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第81話 〜秋風〜

 十二月十二日、土曜日の朝。


 時計を握った。

 温かい。

 昨日一日冷たかったのが嘘のような、はっきりした温かさだった。


 映像が来た。

 中山競馬場、第十レース。芝の二千メートル。

 冬の低い日差しの中を、馬群が直線に向いてくる。

 ぼやけていた。

 それでも、内から伸びる二頭と、外から差してくる一頭の番号が、かろうじて読めた。


 「十二月十二日 温/ぼやけ/中山10R」


 昨日のページには、「美咲ちゃん、最後まで弾いた」と書いてある。

 その下に今日の一行を書くと、なんだか妙に釣り合わない気がした。


---


 午前中、リビングで、橘さんの最初の月次レポートを読んだ。

 昨日の夜十時過ぎに届いていたものだ。


 KY Pet Foodsのシェルター別の消費分析。

 連絡会議の八団体の数字が、一枚の表に並んでいた。

 札幌の団体は、冬場に一頭あたりの消費が一・四倍になる。寒さで、犬が食べる量そのものが増えるからだ。

 八王子の大袋のロスは、来月から小袋で試す。

 兵庫の団体は、猫の数が多いのにドライフードの比率が高すぎる。ウェットの比率を上げれば、腎臓の病気で通院する猫が減るかもしれない、と獣医の意見まで添えてあった。


 最後のページに、短い所見があった。


 *「数字の上では、どの団体も『足りている』ように見えます。ですが、足りている理由の半分は、代表の方々が自分の生活費を削って補っていることでした。次回は、その部分を数字にしてみたいと思います」*


