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第84話 〜祝祭〜

 十二月十七日。

 バンコク。


 ここに、カジノはない。

 タイには、合法のカジノがないからだ。


 つまり、ここは純粋な打ち上げ。

 時計は、ポケットの中で休ませている。


 朝、マカオのホテルで握ったときは温かかった。

 空港へ向かう車の中で、もう冷たくなっていた。

 ノートには「温→冷」と書いた。

 どちらにしても、今日は張る場所がない。

 時計にとっても、俺にとっても、休みの日だ。


 昼過ぎにバンコクに着いた。

 空港の自動ドアを出た瞬間、湿った熱気が顔にかかった。

 十二月なのに、三十度近い。

 西村は、ジャケットを脱いで腕にかけながら叫んだ。


「夏じゃん! 会長、夏!」


「乾季らしいけどな、これで」


「乾いてねえよ!」


 小林さんは、スマートフォンの天気アプリと、肌の感覚を見比べていた。


「湿度六十パーセントです。東京の夏よりは、ましです」


 *(数字で納得するのか)*


---


 ホテルの部屋で荷物をほどいていると、山下さんからLINEが来た。


 *「お疲れさまです。ご報告が二点あります。ご返信は急ぎません」*


 *「どうぞ」*


 *「一点目。いのちの家の高木さんから、年明けの医療費についてご相談がありました。冬場に保護した子の治療が重なり、一月から三月で例年の倍近くかかる見込みとのことです。連絡会議に参加した他の団体も、同じ状況だと」*


 *「倍、ですか」*


 *「はい。フードはKY Pet Foodsから届いていますが、医療費は各団体の寄付頼みです。高木さんは、無理なお願いをするつもりはない、ただ知っておいてほしい、とおっしゃっていました」*


 十一月の連絡会議で聞いた数字が、頭に浮かんだ。

 札幌の暖房費。兵庫のフード代。

 どの代表も、自分の団体の赤字を、申し訳なさそうに話していた。


 *「二点目は」*


 *「田畑さんの子ども食堂です。大貫農園からの野菜が、冬休みに合わせて増えます。冬休みは給食がないので、食堂に来る子が増えるそうです。食材は足りていますが、調理の人手と光熱費が足りない、と」*


