第85話 〜帰路〜
十二月二十日。
ラスベガス。
砂漠の真ん中の、不夜城。
ストリップ大通りのネオンが、昼間みたいに明るい。
シンガポールを発ったのは、二十日の朝だった。
十数時間飛んで、日付変更線を越えて、着いたのもまだ二十日の朝だった。
一日を、二回やっているような気分だった。
飛行機を降りる前に、時計を握った。
温かい。
ただ、シンガポールの朝ほどではない。
ノートに「温(弱)」と書いた。
空港に、山下さんが迎えに来ていた。
日本から、半日遅れで合流したのだ。
「会長。お疲れさまです」
「山下さん。わざわざ、すみません」
「いえ。一度この目で、会長の『仕事』を見ておきたかったので」
*(山下さん、それ、ちょっと楽しみにしてただろ)*
西村は、すっかり元気を取り戻していた。
小林さんは、ホテルのWi-Fiの速さに感動していた。
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ホテルへ向かう車の中で、山下さんが鞄から薄いファイルを二冊出した。
「シンガポールでお電話をいただいた件です。機内でまとめました」
一冊目は、全国シェルター連絡会議に参加した団体の一覧だった。
団体ごとに、保護している頭数と、昨年度の医療費が並んでいる。
十一月に一人ずつ顔を合わせた代表たちの名前が、そこにあった。
「医療費は、合わせて年に一億円近くになります。そのうち寄付で賄えているのは六割ほどです。残りは、代表の方の持ち出しか、治療を先送りにしているか」
「先送り」
「はい。治せば助かる子の手術を、春まで待たせている団体もあるそうです」
二冊目は、田畑さんの子ども食堂と、そこから話が広がった近隣の食堂の一覧だった。
八王子だけで四か所。
どこも、週に一度か二度、地域の人の手で開いている。
「野菜は、大貫農園から届く分で足ります。足りないのは、光熱費と、調理の手伝いに来てくださる方への交通費程度です。一か所あたり月に数万円」
「数万円で、続けられる」
「はい。ただ、その数万円が、毎月ずっと要ります」
ファイルを閉じた。
窓の外を、カジノホテルの巨大な看板が流れていく。
一晩で数千万が動く街で、月数万円の話を読んでいる。
そのちぐはぐさが、なぜか妙にしっくりきた。
「会長。今夜、会わせたい男がいます」
「誰ですか」
「石橋マサト。ポーカーのプロです。日本の配信者でもある」
*(石橋……ああ)*
二年近く前。
最初のラスベガス遠征で、テーブルで隣になった男だ。
俺の読みの正確さに、しつこく食い下がってきた、あの男。
日曜にノートを読み返したとき、その名前の横には「しつこい」と書いてあった。
「あいつ、まだベガスに」
「拠点を移したそうです。日本と行き来しながら、こちらでプレイしている、と」
「山下さん、どうして石橋さんを」
「去年、会長からお名前を伺っていました。アミューズメントポーカーのことも。それで、少し調べました」
山下さんは、それ以上の説明をしなかった。
この人の「少し」が、少しで済んだことはない。
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午後、ホテルの部屋で、少しだけ一人になった。
窓の下で、噴水のショーの準備をしている作業員が見える。
ノートを開いて、日曜に書いた一覧を読み返した。
一番上の行。映像のない日に張ると、外れる。
五番目の行。少額には鈍い。
ポーカーは、バカラと違って、一手ごとに張る額が変わる。
小さく様子を見る手と、大きく勝負する手が、同じテーブルで混ざる。
時計が、それをどう扱うのか。
二年近く前の記録には、そこまでは書いていなかった。
*(今夜、わかる)*
ノートを閉じて、ジャケットの内ポケットに入れた。
時計は、反対側のポケットに入れた。
