第90話 〜春が来る〜
二〇二七年、一月一日、元旦の朝。
目が覚めた。
窓のカーテンが薄く白く滲んでいた。
元旦の、東京の朝の光。
しばらく布団の中で、目を開けたままぼんやりしていた。
ふと、枕元に手を伸ばした。
懐中時計がない。
*(そうだ。もう、返した)*
空になったナイトテーブルの上を見た。
三年、毎朝ここに置いていた時計が、ない。
寂しくはなかった。
ただ、習慣が空白になった感じ。
五日目の空白は、もう、手を伸ばしてから気づくのではなく、伸ばしながら気づくようになっていた。
体を起こした。
ベッドから降りた。
元旦の朝のリビング。
空気が、しんとしている。
窓の外は東京の元旦の街。
車の音がいつもの朝よりずっと少ない。
人通りもほとんどない。
五十階から見下ろす首都高に、車が数えるほどしか走っていなかった。
いつもは赤いテールランプが数珠のように連なっている道が、今朝は灰色の帯のように静かだ。
信号だけが、誰もいない交差点で律儀に色を変えていた。
*(年が、明けた)*
*(二〇二七年)*
*(俺は、三十二歳になる年)*
---
コーヒーを淹れた。
深煎り。
いつものように。
ソファに座って、窓の外を見た。
元旦の青空。
雲が一つもなかった。
ふと、瀬川さんからもらったエチオピアの豆のことを思い出した。
使い切ってから、もう一ヶ月以上経つ。
新しいお店がこの春に開く。
そうしたら、また瀬川さんの豆を買えるようになる。
*(三月だな)*
*(瀬川さんの店の、新装オープン)*
*(楽しみだ)*
机の上には、紺のリボンをかけた箱と、白い封筒が載っていた。
昨夜、帰ってきてすぐに書いたカードだ。
何を書いたのかは自分で覚えている。
読み返さなかった。
読み返したら、書き直したくなる気がした。
スマートフォンを開いた。
昨夜から、年始の挨拶のLINEがたくさん来ていた。
山下さんから。
*「会長、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。本年は、特別な年になるかと存じます。お力添えを、続けさせていただきます」*
山下さんらしい、長めの、丁寧なメッセージ。
返信を書いた。
*「山下さん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。私のほうこそ、いつも感謝しています」*
既読がついた。
ハートのスタンプ。
山下さんがスタンプを使うのは、年に数えるほどだ。
その数少ない一回を、元旦の朝に使ってくれた。
---
西村から。
*「会長、あけおめ! 今年もよろしく! 俺、年始、地元に帰省してる。三日に東京戻る」*
*「西村、明けましておめでとう。気をつけて帰ってきて」*
*「了解!」*
そのあとに、写真が一枚ついていた。
丸く並んだ餅と、昨日の臼。
*「これ、三日に持ってく」*とだけ書いてあった。
橘さんから。
*「会長、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。データ分析、続けます」*
*「橘さん、おめでとうございます。橘さんのお仕事に、いつも感謝しています」*
*「ありがとうございます」*
橘さんのメッセージには、湯気の立つ湯呑みの写真が添えてあった。
十二月に渡した玉露の缶が、その横に写っていた。
小林さん、藤原、河村さん、宮本。
KY Holdingsのメンバー、一人ずつ、丁寧に。
小林さんからは、挨拶のあとに一行だけ足してあった。
*「例の大賞典のデータ、四日に持っていきます」*
中島さん、健太郎さん、松田さん、田島さん、樋口さん、高木さん、田畑さん、瀬川さん。
事業のパートナーや、社外の方々に、一人ずつ。
アンちゃん。
*「遊馬くん、あけおめー! 今年もよろしくね! 配信、もっと頑張る!」*
*「アンちゃんも、おめでとう。今年、たくさんの人に声、届けてね」*
送ったあとで、もう一通来た。
*「相棒、今年も走るよー」*
