第86話 〜ある朝〜
十二月の第四週、火曜日の朝。
目が覚めた。
枕元の懐中時計に手を伸ばす。
冷たい。
握ったまま、しばらく目を閉じていた。
熱が来るのを待った。
来なかった。
今朝早く、海外から帰国したばかりだった。
ラスベガスを深夜に発って、日付変更線をまたぎ、羽田に着いたのは夜明け前だ。
タクシーで家に着いて、二時間だけ眠った。
マカオ、シンガポール、ラスベガス。
時計がまだ動くうちに、と出かけた最後の大遠征だった。
あの旅の終わり頃から、時計の温度は戻ったり消えたりを繰り返していた。
*(旅の疲れかと思っていた)*
*(でも、東京に帰っても──今朝も、冷たい)*
起き上がって、カーテンを開けた。
十二月後半の朝の光。
薄い灰色の空。
冬だった。
窓ガラスに結露がついていた。
時計をテーブルに置いた。
翠色の蓋。
ナイトテーブルの引き出しからノートを出して、記録した。
「十二月二十二日 冷/映像なし」
ペンを置いた。
ついでに、前のページをめくった。
ベガスの行は矢印だらけで、最後は「冷」で終わっている。
その前のシンガポールには「冷」と「温/鮮明」が一つずつ。
「熱」の字は、六月を最後に一度も戻らなかった。
窓の外の街路樹はもう葉がすべて落ちていた。
裸の枝が灰色の空に向かって伸びている。
*(冷たい朝)*
*(最近、こういう朝が多くなっている)*
でもそれ以上の感想はなかった。
淡々とコーヒーを淹れて、トーストを焼いた。
スーツケースは玄関に寝かせたままだ。
いつもの火曜の朝だった。
---
九時。
吉野さんが迎えに来た。
「会長、おはようございます」
「おはようございます」
「お戻りになったばかりで、もう出社ですか」
「年内に片づけたいことが、いくつかあって」
「ご無理なさらず」
車内で、窓の外を見ていた。
十二月の火曜の朝。
通勤の人たちが、コートを着込んで急ぎ足で歩いていた。
年末の忙しさが街の速度ににじんでいた。
ラジオが年末のニュースを流していた。
今年の流行語大賞。
来年のカレンダーの売れ筋。
帰省ラッシュの予想。
*(年末か)*
*(あと十日ほどで、元旦)*
*(母に、電話する)*
十日前の夜を思い出していた。
ふくろうのカウンターで、桑原さんに言われたこと。
両親がいるうちに繋がっておくのはいいことです、と。
そのあと、福田さんがグラスを磨きながら言ったこと。
お前が変わったこと、ちゃんとお母さんに見せろ。
*(年末、母に電話する)*
決めていた。
でもまだ具体的な日にちは決めていない。
大晦日にするか。もう少し早めにするか。
決めないまま十日が過ぎた、とも言えた。
内ポケットのスマートフォンが、少しだけ重く感じた。
---
オフィスに着いた。
今週は年末モードだ。
月末の業務と年末の挨拶回りで、どこも慌ただしい。
西村が自分のデスクでコーヒーを飲んでいた。
ベガスから同じ便で帰ってきたのに、顔色はもう普段どおりだった。
「会長、おはよう」
「おはよう。よく起きられたな」
「機内で十時間寝たからな。お前は寝てないだろ」
「少しは寝た」
「顔が寝てないって言ってる」
西村は鼻で笑ってから、手帳を開いた。
「今週、忙しいよ。年末の取引先回り、十社入ってる」
「ありがとう、頼む」
「会長は年明けの動きに集中して」
「了解」
山下さんが会議室から出てきた。
同じ便で帰ってきたはずなのに、ネクタイの結び目まで、いつもと同じ位置にあった。
「会長、おはようございます。今週末で、年内の業務は一段落いたします。年明け以降の事業計画の最終確認を、本日中にお願いします」
「了解」
「あと、橘さんの最初の週報も、本日お時間があれば」
「橘さんから、もう報告が来てるんですか」
「ええ。先週末、メールで提出していただきました。一週間分のデータ分析結果です」
「すごいな、橘さん」
「私が確認しましたが、内容は極めて高水準です」
「了解。読みます」