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その夜。
ベラージオの、ハイステークス・ポーカールーム。
石橋マサトは、二年近く前と同じ顔で笑った。
「マジかよ。桐島さん。また会えるとは、思わなかった」
「お久しぶりです、石橋さん」
「噂は、聞いてたよ。日本ででかい会社やってるって。あの読みでビジネスやったら、そりゃ勝つよな」
石橋は、前より少し日に焼けていた。
首から下げたパスケースに、チャンネルのロゴが入っている。
『マサトのポーカーライフ』。
今日はカメラを回していないらしい。
「今日は配信、なしで。桐島さんとやるのに、カメラいらないでしょ」
「助かります」
「前回、後ろ姿が切り抜かれてたの、怒ってない?」
「少しだけ」
石橋は、声を出して笑った。
テーブルに着いた。
時計を握った。
温かい。
*(よし)*
ノーリミット・ホールデム。
配られる前から、映像が来る。
フロップ、ターン、リバー。
全部、見えている。
最初の一時間は、ほとんど降りていた。
ブラインドだけ払って様子を見るつもりの手には、映像は来なかった。
張ると決めて二枚を見た手にだけ、リバーまでの五枚が流れた。
一覧の二番目と五番目は、ここでも当たっていた。
映像の中で、俺の手が負けるときは、どれだけ綺麗な二枚でも降りる。
クイーンのペアを、プリフロップで捨てた。
テーブルの全員が、一瞬こちらを見た。
その手は、リバーでエースを引いた隣の男が持っていった。
勝つ手だけを、大きく張った。
九のペアを持った手で、映像の中のフロップに九が一枚落ちる。
スリーカード。
俺はチェックで回して、相手に打たせて、ターンで大きく返した。
相手は、トップペアのまま最後までついてきた。
淡々と勝った。
石橋が、目を丸くしている。
二時間目に入った頃、石橋と二人だけで残った手があった。
俺はエースとジャック。
映像の中で、ターンにジャックが落ちて、石橋はキングのワンペアのまま降りない。
チェックとベットを二回ずつ繰り返して、リバーで石橋が首を振りながらカードを投げた。
「なんで、そこでジャック待てるかな」
石橋が、半分笑いながら言った。
「前にも言ったけど、あんたの降りるタイミング、気持ち悪いんだよ。普通の人間が持ってる迷いが、どこにもない」
「迷ってますよ、一応」
「嘘つけ」
テーブルの外の手すりのところで、山下さんと西村が並んで見ていた。
西村は、カクテルを片手に、一手ごとに小さく拳を握っている。
山下さんは、腕を組んだまま、ほとんど動かなかった。
三時間で、一万ドル単位のチップが山になった。
ところが──。
夜の九時を過ぎた頃。
その手が配られた瞬間だった。
ポケットの時計が、ふっと冷たくなった。
*(……え)*
握り直した。
冷たい。
映像が来ない。
いつもなら、配られる前に、リバーまでの五枚が頭の中に流れる。
今は、何も来ない。
手元の二枚しか、わからない。
ハートのエースと、ハートのキング。
悪くない。むしろ、強い。
でも、相手の手も、これから来る五枚の共通カードも、何ひとつ見えない。
*(おいおい。よりによって、今、止まるのか)*
テーブルには、もうチップが出ている。
降りるには、遅い。
*(映像なし。時計なしで、自分の頭だけで勝負しろ、ってことか)*
心臓が、久しぶりに跳ねた。
手のひらに、汗がにじんだ。
*(この感覚、いつ以来だ。マカオで三百五十万溶かした、あの夜か)*
*(……いや。十月の府中だ。千二百万が紙切れになった、あの午後)*
あの日も、手が震えていた。
自分の分析を信じて、映像のない勝負に乗って、外した。
日曜にノートにつけた一覧の、一番上の行。
映像のない日に張ると、外れる。四回、四敗。
*(五回目に、するのか)*
プリフロップ。
