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第82話 〜ノート〜

 十二月十三日、日曜日の朝。


 目が覚めて、枕元の懐中時計を握った。


 冷たい。


 昨夜、ふくろうから帰ったときは温かかった。

 テーブルに置いて握り直したときも、まだ熱が残っていた。

 一晩眠っているあいだに、それがすっかり抜けている。


 しばらく握ったまま待った。

 何も来なかった。


 ナイトテーブルの引き出しから、ノートを出した。


 「十二月十三日 冷/映像なし」


 昨日の行には「温/ぼやけ/中山10R」、その下に「夜 温(朝より強い)」と書いてある。

 その前の日は「冷」。

 その前は「温/映像なし」に「午後のどこかで 冷」。

 矢印が増えたのは、十二月に入ってからだ。


 ペンを置いて、ノートの表紙を見た。

 黒い布張りの、少し厚い一冊。

 角が擦れて、白い地が出ている。

 一日一行で、三年がこの一冊に収まってしまった。


 *(今日は、これを読もう)*


 予定は何もない日曜だった。

 吉野さんも休みだ。

 中山でも阪神でもレースはある。

 でも、冷たい日に競馬場へ行く理由はもうない。

 テレビの中継をつける気にもならなかった。

 昨夜、桑原さんに言われたことが、まだ頭の中に残っている。

 母に電話をする。年末に。

 その前に、自分が三年間何をしてきたのか、一度ちゃんと見ておきたかった。


 桑原さんの黒いノートのことも、少し考えた。

 『銀色の鳥』。

 あの手書きの文字の中に、俺は影として出てくるらしい。

 誰かのノートに書かれる自分と、自分のノートに書いてきた自分。

 どちらが本当に近いのか、俺にはわからなかった。


---


 コーヒーを淹れて、リビングのテーブルにノートを広げた。


 最初のページ。

 日付は二〇二三年十月。

 字が汚い。

 ボールペンのインクが、ところどころ掠れている。


  最初の行は「十月 温」。日付もない。

 その下に、あとから書き足したらしい小さな字がある。

 「多摩川3R 松永 単 300円→7,440円 温」

 「多摩川4R 中田 単 3,000円→0 冷」


 書き足した二行目で、もう外れている。


 思わず笑ってしまった。

 あの日、温かいときに三百円を張って当てた。

 調子に乗って、冷たくなった時計のまま三千円を張って外した。

 その三千円で、俺はこの時計のいちばん大事なルールを覚えたのだ。


 ページをめくった。

 「東京 秋隅田賞 サクラノホマレ 5万→43万 熱」

 五日目の行だ。あの馬の名前を初めて書いた日でもある。

 十月の終わり。十一月。

 「父へ500万 振込」

 十二月二十四日には、一行だけ、やけに大きな字で書いてあった。

 「有馬 熱」


 *(このとき、二十八だったんだよな)*


 六畳一間のアパートで、このノートを書いていた。

 天井の染みは三つ。

 家賃は五万八千円だった。


 ふと思い立って、ウォークインクローゼットの奥から段ボールを引っ張り出した。

 引っ越しのたびに捨てようと思って、結局捨てられなかった箱だ。


 中には、大学ノートが十二冊入っている。

 時計を拾う前の、負けの記録だ。

 最初のページは、二〇一五年十月三日。

 日付、レース名、買い目、払い戻し。

 それから「なぜ外れたか」と「次はこうすべき」。


 十二冊を床に積んで、その横に時計のノートを置いた。

 厚みがまるで違う。

 負けていた八年は、十二冊。

 勝っていた三年は、一冊。


 *(負けてた頃のほうが、よっぽど真面目に書いてる)*


 勝つようになってから、俺は「なぜ」を書かなくなった。

 当たるのだから、理由はいらなかった。

 温度と映像と結果。それだけで足りた。


 でも、今は違う。

 時計は来たり来なかったりする。

 温かいのに何も見せない日がある。

 朝と夜で温度が入れ替わる日がある。


 なぜ来なかったのか。

 それを書いてこなかったから、今になって何もわからない。


 十二冊目の、最後のページを開いてみた。

 時計を拾う前の日の日付がある。


