第79話 〜橘の選択〜
十二月の第二週、水曜日の朝。
目が覚めて、枕元の懐中時計を握った。
温かい。
ぼやけていた。
でも、温かい。
*(朝、温かいのが嬉しい)*
最近は、こういうぼやけた朝が増えている。
冷たい日と、ぼやけた温かい日が半々くらい。
はっきり鮮明な日は、月に数回しかなくなっていた。
それでも、温かいだけでありがたいと感じるようになっていた。
映像は、川崎の競輪場だった。
バンクを回る色とりどりのユニフォーム。最終周の第四コーナーで、外から二人が並んで上がってくる。
ゴール前の番号が、かろうじて読めた。
ノートに記録をつけた。
「十二月九日 温/ぼやけ/川崎競輪/対面の日」
窓のカーテンを開けた。
十二月の朝。
寒さが本格的になっていた。
五十階の窓の下で、街路樹はほとんど裸になっている。
ペンを置く前に、もう一行だけ書き足した。
「橘さん、オフィスへ」
---
九時。
吉野さんが迎えに来た。
「会長、おはようございます」
「おはようございます。今日は事務所まで」
「承知いたしました」
車が動き出してから、スマートフォンで車券を買った。
朝の映像の番号を、二車単で三万円。
ぼやけた日は、それ以上は張らないと決めている。
十月の府中で、温度だけを信じて大きく張った。あの日の手の震えは、まだ指先が覚えていた。
画面を閉じて、ジャケットの内ポケットに手を入れた。
小さな紙袋が入っていた。
昨日買っておいた、橘さんへのささやかな品物。
茶葉だった。
京都の老舗の玉露。
西村が「俺、何か買っていく」とずっと言っていた。
でも結局、西村はお土産を選びきれなかった。
悩みすぎて両親に相談し、「親父が頭悩ませた挙句、決めかねた」と笑いながら報告してきた。
俺が代わりに選んだ。
茶葉なら、橘さんの在宅勤務でも邪魔にならない。
香りで楽しめる。
依存性の少ない、ほどほどの嗜好品。
*(退所から、もう一ヶ月以上たっている。遅すぎる退所祝いだ)*
先月、横浜で会ったときの橘さんは、まだ少し人の目を避けるように話していた。
仕事の段取りを決めて、二週間前から在宅で動いてもらっている。
送られてくる数字は、昔と同じで正確だった。
でも、オフィスに来るのは今日が初めてだ。
あの扉をくぐるのは、橘さんにとって、たぶん数字よりずっと重い。
---
オフィスに着いた。
会議室を押さえてあった。
橘さんとの、オフィスでの対面の初回。
午前十時開始。
西村が、もう来ていた。
いつもより少しだけ緊張した顔をしている。
「会長、おはよう」
「おはよう」
「橘、もうすぐ来るかな」
「あと二十分くらいだろう」
西村が椅子に深く座った。
「俺、ちゃんと向き合えるかな」
「向き合うって、何を」
「俺、橘の横領がわかったとき、ショックで、しばらくあいつを避けてた。後ろめたかった」
「西村、お前のせいじゃない」
「わかってる。でも、感情として」
「今日ちゃんと迎えればいい。それで十分」
西村が頷いた。
「うん」
*(西村は、先月の横浜には行っていない)*
*(こいつにとっては、今日が一年半ぶりなんだ)*
山下さんが会議室に入ってきた。
いつものスーツ姿で、ファイルを抱えている。
「会長、おはようございます。橘さん、もうすぐ到着の予定です」
「了解」
「雇用契約書、最終版をお持ちしました。本日ご署名いただく予定です」
「了解」
ソファに座って、コーヒーを待った。
壁の時計が九時五十分を指していた。
---
九時五十五分。
会議室の扉がノックされた。
「失礼します」
橘さんの声だった。
このオフィスで聞くのは、一年半ぶりの声。
扉が開いた。
橘さんが入ってきた。
ここにいた頃とは、見た目が違っていた。
少し痩せている。
でも、目つきがしっかりしていた。
長めだった髪を短く切っていた。
黒いシンプルなジャケットに、小さな書類カバン。
先月横浜で会ったときより、顔色もいい。
「会長、ご無沙汰しております」
橘さんが深く頭を下げた。
