第83話 〜出立〜
十二月十三日、日曜日の夜。
タワーマンションのリビングで、懐中時計を握っていた。
昼間は、冷たかった。
でも、夜になって、ふいに温かくなった。
*(また、これだ)*
最近、こういう日が増えていた。
朝は冷たくて、夜に温かくなる。あるいは、その逆。
温度が、一日の中で行ったり来たりする。
*(時計が、迷ってるみたいだ)*
テーブルの上には、昼間に書いた「癖」の一覧が開いたままになっている。
最後の行は、「針。冷たい日は六十秒。温かい日は、未測定」。
スマートフォンのストップウォッチを出した。
蓋を開けて、逆向きに回る秒針が十二を通った瞬間に押す。
一周して、また十二に戻ったところで止める。
五十八秒。
もう一度測った。
五十八秒。
*(二秒、速い)*
見ているだけでは、絶対にわからない差だった。
一覧の「未測定」に線を引いて、横に「五十八秒」と書いた。
三年、毎朝握ってきた。
温かいか、冷たいか。鮮明か、ぼやけているか。
それだけのことが、最近はよくわからなくなってきた。
ノートをめくって、ここ二週間の記録を見返した。
温かい日が減っている。
鮮明な日は、もっと減っている。
冷たい日と、ぼやける日が増えている。
*(そろそろ、だな)*
不思議と、焦りはなかった。
ただ、はっきりと思った。
*(こいつは、もうすぐ終わる)*
昼間、癖の一覧の下に書いた一行が目に入った。
残っている熱を、使い切る。
あのときは、まだ半分は言葉だけだった。
今、手のひらの中で、時計が温かい。
*(だったら──最後に一回だけ、使い切ってやるか)*
---
翌朝。
九時半、恵比寿のオフィスの会議室で、山下さんに話した。
「海外に、行こうと思います。年内に」
「カジノ、ですか」
「はい。マカオ、シンガポール、ラスベガス。間にバンコクで一晩だけ休みを入れて、一気に回ります」
山下さんは、いつも通り表情を変えなかった。
でも、少しだけ間を置いた。
「時計の調子と、関係が」
「あります」
山下さんは、能力のことをだいたい察している。それでも、深くは聞いてこない。
この会社で、そこまで気づいているのは山下さんだけだ。
「最近、温度が安定しません。来る日と来ない日の差が激しい」
「そうですか」
「たぶん、長くはもたない。だから、まだ動くうちに、まとめて稼いでおきたい」
言いながら、自分でも、半分は嘘だなと思った。
*(稼ぐため、っていうのは半分だ)*
*(もう半分は──ただ、最後に派手にやりたいだけだ)*
*(手元から消える前に、思いっきり握っておきたい。負け続けた八年を全部ひっくり返した、この感触を)*
依存症の人間が、最後の一回にしがみつくのと同じだ。
わかっている。わかった上で、行く。
「税務の組み立ては」
「雑所得として、きちんと処理してください。海外の勝ち金も、全部申告します。一円も隠しません」
「承知しました」
山下さんが、手帳に何か書いた。
「勝った分の使い道は、もうお決まりで」
「半分は、税金で消えます。残りは──いくつか、考えてます」
「そうですか」
山下さんは、それ以上聞かなかった。
手帳のページをめくり、日程の話に移った。
「出発は」
「十六日の水曜を考えています。戻りは二十二日の朝」
「年内の予定で、会長のご判断が要るものを確認します。ナカジマ精工のクロイツ社への回答は、年明けで先方と合意済みです。KY Liveは、年末配信の企画書が藤原さんから上がってきています。田島フーズは、年内最後の搬送まで手配が済んでいます。どれも、会長がご不在でも回ります」
「橘さんの報告は」
「来週末に、私が受けます。会長には、お戻りになってからお渡しします」
「お願いします」
山下さんは、手帳を閉じた。
ペンを置いて、一言。
「お気をつけて、行ってきてください。私は、こちらで数字を守っています」
「ありがとうございます。山下さんがいてくれるから、安心して行けます」
山下さんの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
年に一度か二度の、あれだった。
会議室を出ようとしたところで、背中に声がかかった。
「会長」
「はい」
「お戻りになったら、数字は全部、私に見せてください。勝った分も、そうでない分も」
振り返ると、山下さんはもう手帳に目を落としていた。
「……はい」
*(十月のことを、言ってる)*