 「第3レース、本命外れ。やはり前走のタイムに引っ張られすぎた。次回は馬場差を補正する」


 次回は、来なかった。

 翌日に時計を拾ったからだ。

 馬場差の補正は、八年かけてもまだ途中だった。


 *(こっちの俺は、最後まで真面目だったな)*


 十二冊目を閉じて、時計のノートに戻った。


---


 まず、ざっと数えてみることにした。

 スマートフォンの電卓を横に置いて、年ごとに「温」と「熱」の行を拾っていく。


 二〇二三年は、十月から十二月まで。

 冷たい日のほうが少なかった。

 二〇二四年は、三百六十六日のうち、温かい日が二百四十一日。

 二〇二五年は、三百六十五日のうち、二百六十二日。

 去年がいちばん多い。

 一日に何度も温かくなるようになったのも、去年の一月からだ。

 あの頃はノートの欄が足りなくて、スマートフォンのメモと二本立てで記録していた。


 今年は、九月までで百六十日あまり。

 十月は十日あまり。

 十一月は十五日。

 十二月は、十三日のうち五日。うち三日は矢印つきだ。


 数字にすると、思っていたよりはっきりしていた。

 坂道は、夏から急になっている。

 六月に「熱」と書いたのが最後で、夏からは一度も「熱」の字がない。

 七月には、大井のナイターの行の横に「輪郭、少し甘い」と書き足してある。

 あれが最初の兆しだったのかもしれない。


 数えているうちに、数字ではない行にも目が止まった。


 「4/16 冷 マカオ バカラ・ルーレット ▲350万 アンちゃんは+150万」


 二年前の春、初めての海外だった。

 時計が冷たいのに、カジノが三十秒先にあるのに耐えられなくて、テーブルに座った。

 隣でアンちゃんが勝って、俺だけが負けた。

 夜、割り勘で夕飯を食べながら、悔しくて何度も同じことを考えていた。

 翌日、時計が温かくなって、負けた分は全部戻ってきた。

 その行の横には、小さく「冷たい日はやらない。絶対」と書いてある。

 絶対、の字だけが濃い。


 去年の三月の行には、名前が一つある。

 「ベラージオ ポーカー 石橋という男。しつこい」

 あの男の顔を、今でも思い出せる。

 俺の読みの正確さに、最後まで食い下がってきた男だ。


 十月の半ばからは、数字以外の行が混じり始めている。

 「ふくろう 桑原さん」

 「佐々木残留」

 「美咲ちゃん、最後まで弾いた」

 三年間、温度と番号しか書かなかったノートに、この二ヶ月で人の名前が増えた。

 温度の記録のつもりで始めたものが、終わりかけてから日記になったのかもしれない。


---


 昼前、小林さんからLINEが来た。


 *「日曜にすみません。新モデルの昨日の結果です。中山・阪神・中京の全36レースで回収率104%。旧モデルは97%でした」*


 *「ありがとうございます。四週続けて上ですね」*


 *「はい。ただ、一日ごとのブレがまだ大きいので、年明けまで様子を見ます」*


 十一月の末に、週末だけ試しに回し始めた新しい式だ。

 最初の週末は少し上振れした。

 二週目も三週目も、わずかに上だった。

 四週目の昨日も、まだ崩れていない。


 *「小林さん、一つ聞いていいですか」*


 *「どうぞ」*


 *「モデルの外し方に癖があるとき、小林さんはどこから直すんですか」*


 少し間があって、返事が来た。


 *「外れた日だけを集めます。当たった日は、だいたい何も教えてくれないので」*


 *「外れた日だけ」*


 *「はい。外れた日を並べて、共通点を探す。馬場か、頭数か、騎手の乗り替わりか。共通点が見つかったら、それが癖です」*


 *「なるほど。参考になります」*


 *「会長、何か作るんですか」*


 *「いや。ちょっと、昔の記録を見ていて」*


 *「記録は宝です。捨てないでください」*


 小林さんらしい返事だった。


 昼を過ぎた頃、今度は山下さんから電話が来た。


「日曜に申し訳ありません。年内の数字を、先にお伝えしておこうと思いまして」


「いえ、助かります」


「十二月分の追加出資、五千万円の受け入れは九日に完了しています。これで予定の一億五千万円は満額です。会長個人の資金は、昨日時点で約二億六千四百万円。年内の大きな動きは、これで最後の見込みです」


