは、わかります」
「お前さんが、思っているようなものだ」
「予知能力」
「能力、という言い方は、しっくり来ないがな」
「では、何ですか」
「乗り物だ」
「乗り物」
「ああ。あんたを、別の場所に運ぶための、乗り物」
俺はベンチの上の時計を見た。
「乗り物としては、十分、機能したようだな」
老人が頷いた。
「あんた、変わった、と聞いている」
「ええ」
「貯金三万二千円が、五億になった」
「あなた、知ってるんですか」
「私は、時計の出し手だ。出した時計がどう使われているかは、わかる」
「……」
「あんた、いい使い方をしてきた」
「俺は、みんなのおかげで」
「みんながいるから、いい使い方ができた、と」
「ええ」
「それは、正しい認識だ」
老人が頷いた。
---
「お前さん、この時計を持って、ここに来た」
「ええ」
「お前さんから見れば、もう、温度が来ない、のだろう」
「六日、温度が来ません」
「六日か」
「ええ」
「ということは、もう、お前さんのものじゃないんだ」
俺はベンチの上の時計を見た。
翠色の蓋。
針が逆向きに動いている。
「次の誰かに、渡す時が来た、ということですか」
「ああ」
「俺が、誰かに渡せ、と」
「いや」
老人が首を振った。
「私が引き取る。次の誰かに、私が渡す」
「あなたが」
「ああ。最初に、私がお前さんに渡したのと、同じだ」
「俺、自分で選んだわけじゃ、なかった」
「お前さんが、その時、その場所にいたから、渡された」
「では、次の誰かも」
「その時、その場所にいる誰かに、渡る」
「同じパターンで」
「ああ。ずっと、同じだ」
---
俺はしばらく無言で、時計を見ていた。
三年前。
あのとき、ベンチに時計が残っていた。
偶然だった。
俺の人生を変える偶然。
今、時計を返す。
次の誰かが同じようにここにいるだろう。
その人が時計を見つける。
その人の人生も変わる。
さっきの、パーカーの背中が頭をよぎった。
すぐに打ち消した。
次が誰なのかを考えるのは、俺の仕事じゃない。
*(俺は、たまたま運ばれた)*
*(次の誰かも、たまたま運ばれる)*
*(人生は、たまたまで、できている)*
「あなた」
「ん」
「最後に、聞きたいことがあります」
「どうぞ」
「時計の針が逆向きに動いているのは、何か意味があるんですか」
老人が笑った。
「気づいた、か」
「ええ」
「あれは、時間が巻き戻るわけじゃない」
「では」
「乗り物の、印だ」
「印」
「ああ。前に進む人と、過去に戻ろうとする人。時計は、両方を見ている。だから、針は逆向きに動く」
「過去に、戻ろうとする」
「お前さん、三年前、過去に戻りたかったろう」
「ええ」
「ギャンブルで溶かしたお金。失敗した人生。なかったことに、したかった」
「はい」
「時計は、それを知っていた」
「俺、過去には戻れなかった」
「戻る必要は、なかった」
「ええ?」
「お前さんは、過去を抱えたまま、前に進んだ」
「ええ」
「それが、正解だった」
老人が頷いた。
「時計は、過去を抱えた人が、前に進むための乗り物だ。針が逆向きに動いているのは、その印」
「……」
「過去を抱えたまま前に進む。それは、簡単なことじゃない」
「ええ」
「お前さんは、それをやり遂げた」
「みんなのおかげです」
「みんなに感謝しているからこそ、やり遂げられた」
老人がこちらを向いた。
「お前さん、もう、時計は要らない。自分の足で立っている」
「……」
「次は、別の場所で、別の使い方をする」
老人がゆっくりとベンチから立ち上がった。
「ちょっと、待ってください」
俺も立ち上がった。
「最後に、もう一つだけ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなたも、昔、時計を持っていたんですか」
老人がしばらく考えてから答えた。
「持っていた時期も、ある」
「使っていた」
「ああ」
「あなたの過去も、ですか」
「私の過去も、複雑だった」
「……」
「お前さんのように、誰かに運ばれて、ここまで来た」
「あなたも、運ばれて」
「ああ」
「そして、今、運ぶ側に」
「ああ」
「あなたが運ばれた時の、相手は」
「私の前の、運び手」
「あなたは、その人に感謝しているんですか」
「いや」
老人が首を振った。
「私の前の運び手は、私の人生を変えた。感謝もしているが、恨んでもいる」
「ええ?」
「過去を抱えて前に進むのは、簡単じゃない」
「ええ」
「私は、まだ、過去を抱えきれていない」
「……」
「だから、今でも、運び手としてここにいる。次の誰かを運ぶことで、私自身も運ばれているのかもしれない」
老人がぽつりと言った。