 *「わかりました。帰ったら、ちゃんと考えます」*


 *「承知しました。良い休暇を」*


 画面を閉じて、窓の外を見た。

 チャオプラヤー川を、大きな船がゆっくり上っていく。


 *(勝った分の使い道。まだ、いくつか考えてる、としか言ってない)*


 *(山下さんは、たぶんそれをわかってて、今送ってきた)*


 夕方まで時間があったので、西村に引っ張られて、ホテルの近くの市場に出た。

 屋台の煙と、果物の甘い匂い。

 どこかで揚げ物の油がはねている。


 西村は、串焼きを三本買って、歩きながら食べ始めた。

 俺は、ペット用品の店の前で足を止めた。

 棚に、見たことのないパッケージの猫用おやつが並んでいる。

 魚の絵が描いてあるもの。鶏の絵のもの。よくわからない果物の絵のもの。


「会長、それ、誰の」


「水沢の。土産に頼まれた」


「猫のおやつ? 安上がりだな、アンちゃん」


「本人が、それがいいって」


 魚と鶏を、三袋ずつ買った。

 会計は、日本円で千円もしなかった。

 昨夜の西村のシャンパンの、何百分の一だろう。

 でも、こっちのほうが、選んでいて楽しかった。


 *(俺の金の使い方は、たぶん、このくらいの大きさが合ってる)*


 隣の店で、西村が小さな木彫りの象を手に取っていた。


「美咲ちゃんに。発表会のお祝い」


「発表会のお祝いなら、もう渡したんじゃないのか」


「あれは、東京から。これは、バンコクから」


 意味がよくわからなかったが、西村は満足そうに象を袋に入れてもらっていた。


---


「会長! 今夜は、無礼講だからな!」


 西村が、ルーフトップバーで両手を広げた。

 眼下に、バンコクの夜景。

 高層ビルの灯りが、地平線まで続いている。


 最上階のスイートを、三部屋。

 移動は、専属の車。

 西村は、もう三杯目のカクテルを飲んでいる。


「なあ、会長。俺さ、ずっと思ってたんだけど」


「ん」


「金って、こういう時のためにあるんじゃない?」


「……まあ、否定はしないけど」


「だろ? 普段、会長、ぜんぜん使わないからさ。たまには、こういうのいいじゃん」


 *(こいつの言うことも、たまには一理ある)*


 *(俺は、金の使い方が下手だ。事業と寄付には躊躇なく出すのに、自分の楽しみには、なぜかブレーキがかかる)*


 *(八年間負け続けた時の癖が、抜けないんだろうな)*


 グラスを傾けた。

 高い酒だった。

 でも、うまいのかどうか、正直よくわからなかった。


 西村が店の人間を呼んで、次々と頼んでいく。

 高級なシャンパンのボトルが、何本も運ばれてくる。

 花火のついた馬鹿でかいケーキみたいなものが、店員に担がれて登場した。

 店中の視線が、こっちに集まる。


「西村。これ、誰の誕生日でもないだろ」


「いいの! 雰囲気! 雰囲気が大事なの!」


 会計は、たぶんひと晩で数百万。

 俺は、それを聞いても何とも思わなかった。


 *(昔の俺なら、卒倒してたな。場末のスロットで五万溶かすのに、あんなに悩んでたのに)*


 *(金の桁が麻痺してる。これはこれで、よくない兆候だ)*


 でも、西村が本当に楽しそうだった。

 現地の店員と、片言の英語で肩を組んで写真を撮っている。

 その顔を見ていると、まあいいか、と思えた。


 *(こいつは、金をちゃんと喜びに変えられる。俺にはできない芸当だ)*


 *(俺は、稼ぐのは得意だけど、使うのは下手なんだな)*


 小林さんは、テーブルの端でオレンジジュースを飲んでいた。

 運ばれてきたシャンパンのボトルを、一本ずつスマートフォンで撮っている。


「小林さん、何してるんですか」


「値段を調べてます。あとで合計を出そうと思って」


「出さなくていいです」


「でも、気になります」


 *(こいつは、どこにいても数字を数えてる)*


 西村が、小林さんの肩に腕を回して、無理やりグラスを持たせた。

 小林さんは、困った顔のまま、乾杯にだけは付き合った。


---


 問題は、小林さんだった。


 爆音のクラブに移動した後。


 西村は、水を得た魚のように、フロアの真ん中で踊っている。

 現地の客と、いつの間にか肩を組んで笑っている。


 俺は、ソファ席でぼんやりそれを眺めていた。


 そして、隣を見た。


 小林さんが、ウーロン茶を握りしめて、石像のように固まっていた。


「……小林さん」


「はい」


「楽しいですか」


「……音が、大きいです」


「ですよね」


「あと、暗くて、画面が見えにくいです」


 *(画面、見ようとするな)*


 小林さんは、結局三十分後に、


「先に、ホテルに戻っていいですか。サーバーの監視をしたいので」


 と言って、逃げるように帰っていった。


 *(こいつ、地球の裏側まで来て、サーバー監視を口実に夜遊びから逃げた)*


 *(でも、わかる。俺も、本当は半分そっち側だ)*


 派手に遊べる人間と、遊べない人間がいる。

 西村は、前者だ。

 小林さんは、完全に後者だ。

 俺は、たぶんその真ん中あたり。


---


 深夜。