俺は、レイズした。
石橋がコール。他の二人は、降りた。
フロップ。
場に、三枚開いた。
ハートの10、ハートの7、クラブの2。
*(ハートが二枚。手札も、二枚ともハート。フラッシュの目がある)*
石橋が、チップを押し出した。
大きめのベット。
*(強気だ。ヒットしたのか。それとも、ハートを潰しに来たブラフか)*
映像があれば、一秒でわかる。
今は、わからない。
だから、見るしかない。
石橋の指先。チップの積み方。視線の置き所。
二年近く前、こいつと卓を囲んだ時の癖を思い出す。
ついさっきまでの三時間も、映像の陰で、こいつの手の動きだけはずっと見ていた。
勝つとわかっている手でも、相手の顔を見る癖だけは、八年の負けが残してくれたものだ。
*(こいつ、本当に強い時は、もっと静かにベットする。今のは、少し置き方が雑だ)*
コール。
ターン。
ダイヤのジャック。
ハートは、増えなかった。
石橋が、またベット。さっきより大きい。
*(畳みかけてくる。普通なら、降りる場面だ。でも──)*
*(こいつの目、さっきから、俺じゃなくて自分のチップを見てる。本物を持ってる奴は、相手を見る)*
息を吐いた。
コール。
リバー。
最後の一枚。
ハートの4。
*(来た)*
エース・ハイのフラッシュ。
完成した。
石橋が、しばらく考えてから、オールインを宣言した。
*(ブラフだ。たぶん。いや──たぶん、じゃない。こいつは、ハートのフラッシュを警戒して、降ろしに来てる。自分の手は、ツーペアか、せいぜいストレートだ)*
*(読み切れては、いない。でも──行く)*
コール。
ショウダウン。
石橋の手は、ジャックとテンのツーペア。
俺の、フラッシュの勝ちだった。
石橋が、椅子にもたれて、大きく息を吐いた。
「……今の、すごいな桐島さん。完全に読み勝ちだ。あんた、運だけの人じゃないんだな」
*(運じゃないどころか──今のは、初めて、自分の頭だけで勝った)*
ポケットの中で、時計は冷たいままだった。
*(こいつ、いよいよ終わりかけてる)*
*(でも──時計なしで、勝てた。一回だけ、だけど)*
不思議な気分だった。
時計が終わりに近づいているのに。
なぜか、少しだけ、怖くなくなっていた。
テーブルを離れる前に、ストップウォッチで秒針を測った。
六十秒。
冷たい日の速さだった。
手すりのところで、山下さんが待っていた。
西村は、石橋にサインをもらいに行っている。
「会長」
「はい」
「先ほどの一手。会長の手が、震えておられました」
俺は、自分の右手を見た。
もう、震えてはいなかった。
「三年近くご一緒して、初めて拝見しました」
「……そうですか」
「よい一手でした」
山下さんは、それだけ言って、西村のほうへ歩いていった。
何が違ったのかを、この人は聞かなかった。
聞かなくても、たぶん、わかっている。
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ゲームの後。
石橋と、バーで飲んだ。
山下さんも、少し離れた席でコーヒーを頼んでいた。
「桐島さん。あんた、日本でポーカー、流行らせる気ない?」
「ポーカー、ですか」
「アミューズメントポーカーってのがあるんだよ。金を賭けない、健全なやつ。日本でも、合法でできる。でも、まだ文化が根付いてない」
*(これ、前にも聞いた話だ。二年近く前、こいつは同じことを言ってた)*
「俺さ、いつか日本に戻って、ちゃんとしたポーカーの場所を作りたいんだ。誰でも安全に楽しめる場所を。でも、金も経営のノウハウもない」
「具体的に、どんな場所ですか」
石橋は、グラスを置いて、紙ナプキンに簡単な絵を描き始めた。
「テーブルは、最初は六台でいい。ディーラーは、ちゃんと研修したやつを雇う。客は、参加費を払ってトーナメントに出る。チップは店の中だけのもんで、絶対に換金しない。賞品も参加費からは出さない。ここが一番大事」