俺はしばらく無言だった。
「お前さんは、私と違う」
「どう、違うんですか」
「お前さんは、過去を抱えきれた」
「俺、まだ迷っていますよ。年明けに、母に会いに行きます。会えるか、自信ないです」
「会えるよ」
「なぜ、わかるんですか」
「会えるよ」
老人がもう一度、頷いた。
---
「では、時計を」
老人が手を伸ばした。
俺はベンチの上の時計を取った。
翠色の蓋。
握ってみた。
冷たい。
でもその冷たさが最後の冷たさだと、わかった。
手のひらに、馴染んだ重さがあった。
三年、毎朝握ってきた重さ。
温かい日も、冷たい日も、ずっとこの手の中にあった。
*(こいつと、過ごしたんだな)*
*(貯金三万二千円で負け続けてた俺を、ここまで運んでくれた)*
ありがとう、と言おうとした。
でも、声がうまく出なかった。
指先がほんの少しだけ震えていた。
老人の手に、時計を置いた。
置いた瞬間、手のひらの真ん中に、ぽっかりと空白が残った。
その瞬間。
時計が老人の手の中で、温かく光った。
翠色の蓋がゆっくりと強い光を放った。
俺は目を細めた。
光がベンチを照らした。
冬の府中のベンチを。
三年前と同じ場所を。
老人が笑った。
「ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
「お前さん、いい使い方をしてきた」
「ありがとうございます」
「春には、ヨーロッパに行くんだろう」
「ええ」
「楽しんでこい」
「はい」
老人がゆっくりと歩き出した。
ベンチから、離れていった。
有馬記念を見終えて出口へ向かう人の流れに、混じっていった。
俺はその後ろ姿を目で追った。
白髪の、小柄な背中。
古めかしい服装。
数歩、歩いたあと。
老人の姿が消えた。
目の前に、いた。
数歩、進んだ。
そして、もう、いなかった。
三年前と、同じだった。
人の流れは、何事もなかったように出口へ続いていた。
さっきのゴミ箱の前には、もう誰もいなかった。
---
俺はしばらく、ベンチに座ったままでいた。
冬の府中の、午後の光。
ターフビジョンの音。
有馬の払い戻しを告げるアナウンス。
遠くで、家族連れの笑い声。
ジャケットの内ポケットに、手を入れた。
空。
時計がない。
もう一度、入れ直した。
空。
*(時計が、ない)*
*(軽い)*
しばらく、空のポケットに手を入れたままでいた。
立ち上がった。
ベンチを、あとにした。
スタンドの前を通ると、モニターに今年の有馬記念のゴール前が繰り返し映っていた。
大外から伸びてきた馬が、内の馬をハナ差で捉えている。
さっき肩車をしていた親子が、モニターの前で手を叩いていた。
息子が叫んでいた馬が、勝ったらしかった。
父親は新聞を丸めて、それでも笑っていた。
*(あの父親は、外したんだな)*
*(でも、笑ってる)*
駐車場へ戻った。
吉野さんが車の前で待っていた。
「会長、お疲れさまでした」
「すみません、お待たせして」
「いえ」
吉野さんが缶コーヒーを差し出した。
場内の自販機で買ってきてくれたらしい。
「冷えたでしょう。どうぞ」
受け取ると、手のひらが熱かった。
さっきまで時計を載せていた場所に、別の温度が乗った。
ただの、百三十円の缶の熱だ。
何も見せてはくれない。
でも、指の先まで、ちゃんと温かかった。
「ありがとうございます」
「いえ。私も一本、いただきました」
吉野さんは自分の缶を軽く持ち上げてみせた。
「自宅に、戻ってください」
「承知しました」
---
車内で、ぼんやりと外を見ていた。
窓の外は年の瀬の、夕暮れの府中。
空がゆっくりと赤く染まり始めていた。
*(時計を、返した)*
*(老人に、返した)*
*(次の誰かに、渡される)*
胸の奥が一度だけ、きゅっと鳴った。
この前、電話で母の声を聞いたときの、あの感じに少しだけ似ていた。
でもそれはすぐに引いていった。
あとに残ったのは、悲しさでも、寂しさでもなかった。
ただ、ふっと、何かが軽くなった感じ。
吉野さんがルームミラー越しにこちらを見た。
「会長、ご気分は、いかがですか」
「悪くないです」
「そうですか」
「むしろ、晴れやかな感じ、です」
「それは、何よりです」
吉野さんが頷いた。
それきり、車内は静かになった。
中央道の上り線は空いていた。
吉野さんはラジオをつけなかった。
有馬の結果を伝えるニュースが流れるのを、もしかしたら、避けてくれたのかもしれない。
俺がどの馬も買っていないことを、この人は知らないはずなのに。
*(吉野さんに、時計の話をする日も、いつか来るかもしれない)*
*(でも、今日じゃない)*
---
タワーマンションに戻った。