「ありがとうございます」


「それから、橘さんの在宅の件です。今週から、週に一度の報告を私が受けることにしました。最初の報告は、来週末に出てくるそうです」


「無理はさせないでください」


「はい。本人にも、そう伝えてあります」


 山下さんは、いつも通り、必要なことだけを話した。

 十月の一千二百万のことには、一言も触れなかった。

 帳簿のあの一行を、この人が見落とすはずがない。


「山下さん」


「はい」


「明日の朝、少しだけ時間をもらえますか。相談したいことがあります」


 電話の向こうで、短い間があった。


「承知しました。九時半に、会議室を空けておきます」


「お願いします」


 内容は聞かれなかった。

 この人は、いつもそうだ。


 スマートフォンを置いて、床の十二冊を見下ろした。


 *(外れた日だけを、集める)*


 負けていた頃の俺は、毎日それをやっていた。

 ノート十二冊分の「なぜ外れたか」。

 あの頃の書き方で、もう一度この一冊を読めばいい。


---


 午後。

 付箋を一束出して、ノートを最初からめくり直した。


 まず、映像がないのに張った日を探した。

 四つしかなかった。


 二〇二三年十月、多摩川の三千円。

 二〇二四年四月、マカオのバカラとルーレット。三百五十万。

 同じ年の五月、府中。サクラノホマレの単勝に五百万。二着だった。

 あとの一つは、冷たい日ではない。

 今年の十月二十四日。府中。単勝に千二百万。


 その行を、指でしばらく押さえていた。


 「十月二十四日 温/映像なし/府中 単1,200万→0」


 温かかった。

 だから張った。

 映像がなくても、温かいなら少しは助けてくれるんじゃないか。

 あとは自分の分析で足りる。

 そう思って、人生でいちばん大きな金を一枚の馬券に乗せた。


 手が震えたのを覚えている。

 帰りの車で、吉野さんに顔色を気づかれた。

 誰にも言っていない。

 山下さんは帳簿で気づいているはずだが、何も言わなかった。


 四枚の付箋を、四つの行に貼った。

 共通点は、はっきりしていた。


 *(映像のない日に張ると、外れる)*


 *(冷たくても、温かくても。映像がなければ、四回とも外れてる)*


 次に、映像が来なかった日を全部拾った。

 数えるのに一時間かかった。


 気づいたことがあった。

 見るだけのつもりで競馬場に行った日には、一度も映像が来ていない。

 十月の川崎もそうだ。

 ビールを飲みながらレースを眺めていただけの夜、時計はぼんやり温かいだけで何も見せなかった。

 張るつもりで行った日には、来る。

 張る気がない日には、来ない。


 *(こいつは、俺が何をするつもりかを、知ってる)*


 考えてみれば、最初の七日間からそうだった。

 拾った翌朝、多摩川に行くと決める前に、もう競艇の映像が来ていた。

 行くと決めたのは俺じゃない。時計のほうが先だった。

 でも、それからの三年は、たぶん逆だ。

 俺が張ると決めると、時計が来る。


 思いつく条件を、片っ端から当ててみた。

 国内か、海外か。

 違いはなかった。

 天気。雨の日も晴れの日も、来るときは来る。

 曜日。平日のナイターでも、土日の重賞でも同じだ。

 誰と一緒にいたか。

 アンちゃんと一緒の日も、西村と一緒の日も、一人の日も、偏りはない。

 どれも、小林さんの言う「共通点」にはならなかった。


 それから、ツグミナクの行。

 去年の六月、新馬戦。

 「冷/ツグミナク新馬2着 自分の馬」

 今年の十月二十五日、骨折明けの復帰戦。

 「冷/ツグミナク5着」

 どちらの日も、パドックで握った時計は冷たかった。

 自分の馬の勝負には、一度も来ていない。


 付箋が増えていった。

 黄色が冷たい日、青が映像のない温かい日、赤が大きく勝った日。


 赤い付箋の並びを眺めていて、手が止まった。

 二〇二四年の七月から八月の半ば。

 映像ありで八回張って、八回とも回収している。

 そのすぐ後に、四日間、何も見えなかった。

 お盆明けの四日間だ。

 印鑑が二度ずれた朝のことまで思い出した。


 他の赤も、追ってみた。

 大きく勝った週の翌週は、冷たい日が多い。

 毎回ではない。

 でも、偶然と言い切るには並びすぎている。


 *(勝ちすぎると、休む)*


 もう一つ。

 最初の頃は、三百円にも映像が来た。

 五万円にも来た。

 でも、この一年の行を見ると、少額の勝負にはほとんど来ていない。

 カジノでは、一手五千ドルを切る張りに鮮明な映像が来た記録が一つもない。

 国内でも、数十万を下回る馬券には、来てもぼやけている。

 九月の行に、それがよく出ていた。

 樋口さんに付き合って買った千円の馬連には、何も来ていない。