 西村が、フロアの向こうから満面の笑みで戻ってきた。

 隣に、ひとり連れている。


 背の高い女性だった。

 美しい人だった。

 切れ長の目。すっと通った鼻筋。

 所作のひとつひとつが、優雅で堂々としている。


「会長! 紹介する! 今夜、運命の出会い、しちゃった!」


「……はあ」


「この人、めちゃくちゃ綺麗で、頭も良くて、英語もペラペラで、もう完璧なの!」


 その人が、俺に向かってにこやかに会釈した。

 低めの、よく通る落ち着いた声で、流暢な英語の挨拶をした。


 *(……ん?)*


 *(待て待て待て)*


 *(西村、お前、気づいてないな)*


 西村は、完全に舞い上がっていた。

 相手の手を握って、何度も頷いている。


 その人は、すべてをわかった上で楽しんでいる、という顔をしていた。

 西村のはしゃぎっぷりを、余裕の微笑みで受け止めている。

 明らかに、こちらより何枚も上手だった。


 *(西村の眼力、会社の採用面接ではほぼ百発百中なのに)*


 *(なんで、こういう時だけ、こんなに見事に外すんだ)*


 その人と、目が合った。

 ふっと、片目をつぶってみせた。


 *(わかってるの、こっちだけか。完全に、遊ばれてる)*


 俺は咳払いをひとつして、西村の肩を叩いた。


「西村」


「ん? なに、会長」


「……いや。楽しんでこい」


 *(言えなかった。だって、こんなに楽しそうなんだもん)*


---


 オチがついたのは、明け方だった。


 ホテルのロビー。

 西村が、魂が抜けたような顔で座っていた。


「会長」


「どうした」


「……男性、でした」


「……知ってた」


「知ってたなら、言ってよ!!」


「言える雰囲気じゃなかっただろ。お前、あんなに幸せそうだったし」


「うわあああ、なんで気づかなかったんだ俺……!」


 西村が、両手で顔を覆った。


 *(こいつ、本気で凹んでる)*


 でも、不思議と嫌な後味はなかった。


 あの人は最後まで堂々としていて、品があって、西村の勘違いも全部笑って受け流していた。

 別れ際、俺に「お友達、面白い人ね」と流暢な日本語で言って、優雅に去っていった。


 *(最初から、日本語できたのかよ)*


「西村」


「……なに」


「いい人、だったな」


「……うん。めちゃくちゃ、いい人だった」


 西村が、しょんぼりしながら笑った。


「俺、人を見る目には、自信あったんだけどなあ」


「事業の人選は、完璧だよ。お前は。今回のは、ノーカウントだ」


 二人で、ロビーでしばらく笑った。


 *(こういう夜も悪くない。金で買った馬鹿みたいな夜だけど──こういうのが、たぶん人生には少しだけ必要なんだ)*


---


 十二月十八日。


 昼前に目が覚めた。

 頭の芯が、少しだけ重い。

 時計を握った。

 冷たい。

 ノートに「冷」と書いて、しばらくそのページを眺めた。


 *(休みの日だからか。それとも、マカオで使った分か)*


 *(大きく勝った翌週は、冷えやすい。日曜に書いたばかりだ)*


 もし、このまま戻らなかったら。

 シンガポールもベガスも、ただの観光で終わる。

 それでもいい、と思える自分と、それは困る、と思う自分が、半分ずつだった。


 ホテルの朝食会場は、もう片付けに入っていた。

 西村は、窓際の席で、フルーツだけを皿に山盛りにしていた。

 サングラスをかけたままだ。


「会長……おはよ……」


「もう昼だよ」


「昼か……」


 西村は、マンゴーを一切れ口に入れて、ゆっくり噛んだ。


「小林は」


「六時に起きて、もう朝飯食って、部屋でコード書いてるって」


「あいつ、人間か」


 コーヒーを二つ頼んだ。

 西村は、サングラスを額に上げて、外のプールを見た。


「なあ、会長。昨日の、ああいうのさ」


「昨日の、どれ」


「いや、全部。シャンパンとか、ケーキとか。会長、あんまり楽しくなかっただろ」


「楽しかったよ」


「嘘つけ。会長、楽しいとき、もっと顔に出るって」


 *(こいつは、俺の顔をよく見てる)*


「お前が楽しそうだったのは、楽しかった」


「それ、親のセリフじゃん」


 西村は笑って、マンゴーをもう一切れ取った。

 それ以上は、何も言わなかった。


 午後の便で、シンガポールへ飛んだ。

 機内で、ポケットの時計を何度か触った。

 冷たいままだった。


 通路を挟んだ隣の席で、小林さんがノートパソコンをこちらに向けた。


「会長。マカオの記録、まとめました」


 画面に、表が一枚。

 一手ごとに、テーブルの勝敗と俺の張りと結果が並んでいる。


「テーブルは、全部で九十四手でした。会長が張ったのは六十一手。六十勝一敗です」


「……数えてたんですか」


「記録していいと、おっしゃったので」


 小林さんは、表の一行を指でなぞった。


「負けた一手は、一番小さい額でした。その一手の前に、向かいの席の人が会長と同じ側に張るようになっていて。その一手の後は、張らなくなっています」


 俺は、黙って画面を見ていた。


「あれ、わざとですか」


「どうでしょうね」