リビングに入った。
窓の外は東京の年の瀬の夜景。
街には年末年始の特別な空気があった。
マンションの窓に、いつもよりたくさんの灯りがともっていた。
家族と過ごす人たちの灯り。
ジャケットを脱いだ。
内ポケットを、確認した。
空。
いつもそこにあった時計が、もう、ない。
でも、不思議と寂しくはなかった。
ソファに座って、コーヒーを淹れた。
深煎り。
ロースト感が深い。
スマートフォンを開いた。
桑原さんから、年末の挨拶のLINEが来ていた。
*「遊馬さん、今年もお世話になりました。よいお年をお迎えください」*
*「桑原さんも、お世話になりました。よいお年を」*
アンちゃんから。
*「遊馬くん、今年もありがとう! 来年もよろしく!」*
*「アンちゃんも。来年、配信、頑張って」*
里中から。
*「桐島さん、今年はお世話になりました。来年もよろしくお願いします」*
*「里中さん、こちらこそ」*
瀬川さんから。
*「桐島さん、今年は本当にありがとうございました。来年、新しいお店、楽しみです」*
*「瀬川さんも、よいお年を。美咲ちゃんに、よろしくお伝えください」*
みんなと、年末の挨拶を交わした。
短いやり取り。
でもそれぞれに繋がっている感じがした。
---
ベランダに出た。
年の瀬の夜風。
冷たい。
東京のビル群が夜景の中にある。
遠くで、除夜の鐘の音が聞こえそうだった。
まだ早い。
大晦日の深夜にならないと、鳴らない。
でも、空気がその音を待っている感じだった。
*(今年が、終わる)*
*(三年、運んでくれた時計が、ない)*
*(もうすぐ、新しい年)*
*(新しい、俺)*
ふっと、笑った。
*(新しい俺、なんて、大げさだ)*
*(俺は、俺のまま)*
*(ただ、時計が、ない)*
ベランダから、リビングに戻った。
ソファに座って、目を閉じた。
明日の朝、目が覚めたら、俺は何を握るのだろう。
そう思いながら、除夜の鐘の予感の中で、しばらくそのまま座っていた。
---
**── 残高メモ ──**
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 12月後半 ギャンブル収益 | +0円(時計、温度なし) |
| 個人費用(タクシー・コーヒー豆等) | ▲約3万円 |
| 前話繰り越し(個人) | 約26,447万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約26,444万円** |
*懐中時計、12月27日(日)の午後、東京競馬場のベンチにて、老人(プロローグの白髪の老人)に返却。六日連続で温度が来ない状態を確認した上での、自然な返却。時計の能力は、桐島遊馬から、完全に、失われた。*
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(法人、12月分計上済み) | 約19,309万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約19,309万円** |
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(KY Live) | 約15万円 |
| **KY Live 法人口座** | **約15万円** |
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(ナカジマ精工) | 約5,162万円 |
| **ナカジマ精工 口座残高** | **約5,162万円** |
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(田島フーズ) | 約1,755万円 |
| **田島フーズ 口座残高** | **約1,755万円** |
| 口座 | 残高 |
|:--|--:|
| 桐島遊馬(個人) | 約26,444万円 |
| KY Holdings(法人) | 約19,309万円 |
| KY Live | 約15万円 |
| ナカジマ精工 | 約5,162万円 |
| 田島フーズ | 約1,755万円 |
| **総資産(融資別)** | **約52,685万円** |
*融資借入残高:約23,718万円。品川ローン残高:約6,832万円。物語の核となっていた懐中時計は、2026年12月27日、桐島から老人へ返却。針の逆向きに動く意味(過去を抱えたまま前に進むための印)が、老人との対話で明らかに。桐島は、能力なし、自分の足で立つ、新しい段階へ。*