帳簿の一行について、山下さんはそれ以上何も言わなかった。
言わないことで、言っている。
この人とは、三年近く、そういう話し方をしてきた。
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西村に話したら、案の定騒いだ。
「は?! 会長、ずるいって! 俺も行く! 絶対行く!」
「来てくれると、助かる。場の空気を作るのは、お前のほうが上手いし」
「やった! マカオもベガスも、最高じゃん!」
西村が、子どもみたいに両手を上げた。
「で、会長。どうせ行くなら、さ」
「ん」
「夜のほうも、ちゃんと楽しもうぜ。男三人で行くんだから」
*(こいつ、そっちが本命だな)*
「小林も連れていこう。あいつ、ずっとパソコンばっかで、絶対海外なんか行ってないって」
「FORECASTのサーバー、大丈夫なのか」
「宮本くんがいるから、平気だって」
西村は、その場で小林さんの席まで歩いていった。
俺もついていった。
「小林。年末、海外行くぞ。会長と俺と三人で」
小林さんは、モニターから目を離さずに言った。
「無理です」
「なんで」
「新モデルの検証が、年明けまで続くので」
「向こうでもできるだろ。パソコン持ってけば」
小林さんの指が止まった。
それから、ゆっくりこちらを向いた。
「……海外のカジノって、実データで確率の偏りを見られますね」
「見られる見られる」
「パスポートは、大学院のときに学会で作ったのが、まだ切れていないはずです」
「決まりだな」
西村が、小林さんの肩を叩いた。
小林さんは、迷惑そうな顔のまま、カレンダーに予定を打ち込んでいた。
隣の席の宮本くんが、小さく手を上げた。
「サーバー、見ておきます。二十二日まで、何かあったらLINEします」
「すみません、宮本くん」
「いえ。小林さんが休むの、初めて見るので」
結局、俺と西村と小林さんの三人で行くことになった。
山下さんは、ラスベガスの最終日だけ合流する。
現地で、会わせたい人間がいるらしい。
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昼休み、アンちゃんにLINEを送った。
*「来週、海外に行ってくる。マカオから」*
すぐに既読がついた。
*「マカオ!? 二年前に一緒に行ったとこ?」*
*「同じところ」*
*「えー、いいなあ。あのとき遊馬くん、初日めっちゃ負けてたよね笑」*
*「覚えてなくていい」*
*「覚えてるよ。私が勝って、遊馬くんが割り勘のご飯の間ずっと悔しそうだった」*
*「今回は負けない」*
*「知ってる。遊馬くん、負ける日は行かないもんね」*
画面を見たまま、しばらく指が止まった。
アンちゃんは、時計のことを知らない。
それでも三年近く見てきて、何かのリズムには気づいているのだろう。
*「お土産、何がいい」*
*「猫のおやつ! 海外のやつ!」*
*「了解」*
夜になってから、桑原さんにも送った。
隠したくなかった。
*「来週、仕事で海外に行きます。帰りは二十二日です」*
*「お気をつけて。お母さまへのお電話は、お帰りになってからでも間に合います」*
*「はい。帰ったら、します」*
*「遊馬さんが帰ってくる年末の東京を、待っています」*
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出発の二日前。
西村が、俺を変なクリニックに連れていった。
「会長、ここ」
「……どこですか、ここ」
ビルの五階。
看板に、「メンズ・ヘルスケアクリニック」と書いてある。
「精力、つけとこうぜ。せっかくの遠征なんだから」
「いや、俺は別に」
「まあまあ。男なら、仕上げていくもんだって」
待合室は、妙に静かだった。
革張りのソファ。観葉植物。
他にも数人座っている。
全員、雑誌に顔を埋めて、目を合わせない。
*(なんで俺は、出張前にこんなところにいるんだ)*
*(三年前まで無職だった三十一歳が、勝率百パーセントになって、ペットフード事業やって、子ども食堂支援して──その流れで、なぜか精力クリニックの待合室)*
*(人生、わからん)*
問診票を渡された。
ペンを持ったまま、しばらく固まった。
*(「お悩みの症状」……書くことがない)*
*(強いて言えば、悩みは勝ちすぎてることと、女性関係がもつれてることだけど。それは、ここで相談することじゃない)*
隣の西村は、慣れた手つきですらすら書いている。