「参加費から出さない」
「そう。集めた参加費を勝ったやつに回したら、それはもう賭博なんだよ。日本の法律だと、そこで一発アウト。だから賞品はスポンサーから出すか、ポイントとかランキングとか、名誉で返す。勝ったやつが次の大きい大会に出られる、とか」
山下さんが、カップを置いて、小さく頷いた。
「その点は、帰国してから三宅先生に確認させます。風営法の許可が要るかどうかも含めて」
「さすが」
石橋が、ナプキンの端に地図のようなものを描き足した。
「場所は渋谷か新宿。駅から歩けて、会社帰りに寄れるとこ。ビルのワンフロアで、明るくて外から中が見える店がいい。ポーカーって聞くと、まだ薄暗い地下のイメージがあるだろ。それを壊したい」
「客層は」
「会社帰りの二十代、三十代。大学生。それから女の子同士。最近、配信で覚えたって子が多いんだよ。あと意外と多いのが、定年した人。麻雀やってた世代が、頭使うゲームを探してる」
「渋谷なら、うちの配信スタジオから歩けます」
「配信スタジオ?」
「KY Liveっていう、ライバーの事務所をやってます。トーナメントを配信できれば、石橋さんのチャンネルとも組める」
石橋の目が、少し変わった。
ナプキンの余白に、「配信」と書いて丸で囲んだ。
「……それ、めちゃくちゃいいな」
「一つ、聞いていいですか」
「何でも」
「どうして、金を賭けないことに、そこまでこだわるんですか。石橋さんは、こっちで金を賭けて勝ってる人なのに」
石橋は、しばらくグラスの氷を見ていた。
「麻雀やってた頃にさ、世話になった先輩がいたんだ。俺よりずっと強かった。その人が、店の裏でやってる金の卓に通うようになって。最後は家も奥さんも、全部なくした」
「……」
「強いやつほど、そっちに行くんだよ。腕に自信があるから。だから俺は、腕に自信があるやつが金じゃなくて名前で勝負できる場所が欲しい。それがあれば、あの人はたぶんあっちに行かなかった」
*(腕に自信があるから、行く)*
*(八年前の俺は、腕なんかないくせに、自信だけで通い続けた)*
「俺も、昔、ずっと負けてたんです」
「桐島さんが?」
「八年。金を賭けて負け続けた。その間、楽しかった日は、たぶんほとんどなかった」
石橋は、意外そうな顔をした。
それから、何かを納得したように、ゆっくり頷いた。
「負けてる間はさ、勝ったら全部取り返せると思ってるんだよな」
「ええ」
「取り返せた?」
「……金は。それ以外は、まだ途中です」
石橋は、それ以上聞かなかった。
グラスの氷が、からん、と鳴った。
「だから、さっき、あの手で降りなかったのか」
「どうでしょうね」
山下さんが、隣で静かにコーヒーを飲んでいた。
ちらっと、こちらを見た。
*(山下さん、これを見せたかったのか)*
「石橋さん」
「ん」
「その話、日本に帰ってから、ちゃんと聞かせてください。本気で」
「……マジで?」
「うちは、人がやりたいことの先に、金を置く会社です。面白そうなら、やります」
石橋が、ぽかんと口を開けた。
それから、くしゃっと笑った。
紙ナプキンを丁寧に折って、胸ポケットにしまっていた。
*(種をひとつ蒔いた。芽が出るかはわからない。でも、こういうのがいつも始まりだった)*
---
バーを出たあと。
旅の最終日、ラスベガスの最後の夜。
時計を握った。
冷たい。
握り直しても、映像は来なかった。
*(今日は、来ない、か)*
*(旅のあいだも、何度かこういう日があった。でも、翌朝には戻ることもあった。まだ、完全には終わってない──はずだ)*
*(でも、近い。それは、わかる)*
でも、構わなかった。
もう、十分勝った。
ポーカーの後、時計は一度だけ温度を戻した。
ホテルの廊下を歩いている途中だった。