山下さんは頷いて、自分の席に戻った。
遠征の精算書の束がもう机の端に揃えてあった。
---
午前中、橘さんの業務報告を読んだ。
KY Pet Foodsの、シェルター別のフード消費分析。
一月から始める月一回搬送の計画に対して、各団体の消費量とロス率を計算してある。
団体ごとに、最適な搬送量まで提案していた。
数字がずらりと並んでいた。
でもただの数字の羅列ではなかった。
最後に、要点がまとめてあった。
*「月一回搬送の計画量は、消費ペースにほぼ合致する見込み。ただし兵庫は計画量が十パーセント不足。初回から上乗せを提案する。札幌は冬季のフード保管に課題あり。冬場だけ月二回に分けて送れば改善可能。試算では、年間追加コスト約八十万円」*
十一月の集会で、札幌の代表が暖房費の話をしていたのを思い出した。
冬の倉庫は凍る。凍ったフードは、犬が食べない。
あのとき会場でメモを取っていたのは山下さんと俺だけだと思っていた。
橘さんは、配信のアーカイブを何度も見返したのかもしれない。
*(橘さんらしい、的確な分析だ)*
*(数字の中に、現場の課題まで見えている)*
橘さんにメールを書いた。
*「橘さん、業務報告、拝読しました。札幌の冬場の分割搬送、ぜひ進めましょう。山下さんと私で調整します。兵庫の搬送量も、初回から上乗せします」*
すぐに返信が来た。
*「ありがとうございます。次月以降のデータを注視します」*
短い返事だった。
でも、十二月九日に定食屋で向かい合ったときより、文面がずっと落ち着いていた。
---
午後。
ナカジマ精工に寄った。
クロイツ社との共同開発の、最終確認だ。
大田区の工場は年末の大掃除の最中だった。
中林くんが脚立に乗って蛍光灯の傘を拭いている。
旋盤の油の匂いに、洗剤の匂いが混じっていた。
事務所の奥で、松田さん、健太郎さん、中島さんと向き合った。
四人で、契約条件を最終確認した。
十二月の頭に三宅先生と詰めた線は、そのまま生きている。
特許はナカジマに残す。独占は三年に限る。
先方の正式な返事は年明けに来る。
「会長、私たちは、お受けしたいと考えています」
健太郎さんが言った。
「父も、同意しています」
「中島さん、了解されたんですね」
中島さんは腕を組んだまま一度だけ頷いた。
「ええ。先週、長く話し合いました。これは、ナカジマ精工の新しい一歩だ、と」
先月の祝日に、この事務所で設備投資のことで怒鳴り合っていた二人だ。
いまは、同じ書類の同じ行を、同じ速さで目で追っている。
「松田さんは」
「もちろん、お受けします。私の研究を、製品として世に出せる機会です」
「了解。先方の返事が来たら、その場で受けると伝えます」
四人で頷き合った。
*(ナカジマ精工が、第二創業の段階に入る)*
*(年間二億円の新規収入)*
*(これで、グループは確実に自走できる)*
帰り際、中島さんが工場の入口まで見送りに出てきた。
「会長、あんた、顔色が悪いな」
「海外から、今朝帰ってきたばかりで」
「若いうちの無理は、あとで来るぞ」
中島さんはそれだけ言って、工場の中に戻っていった。
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夜。
タワーマンションのリビング。
窓の外に、東京の夜景が広がっていた。
十二月後半の夜は本当に冷たい。
懐中時計をテーブルに置いた。
握ってみた。
冷たい。
*(今日は、結局、温かくならなかった)*
でも、明日は温かくなるかもしれない。
これまでのペースなら、そうだった。
ベッドに入った。
目を閉じた。
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翌日、水曜日の朝。
目が覚めた。
時計を握った。
冷たい。
*(昨日も冷たかった)*
*(今日も、冷たい)*
二日連続。
よくあることだ。
でも、冬になってから、二日連続が増えていた。