猫が寝転がっているスタンプが一緒だった。
桑原さんから。
*「遊馬さん、明けましておめでとうございます。三月末まで、三ヶ月。遊馬さんにお会いできるのが、楽しみです」*
*「桑原さんも、おめでとうございます。三月末まで、何度か、ふくろうで」*
*「ぜひ」*
ハートのスタンプ。
里中から。
*「桐島さん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」*
*「里中さん、おめでとうございます」*
短い返事を送ってから、画面を見つめた。
桐島さんが本当に誰かを選ぶ日が来たら、私はそっと引きます。
十月の銀座で、里中はそう言った。
十一月には、ナカジマ精工の会議室で、初対面のふりをしてくれた。
*(春までに、一度、ちゃんと会って話そう)*
*(そっと引かせるんじゃなくて、俺の口から)*
それがたぶん、今年最初の宿題だった。
吉野さんから。
*「会長、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます」*
*「吉野さん、いつもありがとうございます。今年もよろしく」*
みんなと、年始の挨拶を交わした。
一時間くらいかかった。
でも、楽しい時間だった。
三年前の元旦、俺のスマートフォンに届いた年賀のメッセージは、携帯ショップの広告だけだった。
---
十時過ぎに、藤原から電話が来た。
「会長、元旦にすみません。どうしても、今日のうちにお伝えしたくて」
「何かあったんですか」
「いい方です。年越しの配信、佐々木くんと水沢さんのコラボ、同時視聴が一万一千人いきました」
「一万一千」
「事務所始まって以来です。零時をまたいだ瞬間に、コメントが追いつかなくなって。ギフトも、一晩で、十二月の赤字の三分の一くらいの額が入っています。精算は来月ですけど」
藤原の声は徹夜明けとは思えないほど弾んでいた。
「佐々木くんが言い出したんです。年越しは水沢さんとやりたいって。シェルターの子たちの写真を、カウントダウンの背景に使って」
「佐々木くんが」
「十月に残ってくれた理由を、配信の最後に、少しだけ話してくれました。この事務所は、俺の体と生活を先に心配してくれたから、って」
電話の向こうで、河村さんが何か言っているのが聞こえた。
寝てください、と言っているらしかった。
「藤原さん、ありがとう。寝てください」
「はい。三月、黒字にします」
「信じてます」
電話を切った。
ソファの背にもたれて、しばらく天井を見ていた。
年越しの瞬間、俺はタクシーの中にいた。
その同じ瞬間に、一万一千人が、アンちゃんと佐々木くんと一緒に年を越していた。
俺が何もしていない場所で、数字が動いていた。
それが少しも寂しくなかった。
---
昼前、マンションの近くの小さな神社まで歩いた。
大通りから一本入った坂の途中に、鳥居が一つだけある神社だ。
三年住んでいて、くぐったのは初めてだった。
境内には近所の家族連れが十組ほど並んでいた。
晴れ着の女の子が母親に帯を直してもらっている。
列の最後に並んだ。
前の老夫婦が、賽銭箱の前で、二人そろってゆっくり頭を下げた。
その背中の丸さが、どこか父と母に似ている気がした。
四年前の姿しか知らないのに。
自分の番が来た。
五円玉を一枚入れて、手を合わせた。
何をお願いするか、考えていなかった。
この三年、俺は神様に頼む必要がなかった。
ポケットの中に、明日を教えてくれるものがあったからだ。
*(明日、ちゃんと玄関まで行けますように)*
それだけ、思った。
願いというより、自分への確認みたいだった。
参拝を終えて振り返ると、さっきの晴れ着の女の子が、おみくじを広げて飛び跳ねていた。
大吉だったらしい。
母親が、それを境内の木に結ぼうとして、女の子に止められていた。
大吉は結ばずに持って帰るの、と言っているのが聞こえた。
帰り道、おみくじは引かなかった。
先のことはもう、先に知らなくていい。