 *(自分の生活費を削って)*


 *(橘さんは、そこを見るんだな)*


 レポートを閉じて、山下さんに転送した。

 「来週の月曜、この件で時間をください」とだけ添えた。


---


 昼過ぎに、スマートフォンで馬券を買った。

 中山の第十レース。

 朝の映像の三頭で、三連複を二万円。


 ぼやけた日は、それ以上は張らない。

 十月からの決まりごとだった。


 三時過ぎ、レースの中継をスマートフォンで見た。

 内の二頭が、直線で並んで抜け出してきた。

 外から差してきた一頭が、ゴール前でその間に割り込んだ。

 三頭とも、朝の番号だった。


 三連複、四十一倍。

 二万円が、八十二万円になった。


 *(今日は、当たった)*


 当たったのに、手のひらが少し湿っていた。

 画面の中の着順を確かめるまで、外れる気がしていた。

 時計を握ってきて三年、こんな気持ちで結果を待ったことはなかった。


 画面を閉じる前に、山下さんから返信が来ていた。


 *「レポート拝読しました。代表の方々の持ち出しは、私も気になっていた点です。月曜の十時でいかがでしょう」*


 *「お願いします」*


 *「橘さんに、よいレポートだったとお伝えください。私から言うより、会長から言われたほうが効きます」*


 *(山下さんは、人に効く言葉の順番まで考えている)*


 橘さんには、短く送った。

 *「レポート読みました。最後の一段落が、一番よかった」*

 五分ほどで、*「ありがとうございます。お茶を入れて読み返します」*と返ってきた。


---


 四時過ぎ、アンちゃんからLINEが来た。


 *「遊馬くん、クリスマスの日、何してる?」*


 *「たぶん、仕事の後片付け。年末は、まだ何も決めてない」*


 *「じゃあ、年内にどこかで一回くらいは会えるかな。会えなくても、年明けでいいけど」*


 *「たぶん、どこかで」*


 *「たぶん、ね。遊馬くんの『たぶん』は、半分くらいしか当たらないからなー」*


 *「……否定できない」*


 *「でしょ。まあいいけど。私、年末まで配信ぎっしりだから、見に来てくれたら嬉しい。藤原さんが、年内最後のは事務所で一番大きくやろうって張り切ってる」*


 *「あとね、むぎが最近、キャットタワーの一番上から降りてこないの。寒いからかな」*


 写真が一枚届いた。

 窓際のタワーのてっぺんで、むぎが丸くなっていた。


 *「上のほうが暖かいんだよ」*


 *「そっか。猫って、ちゃんとわかってるんだね。一番いい場所」*


 *(一番いい場所、か)*


 アンちゃんの言葉は、いつも、そのまま受け取ればいいだけの軽さで届く。

 その軽さに、何度も救われてきた。

 でも、今夜これから会う人のことを考えると、返信の指が少しだけ重くなった。


 *「アンちゃんも、あったかくして」*


 *「うん! 遊馬くんも!」*


---


 夕方。

 タクシーで練馬へ向かった。

 ふくろう。

 桑原さんと約束していた。


 車内で、窓の外を見ていた。

 十二月の東京の夕方。

 街路樹の葉は、ほとんど落ちていた。

 歩道に、赤や茶色の葉がたまっていた。

 歩く人は、みんなコートを着ていた。


 *(桑原さんに会う前に、何を話そうか、まだ決めていない)*


 *(今週、橘さんの対面復帰があった)*


 *(来週から、橘さんの在宅勤務が本格化する)*


 *(時計の温度が、不安定になっている)*


 *(話したいことが、いくつかある)*


 昨日のLINEを、もう一度開いた。

 *「少しだけ、緊張しています。誰にも見せたことのないものなので」*


 *(桑原さんが見せたいもの)*


 十月に、ふくろうで、フランスでは自分の小説を書きたいと言っていた。

 題名は、まだ言えない、と笑っていた。

 たぶん、それだ。


---


 ふくろうの扉を開けた。


 夕方の七時前。

 まだ客は少ない。

 福田さんが、カウンターの中でグラスを磨いていた。


「あら、遊馬くん。今日も、桑原さん?」


 和代さんが、奥から声をかけた。


「はい」


「最近、よく来てくれるね、桑原さん」


「フランスに行く前に、と」


「そっか」


「いつから行くの?」


「三月末です」


「あと、三ヶ月半か」


「ええ」


 俺は、いつもの席に座った。

 奥のカウンターの一番端。

 福田さんが、ハイボールを置いてくれた。


「桑原さん、もう、準備終わってんの?」


 福田さんが、グラスを拭きながら聞いた。


「ほとんど終わっているらしいです。あとは、年明けに最終の段取りで」


「半年、向こうにいるんだろ?」


「ええ」


「お前、ちゃんと会いに行くんだろうな」


「行きます」


「春先か」


「四月の中旬を予定しています」


「ロンドンと、ベルリンと、フランス、回るんだろ」


「西村から、聞きましたか」


「先週、ここ来た」


 *(西村が、福田さんに報告している)*


 *(俺の動きが、福田さんにも共有されている)*