 小林さんは、しばらく俺の顔を見ていた。

 それから、何も言わずに画面を自分のほうに戻した。


「表は、僕のパソコンから出しません」


「助かります」


「タイは、一回だけありました。会長は、その手だけ張っていません」


「……そうでしたっけ」


「はい」


 小林さんは、それきり別のファイルを開いた。

 キーボードを叩く音が、また一定のリズムに戻った。


 *(データは、全部覚えてる)*


 *(覚えた上で、聞くのをやめてくれた)*


 山下さんとも、西村とも違うやり方だった。

 でも、根っこのところは、たぶん同じだ。


 夜、シンガポールのホテルの部屋で、もう一度握った。

 変わらない。

 ノートの今日の行は、「冷」の一文字だけになった。


---


 十二月十九日。

 シンガポール。


 マリーナ・ベイ・サンズ。

 屋上に船の形をした、あの有名なホテル。


 時計を握った。

 温かい。

 しかも、今日は鮮明だった。


 *(よし。今日は、調子がいい)*


 ノートを開いて、「温/鮮明」と書いた。

 昨日の「冷」の隣で、その字が少しだけ大きかった。


 朝食の前に、一人でホテルを出た。

 湾沿いの遊歩道を、ジョギングの人たちが行き来している。

 朝の空気は、バンコクより少しだけ軽かった。


 歩きながら、日曜に書いた一覧のことを考えた。

 大きく勝った翌週は、冷えやすい。

 マカオで三千万を勝った二日後に、時計はちゃんと温かくなった。

 当たっているのは、半分だけだ。


 *(癖は、癖でしかない)*


 *(全部わかったつもりになったら、たぶん、そこで外す)*


 負けていた八年で、何度もそれをやった。

 法則を見つけたと思った翌週に、その法則ごと外した。

 十二冊のノートの半分は、そういう記録だ。


 湾の向こうで、朝日がビルの窓を一枚ずつ光らせていった。

 ポケットの中で、時計は温かいままだった。


 バカラとブラックジャックの、ハイリミットルーム。

 マカオより内装が洗練されている。

 静かで、明るくて、清潔。

 でも、テーブルの上で動く金額は桁が違う。


 最初はバカラから入った。

 マカオと同じように、最初の一手は見送る。

 テーブルの空気を見てから、二手目で張った。

 バンカー。勝ち。

 三手目もバンカー。勝ち。

 四手目、プレイヤー。勝ち。


 映像が来る。

 淡々と張る。

 淡々と当たる。


 一時間で、マカオの三時間分に近い額になった。

 その頃には、テーブルの向こうのディーラーが、カードを出す手を一度止めるようになっていた。

 ピットの奥から、誰かの合図を待っている。


 *(ここは、マカオより早い)*


 チップを換えに立ったとき、スーツの男がカウンターの横で待っていた。

 丁寧な英語で、本日はありがとうございます、と言った。

 ご滞在中、お部屋や食事でご不便があれば、何なりと。

 言葉は柔らかい。

 ただ、男の手元のタブレットには、俺の名前とパスポートの写真が表示されていた。


 *(記録されてるのは、俺のほうも同じだ)*


 俺は席を立って、ブラックジャックのテーブルに移った。


 ブラックジャックでは、ディーラーの伏せたカードまで見えている。

 俺の手が十六でも、ディーラーが二十二でバーストするとわかっていれば、スタンドする。

 逆に、ディーラーが二十で止まるとわかっていれば、際どい手でもヒットして、二十一を取りに行く。


 最初の手で、それが来た。

 俺の手は、十と六。十六。

 ディーラーの表のカードは、十。

 テーブルの誰もが、俺がヒットすると思っている形だ。

 映像の中で、ディーラーは伏せたカードの六をめくり、三枚目に絵札を引いて、二十六でバーストする。


「スタンド」


 手のひらを、カードの上で横に振った。

 隣の席の男が、小さく首を振った。

 ディーラーが伏せたカードをめくる。

 六。

 三枚目。

 クイーン。


 バースト。


 隣の男が、今度は眉を上げてこちらを見た。


 二手目は、逆だった。

 俺の手は、七と五。十二。

 ディーラーの表は、四。

 教科書通りなら、ここはスタンドだ。ディーラーのバーストを待つ形。

 でも、映像の中のディーラーは、伏せたカードの六で十、三枚目の十で二十に止まる。

 俺の次のカードは、九。


「ヒット」


 テーブルが、少しだけ静かになった。

 九。

 二十一。

 ディーラーは、映像の通り、二十で止まった。


 三手目。

 十一。ディーラーの表は、九。

 映像は、俺の次のカードが十だと言っていた。

 チップを倍にして、ダブルダウン。

 十が来た。

 二十一。


 隣の男が、身を乗り出して英語で聞いてきた。

 あんた、数えてるのか。

 首を振った。

 数えてはいない。それは本当だ。

 男は、信じていない顔で肩をすくめて、自分のチップに目を戻した。


 *(カウンティングしてる、と思われてるだろうな)*


 ディーラーが、何人か交代した。

 シューも、何度か新しいものに切り直された。

 でも、何を変えても、結果は変わらない。

 カードの中身を数えてるんじゃない。