 同じ日の午後、五十万を張るつもりで握ったときには、ぼやけながらも番号が見えた。

 同じ日、同じ競馬場、同じ時計だ。


 額が上がったのか。

 それとも、俺にとっての「大きい」が上がったのか。

 ノートは、そこまでは教えてくれなかった。


---


 夕方の五時過ぎ、インターホンが鳴った。


 モニターに、西村が映っていた。

 片手に紙袋を提げている。


「会長、いる? 近く通ったから」


 慌てて、床の十二冊を段ボールに戻した。

 時計のノートは、ソファのクッションの下に押し込んだ。


 西村は、上がってくるなり紙袋をテーブルに置いた。

 中から、缶ビールと、焼き鳥の包みが出てきた。


「恵比寿の、あの焼き鳥屋。日曜もやってんの知らなかったろ」


「知らなかった」


「だろ」


 二人で缶を開けた。

 西村は、ソファの隅の段ボールを見た。


「引っ越しでもすんの」


「いや。古いノートを出してただけ」


「ノート?」


「昔の、競馬の」


「ああ、あれか。大学のとき、学食でもずっと何か書いてたよな、お前」


「覚えてるのか」


「覚えてるよ。俺がカレー食ってる横で、新聞に赤ペン入れてさ。一回、二万当てたときは、焼肉おごってくれた。あんな嬉しそうな顔、あれ以来見てない気がする」


 焼き鳥を一本取りながら、西村は軽く言った。

 俺は返事をしなかった。


 西村は、段ボールのいちばん上の一冊を勝手に取って、ぱらぱらとめくった。


「うわ、細か。『なぜ外れたか、自分の読みを信じすぎた。次は人気を疑え』……お前、これ何年分」


「八年」


「八年」


 西村は、ノートを閉じて、丁寧に段ボールに戻した。

 茶化すかと思ったが、何も言わなかった。


「捨てんなよ、これ」


「小林さんにも、同じこと言われた」


「小林に見せたの?」


「見せてない。記録は宝だって」


「あいつらしいな」


 西村は、話を変えた。


「そうだ。瀬川さんから、改装の追加の相談が来てる。カウンターを五センチ低くしたいって」


「五センチ」


「美咲ちゃんが、中から手伝えるように、だってさ」


「発表会、よかったな」


「よかった。あの子、止まったのに、ちゃんと戻った。俺なんか、発表会で一回止まって、そのまま戻れなかったのに」


 西村は笑って、ビールを飲んだ。

 金曜の昼、学校の帰りに、ピアノをやめた理由を聞いた。

 そのときより、声が軽かった。


「で、会長。年末どうすんの。俺、今年は実家帰るわ。親父がうるさくて」


「たぶん、東京」


「たぶん、か」


 西村は、焼き鳥の串を皿に置いた。


「なあ、会長は来年、何したい」


「来年」


「うん。会社のことじゃなくてさ。会長が、何したいか」


 すぐには答えられなかった。

 ナカジマの契約、NOELの移転、KY Liveの黒字化。

 来年の予定なら、いくらでも並べられる。

 でも、西村が聞いているのはそういうことじゃない。


「……考えとく」


「考えとけ。俺はあるぞ」


「何」


「秘密。年明けに言う」


 西村は、もったいぶるように笑った。

 テーブルの向こうのクッションの下には、三年分のノートがある。

 こいつには、一度も見せたことがない。

 見せたら、何から話せばいいのか。

 ベンチの老人のことか。逆向きの針のことか。

 口を開きかけて、ビールで流し込んだ。


 西村は、俺の顔をちらっと見た。


「なあ。さっきから、ずっとポケット触ってるけど」


「え」


 言われて初めて気づいた。

 右手が、ジャケットのポケットの上にあった。

 時計は入っていない。

 寝室の、ナイトテーブルの上だ。


「昔からだよな、それ。でかい話の前とか、会議の前とか。勝負の前に、絶対一回そこ触るの」


「……そうか」


「自分で気づいてなかったのかよ」


 西村は笑った。

 俺は、手をポケットから離した。


 *(入っていないのに、触っていた)*


 *(三年、毎日そこにあったからだ)*


 七時過ぎ、アンちゃんからLINEが来た。

 写真が一枚。

 六本木の部屋の窓辺で、猫が丸くなっている。


 *「今日の配信、猫が勝手に映りこんで同接ちょっと伸びた笑」*


 *「主役取られてる」*


 *「ほんとそれ。遊馬くん、今日なにしてたの?」*


 少し考えてから、打った。


 *「昔のノート読んでた」*


 *「えらい。私、昔の日記とか絶対読めない。恥ずかしくて」*


 *「俺も半分くらい恥ずかしかった」*


 *「残りの半分は?」*


 返事に詰まって、焼き鳥を一本食べた。

 西村が横から画面を覗こうとしたので、スマートフォンを伏せた。


 *「懐かしかった」*


 それだけ送った。

