第80話 〜NOELの灯〜
十二月十日、木曜日の朝。
時計を握った。
温かい。
昨日の夜に戻った温度が、そのまま朝まで残っていたような温かさだった。
映像は来なかった。
「十二月十日 温/映像なし」
昨日のページを見返した。
「夕 冷 / 夜 温」。
自分で書いた字なのに、他人の記録のように見えた。
*(今日は、いつ冷えるんだろう)*
時計をポケットに入れた。
どこかで冷えるなら、その瞬間を知っておきたかった。
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午前中は、オフィスで書類を片付けた。
橘さんから、朝九時ちょうどにメールが届いていた。
昨日の八王子の件の続きだった。
田島さんの工場に確認したところ、今の充填機で二キロ袋に対応できる。袋代は一袋あたり十八円増えるが、八王子だけでも月に三十キロ近いロスが消える。来月から、猫の多い二団体で試したい。
最後に一行、「昨夜もお茶を入れました」と書いてあった。
*「試してください。お茶、いいですね」*
とだけ返した。
昼前に、西村がソファから声をかけてきた。
「会長、午後、恵比寿の現場、行けるか。工務店から、ちょっと相談があるって」
「相談?」
「床を剥がしたら、下が思ったより傷んでたらしい」
「行く」
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午後二時。
恵比寿の商店街から路地に入って、突き当たり近くの二階建て。
十月の終わりに西村と内見した建物は、足場とブルーシートに覆われていた。
漆喰の白い外壁だけが、シートの隙間から覗いている。
一階の床は、半分が剥がされて、黒い土と古い木の土台が見えていた。
工務店の相沢さんが、懐中電灯でその一角を照らした。
六十過ぎの、日に焼けた親方だ。
「ここです。北側の土台が、三メートルほど腐ってます。昔、裏の雨樋が詰まってたんでしょうな。長いこと水が回ってた」
照らされた木は、指で押せば崩れそうな色をしていた。
「このまま床を張っても、二、三年は持ちます。でも、カフェでしょう。冷蔵庫とエスプレッソの機械を置いたら、いずれここが沈む」
「直すと、いくらですか」
「土台の入れ替えと防腐、それに雨樋のやり直しで、百二十万。工期は一週間延びます」
西村が、手元の工程表を見た。
「一週間延びても、二月の頭には引き渡せる。三月の開店には間に合う」
「やってください」
俺が言うと、相沢さんは少し意外そうな顔をした。
「即決ですな」
「建物の骨組みは、持ち主の仕事なので」
「いや、ありがたい。オーナーさんによっては、見なかったことにしてくれって言う人もいますから」
相沢さんは、懐中電灯を消して笑った。
「この建物、戦後すぐの木造ですよ。柱は全部、今どき手に入らないような檜だ。土台さえ替えれば、あと五十年は持つ」
*(五十年)*
*(美咲ちゃんが、今の瀬川さんより年上になる頃まで)*
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三時半。
店の休憩時間に、瀬川さんが現場に来た。
エプロンの上にダウンを羽織って、両手に紙袋を提げている。
「すみません、遅くなって。皆さん、どうぞ」
紙袋の中身は、ポットに入れたコーヒーと、紙コップだった。
相沢さんと職人さんたちにも配ってから、瀬川さんは剥がされた床を覗き込んだ。
「……ここ、こんなことになってたんですね」
「土台を替えます。一週間延びますけど、開店には間に合います」
「あの、その費用は」
「うちが持ちます。建物の構造の話なので」
「でも」
「瀬川さんが持つのは、カウンターと椅子と、エスプレッソの機械。そういう約束でしたよね」
瀬川さんは、しばらく黙って床の穴を見ていた。
それから、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます。また、施しだって言いそうになりました」
「言ってもいいですよ。そのたびに、違うって言いますから」
西村が、横で笑いをこらえていた。
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職人さんたちが作業に戻ったあと、瀬川さんがもう一つの紙袋を開けた。
中から出てきたのは、真鍮のランプだった。
ガラスの笠が付いた、小さなペンダントライト。
真鍮は飴色にくすんで、笠の縁が一か所だけ欠けていた。