「橘さん、ここでは、お久しぶり」
俺は立ち上がった。
西村も椅子から立ち上がった。
「橘」
「西村さん、お久しぶりです」
「お前、痩せたな」
「あさひ荘で規則正しい生活をしていたので、減りました」
「お前、前より、ちゃんとしてる」
「ありがとうございます」
西村が橘さんに近づいた。
橘さんが、少しだけ緊張した顔をした。
でも、すぐに表情を戻した。
西村が、橘さんの肩を軽く叩いた。
「戻ってきてくれて、嬉しい」
橘さんは、しばらく黙っていた。
「……ありがとうございます」
西村の目が潤んでいた。
でも、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「さあ、座って」
橘さんが椅子に座った。
俺の隣の席だった。
以前、会議のたびに橘さんが座っていた席だ。
---
山下さんがコーヒーを入れに行った。
会議室に、四人が座った。
橘さんの手が、軽く震えていた。
膝の上で両手を握ったまま。
顔は落ち着いている。
でも体のほうは、まだ緊張を引きずっていた。
俺は橘さんの手を見て、何も言わなかった。
長い一年半のあいだ、橘さんが自分の体と向き合ってきたことがわかった。
山下さんが、コーヒーを入れて戻ってきた。
「会長、雇用契約書、ご確認をお願いします」
俺はファイルを開いた。
月給四十万円。
業務委託ではなく、雇用契約。
在宅勤務が基本で、月一回出社。
業務内容はデータ分析。
契約期間は一年、更新あり。
有給休暇、社会保険、すべて適用。
この二週間は、試用期間として業務委託という形で在宅の仕事をしてもらっていた。
今日から、正式にKY Holdingsの社員に戻る。
「橘さん、ご確認ください」
山下さんが、橘さんにファイルを渡した。
橘さんが、ゆっくりと書類を読んだ。
一枚ずつ、条項の番号を指でなぞりながら。昔からの読み方だった。
「会長、本当に、月四十万円もいただいてよろしいのですか」
「うん」
「私、自信がないんです」
「何の」
「四十万円分の価値を、生み出せるか」
「橘さん、自信、なくていい」
「えっ」
「最初は自信なくていい。半年やってみて、自信がついたら報告して。報酬を上げる」
「報酬を、上げる、ですか」
「うん。橘さんの自信が五十万円分になったら、五十万円。百万円分になったら、百万円」
「……」
「逆に、もし橘さんが休む必要が出てきたら、すぐに休む。給与は変動するかもしれない。でも、続けていい」
橘さんが、しばらく書類を見ていた。
「……ありがとうございます」
「サイン、お願いします」
橘さんがペンを取った。
ゆっくりとサインした。
慎重に、丁寧に。
最後の一画を書き終えたとき、小さく息を吐いたのが聞こえた。
雇用契約書が完成した。
---
契約の手続きが終わったあと、俺は橘さんに業務の話をした。
先月、横浜で頼んだことを、正式な業務として確認しておきたかった。
「橘さん、当面の仕事は二つ」
「はい」
「一つ。KY Pet Foodsのシェルター別、フード消費分析。各団体の月次データから、消費パターンとロスを洗い出す。改善の提案を、毎月レポートしてほしい」
「了解しました」
「二つ。FORECASTのユーザー行動分析。年明けから、小林さんの新アルゴリズムが本番に実装される。実装前後のユーザー行動の変化を追って、レポートしてほしい」
「了解しました」
「両方とも月次レポート。形式は橘さんにお任せ」
「ありがとうございます」
「業務量、足りますか」
「いえ。この二週間やってみて、これだけで月四十時間程度です。私の能力なら、月百時間はできると思います」
「では、追加の業務を徐々に」
「お願いします」
橘さんが頷いた。
西村が、ふと聞いた。
「橘、お前、シェルターのほう、興味あるんだろ」
「ええ」
「会長から聞いた。シェルターの数字、分析したいって」
「はい。手紙にも書きました」
「データ以外でも、シェルターの活動に関わりたい?」
橘さんは、しばらく考えてから答えた。