「お前、頑張ってこいよ。海外、長丁場、大変だけど」


「はい」


---


 七時を少し過ぎて、扉が開いた。

 桑原さんが入ってきた。


 今日は、黒いタートルネックに、紺のスカート。

 冬らしい、暖かそうな服装だった。

 いつもより、髪をふんわりとおろしていた。

 肩にかけたバッグの持ち手を、片手でずっと握っていた。


「遊馬さん、お待たせしました」


「お待たせしてないです」


 桑原さんが、隣の席に座った。

 和代さんが、白ワインを出してくれた。


「乾杯、しましょうか」


「何に」


「特に、何もないですけど」


「乾杯」


 グラスが、軽く合わさった。

 硬い音。

 いつもの、ふくろうの音だった。


---


 桑原さんが、ワインを一口飲んだ。


「遊馬さん、最近、お元気そうですね」


「橘さんの復帰、桑原さんにお話しできてないですね」


「いえ、西村さんから聞きました」


「西村のやつ、桑原さんにも伝えてるんですね」


「西村さんは、いつも気を回してくれます」


「ええ」


 桑原さんが笑った。


「橘さんの対面復帰、よかったですね」


「ありがたい話です」


「遊馬さんが、一年半前に、橘さんをちゃんと受け止めたから、今、戻ってきている」


「あれは、橘さん自身が、自分を立て直したからです」


「遊馬さんが、入口を開けておいたから、戻ってこられた」


「……ありがとうございます」


 俺は、ハイボールを飲んだ。


「桑原さん、最近、お忙しそうですね」


「ええ。フランス行きの準備と、翻訳の納期が重なって」


「身体、大丈夫ですか」


「大丈夫です。年末年始は、少し休めそうです」


「いいですね」


「遊馬さんは、年末年始、何かご予定は」


「特に、ありません」


「ご家族には、お会いになりますか」


 俺は、しばらく考えた。


「いえ、たぶん」


「お父さま」


「父とは、もう何年も会っていません。母も、同じ」


「遊馬さんは、ご実家は東京なんでしたっけ」


「埼玉です。母が、まだ向こうに住んでいるはず」


「『はず』、というのは」


「四年、連絡をしていないので」


「四年……。何か、あったんですか」


「ええ。昔、いろいろ迷惑をかけたので」


 桑原さんが、しばらくワインを傾けていた。


「遊馬さん」


「はい」


「家族に、ご連絡したらいかがでしょうか」


「うん」


「遊馬さんが変わったこと、家族にも知ってほしい」


「ええ」


「ご自分のためだけじゃなく」


「桑原さん、急に、家族の話ですね」


「私が、フランスに行くからかもしれません。離れる前に、遊馬さんに伝えておきたい」


「伝えたい、というのは」


「遊馬さん、家族と繋がっていてください。会いに行ってください」


「年明けに、考えます」


「いえ、年末に」


「ええ?」


「年末に、お母さまにお電話されたほうがいいです」


 桑原さんの目が、まっすぐこちらを見ていた。


 *(桑原さんが、こうやって踏み込んでくる)*


 *(俺の家族の話まで)*


「桑原さん、なぜ、そこまで」


「私の母は、もう亡くなっています」


「えっ」


「五年前です」


「初めて、聞きました」


「言わなかっただけです」


「お父さまは」


「父も、母が亡くなって、半年で亡くなりました」


「……」


「私の両親は、もう、いません。だから、遊馬さんに伝えたい」


「桑原さん、すみません」


「いえ。謝らないでください。ただ、両親がいるうちに繋がっておくのは、いいことです」


 俺は、ハイボールを置いた。

 桑原さんの言葉が、頭の中でゆっくりと降りていた。


---


 しばらく、桑原さんはグラスの脚を指でなぞっていた。

 それから、少しだけ声を落とした。


「母は、区の図書館で司書をしていました。私が翻訳の仕事をしているのは、たぶん母のせいです。家に、外国の絵本が山のようにあったので」


「お母さま、どんな方でしたか」


「声の小さい人でした。でも、本を読み聞かせるときだけ、急に役者みたいになるんです。狼の声も、お姫さまの声も、全部自分でやって」


 桑原さんは、少し笑った。


「五年前の春に、膵臓に病気が見つかって。わかったときには、もう三ヶ月と言われました。本当に、三ヶ月でした」


「……」


「父は、羽田で飛行機の整備をしていました。三十年以上。夜勤の多い人で、私が小さい頃は、ほとんど家にいなかった」


「整備士さん」


「ええ。休みの日には、よく私を城南島の公園に連れていってくれました。滑走路の端の、飛行機が真上を通るところです。父は、着陸してくる飛行機を見上げて、あれは銀色の鳥だ、って言うんです。お父さんは、毎晩、あの鳥の羽を直してるんだって」


 *(銀色の鳥)*


「母がいなくなってから、父は、あまり食べなくなりました。私が週末に作り置きをしても、冷蔵庫にそのまま残っていて。秋の朝、電話に出なかったので、実家に行きました。台所の椅子に座ったまま、眠るみたいに」