「これ、今のお店の入口に吊るしてあるものです」
「ああ、扉の上の」
「はい。新しいお店でも、入口にはこれを吊るしたくて。相沢さんに、配線をお願いできるか聞きに来たんです」
相沢さんが、作業の手を止めて覗きに来た。
「古い型だね。合羽橋かい」
「はい。お店を始める前の年の冬に、一人で探しに行きました」
「直せるよ。中の配線だけ替えれば、まだ十分使える」
瀬川さんは、ほっとしたようにランプを両手で包んだ。
「このお店、名前がNOELでしょう」
瀬川さんが、俺のほうを見た。
「ええ」
「開店したのが、五年前の十二月なんです。クリスマスの少し前。だから、ノエル」
「それで」
「美咲の名前は、夫がつけました。前に、お話ししましたよね」
「はい」
「離婚して、一人で何かを始めようと思ったとき、最初に自分で名前をつけたのが、このお店でした。だから、NOELは、私がつけた初めての名前なんです」
瀬川さんは、欠けた笠の縁を指でなぞった。
「開店の日の夕方、このランプを初めて点けました。美咲はまだ三つで、扉の前で、ずっと上を見てました。お星さまみたい、って」
「……」
「それから毎日、店を開けるときに点けて、閉めるときに消してます。点いてたら開いてる。消えてたら閉まってる。常連さんは、遠くからでもわかるって言ってくれます」
*(看板より先に、灯で店を覚えてもらっていたんだ)*
「新しいお店の扉の上にも、同じように吊るします。場所が変わっても、灯が同じなら、皆さん迷わずに来てくれる気がして」
相沢さんが、ランプを受け取って言った。
「入口の上に、専用のスイッチを付けとこう。中からでも外からでも点けられるように」
「お願いします」
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瀬川さんに頼まれて、二階にも上がった。
階段は、もう新しい踏み板に替わっていた。
十月に見たときは古い畳だった六畳間が、板張りになっている。
「こっちの四畳半を、美咲の部屋にします」
瀬川さんが、路地側の小さな部屋を指した。
窓が一つ。
開けると、すぐ下に、一階の入口の庇が見えた。
「最初は、奥の静かなほうの部屋にしようと思ってたんです。でも、美咲が、こっちがいいって」
「どうしてですか」
「ここからなら、ランプが見えるからって」
瀬川さんは、窓の下の庇を指さした。
ちょうどその下に、入口の扉の上の、ランプを吊るす金具が付く。
「お店が開いてるあいだは、灯りが点いてる。宿題をしてても、窓から下を覗けば、ママがまだ下にいるってわかるから、って」
西村が、窓の外を見たまま黙っていた。
俺も、何も言えなかった。
*(学童が嫌いだったことを、ずっと言わなかった子だ)*
*(今度は、下に降りなくても、ママがいるとわかる場所を、自分で選んだ)*
「キーボードは、この部屋に置くそうです。西村さんに、ちゃんと言っておいてって言われました」
「……わかりました。置き場所、考えときます」
西村の声が、少しだけかすれていた。
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帰り際、瀬川さんがカレンダーの手帳を開いた。
「桐島さん、西村さん。開店日、決めました」
「いつですか」
「三月二十日、土曜日です」
瀬川さんは、手帳のその日を指で押さえた。
「今のお店は、三月十四日の日曜日で閉めます。次の一週間で引っ越しをして、二十日に開ける。美咲の春休みが始まる前に、二階の暮らしに慣れさせたいんです」
「二十日なら、引き渡しから一ヶ月半ありますね」
西村が工程表を見ながら言った。
「十分です。看板も、新しく作らずに、今のを持っていきます」
「NOEL、そのままで」
「そのままで」
瀬川さんは笑った。
それから、少しだけ声を落とした。
「それと、明日なんですけど。本当に、来てくださるんですか」
「行きます。西村も」
「美咲、昨日の夜から、そわそわしてて。ご飯の途中で、急に指を動かし始めるんです。テーブルの上で」
西村が、少し顔を赤くした。
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明日は、美咲ちゃんの小学校の音楽発表会だった。
二年生のクラスの合唱で、美咲ちゃんがピアノの伴奏をする。
十月の終わり、中華屋で西村が「俺、ピアノやってたよ」と言ったのが始まりだった。
次の週、美咲ちゃんは学校の音楽の先生に、自分も弾いてみたいと言いに行ったらしい。