「直接の対人接触は、まだ難しいかもしれません。でも、データを見れば、各団体の現場が見えてきます。それで私自身も、何か繋がっていると感じられるかもしれません」
「いいじゃん」
「西村さん」
「うん」
「私、またKY Holdingsの一員になれて、嬉しいです」
橘さんの声が、少しだけ震えていた。
「私、ここに戻れるとは、思っていませんでした」
「橘」
「はい」
「お前、いつもデータの話してくれて。俺、それ、楽しかったよ」
「西村さんも、いつも変な話をしてくれて。私、それ、楽しかったです」
西村が笑った。
橘さんも笑った。
俺と山下さんも笑った。
*(戻ってきた)*
*(みんなで、戻ってきた)*
---
お昼。
四人で、近くの定食屋に行った。
駅の東口から一本入った路地の、「たかの」という古い店だ。
久しぶりの、全員での食事だった。
暖簾をくぐると、女将さんがカウンターの奥から顔を上げた。
七十近い、小柄な人だ。
「いらっしゃい。……あら」
女将さんの目が、橘さんで止まった。
「煮魚のお兄さんじゃない。しばらく見なかったね」
橘さんの肩が、一瞬固くなった。
西村が何か言いかけたのを、俺は目で止めた。
「少し、体を壊していました」
橘さんは、自分の口でそう言った。
「そう。もういいの」
「はい。よくなりました」
「なら、よかった。座んなさい」
女将さんはそれ以上聞かずに、奥の四人席を拭いてくれた。
橘さんが煮魚定食を頼んだ。
西村は唐揚げ定食。
俺と山下さんはハンバーグ定食。
「橘、変わってないな。煮魚」
「西村さんも変わってないですね。唐揚げ」
「だな」
西村が笑った。
定食が来た。
橘さんの盆にだけ、頼んでいない小鉢が一つ載っていた。ほうれん草のおひたし。
女将さんは、何も言わずにカウンターへ戻っていった。
橘さんが、ご飯をゆっくりと食べていた。
よく噛んでいる。
一年半の回復プログラムで、食べ方も変わったのかもしれない。
「あさひ荘って、飯はどうだったの」
西村が聞いた。
聞いていいのか迷ったあとの、わざと軽くした声だった。
「当番制でした。料理も、掃除も、お茶も」
「お茶?」
「朝食のあとに、全員分のお茶を入れる当番があるんです。入所者が二十人ちょっと。私、ほとんど毎朝それをやっていました」
「毎朝? 当番なのに?」
「最初は順番だったんです。でも、私が入れると、ぬるすぎず熱すぎず、ちょうどいいと言われて。それで、いつのまにか」
橘さんは、湯呑みを両手で持った。
「二十人分を入れて、最後に急須に残った出がらしを、自分の湯呑みに注いでいました。それで十分だと思っていたんです」
「出がらし」
「職員の方に、一度言われました。『橘さん、自分の分は、自分のために入れなさい』って」
西村が箸を止めた。
「それで」
「できませんでした。最後まで」
橘さんは、少し笑った。
「人のために何かをしているほうが、楽だったんです。自分のために何かをすると、自分にはそんな資格がないような気がして」
山下さんが、静かに湯呑みを置いた。
「橘さん。それは、回復のプログラムでも扱う話でしたか」
「はい。何度も。頭ではわかっているんですけど」
*(横領した金を、橘さんは自分のためにはほとんど使っていなかった)*
*(全部、賭け事に溶かしていた。自分を痛めつけるみたいに)*
俺は、ジャケットの内ポケットから紙袋を出した。
「これ、退所祝い」
「えっ」
「西村が選びきれなかったから、俺が代わりに」
「いや、それは違うって、会長」
西村が慌てた。
「俺も選ぼうとしたけど、間に合わなくて。会長、ありがとう」
「西村さん」
橘さんが紙袋を受け取って、中を覗いた。
「玉露」
「ええ。京都の老舗の」
「私、お茶、好きです。よく覚えてくれていましたね」
「橘さんは、たまにコーヒーじゃなくて、お茶を入れていたから」
「……ありがとうございます」
橘さんが頭を下げた。
「西村さん、ありがとうございます」
「いや、俺じゃない。会長だ」