知らないまま歩くのが、どれくらい怖くて、どれくらい普通のことなのか。
それを、今年は一年かけて確かめればいい。
---
午後、ふくろうに向かった。
タクシーを、少し手前で降りた。
昔住んでいたアパートの前を、通ってみたくなったからだ。
築二十八年だった建物は、三年経って、築三十一年になっていた。
外階段の手すりの錆が、前より広がっている。
二階の端の部屋の窓には、知らない人のカーテンがかかっていた。
ベランダに、小さな子どもの長靴が干してある。
*(あの部屋にも、もう、別の生活がある)*
家賃五万八千円が払えなくて、財布の六千円を数えていた部屋だ。
あの頃の俺は、この窓から、明日勝つことだけを考えていた。
今、あそこで誰かが、元旦の雑煮を食べているのかもしれない。
*(お前も俺も、ガタが来てるのは同じだな)*
三年前に心の中で建物に話しかけた言葉を、そのまま思い出した。
建物は相変わらずガタが来ていた。
俺は少しだけ直ったのかもしれない。
元旦の練馬。
商店街は半分くらいの店が休んでいた。
でもふくろうは開いていた。
昨夜、和代さんから「元旦も開けるよ」と聞いていた。
扉を開けた。
常連の、桑原さん以外の何人かがいた。
夕方の四時。
昼酒の時間。
「あら、遊馬くん。明けましておめでとう」
和代さんが奥から出てきた。
「おめでとうございます」
「桑原さんは、今日は来ないのね」
「ええ。今日は、来られないそうです」
「フランス、楽しみだね、桑原さん」
「ええ」
俺はいつもの席に座った。
福田さんがお屠蘇を置いてくれた。
お正月の、特別な振る舞い。
朱塗りの盃に、少しだけ甘い酒が揺れていた。
「遊馬くん、雑煮、食う?」
奥から、和代さんの声がした。
「ええ、いただきます」
和代さんが奥から雑煮を持ってきた。
関東風の、すまし汁の雑煮。
角餅と、ほうれん草と、鶏肉。
焼いた餅の香ばしさが、出汁の上にふわりと立った。
「美味しい」
「うちは、毎年、これね」
「いいですね」
「あんた、実家、いつ行くの」
「明日です」
「お正月、家族と過ごせるのは、いいことよ」
「はい」
福田さんが横で頷いていた。
「電話、できたんだろ」
昨夜は何も聞かれなかった。
顔が変わった、と言われただけだった。
あれはそういう意味だったのかもしれない。
「ええ」
「お母さん、何て言ってた」
「『あんた、変わった?』って」
「で、何て答えた」
「『変わったと、思う』って」
「いい答え方だ」
福田さんがぽつりと言った。
俺は雑煮をもう一口食べた。
「明日、玄関で、何て言うか決めてるか」
福田さんが焼き台の向こうから聞いた。
「……まだ、です」
「ただいま、でいい」
「ただいま」
「ごめん、とか、久しぶり、とか、考えるだろ。考えるな。ただいま、でいいんだ。親ってのは、それで全部わかる」
和代さんが奥から顔を出した。
「この人ね、自分は二十年、実家に帰らなかったのよ。お義父さんのお葬式で、やっと帰ったの」
「余計なこと言うな」
「だから言うのよ。同じことさせたくないんでしょ」
福田さんは何も言い返さなかった。
黙って、俺の前にもう一杯お屠蘇を置いた。
*(ただいま、か)*
四年間、一度も口にしていない言葉だった。
練馬の1Kでも、タワーマンションでも、誰もいない部屋に向かって言ったことはない。
---
しばらく、福田さんと和代さんと雑談した。
常連の何人かとも軽く挨拶を交わした。
みんな、元旦の、ゆるんだ顔をしていた。
奥の座敷では、近所の床屋の主人が孫にお年玉を渡していて、その子がこっちにも頭を下げに来た。
財布から千円札を出して、ポチ袋の代わりに箸袋に包んで渡した。
和代さんがそれを見て笑っていた。
帰り際、福田さんがぽつりと言った。
「お前、ヨーロッパ、行くんだろ」
「四月の中旬」
「気をつけて行ってこい」
「はい」
「桑原さんに、よろしく」
「了解」
扉を出た。
元旦の夕方の、練馬の街。
まだ明るかった。
でも、空気は確かに冷たい。