ポケットの中で、ふいに、手のひらに覚えのある熱が広がった。
映像が来た。
バカラのテーブル。罫線の先まで、はっきりと。
鮮明だった。この旅でいちばん。
その間に、バカラのハイリミットサロンで、まとめて回した。
一手ずつ確かめる余裕はなかった。
熱が引く前に、と、それだけを考えて張った。
バンカー。七対三。
バンカー。八対六。
プレイヤー。九の、ナチュラル。
ディーラーがカードを返すたびに、映像の中の数字が、そのまま卓の上に現れた。
サロンには、俺の他に客が二人しかいなかった。
どちらも、途中から張るのをやめて、俺の手元を見ていた。
途中で一度だけ秒針を測った。五十七秒。
マカオの夜より、まだ一秒速かった。
最後の一手を張り終えたとき、熱はすっと引いていった。
ベガスだけで、約一億一千万。
遠征の合計で、税引前、約二億。
ホテルの窓から、砂漠の夜景を見た。
西村は、ソファでいびきをかいて寝ている。
小林さんは、隅で、まだコードを書いている。
二億。
元無職、貯金三万二千円の男が、一週間足らずで二億。
*(……なのに)*
心は、不思議なくらい静かだった。
高揚も、興奮も、なかった。
*(これだけ勝っても、何も埋まらないな)*
*(埋めたいものなんて、もう、たいして残ってないのかもしれない)*
*(家族に、五百万返した。仲間ができた。事業が回ってる。守りたい場所が、いくつもある)*
*(金が欲しくて始めたのに。今は、金そのものには、もうたいして興味がない)*
*(時計が、最後に教えてくれたのは、たぶんそれだ)*
山下さんが、隣に来た。
「会長」
「はい」
「勝ち金の使い道、お決まりになりましたか」
「はい。半分は、税金です」
「残りは」
「いくらか、自分の遊びで使いました。残りは──全部、置いてきます」
「置いてくる、と申しますと」
「いのちの家に、基金を作ります。全国のシェルターの、医療費に使える基金。それと、田畑さんの子ども食堂ネットワークに、運営基金。継続的に回るように」
山下さんは、しばらく黙っていた。
「……よろしいので。せっかく稼がれたお金です」
「いいんです。俺が稼ぐ意味って、たぶん、そういうことなんで」
「車の中でお見せしたファイルは、そのためのものでしたか」
「山下さんが、そのために作ってくれたんでしょう」
山下さんは、答えなかった。
口元が、また、ほんの少し緩んだ。
今回の遠征で、二度目だった。
「承知しました。日本に戻り次第、組成いたします」
「ありがとうございます」
---
空港の出発ロビーは、夜でも明るかった。
スロットマシンが、搭乗口の近くまで並んでいる。
最後の一枚まで客に張らせる街だ。
西村は、その一台の前で立ち止まって、財布から二十ドル札を出しかけた。
それから、ふと俺のほうを見て、札をしまった。
「やめとくわ。今回、俺、一回も張ってないし」
「張ればいいのに」
「いい。会長の見てたら、張る気なくなった」
西村は、そう言って笑った。
悪い意味ではなさそうだった。
ベンチで、小林さんが鞄から小さなUSBメモリを出した。
「会長。これ、今回の記録です。マカオと、シンガポールと、今日のポーカーと、バカラ」
「全部、ですか」
「全部です。僕のパソコンからは、さっき消しました」
手のひらに載せられたメモリは、驚くほど軽かった。
「どうして、消したんですか」
「僕が持っていても、使い道がないので」
小林さんは、眼鏡の位置を指で直した。
「それに、今日のポーカーの最後の一手だけは、会長の他の手と、張り方が全然違いました。あれは、記録じゃなくて、会長が覚えていればいい手だと思います」
俺は、何も言えずにメモリを握った。
山下さんは、少し離れたところで、手帳に何かを書いていた。
西村が、横から覗き込んだ。
「山下さん、ベガスどうでした」
「数字にならないものを、いくつか見ました」