「お二人とも、ありがとうございます」
橘さんの指が、また軽く震えていた。
でも、目はしっかりとこちらを見ていた。
会計のとき、女将さんが橘さんに言った。
「また来なさいよ。煮魚、冬は鰈だからね」
「はい。来ます」
橘さんの返事は、会議室にいたときより、少しだけ大きかった。
---
店を出ると、西村と山下さんは銀行に寄ると言って、駅のほうへ曲がっていった。
橘さんと二人で、オフィスまでの坂を歩いた。
十二月の昼の日差しは弱かった。
橘さんは、コートの襟を立てて、少し前を見ながら歩いていた。
「会長、一つだけ、ご報告しておきたいことがあります」
「うん」
「スマートフォンから、賭け事のアプリは全部消しました。ネット投票の口座も解約しました。銀行の口座は、山下さんにお願いして、一日に引き出せる額に上限をかけてもらっています」
「山下さんに」
「はい。先月、退所の手続きのあとに。私から頼みました」
*(山下さんは、そのことを俺に一言も言わなかった)*
*(言う必要がないと判断したんだろう。橘さんの話だから)*
「それでも、駅の売店でスポーツ新聞の見出しが目に入ると、まだ少し心臓が速くなります。競輪の字を見ると、特に」
ジャケットの内ポケットで、スマートフォンが重く感じた。
朝、車の中で買った川崎の車券が、その中に入っている。
「……橘さん。俺は今も、賭けてる」
「存じています」
橘さんは、足を止めなかった。
「会長は、賭けていても溺れない。昔の私は、それが不思議で、羨ましかったんです。同じことをしているのに、どうして自分だけが沈むのかと」
「……」
「でも今は、羨ましくないです。会長には会長の何かがあって、私には私の体がある。それだけのことだと、あさひ荘で思えるようになりました」
*(会長の何か)*
橘さんは、それ以上は言わなかった。
時計のことを知っているわけではない。
ただ、俺の勝ち方が普通でないことは、数字を扱っていた人間なら気づいていておかしくなかった。
「だから、会長が賭けていることで、私に気を遣わないでください。私の前で、競馬の話をしてくださっても大丈夫です」
「わかった」
「そのかわり、私が変な顔をしたら、話題を変えてください」
「それも、わかった」
橘さんが、小さく笑った。
坂の上に、オフィスのビルが見えてきた。
*(橘さんは、自分の弱さの扱い方を、自分で決めている)*
*(俺は、自分の時計の扱い方を、まだ何も決めていない)*
---
午後。
オフィスに戻った。
橘さんは、自分のデスクに座った。
一年半前と同じ席だ。
パソコンを立ち上げて、メールを確認していた。
小林さんが、自分の席から椅子ごと滑ってきた。
「橘さん、お帰りなさい」
「小林さん。ご無沙汰しています」
「FORECASTのログ、閲覧権限を付けておきました。会員の行動データは、去年から列が三つ増えてます。わからなかったら聞いてください」
「ありがとうございます」
「あと、橘さんが前に作った曜日別の解約率の集計。あれ、まだ毎月使ってます」
橘さんが、驚いたように小林さんを見た。
「まだ、使っていただいているんですか」
「よくできてたんで。式が一個も壊れてない」
小林さんはそれだけ言って、また椅子ごと戻っていった。
橘さんは、しばらく自分の画面を見つめていた。
*(小林さんは、褒めるときも、数字でしか褒めない)*
*(だから、効く)*
二時を回った頃、橘さんが一枚の表を持ってきた。
「会長、まだ途中なんですが、一つだけ」
「どうぞ」
「八王子の『いのちの家』さんです。届けているフードの量に対して、消費の記録が毎月八パーセントほど足りません」
「八パーセント」
「最初は記録漏れかと思いました。でも、高木さんに電話で伺ったら、十キロの大袋を開けたあと、湿気で最後のほうが傷んでしまうそうです。猫の数が多い団体ほど、ずれが大きい」
「捨ててるってことか」
「はい。高木さんは、申し訳なくて言い出せなかったと」
橘さんは、表の下の段を指した。