*(お前、常連かよ)*
名前を呼ばれて、診察室に入った。
白衣の医者が、淡々といくつか質問をした。
俺は、当たり障りのない答えを返した。
*(元無職が、勝率百パーセントになってここに座ってる。人生で一番想定してなかった診察室だ)*
帰り際、ビタミン剤みたいなものと、よくわからない処方を渡された。
会計が、思ったより高かった。
几帳面に、領収書を財布にしまった。
*(これ、経費じゃないよな。完全に個人だな)*
その夜、山下さんに遠征の最終確認の連絡をした。
ついでに、と思って聞いた。
「山下さん。出張前の、その……健康管理の費用って、経費になりますか」
少しの間。
「内容によります」
「……まあ、内容は、その、聞かないでください」
「承知しました。個人費用として処理します」
「はい。そうしてください」
「会長」
「はい」
「健康管理も、経営者の務めです。お気になさらず」
*(山下さん、絶対わかってて言ってる)*
電話の向こうの山下さんの声は、いつも通り、完全に無表情だった。
それが、逆に効いた。
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十二月十五日。
朝、時計は温かかった。昼には冷たくなっていた。
ノートに「温→冷」と書いた。
夕方、仕事を早めに切り上げて、恵比寿のNOELに寄った。
出発の前に、一杯だけ飲んでおきたかった。
店に入ると、瀬川さんがカウンターの中から顔を上げた。
「いらっしゃいませ。あ、桐島さん」
「ブレンドを一つ」
「はい」
店の隅のテーブルで、美咲ちゃんが算数のドリルを広げていた。
消しゴムのかすが、ノートの端に小さな山になっている。
俺に気づくと、鉛筆を持ったまま小さく頭を下げた。
「発表会、よかったね。止まっても、最後まで弾いてた」
美咲ちゃんは、少し得意そうに頷いた。
「西村さん、泣いてた」
「泣いてたのか」
「うん。ママも、ちょっと泣いてた」
カウンターの中で、瀬川さんが「美咲」と小さく言った。
耳が少し赤くなっていた。
コーヒーが来た。
瀬川さんは、カップを置いてから、少しだけ声を落とした。
「新しいお店、カウンターの件、ありがとうございます。西村さんが、すぐ工務店さんに話してくださって」
「五センチ、でしたっけ」
「はい。あの子が、中から手を伸ばして、お客さんにお水を出したいって言うんです。まだ届かないのに」
「届くようになりますよ。三月には、きっと」
「そうだといいんですけど」
瀬川さんは、壁の時計を見上げた。
古い振り子の時計だ。
新しい店にも持っていくのだと、前に言っていた。
「桐島さん、明日からご出張なんですよね。西村さんが、子どもみたいに張り切ってました」
「あいつは、どこに行ってもああです」
「年末、こちらにはいらっしゃいますか」
「二十二日に戻ります」
「では、お戻りになったら、また一杯飲みにいらしてください。この店で淹れられるのも、あと三か月なので」
美咲ちゃんが、ドリルから顔を上げずに言った。
「新しいお店のほうが、広いよ」
「知ってる。見に行ったから」
「二階、美咲の部屋もあるんだよ」
それだけ言うと、また鉛筆を動かし始めた。
コーヒーは、いつもの味だった。
時計のことも、遠征のことも、この店では関係がない。
三月に引っ越すこの店が、変わらずにここで湯気を立てている。
それを見ておきたかったのだと、飲み終えてから気づいた。
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十二月十六日。
羽田から、香港経由でマカオへ。
朝、時計を握ったときは冷たかった。
ノートには「冷→」とだけ書いて、矢印の先を空けておいた。
空港へ向かう車の中で、吉野さんがルームミラー越しに言った。
「会長、お帰りの二十二日は、ご自宅に九時でよろしいですか」
「朝に着いて、少しだけ寝ます。九時でお願いします」
「承知しました。家内が、お土産は要らないから無事に帰ってきてください、と」
「奥さんに、よろしく伝えてください」
*(この人は、こんな日まで、家族の話を一つ持ってきてくれる)*
羽田の出発ロビーは、年末の旅行客で混み始めていた。
ファーストクラスのシートに沈んだ。
西村は、離陸前からシャンパンを頼んでいる。
小林さんは窓際で、ノートパソコンを開いて何かのコードを書いていた。