昼休みの音楽室で、聞いた曲をそのまま指で探す美咲ちゃんを見て、先生が伴奏を任せてみようと決めた。
伴奏の楽譜は、先生が二年生でも弾けるように、左手を和音だけに直してくれた。
家にピアノはない。
十一月の頭に、西村が実家から古い電子キーボードを持ってきた。
小学生の頃、西村がピアノ教室の宿題を練習していたものだ。
それから毎週日曜、NOELの閉店後に、西村はカウンターの横で美咲ちゃんの指使いを見ていた。
俺は、そのことを、十一月の半ばに瀬川さんから聞くまで知らなかった。
「なんで言わなかったんだ」
現場からの帰り道、西村に聞いた。
「言うほどのことじゃない」
「毎週日曜だろ」
「だから、言うほどのことじゃないって」
西村は、コートのポケットに手を突っ込んで歩いた。
「俺が教えてるのは指の置き方だけだよ。弾いてるのは、あの子だ」
路地を抜けて、商店街に出た。
夕方の買い物客で、八百屋の前が混んでいた。
「なあ、会長」
「うん」
「お前、最近、競馬の話しなくなったな」
足が、半歩だけ遅れた。
「そうか」
「前はさ、月曜の朝に、週末のレースの話をしてたろ。当たったとか、あの馬はいいとか。十一月くらいから、全然しない」
「忙しいからな」
「ツグミナクのことも、樋口さんからの電話の話しかしない」
西村は、前を向いたまま歩いていた。
「別に、詮索してるわけじゃない。お前が賭けをやめたなら、それはそれでいいと思ってる。ただ、なんか、静かになったなって」
「……静かになったか」
「うん。悪い意味じゃなくてな」
*(西村は、時計のことを知らない)*
*(知らないまま、時計が弱っていく音を、俺の口数で聞いている)*
「来年になったら、話すよ。色々と」
「おう。来年な」
西村は、それ以上は聞かなかった。
信号が変わって、二人で横断歩道を渡った。
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オフィスに戻ると、山下さんが恵比寿の物件のファイルを開いて待っていた。
西村が、工務店からの見積もりを渡した。
「追加の百二十万円、承知しました。取得額と改装費の合計に乗せると、利回りは三パーセントを少し割ります」
「割るか」
「二・九五パーセントほどです。品川や白金の物件と比べると、数字だけでは説明しにくい物件になります」
山下さんは、責める口調ではなかった。
事実を事実として置いただけだった。
「説明しにくい物件が、一つくらいあってもいいと思うんです」
「そうおっしゃると思っていました」
山下さんは、ファイルの端に何か書き込んだ。
「ただ、銀行に聞かれたときのために、一行だけ用意しておきます。『戦後の檜造り、土台更新により耐用年数延長』。これで、数字の説明はつきます」
「助かります」
「業務上、当然のことです」
*(山下さんは、俺の甘いところを、いつも数字に翻訳してくれる)*
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夕方、帰りの車の中で、ポケットの時計に触れた。
冷えていた。
*(いつ冷えたんだろう)*
確かめるつもりでポケットに入れていたのに、気づかなかった。
現場の床の穴を見ていたときか。
瀬川さんのランプの話を聞いていたときか。
ノートを出して、「十二月十日」の欄に書き足した。
「午後のどこかで 冷」
書きながら、それでいい気がした。
気づかないうちに冷えていた午後のほうが、今日はずっと大事だった。
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十二月十一日、金曜日。
時計は、冷たかった。
「十二月十一日 冷/映像なし」
吉野さんの車で、西村を拾ってから学校へ向かった。
学校の少し手前で降ろしてもらうとき、吉野さんがルームミラー越しに言った。
「発表会ですか」
「知り合いの子が、ピアノを弾くんです」
「それは、いいですね。うちの下の娘も、二年生のときに鍵盤ハーモニカで前に出ました。家内より私のほうが緊張して、ビデオを撮り忘れまして」
後部座席で、西村が小さく咳払いをした。
「……撮り忘れないようにします」
「西村さんが弾くわけではないでしょう」
「いや、そうなんですけど」
吉野さんが、珍しく声を出して笑った。
十時十五分。
恵比寿の住宅街の中にある、区立の小学校。
学習発表会の日は、保護者だけでなく地域の人も体育館に入れる。
受付で名前を書いて、来校者の名札を胸に付けた。