タクシーで、家に戻った。
車内で、空のポケットにふと手を入れた。
時計がなかった。
慣れない空白。
*(でも、これも、慣れていく)*
---
タワーマンションに戻った。
リビングに入った。
窓の外は東京の元旦の夕暮れ。
空が赤く染まっていた。
ベランダに出た。
元旦の風が頬に当たった。
冷たい。
でも、清々しい。
遠くで、ヘリコプターの音が聞こえた。
元旦の東京。
いつもとは違う、特別な空気。
空のポケットに、手を入れた。
ない。
もう一度、入れ直した。
ない。
俺はふと笑った。
*(時計が、ない)*
*(でも、ここに立っている)*
*(一人で)*
*(みんなが、いる)*
ベランダから、東京の街を見下ろした。
マンションがいっぱいある。
その一つひとつに、人の生活がある。
元旦の、家族の時間。
*(俺の家族にも、明日、会いに行く)*
*(四年ぶり)*
*(怖いけど、行く)*
---
ベランダから、リビングに戻った。
ソファに座った。
ふと、机の上のノートが目に入った。
時計の温度を記録してきたノート。
毎朝書き続けた、三年と二ヶ月の記録。
ノートを、手に取った。
最後のページを開いた。
「十二月二十七日 冷/映像なし/六日連続」
ページの間から、小さな封筒が滑り落ちそうになった。
大晦日の前の日に入れた、翠色の欠片だ。
封筒をページに挟み直した。
ペンを握った。
しばらく考えてから、書き加えた。
「一月一日 ノート、終わり」
書いてから、何ページか前に戻った。
十二月二十五日、仕事納めの夜に書いた一覧がある。
吉野さん、西村、小林さん、藤原、山下さん、田島さん。
それぞれの来年が一行ずつ。
最後の「俺」の横だけが、空白のままだった。
ペンを、その空白の上で止めた。
書けることはいくつか浮かんだ。
でもどれも、ここに書くことではない気がした。
空白のままにしておいた。
それを埋めるのはこのノートの外でいい。
ノートを閉じた。
机の引き出しにしまった。
大切な記録。
でももう書く必要はない。
---
夜。
冷蔵庫から、ビールを出した。
ソファで、一人で飲んだ。
元旦の夜。
いつもの夜とは違う、特別な静けさ。
スマートフォンに、桑原さんから、もう一度LINEが来ていた。
*「遊馬さん、今年、遊馬さんがどんな一年を過ごすか、楽しみです」*
*「ありがとうございます」*
*「桑原さんの一年も、楽しみにしています」*
*「私も、フランスで頑張ります」*
*「来週末、ふくろうに行きませんか」*
*「ぜひ」*
少し間があって、もう一通来た。
*「この前の、聞いてほしい話。そのときに、聞かせてください」*
*「長くなります」*
*「ふくろうは、閉店まで長いですから」*
短いやり取り。
でも、桑原さんとの会話には、いつも、ふくらみがある。
ビールを飲み終えてから、紙袋を玄関まで運んだ。
箱の側面に貼られたシールを、もう一度確かめた。
二十五・五。
間違いない。
靴箱の上に紙袋を置いて、その横に封筒を立てかけた。
明日の朝、忘れないように。
忘れるはずがないのに、そうした。
あの日、父は「で、いくら必要なんだ」と言った。
あの日の俺は金額しか答えられなかった。
明日は金額のない言葉を言いに行く。
*(ただいま)*
玄関の暗がりで、声に出さずに、一度だけ口の形を作ってみた。
思っていたより、ずっと短い言葉だった。
---
ふと、空を見上げた。
窓の外は夜の東京の空。
雲のない、澄んだ夜空。
星がいつもよりよく見えた。
*(年が、明けた)*
*(時計が、ない)*
*(でも、続いていく)*
*(春が、来る)*
*(春になったら、ヨーロッパに行く)*
*(ロンドン、ベルリン、アヴィニョン)*
*(桑原さんに、会いに行く)*
*(みんなの場所が、待っている)*
---
ベッドに入った。
目を閉じた。
空のポケットに、手を入れたまま。
眠った。
---
翌日、一月二日。
目が覚めた。
ナイトテーブルの上。
空。