 桑原さんの声は、最後まで揺れなかった。

 ただ、グラスを持つ指だけが、白くなっていた。


「心臓だったそうです。医者は、急なことだったと言いました。でも、私は、急だとは思っていません。半年かけて、少しずつ母のほうへ行ったんだと思っています」


「……誰にも、話さなかったんですか」


「話すと、二人が本当にいなくなる気がして。黙っているあいだは、母は図書館にいて、父は羽田で夜勤をしている。そういうことにしておけたんです」


「……」


「でも、フランスに行くと決めたら、もう、そういうことにしておくのはやめようと思いました。向こうで、ちゃんと書くために」


 *(桑原さんは、この五年、ひとりでそれを持っていた)*


 *(ふくろうで笑っていた夜も、ずっと)*


 グラスの中の氷が、小さく鳴った。

 何か返さなければいけない気がして、俺は口を開いた。


「……俺、大学の頃から、ずっと賭け事で負け続けてたんです」


「はい」


「二十六のとき、消費者金融に借金を作って、どうにもならなくなって、実家に行って土下座しました。父は、長いこと黙ってから、いくら要るんだ、とだけ言って、払ってくれた。怒鳴りもしなかった」


「……」


「俺は、それにお礼を言っていないんです。言えないまま家を出て、そのまま、行かなくなった。母とは、それからもう四年」


 桑原さんは、俺の顔を見なかった。

 カウンターの向こうの、福田さんの手元の湯気を見ていた。


「それを、電話で言えばいいんです」


「四年ぶりの電話で、借金の礼からですか」


「順番は、どうでもいいと思います。父に最後に言いそびれたことが、私にもあるので」


「何を、ですか」


「『ちゃんと食べて』です。毎週、冷蔵庫に詰めるだけで、口では一度も言わなかった」


 桑原さんは、それだけ言って、ワインを一口飲んだ。


「桑原さん」


「はい」


「年末、母に電話します」


「ありがとうございます」


「会いに行くかは、まだ決められません」


「電話だけでも、いいです」


「はい」


 桑原さんが頷いた。


---


 しばらく、二人とも無言でグラスを傾けていた。


 福田さんが、煮物の小鉢を出してくれた。

 冬の野菜。

 大根と、里芋と、人参。

 あったかい。


「冬ですね」


 桑原さんが、煮物を一口食べて言った。


「ええ」


「ふくろうの煮物は、季節で変わりますね」


「夏の時とは、全然違う」


「冬の煮物の温かさが、好きです」


「俺もです」


 二人で、煮物を食べた。

 お互いに無言だった。

 でも、それが心地よかった。


---


 桑原さんが、バッグからノートを出した。

 店に入ってきてから、ずっと持ち手を握っていたバッグだった。


「遊馬さん、お見せしたいものがあります」


「何ですか」


「私が書いている小説です」


「小説」


「ええ。十月に、少しだけお話ししたものです。フランスで、本格的に書こうと思っています」


 俺は、ノートを受け取った。

 黒い表紙のノート。

 開くと、手書きの文字がぎっしりと書かれていた。

 消した跡と、書き足した矢印が、ページの余白を埋めていた。


「タイトル、決まっているんですか」


「『銀色の鳥』」


「銀色の鳥」


「ええ」


 さっきの城南島の話が、そのまま耳に残っていた。


「お父さまの」


「はい。父の言葉を、そのまま借りました」


 ページをめくった。

 冒頭が見えた。


 *「都市の夜は、街灯の数だけ、孤独がある」*


 *「彼は、それを、知らないまま、生きてきた」*


「桑原さん、これ、いいですね」


「内容は、まだ決まっていません」


「主人公が、男性?」


「ええ」


「ねえ、まさか、俺じゃないですよね」


 桑原さんが笑った。


「遊馬さん、主人公じゃないです」


「ホッとした」


「主人公は、空港で夜通し飛行機を直している男の人です。毎晩、誰かを遠くへ送り出すのに、自分は一度も乗ったことがない」


「……お父さまが」


「半分は。残りの半分は、私が勝手に作った人です。ただ、影として、遊馬さんも登場します」


「えっ、影」


「主人公の人生の節目に、何度か現れる男性として」


「俺、ですか」


「遊馬さんを、参考にしています」


「……」


「ご迷惑ですか」


「いえ。むしろ、嬉しいです」