体育館の中は、パイプ椅子が二百ほど並べられていた。
前のほうは保護者でほとんど埋まっている。
ビデオカメラを三脚に立てた父親もいた。
瀬川さんは、前から五列目の端に座っていた。
店は昼から開けると、昨日言っていた。
俺と西村は、いちばん後ろの列に並んで座った。
西村は、座ってから一度も背もたれに背中をつけなかった。
「お前が緊張してどうする」
「してない」
「膝、揺れてるぞ」
西村は、両手で膝を押さえた。
一年生の合奏が終わって、二年生が舞台に上がった。
三十人ほどの子どもたちが、三段のひな壇に並ぶ。
舞台の下手に、黒いアップライトピアノ。
美咲ちゃんが、その前に座った。
紺のスカートに、白いブラウス。
髪を後ろで一つに結んでいる。
椅子の高さを、先生が一度直してくれた。
美咲ちゃんは鍵盤の上に両手を置いて、客席のほうを一度だけ見た。
五列目の端を探しているのがわかった。
前奏が始まった。
小さな音だった。
でも、一つ一つの音が、ちゃんと粒になって体育館の後ろまで届いた。
子どもたちが歌い出す。
美咲ちゃんの左手が、和音を一つずつ置いていく。
二番に入ったところで、音が止まった。
一秒か、二秒。
美咲ちゃんの指が、鍵盤の上で迷っていた。
歌っている子どもたちの声が、伴奏を失って少し揺れた。
隣で、西村が息を止めたのがわかった。
膝を押さえていた手が、ズボンの布を握りしめていた。
美咲ちゃんは、手を鍵盤から離さなかった。
顔を上げて、ひな壇の真ん中で指揮をしている先生を見た。
先生が、小さく頷いた。
次の小節の頭から、和音が戻った。
さっきより、少しだけ大きな音だった。
子どもたちの声が、それに追いついた。
あとは、最後まで止まらなかった。
最後の和音が体育館の天井に吸い込まれて、拍手が起きた。
美咲ちゃんは、椅子から立って、ぺこりと頭を下げた。
五列目の端で、瀬川さんがハンカチを目に当てているのが見えた。
隣を見ると、西村は拍手をしていなかった。
両手を膝の上で握ったまま、舞台を見ていた。
「……戻ったな」
西村が、ぽつりと言った。
発表会が終わって体育館を出るとき、瀬川さんが後ろの列まで来てくれた。
ハンカチを握ったまま、目が赤い。
隣に、三十代くらいの女性の先生がいた。さっき舞台で指揮をしていた人だ。
「美咲の担任の、小野先生です。音楽も見てくださっていて」
「美咲さんのお母さんから伺いました。日曜日に、指使いを見てくださっていた方ですね」
小野先生は、西村に頭を下げた。
「いえ、俺は、ほんの少し」
「美咲さん、昼休みのたびに音楽室に来て、『ピアノのお兄ちゃんが、止まったら先生の顔を見ろって言った』って、何度も言ってたんです。だから、私も、止まったら頷こうと決めていました」
西村は、何か言おうとして、言葉が出てこないようだった。
小野先生は、それを見て、少し笑った。
「美咲さんの番、来年もお願いしようと思っています」
「……よろしくお願いします」
西村が、深く頭を下げた。
小学校の体育館の出口で、三十一の男がそうしているのは、少しおかしな光景だった。
でも、誰も笑わなかった。
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学校を出て、駅のほうへ歩いた。
十二月の昼の空は、薄く晴れていた。
西村は、しばらく何も喋らなかった。
商店街の入口の自販機で、温かい缶コーヒーを二本買って、一本を俺に寄こした。
「俺さ、ピアノ、やめた理由、話したことあったっけ」
「ない。やってたことも、十月まで知らなかった」
「だよな」
西村は、缶を両手で握った。
「小五の発表会。市民会館の小さいホールでさ。親父が、初めて見に来たんだよ。いつも仕事で来られなかったのに、その年だけは、休みを取って」
「うん」
「俺の番の前に、親父の携帯が鳴ったんだ。客席の真ん中で。親父、慌てて外に出ていった。仕事の電話だった」
「……」
「俺、舞台に出て、弾き始めて。途中で、客席の真ん中の空いてる席が目に入った。そしたら、指が止まった」
西村は、缶のプルタブを開けずに、指でいじっていた。
「さっきの美咲ちゃんみたいに、一秒か二秒なら、よかったんだけどな。俺は、戻れなかった。頭が真っ白になって、どこを弾いてたのかわからなくなって。先生が舞台の袖から出てきて、俺は、お辞儀だけして引っ込んだ」
「それで、やめたのか」
「次の月にな。親父には、何も言わなかった。もう飽きた、って言って」
西村は、ようやくプルタブを開けた。