ノートに記録した。
「十二月二十三日 冷/映像なし」
カーテンを開けた。
水曜の朝。
十二月。
寒い。
コーヒーを淹れた。
いつも通りに。
オフィスに向かった。
西村や山下さんと軽く雑談しながら、遠征の精算と年内の業務を片づけた。
時計のことは一日中、頭の片隅にあった。
でもそれ以上の感情はなかった。
夜、タワーマンションに戻った。
時計を握った。
冷たい。
*(今日も、温かくならなかった)*
寝る前に、一度だけスマートフォンの連絡先を開いた。
「母」の一文字。
四年前から、名前を打ち直していない。
昼間、西村が言っていたのを思い出した。
年末は地元に帰る。親父が今年は餅をつくって言い出して、臼を借りてきたらしい、と。
面倒くさそうに話しながら、西村の口元は緩んでいた。
*(俺は、何を言えばいいんだろう)*
久しぶり、の次の言葉が出てこなかった。
画面を閉じた。
明日にしよう、と思った。
四年間、毎晩そう思ってきたのと同じ言い方で。
ベッドに入った。
目を閉じた。
---
木曜日の朝。
目が覚めた。
時計を握った。
冷たい。
今度は握ったまましばらく動かなかった。
*(三日連続)*
ぶるっと、何かが走った。
体ではなく、心の中に。
*(ベガスの廊下で熱が引いてから、一度も戻らない)*
*(最近、冷たい日は増えていた。でも、冷たい日が続いても、どこかで必ず戻っていた)*
*(今回は、戻る気配がない)*
ノートを開いた。
ペンを握った。
「十二月二十四日 冷/映像なし/三日連続」
書いてから、ペンを置いた。
ノートを、しばらく見つめていた。
三年分の「温」と「冷」が、このページに向かって細くなっていく。
川の流れが河口で砂に吸い込まれていくみたいに。
*(これは、終わりの始まりかもしれない)*
カーテンを開けた。
木曜日の朝。
クリスマスイブ。
窓ガラスに結露。
白く滲んだ朝だった。
コーヒーを淹れた。
手がほんの少しだけ震えていた。
*(落ち着け)*
*(三日連続で、冷たい日が続いただけだ)*
*(明日、温かくなるかもしれない)*
でも、心のどこかでわかっていた。
*(明日も、たぶん冷たい)*
*(いつかの、その日が来た)*
---
オフィスに着いた。
今日は年内最終の月次レビューだ。
山下さんと、長く話す予定だった。
会議室で、山下さんと向き合った。
テーブルの上にはいつもの二冊のファイル。
その横に、今日は三冊目が置いてあった。表紙には何も書いていない。
「会長、おはようございます」
「おはよう」
「本日は、十二月の月次と、来年の事業計画の最終確認です」
「山下さん」
「はい」
「その前に、一つ、伝えておきたいことが」
「はい」
「俺のギャンブルでの稼ぎ、もう、ほとんど止まる」
山下さんがしばらくこちらを見ていた。
「……それは、確実ですか」
「三日連続、温度が来ない」
「温度」
「俺の、仕掛けの温度」
「ええ」
山下さんは、それが何の仕掛けなのかを聞かなかった。
三年前、川崎のスタンドで、レースの前に番号を告げてみせた日から、この人はずっとそうだ。
「今までは、冷たい日が続いても、どこかで必ず戻っていた。今回は、戻る気配がない」
山下さんはメモを取らなかった。
ただ、聞いていた。
「明日も、おそらく温度は来ません」
「ええ」
「そして、明後日も」
「ええ」
「年末には、もう、ギャンブルでは稼げない、と」
「そう、思います」
山下さんがしばらく黙った。
会議室の窓の外で、ビルの工事現場の音が、遠くから聞こえていた。
「桐島さん」
山下さんが久しぶりに「桐島さん」と呼んだ。
会長、と呼ばれるようになって、もう一年半あまりになる。
「はい」
「準備は、できております」
俺は頷いた。
山下さんが三冊目のファイルを開いた。
「グループ全体の月次余剰は、十一月時点で約六百万円。十二月は、すでに約八百万円に改善しています。年明けからのクロイツ社との共同開発で、年間二億円の追加収入が確定。月次余剰は、月一千五百万円を超える見込みです」