 猫のスタンプが一つ返ってきた。


 八時前、西村は帰っていった。

 玄関で靴を履きながら、「年明けな」と言った。

 まだ何も話していないのに、何かを察したような顔だった。

 ドアが閉まった。


---


 クッションの下から、ノートを出した。


 西村の言ったことを、もう一度考えた。

 勝負の前に、ポケットを触る。

 映像は、たいてい朝、握った瞬間に来る。カジノでは一手ごとに。

 だから俺は、その時間になると、無意識に時計を確かめていたのだろう。


 *(持っている人間には、癖が出る)*


 *(俺に出ていたなら、たぶん、誰にでも出る)*


 なぜそんなことを考えたのか、自分でもよくわからなかった。


 寝室から、時計を取ってきた。

 まだ冷たい。

 蓋を開けた。

 翠色の文字盤の上で、針が逆向きに回っている。


 三年前のページを読み返したとき、二度だけ、小さな走り書きがあった。

 十一月と十二月。どちらも「熱」の日だ。

 「針、速い?」

 書いたことすら忘れていた。


 スマートフォンのストップウォッチを起動した。

 秒針が十二の位置を通った瞬間に、押した。

 逆向きに一周して、また十二に戻ったところで、止めた。


 六十秒。

 もう一度測った。

 六十秒。


 冷たい日の針は、ちゃんと六十秒で回る。

 温かい日にどうなるのかは、測ったことがない。


 *(次に温かくなったら、測ろう)*


 時計を置いて、スマートフォンの連絡先を開いた。

 母の番号は、まだそこにある。

 昨夜も、ここまで開いて閉じた。


 ノートの最初の年に、「父へ500万 振込」の一行があった。

 振り込んだだけで、電話はしなかった。

 声を聞いたら、何を言われるかが怖かった。

 あれから三年、俺は返したことで話を済ませたつもりでいた。


 *(年末に、って言ったんだ)*


 *(今日じゃなくていい)*


 画面を消した。

 桑原さんとの約束を、先送りしたわけじゃない。

 そう自分に言い聞かせた。


---


 夜の九時。

 ノートの、まだ白いページを開いた。

 付箋を一枚ずつ剥がしながら、書いた。


 「時計の癖(三年分から)」


 一 映像のない日に張ると、外れる。冷たくても、温かくても。(四回、四敗)

 二 見るだけのつもりの日には、読める映像は来ない。

 三 自分の馬には来ない。

 四 大きく勝った翌週は、冷えやすい。

 五 少額には鈍い。最初は三百円にも来た。今は来ない。

 六 映像は、その日の朝に来る。カジノでは一手ごと。持っている間、勝負の前にポケットを触る。

 七 針。冷たい日は六十秒。温かい日は、未測定。


 書き終えて、読み返した。

 負けていた頃のノートと、同じ書き方になっていた。

 「なぜ外れたか」と「次はこうすべき」。

 ただ、今度は「次」がもう、あまり残っていない。


 一覧の横に、もう一つだけ数字を書いた。

 三年で、外れた行は四つ。

 映像の来た勝負で外れた行は、一つもない。


 改めて見ると、異様な数字だった。

 八年で十二冊分外し続けた男が、三年で四回しか外していない。

 しかもその四回は、全部、自分で時計の言うことを聞かなかった日だ。


 最初の年の、有馬の行の下に、鉛筆で小さく書いた跡があった。

 「いつまで?」

 消しゴムで消そうとして、消しきれなかったらしい。

 三年前の俺は、この時計がいつか止まることを、最初から考えていたのだ。


 *(いつまで、か)*


 *(たぶん、もうすぐだよ)*


 この二週間の行を、もう一度見た。

 矢印ばかりだ。

 温かい日の数は、十一月の半分もない。

 鮮明、と書いた日は、十二月に入ってからまだ一度もない。


 *(そう長くは、もたない)*


 そう思っても、不思議と怖くはなかった。

 代わりに浮かんだのは、もっと単純な考えだった。


 *(どうせ終わるなら、まだ残っている分は、全部使ってやろう)*


 負けていた頃の俺なら、こう考えるのは危ない兆候だと書いただろう。

 最後の一回にしがみつく人間の考え方だ。

 それは、わかっている。


 それでも、ペンを取った。

 癖の一覧の下に、一行だけ足した。


 「残っている熱を、使い切る」


 書いた字は、三年前の最初のページと同じくらい、大きかった。


---


**── 残高メモ(第82話)──**


| この話の動き | 金額 |

|:--|--:|

| 記録の読み返し(勝負なし) | ±0円 |

| 日曜の生活費 | ▲約1万円 |


*※この話の収支は、次話の残高メモの「生活費等」に含めて通算する。*


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