「ありがとうございます」


 *(夜通し誰かを送り出して、自分は乗らない男)*


 *(その節目に現れる、影)*


 *(俺は、桑原さんの目に、どう映っているんだろう)*


 桑原さんが、ノートをこちらに向けた。


「読みますか」


「いえ。フランスで完成してから、読みたいです」


「では、半年後」


「半年後」


 ノートを、桑原さんに返した。


「桑原さんがフランスで書く小説。完成が、楽しみです」


「私も、楽しみです」


「半年後、ふくろうで、最初の読者にならせてください」


「もちろん」


 桑原さんが、ノートをバッグにしまった。

 それから、ふっと肩の力を抜いた。


「緊張しました」


「LINEでも、そう書いてましたね」


「誰かに見せたのは、初めてなので。題名を口に出したのも、今日が初めてです」


 *(銀色の鳥)*


 *(桑原さんの両親の話と、同じ夜に聞いた題名)*


 *(たぶん、桑原さんは、二つを一緒に渡すと決めて、今日ここに来たんだ)*


---


「桑原さん、フランスでの生活、楽しみですか」


「楽しみです。でも、寂しいでしょうね、最初は」


「ええ」


「東京の、いつもの場所がなくなる。ふくろうにも、来られなくなる」


「半年だけです」


「ええ、半年だけ」


 桑原さんが、ワインをもう一口飲んだ。


「遊馬さん、私がいない間、ふくろうに来てくださいね」


「もちろん」


「福田さんと和代さんを、寂しくさせないで」


「了解です」


「あと、遊馬さんも、寂しくならないでください」


「俺は、大丈夫です」


「私がフランスから戻ってきた時、変わらず、ここにいてください」


「変わらず、いますよ」


「変わらず、というのは難しいですけどね。遊馬さん、いつも何かを始めている人なので」


 桑原さんが笑った。


 俺も笑った。


---


 九時。

 桑原さんが立ち上がった。


「私、帰ります。明日も、仕事です」


「お送りしましょうか」


「いえ、結構です」


 外まで、見送りに出た。

 十二月の夜風が、冷たかった。


「桑原さん」


「はい」


「来年、また、ここで」


「ええ」


「フランス、楽しんできてください」


「ありがとうございます」


 桑原さんが、軽く手を振った。

 駅のほうへ歩いていった。


 彼女の後ろ姿が、街灯の下で、しばらく見えていた。

 街灯から街灯へ、明るいところと暗いところを交互に通っていく。


 *(都市の夜は、街灯の数だけ、孤独がある)*


 *(桑原さんが、行く)*


 *(半年。会えない時間が来る)*


 *(でも、必ず戻ってくる)*


 *(俺も、会いに行く)*


---


 ふくろうに戻った。

 カウンターに座り直した。


 福田さんが、何も言わずに、ハイボールをもう一杯置いてくれた。


「お前、お母さんに電話しろ」


 福田さんが、ぽつりと言った。


「えっ、聞いていたんですか」


「聞こえてた」


「……」


「桑原さんの言う通りだ」


「はい」


「年末、電話しろ」


「電話します」


「会いに行けるなら、行け」


「考えます」


 福田さんが、グラスを磨きながら頷いた。


「お前、家族の話、今まであまりしなかったな」


「ええ」


「四年、連絡してない、と言ってたな」


「はい」


「四年は、長い」


「……」


「お前が変わったこと、ちゃんとお母さんに見せろ」


「はい」


 俺は、ハイボールをもう一口飲んだ。


 和代さんが、奥から出てきて、カウンターの端を拭きながら言った。


「あの子、ここで泣いたこと、一回もないのよ。ずいぶん通ってくれてるのに」


「……そうなんですか」


「今日も、泣かなかったね。遊馬くんの前だから、かしら」


 和代さんは、それだけ言って奥へ戻っていった。


---


 帰りのタクシーの中。

 窓の外に、夜の練馬の街が流れていった。


 桑原さんとの会話を、思い出していた。


 *(桑原さんは、両親を五年前に亡くしている)*


 *(俺は、それを知らなかった)*


 *(桑原さんは、それを言わなかった)*


 *(でも今日、フランスに行く前に、伝えてくれた)*


 *(桑原さんの優しさは、いつも、こうやって踏み込んでくる)*


 ジャケットの内ポケットに、手を入れた。