「ええ」
「桐島さんの個人資金は、二億六千万円を超えています。この金額は、生活費としては四十年以上賄える額です。何が起きても、桐島さんが困ることはありません」
「うん」
「会社も、桐島さんも、安全に運営できます」
ファイルの中身は、時計のない桐島遊馬の、向こう十年の計画だった。
いつから作っていたのかは、聞かなかった。
十月の終わり、俺が府中で一千二百万円を失った週明けに、山下さんは何も言わずに個人口座の動きを確認していた。
たぶん、あのあたりからだ。
「ありがとう」
「桐島さん、よくここまで来てくださいました」
山下さんの声がいつもより少しだけ深かった。
「山下さん、ありがとう」
「業務上、当然のことです」
二人で笑った。
*(山下さんが、最後に「業務上、当然のことです」と言うのが、嬉しかった)*
*(俺がギャンブルで稼げなくなっても、山下さんは変わらない)*
*(CFOとして、淡々と仕事を続けてくれる)*
---
午後も月次レビューを続けた。
数字を、一つずつ確認した。
来年の事業計画も確認した。
ナカジマ精工。
田島フーズ・KY Pet Foods。
KY Live。
不動産。
FORECAST。
KY Food Network(来年立ち上げ)。
すべての事業がそれぞれ成長の軌道にある。
俺の個人資金からの追加出資なしで、自走できる。
むしろ来年からは、グループ全体で月一千万円を超える余剰が出る。
「会長、来年の三月までに、私が提案している月次余剰一千万円の目標は、達成の見込みです」
呼び方はもう「会長」に戻っていた。
「いいニュースだ」
「クロイツ社の共同開発の効果が出始める四月以降は、もっと伸びます」
「うん」
「会長は、安心して、別のことに集中していただいて結構です」
「別のこと」
「ええ。新しい事業の構想、私的なご予定、海外への渡航。何でも」
山下さんが頷いた。
*(山下さんは、俺が新しい段階に入ることを、わかっている)*
*(時計が止まる前提で、もう、すべてを組み立てている)*
---
夕方、オフィスを出た。
吉野さんの車で、家に戻った。
車内で、ぼんやりと考えていた。
*(三日連続)*
*(明日も、たぶん冷たい)*
*(時計が、ついに止まる)*
*(俺は、これを受け入れる)*
予感は半年以上前からあった。
でも、実際にその日が来てみると、不思議と悲しさはなかった。
ふっと、肩から何かが降りた感じがした。
*(時計が三年、俺を運んでくれた)*
*(次は、自分の足で歩く)*
信号待ちのあいだ、吉野さんがルームミラー越しにこちらを見た。
「会長、今夜はイブですね」
「そうでしたね」
「うちは今夜、下の娘がケーキを焼くと言っていまして。たぶん、焦げます」
「焦げても、食べるんですよね」
「ええ。毎年、全部食べます」
吉野さんが笑った。
俺も少しだけ笑えた。
---
タワーマンションに戻った。
リビングに入った。
窓の外に、東京の夜景。
クリスマスイブの夜だった。
街は確かにいつもより明るかった。
向かいのマンションの窓にも、イルミネーションが瞬いていた。
エントランスですれ違った家族連れも、少し嬉しそうな顔をしていた。
懐中時計を、テーブルの上に置いた。
翠色の蓋。
*(クリスマスイブに、時計が止まる)*
*(不思議なタイミングだ)*
ソファに座った。
コーヒーを淹れた。
ふと、スマートフォンを開いた。
母の連絡先。
*(年末まで、あと一週間)*
*(電話、するか)*
画面を、しばらく見ていた。
最後の発信は四年前の日付のままだった。
思い出すのは、もっと前の一本だ。土下座しに行く前の晩。
「今度の日曜、行ってもいいか」とだけ言って、母に「何の用」と聞き返された。
答えられずに、ただ「話がある」と言った。
*(あのとき、母は、もうわかっていたんだと思う)*
*(金の話だって)*