「小林さん。海外に来てまで、仕事ですか」
「これは、趣味です」
*(こいつも、こいつで、どうかしてる)*
「何の趣味ですか」
「バカラの、ロード表の偏りを見るツールです。向こうで、実際の出目を入れてみたくて」
「偏り、出ますか」
「出ないはずです。出たら、カジノが困ります」
小林さんは、画面から目を離さずに言った。
「会長の張り方も、記録していいですか。個人的な興味で」
少し迷ってから、頷いた。
「いいですよ。誰にも見せないなら」
「見せる相手がいません」
西村が、通路の向こうから「俺は?」と言ったが、小林さんは返事をしなかった。
香港で乗り継いで、フェリーの代わりに車で大きな橋を渡った。
海の上を、まっすぐ道が伸びている。
西村は窓に額をつけて、ずっと「すげえ」と言っていた。
ポケットの中の時計に触れた。
温かい。
昼を過ぎてから、いつの間にか温度が戻っていた。
*(よし。まだ、来てる)*
ノートを出して、朝の矢印の先に「温」と書き足した。
---
マカオの夜。
二年半あまり前、初めて海外で時計を試した、あのカジノ。
あのときは、隣にアンちゃんがいた。
天井が遠くて、左右にブランドショップが並んでいて、カジノの入口が正面の奥に見えた。
ロビーの景色は、ほとんど変わっていなかった。
変わったのは、俺がどこへ通されるかだけだ。
バカラのテーブルに着いた。
ミニマムベットの高い、VIPルーム。
空気が張り詰めている。
葉巻の匂い。
チップを置く乾いた音だけが響く。
ディーラーがカードを配る。
香港や本土から来た富裕層が、テーブルを囲んでいる。
みんな、配られたカードを指の先で、ゆっくりひねるようにめくる。
絞り、というやつだ。
数字を少しずつ確かめる、儀式。
俺は絞らない。
絞る必要がない。
配られる前に、映像が来る。
プレイヤー。バンカー。次は、どっちが勝つか。
ロード表の罫線が、これからどう伸びるかまで見えている。
最初の一手は、様子見にした。
映像は来ていた。バンカーの勝ち。
それでも、チップは置かなかった。
テーブルの空気と、ディーラーの手の速さと、周りの客の張り方を見たかった。
バンカーが、七対五で勝った。
二手目。
映像の中で、プレイヤーの二枚目が絵札で、三枚目に六が来る。
プレイヤーに、日本円にして百五十万ほどのチップを置いた。
向かいの席の、白髪まじりの男がプレイヤーを絞っていた。
香港から来たらしい、太い金の指輪をした男だ。
一枚目を親指でじりじり持ち上げて、隅の模様を確かめる。
それから、ふっと息を吐いて表を返した。
キングだった。
テーブルの何人かが、短く声を上げた。
三枚目が配られる。
男が、また時間をかけて絞る。
六。
プレイヤーの勝ち。
男がこちらを見た。
俺は、チップを受け取りながら、目を合わせなかった。
三手目、四手目は、バンカー。
どちらも、映像の通りに張って、映像の通りに勝った。
五手目で、映像が少し違うものを見せた。
バンカーとプレイヤーが、同じ数字で並んでいる。
タイだ。
八倍の配当がつく。
*(ここで大きく張ったら、さすがに目立つ)*
テーブルの全員が、タイにはほとんど張らない。
そこに、日本人の若い男が大きなチップを置いたら、どう見えるか。
俺は、その一手を見送った。
七対七。
テーブルが、ため息とも笑いともつかない声でざわついた。
淡々と張った。
淡々と当たった。
バンカーに張る。勝つ。
配当から、五パーセントのコミッションが引かれる。
それでも、卓上のチップは確実に増えていく。
時々、わざとプレイヤーにも混ぜる。
全部バンカーで当て続けると、さすがに目立つからだ。
一時間を過ぎた頃、金の指輪の男が、俺と同じ側に張るようになった。
俺がバンカーに置くと、少し遅れて、男もバンカーに置く。
その隣の女性も、それにならう。
テーブルの張りが、俺の後ろに一列に並び始めた。
*(これは、まずい)*
当たり続ける人間がいて、それに乗る人間が出てくる。
カジノの側から見れば、一番面白くない形だ。
部屋の奥で、スーツの男が二人、何か話しているのが見えた。
次の手は、映像ではバンカーの勝ちだった。
俺は、プレイヤーに一番小さい額を置いた。
金の指輪の男も、つられてプレイヤーに張った。
バンカーの勝ち。
男が舌打ちをして、次の手からは自分の読みに戻っていった。
*(悪いな)*
小さく負けた分は、次の二手で取り返した。
二時間。
目の前のチップが、塔のように積み上がった。