「親父は、高校のときに謝ってきたよ。あの日のこと、ずっと気にしてたって。今は、正月に酒が入ると、向こうから笑い話にする」
「そうか」
「だからさ、恨んでるとかじゃないんだ。ただ、最後まで弾けなかったっていうのが、ずっと、どこかに引っかかってた」
西村は、缶コーヒーを一口飲んだ。
「あの子に、止まってもいいから、最後まで弾けって言ったんだよ。日曜の練習で、毎回。止まったら、先生の顔を見ろ。それで、次の小節の頭から入れって」
「……さっき、その通りにしてた」
「してたな」
西村は、少しだけ笑った。
目の端が、赤くなっていた。
「俺ができなかったことを、あの子がやった。それで、なんか、二十年分、片付いた気がする」
*(西村は、こういう話を、二十年以上ひとりで持っていたんだ)*
*(大学で知り合って十年近く、俺は一度も聞かなかった)*
缶コーヒーの温かさが、手のひらにしみた。
西村の父親は、客席から出ていって、高校のときに謝った。
俺の父は、俺の借金を黙って肩代わりして、それから、俺のほうが会いに行かなくなった。
もう四年になる。
謝るべきなのは、たぶん、俺のほうだった。
*(父の誕生日は、十二月二十八日だ)*
ポケットの時計を握った。
冷たかった。
時計に聞いても、答えが出る種類の話ではなかった。
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夕方の四時。
NOELに寄った。
扉の上で、あの真鍮のランプが点いていた。
まだ明るい路地の中で、ガラスの笠の内側だけが、ぼんやりと橙色に光っていた。
*(点いてたら、開いてる)*
扉を開けると、カウンターの端に美咲ちゃんが座っていた。
ランドセルを足元に置いて、両手でホットミルクのカップを持っている。
「あ、犬のお兄ちゃん。と、ピアノのお兄ちゃん」
西村が、来る途中の花屋で買った小さな花束を差し出した。
白と黄色の、手のひらに乗るくらいの束だった。
「美咲ちゃん、お疲れさま」
美咲ちゃんは花束を受け取って、それから下を向いた。
「……止まっちゃった」
「止まったな」
「みんな、歌えなくなっちゃった」
「でも、戻った」
西村は、カウンターの前にしゃがんで、美咲ちゃんと目の高さを合わせた。
「止まったあと、先生の顔、見ただろ。それで、次の頭から入った。あれ、一番難しいんだぞ。俺は、できなかった」
「ピアノのお兄ちゃんも、止まったことあるの?」
「ある。それで、やめちゃった」
「えー」
「だから、美咲ちゃんのほうが、俺よりすごい」
美咲ちゃんは、花束を胸に抱えたまま、しばらく西村を見ていた。
それから、急に顔を上げた。
「じゃあ、また弾く。三年生の発表会も、弾く」
「おう」
「新しいお店の二階で、練習する。キーボード、持っていっていい?」
「あれは、もう美咲ちゃんのだ」
カウンターの中で、瀬川さんが、こちらに背中を向けてコーヒーを淹れていた。
肩が、少しだけ震えていた。
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夜。
タワーマンションのリビングで、ノートを開いた。
「十二月十一日 冷/映像なし」
その下に、何か書こうとして、やめた。
今日見たものは、温度でも番号でもなかった。
この三年、ノートに書いてきたのは、時計が見せてくれたものばかりだった。
十月までは、時計が何も見せてくれない日に起きたことを、一行も残していなかった。
*(それも、書いておけばよかったのかもしれない)*
結局、一行だけ足した。
「美咲ちゃん、最後まで弾いた」
スマートフォンが光った。
桑原さんからだった。
*「明日、ふくろうで。お見せしたいものがあります」*
*「楽しみにしています」*
*「少しだけ、緊張しています。誰にも見せたことのないものなので」*
その一文を、しばらく眺めていた。
桑原さんが「緊張している」と書いてきたのは、知り合ってから初めてだった。
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**── 残高メモ(第80話)──**
| この話の動き | 金額 |
|:--|--:|
| 恵比寿新店舗 土台入れ替え・雨樋改修の追加工事(KY Holdings負担) | ▲約120万円 |
| 花束・缶コーヒー・タクシー等(個人) | ▲約1万円 |
*※この話の収支は、次話の残高メモの「生活費等」に含めて通算する。*