時計に目をやった。
冷たいまま、そこにある。
この三年、大事な場面の前には、いつもこれを握っていた。
握って、温かければ進む。冷たければ引く。
それで、ほとんど間違えなかった。
今夜は握っても何も教えてくれない。
*(だから、いま、かけるんだ)*
*(こいつに決めてもらわずに)*
通話ボタンを押した。
呼び出し音が鳴った。
一回、二回、三回。
*(出ない)*
四回目。
「もしもし」
母の声。
四年ぶりだった。
「もしもし、母さん」
「あんた」
「俺、遊馬」
「わかってる。番号、登録、消してない」
「……ええ」
電話の向こうで、テレビの音が小さくなった。
リモコンで音量を下げたのだと思う。
年末の歌番組の、にぎやかな拍手が遠のいていった。
「久しぶり」
「久しぶりです」
自分の口から敬語が出て、自分で驚いた。
母もたぶん驚いていた。
「どうしたの」
「いえ、ちょっと、声を聞きたくなって」
母がしばらく無言だった。
その沈黙の長さを、俺は数えていた。
五秒。六秒。
切られるかもしれない、と思った。
「今、どこにいる」
「東京。港区」
「港区」
「ええ」
「あの頃と、住む場所、違うんだね」
「ええ」
あの頃、というのは、練馬の1Kのことだ。
母は一度も来たことがない。
築二十八年の、日当たりの悪い部屋だった。
「お父さん、来週、誕生日だよ」
「父さん、誕生日」
「忘れてた?」
「忘れてた」
「来週の月曜。あんた、知らないでしょ」
「いえ、知らなかった」
嘘だった。
十二月二十八日。
知らなかったのではなく、四年間、思い出さないようにしていた。
でもそれを言い直す言葉が見つからなかった。
「電話、しなさい」
「うん」
「父さん、最近、足が弱って、よく転ぶの。心配だから」
「父さん、大丈夫なの」
「大丈夫。年なりよ」
「うん」
「この前もね、玄関の段差でつまずいて、靴箱に頭ぶつけて。本人は、なんでもないって言うんだけど」
母の声が少しだけ早口になった。
四年分の、誰にも言えなかった小さな心配が、こぼれてきたような早さだった。
「病院は」
「行ったわよ。骨は大丈夫だって。あんたが心配することじゃない」
「……うん」
「母さんは、元気だよ」
「よかった」
「あんたは、どうなの」
「俺、元気」
「ちゃんと食べてるの」
「食べてる」
「嘘。あんた、昔から、食べてるって言うときは食べてないの」
思わず、笑ってしまった。
電話の向こうで、母も、ほんの少しだけ息を漏らした。
笑ったのかどうかはわからない。
「仕事、何してるの」
「会社を、いくつか、経営してる」
母がしばらく無言だった。
「経営、ね」
「ええ」
「三年前に、振り込んできたでしょう。五百万」
心臓が一度、大きく打った。
「……うん」
「何も書いてなかった。振込の、名前だけで」
「書くことが、思いつかなくて」
「お父さん、あれ見て、何も言わなかったよ。でも、通帳、ずっと茶の間の棚の上に置いてる。普段は、あたしが仕舞っておくのに」
言葉が出なかった。
窓の外の夜景が急にぼやけた。
「ギャンブルは」
母が静かに聞いた。
四年前、いちばん聞きたかったことのはずだ。
「やってた」
「……」
「でも、もう、前みたいには、やらない。借金するようなやり方は、もうしない」
自分でも驚くほど、すんなり出た言葉だった。
時計がないから言えたのか。
時計がなくてもそう言える自分になっていたのか。
どちらなのかはわからなかった。
「あんた、変わった?」
「変わったと、思う」
「そう」
母の「そう」は、短かった。
でも、四年前の「救いようがないね」とは、まるで違う重さで耳に残った。
「母さん、今度、お正月、行ってもいい?」
母がまた無言だった。
テレビの拍手がかすかに聞こえていた。
どこかの家で、誰かがクリスマスを祝っている音だった。
「いいわよ」
「父さんに、聞いてからの方が」
「父さんも、たぶん、いい、って言う」
「うん」