二時間半を過ぎた頃、映像の端が、わずかに滲んだ。
ロード表の先が、すりガラス越しのようにぼやける。
バンカーかプレイヤーか、それだけはまだ読める。
でも、数字までは見えない。
ポケットの上から、時計を押さえた。
温かい。
さっきより、ほんの少しだけ弱い。
*(ここから先は、欲だ)*
それから三手だけ張って、三手とも勝った。
四手目の映像が来る前に、チップをまとめた。
部屋の奥のスーツの男が近づいてきて、英語で言った。
よろしければ、もっと静かなお部屋をご用意できます。上限も、こちらより高く。
丁寧な声だった。
でも、その目は、俺の手元のチップの高さを測っていた。
「今日は、もう十分です」
男は、笑顔のまま一礼して下がった。
*(二年前のこのカジノでは、冷たい時計のまま座って、三百五十万を溶かした)*
*(今日は、ちゃんと立てた)*
三時間で、約三千万。
西村が、隣で絶叫している。
小林さんは、後ろで腕を組んで、静かに見ていた。
「会長。これ、見てると、確率論が崩壊しますね」
「崩壊、しますね」
*(崩壊させてるの、俺だけどな)*
*(でも、確率をねじ曲げてるんじゃない。答えを先に見てるだけだ。ズルなのは、間違いないけど)*
チップを換金するとき、カウンターの奥の担当者が、丁寧な英語で言った。
またのお越しを、お待ちしています。
そう言いながら、俺のパスポートの名前を、もう一度だけ確かめていた。
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ホテルのスイートに戻った。
窓の外、マカオのネオン。
金と赤の光が、夜の海に滲んでいる。
西村は、リビングのソファで、スマートフォンに今日の写真を並べていた。
「会長、見てこれ。チップの塔。家宝にするわ」
「人に見せるなよ」
「見せねえよ。……でもさ」
西村が、画面から顔を上げた。
「三時間で三千万って、普通じゃないよな」
「普通じゃないな」
「それ以上、聞かないほうがいい?」
「……今は、聞かないでくれると助かる」
「了解」
西村は、それきり写真の話に戻った。
あっさりした声だった。
でも、聞かないと決めるまでに、少しだけ時間がかかっていた。
小林さんは、自分の部屋に戻る前に、ノートパソコンの画面を見せてくれた。
今夜のテーブルの、一手ごとの勝敗が並んでいる。
「全部、記録してました。バンカーの勝率は、理論値に近いです。テーブル全体としては、何もおかしくない」
「そうですか」
「おかしいのは、会長の張り方だけです」
小林さんは、それ以上何も言わずに、画面を閉じた。
おやすみなさい、と頭を下げて、廊下に出ていった。
*(データは、嘘をつかない)*
*(小林さんは、それを一番よく知ってる人だ)*
時計をテーブルに置いた。
まだ、温かい。
ストップウォッチで、もう一度だけ秒針を測った。
五十八秒。
スマートフォンで、山下さんにLINEを送った。
*「マカオ、約三千万。経費は四百万ほどです」*
日本は、もう夜の十二時を回っているはずだった。
それでも、一分もしないうちに返事が来た。
*「記帳しました。おやすみなさい」*
それだけだった。
ノートの今日の行は、「冷→温/鮮明/マカオ バカラ 約3,000万」になった。
鮮明、と書いたのは、十二月に入って初めてだった。
*(あと何日、もつかな)*
*(もってくれよ。あと、少しだけ)*
明日は、バンコク。
西村が、朝からそわそわしている理由は、だいたい想像がついた。
---
**── 遠征収支メモ(速報・第83話/十二月十六日)──**
*海外遠征の勝ち金は、帰国後にまとめて雑所得として申告・納税予定。下記は税引前の速報値。*
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 出発時 個人資金 | 約26,422万円 |
| マカオ・バカラ収支(税引前) | +約3,000万円 |
| 渡航・滞在費(マカオ分) | ▲約400万円 |
| (※メンズクリニック・個人費用) | ▲約8万円 |
| **遠征速報・累計勝ち金(税引前)** | **+約3,000万円** |
*時計、日内変動が激しいが、夜は温かい状態を維持。次はバンコク(打ち上げ)、シンガポール、ラスベガスへ。山下はラスベガス最終日に合流予定。*
---
*【第84話へ続く】*