時計がない。
でも、不思議と寂しくはなかった。
起き上がった。
カーテンを開けた。
冬の青空。
今日、実家に行く。
四年ぶり。
怖さはまだあった。
でも、行く、と決めていた。
コーヒーを淹れた。
ふと、ノートをもう一度開いた。
最後のページの書き込み。
「一月一日 ノート、終わり」
その下に、何かを書き加えたかった。
ペンを握った。
「一月二日 実家へ」
書いた。
ノートを閉じた。
引き出しにしまった。
吉野さんに、連絡を入れた。
「吉野さん、お正月にすみません。今日、埼玉までお願いできますか」
「もちろんです、会長。何時に」
「十時、自宅で」
「承知しました」
電話を切った。
九時過ぎ、母からショートメールが届いた。
*「気をつけて来なさい。お父さん、朝から玄関の掃除してます」*
画面を見たまま、しばらく動けなかった。
足の弱った父が、玄関の段差の前にしゃがんでいる姿を想像した。
紙袋の中の、二十五・五センチの室内履きのことを思った。
*「十一時半ごろ着きます」*
それだけ返した。
鏡の前で、ネクタイを締めかけて、やめた。
スーツもやめた。
クローゼットの奥から、紺のセーターを出した。
会長の服で行く場所ではない気がした。
---
十時ちょうどに、吉野さんの車がエントランスに着いた。
「会長、明けましておめでとうございます」
「おめでとうございます。お正月に、本当にすみません」
「いえ。娘たちは、まだ寝ていますから」
後部座席に、紙袋を置いた。
紺のリボンの箱と、白い封筒。
それから、昨日の帰りに駅前で買った、母の好きだった和菓子屋の最中。
あの店がまだあるのかどうか、確かめもせずに、手が勝手に選んでいた。
車が走り出した。
首都高に上がると、元旦より少しだけ車が増えていた。
「埼玉のご実家は、何年ぶりですか」
吉野さんが前を向いたまま聞いた。
この人が、俺の私的なことを自分から聞くのは、三年で初めてだった。
「四年です」
「そうですか」
吉野さんは少しだけ間を置いた。
「私も、毎年、正月に父の家に行くときは、少し緊張します。もう五十近いのに」
「吉野さんでも」
「ええ。玄関の前で、一度、深呼吸してからチャイムを押します。家内には笑われます」
「……俺も、そうします」
「それがいいです」
「吉野さんのお父さんは、どんな方なんですか」
「無口です。私が警備会社を辞めたときも、何も言いませんでした。ただ、こっちの仕事に移って最初の正月に、運転はどうだ、とだけ聞かれました」
「何て答えたんですか」
「好きです、と。そうしたら、そうか、とだけ」
吉野さんは、小さく笑った。
「親父の『そうか』は、それで全部なんです」
吉野さんは、それきり何も言わなかった。
ラジオもつけなかった。
窓の外を、一月二日の朝の光が流れていった。
元旦より、少しだけ街が動き始めていた。
車の音が少し増えていた。
人通りも少し増えていた。
*(新しい一年)*
*(時計の、ない、新しい一年)*
*(自分の足で、歩く)*
*(家族にも、会いに行く)*
*(春に、ヨーロッパに行く)*
*(秋には、桑原さんが戻ってくる)*
*(みんなと、続いていく)*
窓の外は青空。
雲がほとんどない。
県境の川を渡った。
広い河川敷に、凧を揚げている親子が一組いた。
小さな男の子が、糸を握ったまま土手を駆け上がっていく。
後ろから父親が、転ばないように腕を伸ばしてついていく。
子どもの頃、ああいう土手で自転車の練習をした。
父が荷台を押さえて走ってくれた。
いつ手を離したのか、俺は気づかなかった。
振り向いたら、父はずっと後ろで、息を切らして立っていた。
そのとき父がどんな顔をしていたのか、もう思い出せない。
*(今日、見ればいい)*
見覚えのある看板が一つ、二つと増えていく。
昔通った塾の入っていたビル。
閉店の貼り紙のある、古い本屋。
信号待ちの交差点で、高校の頃に自転車で何度も渡った横断歩道が見えた。
ふと、両手を見た。
三年、時計を握ってきた手。