 懐中時計の感触。


 ほんの少しだけ、温かかった。


 *(時計が、温かい)*


 *(桑原さんに会ったあとだから、温かいのか)*


 *(それとも、別の理由か)*


 わからない。

 でも、温かいことがありがたかった。


---


 タワーマンションに戻った。

 リビングに入った。


 窓の外に、東京の夜景が広がっていた。

 十二月の夜。

 冷たい。


 懐中時計を、テーブルに置いた。

 握ってみた。

 温かい。


 *(夜になって、温かさが強くなっている)*


 *(不思議な現象だ)*


 ノートを開いた。

 朝の一行の下に、書き足した。

 「夜 温(朝より強い)」


 今週は、こういう書き方ばかりだ。

 朝と夕と夜で、一行ずつ。

 三年分の記録の中で、この一週間だけが、違う時計の記録のように見えた。


 スマートフォンを開いた。


 *(母の連絡先、まだ登録してある)*


 *(四年、押していない番号)*


 *(年末まで、あと二週間)*


 *(年末に、電話するか)*


 決めきれないまま、スマートフォンを置いた。


 ソファに座って、コーヒーを淹れた。


 *(家族に会うのは、怖い)*


 *(でも、桑原さんが言ってくれた)*


 *(福田さんも、言ってくれた)*


 *(二人が同じことを言うのは、たぶん、本当のことだ)*


 *(年末、電話しよう)*


 ナイトテーブルの引き出しを開けた。

 黒い布張りのノートが一冊。

 三年前の十月、最初のページに「温」とだけ書いたのも、今夜の一行も、同じこの一冊に入っている。


 *(明日は、日曜だ)*


 *(全部、最初から読み返してみよう)*


 *(この時計が、俺に何を見せて、何を見せなかったのか)*


 引き出しを閉めずに、そのままベッドに入った。


---


**── 残高メモ ──**


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 12月第2週後半 ギャンブル収益 | +約80万円 |

| 個人費用(ふくろう・タクシー等) | ▲約3万円 |

| 前話繰り越し(個人) | 約26,345万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約26,422万円** |


*時計の温度が、夜になって強くなる現象が継続。日内変動が顕著に。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(法人、12月分計上済み) | 約19,309万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約19,309万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(KY Live) | 約15万円 |

| **KY Live 法人口座** | **約15万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(ナカジマ精工) | 約5,162万円 |

| **ナカジマ精工 口座残高** | **約5,162万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(田島フーズ) | 約1,755万円 |

| **田島フーズ 口座残高** | **約1,755万円** |


| 口座 | 残高 |

|:--|--:|

| 桐島遊馬(個人) | 約26,422万円 |

| KY Holdings(法人) | 約19,309万円 |

| KY Live | 約15万円 |

| ナカジマ精工 | 約5,162万円 |

| 田島フーズ | 約1,755万円 |

| **総資産(融資別)** | **約52,663万円** |


*融資借入残高:約23,718万円。品川ローン残高:約6,832万円。桑原彩花、3月末よりフランス・アヴィニョン半年滞在、最終確認済。桐島は4月中旬にヨーロッパ訪問予定。桑原が執筆中の小説『銀色の鳥』、フランスで完成予定。桐島は、桑原と福田の助言を受け、年末に母親に電話することを決意。*


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