「なにそれ、ずるい答え」
「税理士の答えです」
西村が声を出して笑い、山下さんの口元も、ほんの少しだけ動いた。
それが三度目だったかどうかは、数えないでおくことにした。
---
十二月二十日、深夜。
帰国の便。
機内から、雲の上の夜明けを見た。
ポケットの時計は、廊下で熱が引いてから、ずっと冷たいままだった。
廊下で一度だけ戻ったあの熱が、最後だったのかもしれない。
*(こいつとの、最後の大仕事も、終わったな)*
*(負け続けた俺を、ここまで運んでくれた。最後に、こんな馬鹿みたいに派手なこともさせてくれた)*
*(ありがとうな)*
ノートを開いた。
十二月二十日の行に、書いた。
「温(弱)→冷→温(鮮明)→冷/ベガス 約1.1億/ポーカー一手、映像なしで勝つ」
一行に収まりきらなくて、字が小さくなった。
それから、日曜に書いた一覧のページを開いた。
一番上の行。
映像のない日に張ると、外れる。四回、四敗。
その横に、小さく書き足した。
「12/20 一勝」
*(癖じゃなくて、俺の話だけど)*
スマートフォンが震えた。
石橋からだった。
写真が一枚。バーで描いた、あの紙ナプキンだ。
テーブル六台の絵と、渋谷の文字と、丸で囲んだ「配信」。
*「酔ってないです。本気です。一月、東京行きます」*
*「待ってます」*
送ってから、機内モードに切り替えた。
隣で、西村が寝言を言っている。
「……だから、男性、だったんだって……」
らしい。
*(まだ、引きずってんのか)*
通路の向こうで、小林さんがノートパソコンを閉じて、珍しく眠っていた。
山下さんは、膝の上に手帳を開いたまま、窓の外を見ていた。
窓の外。
雲が、朝日に染まっていた。
日本に帰る。
年末の東京に。
みんなの待つ場所に。
時計の温度は、もう戻らないかもしれない。
でも、なぜだろう。
怖くは、なかった。
*(自分の頭で、一回勝てたからかな)*
*(それとも──もう十分、もらったからかな)*
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**── 遠征精算メモ(第85話・帰国後確定)──**
*海外遠征の勝ち金を、雑所得として全額申告。納税引当を計上した上で、個人資金の最終精算を行った。*
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 出発時 個人資金 | 約26,422万円 |
| 遠征・勝ち金合計(税引前/マカオ・シンガポール・ラスベガス) | +約20,000万円 |
| 納税引当(雑所得・約55%) | ▲約11,000万円 |
| 渡航・滞在・打ち上げ費(全行程) | ▲約3,000万円 |
| いのちの家・全国シェルター医療基金(個人拠出) | ▲約3,500万円 |
| 子ども食堂ネットワーク運営基金(個人拠出) | ▲約2,500万円 |
| **桐島遊馬 個人資金(精算後)** | **約26,422万円** |
| 口座 | 残高 |
|:--|--:|
| 桐島遊馬(個人) | 約26,422万円 |
| KY Holdings(法人) | 約19,309万円 |
| KY Live | 約15万円 |
| ナカジマ精工 | 約5,162万円 |
| 田島フーズ | 約1,755万円 |
| **総資産(融資別)** | **約52,663万円** |
*時計、ラスベガス最終盤で映像が来ない局面が増加。温度が戻ったり消えたりを繰り返し、能力消失が目前に。勝ち金は税・遊興・寄付で出発時とほぼ同額に着地。石橋マサトとのアミューズメントポーカー事業、帰国後に再協議へ。融資借入残高:約23,718万円。品川ローン残高:約6,832万円。*
---
*【第86話へ続く】*