 結果を、先に見てるんだから。


 フロアマネージャーらしきスーツの男が、遠くからずっとこちらを見ていた。

 西村は、もう絶叫する気力もなくして、ただ口を開けて見ている。


「会長……これ、出禁になんない?」


「なるかもな。でも、どうせ今日で最後みたいなもんだ」


 *(時計が終わったら、もう二度とここには来ない。来ても、ただの客だ)*


 小林さんは、テーブルから少し離れたところで、スマートフォンに何かを打ち込んでいた。

 一手ごとに、ディーラーの表のカードと俺の手と、俺がしたことを記録しているのだろう。

 あとで、その表を見るのが少し怖かった。


 深夜まで、回して。


 シンガポールだけで、約六千万。


---


 ホテルの最上階の部屋から、夜景を見た。

 プールの水面に、街の灯りが揺れている。


 部屋に戻ってすぐ、山下さんに電話をかけた。

 日本は、もう明け方に近い時間のはずだった。

 それでも、二回目の呼び出し音で出た。


「会長。お疲れさまです」


「シンガポール、約六千万です。経費は、バンコクと合わせて一千五百万ほど」


「承知しました。記帳します」


「それと、昨日のLINEの件」


「はい」


「帰ったら、いのちの家と、田畑さんのところのこと、ちゃんと相談させてください。考えてることがあります」


 少しの間があった。


「承知しました。資料を揃えておきます」


「起こしてしまって、すみません」


「起きていました。会長の数字を待っていたので」


 電話は、それで切れた。


 小林さんは、先に部屋へ戻った。

 ドアの前で、「今日の記録、まとめておきます」とだけ言った。


 西村と二人、窓際のソファに座った。

 冷蔵庫から出したビールの缶が、二本。

 昨夜のシャンパンより、こっちのほうがよほど落ち着いた。


 西村が、ぽつりと言った。


「会長。俺さ、最近、わかってきたんだ」


「ん」


「会長が、なんでこんなに強いのか。理由はわからない。でも──会長、勝っても、ぜんぜん嬉しそうじゃないよな」


 *(こいつ、たまに鋭い)*


「……そうかもな」


「なんでだろうな」


「さあ。なんでだろうな」


 答えなかった。

 答えられなかった。


 西村は、缶を両手で包むようにして、プールの灯りを見ていた。


「大学のときさ。お前、二万当てて、焼肉おごってくれたじゃん」


「日曜にも、その話してたな」


「何回でもするよ。あのとき、お前、肉焼きながらずっと笑ってたんだよ。二万で。たった二万で、世界取ったみたいな顔してた」


「……覚えてないな」


「俺は覚えてる。で、今日、六千万だろ。なのに、お前、さっきから一回も笑ってない」


 西村は、ビールを一口飲んだ。


「別に、勝ってほしいとか、もっと稼いでほしいとか、そういうんじゃないんだよ。会社はもう回ってるし。俺はただ、お前がああいう顔してるとこ、もう一回見たいだけ」


 俺は、缶を持ったまま、何も言えなかった。


 *(勝つことには、もう慣れすぎた。手が震えない。心臓も跳ねない)*


 *(八年負け続けてた頃のほうが、一回の勝ちはずっと重かった)*


 *(二万円で笑えた男が、六千万で笑えなくなった。その間にあったのは、ポケットの中のこいつだ)*


 西村は、それ以上聞いてこなかった。

 理由を聞かないまま、隣に座っている。

 大学の頃から、こいつはずっとこうだった。


「……西村」


「ん」


「ありがとな」


「何が」


「いろいろ」


「気持ち悪っ」


 西村が笑った。

 俺も、少しだけ笑った。

 六千万を勝った日に、いちばん笑ったのは、たぶんこの瞬間だった。


 ポケットの時計に触れた。

 まだ、温かい。

 でも──ほんの少しだけ、その温度が、さっきより弱くなっている気がした。


 ストップウォッチを出して、秒針を測った。

 五十九秒。

 マカオの夜より、一秒遅い。


 *(気のせいか)*


 *(……気のせいだと、いいけど)*


 明日は、ラスベガス。

 山下さんが合流する。

 そして、山下さんが会わせたいという男が、待っている。


---


**── 遠征収支メモ(速報・第84話/十二月十九日)──**


*海外遠征の勝ち金は、帰国後にまとめて雑所得として申告・納税予定。下記は税引前の速報値。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話までの累計勝ち金(税引前) | +約3,000万円 |

| シンガポール・バカラ/BJ収支(税引前) | +約6,000万円 |

| 渡航・滞在・打ち上げ費(バンコク/シンガポール分) | ▲約1,500万円 |

| **遠征速報・累計勝ち金(税引前)** | **+約9,000万円** |


*時計、シンガポールでは鮮明。ただし夜、温度がわずかに弱まる兆候。次はラスベガス(最終地)。山下が合流し、ある人物と引き合わせる予定。*


---


*【第85話へ続く】*


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