今は、何も握っていない。
でも、開いている。
次の何かを、握れる手。
吉野さんがウインカーを出した。
実家のある通りへの、最後の角だった。
角を曲がると、細い道の両側に、似たような二階建てが並んでいた。
門松の代わりに、小さな松飾りを玄関に下げた家が、ぽつりぽつりとある。
四軒目の、灰色の瓦屋根。
生け垣は記憶より低く刈り込まれていた。
車がゆっくりと止まった。
玄関の前のコンクリートが、濡れていた。
朝、誰かが水を撒いて、ブラシをかけたのだろう。
段差の角に、真新しい滑り止めのテープが一本、貼ってあった。
すりガラスの向こうで、人影が一つ、動いた気がした。
「会長」
吉野さんが振り返らずに言った。
「深呼吸、ですよ」
「……はい」
紙袋の持ち手を、握った。
紙の持ち手は少しだけ、手のひらに食い込んだ。
時計とは違う重さだった。
*(行こう)*
*(春が、来る)*
---
**── 残高メモ(第3章末・第90話)──**
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 元旦〜1月2日 ギャンブル収益 | +0円 |
| 個人費用(ふくろう・タクシー・お年玉等) | ▲約5万円 |
| 前話繰り越し(個人) | 約26,444万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約26,439万円** |
*懐中時計、桐島の手元にはなし。ギャンブル収益、ゼロ。個人資金は、生活費としては40年以上賄える額。*
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(法人) | 約19,309万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約19,309万円** |
*年明けより、クロイツ社共同開発(年間2億円・3年計画)の正式契約準備に入る。月次余剰、3月までに月1,000万円、4月以降は月1,500万円超の見込み。*
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(KY Live) | 約15万円 |
| **KY Live 法人口座** | **約15万円** |
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(ナカジマ精工) | 約5,162万円 |
| **ナカジマ精工 口座残高** | **約5,162万円** |
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(田島フーズ) | 約1,755万円 |
| **田島フーズ 口座残高** | **約1,755万円** |
| 口座 | 残高 |
|:--|--:|
| 桐島遊馬(個人) | 約26,439万円 |
| KY Holdings(法人) | 約19,309万円 |
| KY Live | 約15万円 |
| ナカジマ精工 | 約5,162万円 |
| 田島フーズ | 約1,755万円 |
| **総資産(融資別)** | **約52,680万円** |
*融資借入残高:約23,718万円。品川ローン残高:約6,832万円。*
---
**第三章 〜秋風編〜 完**
*懐中時計を返却して、桐島は、能力を、失った。*
*でも、彼の足元には、六つの事業、二十人以上の仲間、四人の女性、いくつかの社会的な繋がりが、残っている。*
*時計は、彼を「ある場所」まで、運ぶための、乗り物だった。*
*今、彼は、その乗り物から、降りた。*
*そして、自分の足で、歩き始める。*
*春が、来る。*
*ヨーロッパが、待っている。*
*桑原彩花が、待っている。*
*みんなが、それぞれの場所で、続いていく。*
*次章「春風編」へ続く──*