「いつ、来る?」
「元旦か、二日か」
「二日にしなさい。元旦は、父さん、寝てるから」
「了解」
「待ってる」
電話が切れた。
スマートフォンを手に持ったまま、しばらく動けなかった。
通話時間、六分十二秒。
四年の距離を縮めるには、短すぎる時間だった。
でもゼロではなかった。
窓の外は東京のクリスマスイブの夜。
遠くで、教会の鐘の音が聞こえた気がした。
*(母と、話した)*
*(四年ぶり)*
*(声が、変わっていなかった)*
*(俺の言葉も、母には届いていた)*
*(年明け、会いに行く)*
ソファに座り直した。
涙が出てきた。
拭いた。
また出てきた。
*(俺、今、泣いてるな)*
*(なんで、泣いてるんだろう)*
通帳のことを考えていた。
棚の上に置かれたままの、一冊の通帳。
父はそれを、毎日どんな顔で見ていたのだろう。
時計を握ってみた。
冷たい。
でも、何か温かい気がした。
錯覚かもしれない。
自分の手の温度が移っただけかもしれない。
*(今度の日曜、競馬場に行こう)*
*(東京競馬場の、あのベンチ)*
*(三年前、時計を拾った場所)*
---
**── 残高メモ ──**
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 12月第2週 ギャンブル収益 | +約30万円 |
| 個人費用 | ▲約5万円 |
| 前話繰り越し(個人) | 約26,422万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約26,447万円** |
*時計、帰国後も温度が戻らない。グループ全体は、すでに桐島個人資金なしで自走可能な体制。*
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(法人、12月分計上済み) | 約19,309万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約19,309万円** |
*年内最終月次レビュー完了。来年の事業計画確定。クロイツ社共同開発(年間2億円・3年計画)先方の正式回答待ち(1月中旬見込み)。月次余剰、11月600万→12月800万に改善。来年3月までに月1,000万、4月以降は1,500万超の見込み。*
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(KY Live) | 約15万円 |
| **KY Live 法人口座** | **約15万円** |
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(ナカジマ精工) | 約5,162万円 |
| **ナカジマ精工 口座残高** | **約5,162万円** |
*クロイツ社共同開発、年明けに正式契約。年間2億円の開発委託費が新規発生。*
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(田島フーズ) | 約1,755万円 |
| **田島フーズ 口座残高** | **約1,755万円** |
| 口座 | 残高 |
|:--|--:|
| 桐島遊馬(個人) | 約26,447万円 |
| KY Holdings(法人) | 約19,309万円 |
| KY Live | 約15万円 |
| ナカジマ精工 | 約5,162万円 |
| 田島フーズ | 約1,755万円 |
| **総資産(融資別)** | **約52,688万円** |
*融資借入残高:約23,718万円。品川ローン残高:約6,832万円。時計、帰国後ずっと冷たい状態。桐島、4年ぶりに母親に電話。正月(1月2日)に実家訪問の約束。父の誕生日も翌週月曜と判明。「あんた、変わった?」「変わったと、思う」という対話。*