「工場で二キロの小袋に詰め直せば、袋代は増えますが、ロスの分で十分に元が取れます。田島さんの工場の充填機で対応できるか、確認していただけますか」
「わかった。山下さんから田島さんに聞いてもらう」
*(電話で、高木さんに直接聞いたのか)*
*(対人はまだ難しい、と言っていたのに)*
橘さんは、自分の席に戻っていった。
表の端に、小さな字で「要確認:冬場は消費一・二倍」と書き込んであった。
俺は、隣の自分のデスクでメモを見ていた。
「会長」
「うん」
「ここの席、空けておいてくださって、ありがとうございました」
「いつでもいられるように、空けておいた」
「ありがとうございます」
橘さんが画面に目を戻した。
*(橘さんの席が、また埋まった)*
*(事務所の景色が、また戻った)*
---
三時過ぎ。
スマートフォンに通知が来た。
川崎の結果だった。
朝の映像の番号が、そのまま並んでいた。
二車単、二十六倍。
三万円が七十八万円になった。
*(ぼやけていても、まだ当たる)*
喜ぶより先に、ほっとした。
当たる日と当たらない日の見分けが、もう自分にはつかない。
だから、外れても痛くない額しか張れない。
時計が強かった頃なら、同じ映像にこの何十倍も乗せていた。
ポケットの中の時計に触れた。
冷たくなっていた。
*(朝は、温かかったのに)*
時計が昼のうちに冷えるのは、初めてではない。
でも、こんなにはっきり冷え切っているのは珍しかった。
---
夜の六時。
橘さんが帰り支度を始めた。
「会長、本日はありがとうございました」
「うん」
「来週、また来ます」
「来週、出社は決まってないけど、いいの」
「ええ。月一と言っても、最初は頻度を上げたほうがいい気がします」
「了解。じゃあ、来週また」
「はい」
橘さんがジャケットを着て、書類カバンを持って、扉を開けた。
西村が立ち上がって、扉のところまで見送った。
「橘、お疲れ」
「西村さん、お疲れ様でした」
「明日から、横浜からデータ送ってくれよ」
「もちろんです」
「お前、また、データの話いっぱい聞かせてくれ」
「はい」
橘さんが深く頭を下げて、出ていった。
扉が閉まった。
西村が、しばらく扉を見つめていた。
「会長」
「うん」
「今日、よかった」
「うん」
「あいつ、ちゃんと戻ってきた」
「うん」
「俺、あいつのこと、忘れないでいてよかった」
「うん」
西村が自分のデスクに戻った。
*(西村は、いつも感情をちゃんと言葉にする)*
*(それが、西村のいいところだ)*
帰り際、山下さんが書類を鞄にしまいながら言った。
「会長。お茶の話、よかったと思います」
「玉露のこと?」
「いえ。橘さんが、ご自分から話されたことです。あの方は以前、自分の話を一度もなさらなかった」
山下さんは、それだけ言って一礼した。
---
夜の九時。
タワーマンションのリビング。
窓の外に、東京の夜景が広がっていた。
十二月の夜は、本当に冷たい。
懐中時計をテーブルに置いた。
握ってみた。
温かかった。
驚いた。
夕方には冷たくなっていた。
夜になって、温度が戻っていた。
*(温度が、変動するようになった)*
*(昼に冷たくなって、夜に温まる)*
*(時計が、不安定になっている)*
ソファに座って、コーヒーを淹れた。
スマートフォンに、橘さんからLINEが来ていた。
*「会長、本日は本当にありがとうございました。横浜の自宅に無事戻りました。明日から、しっかりと業務に入ります」*
*「お疲れさま」*
*「会長」*
*「うん」*
*「お茶、入れて飲みました」*
*「いい香りでしたか」*
*「ええ。久しぶりに、自分のために、お茶を入れました」*
画面を見たまま、しばらく指が動かなかった。
*(橘さんが、自分のためにお茶を入れた)*
*(二十人分の最後の出がらしじゃなく、一杯目を、自分の湯呑みに)*
*(一年半前の橘さんなら、自分に何かをする余裕はなかった)*
*「橘さん、これからも、自分のためにお茶を入れてください」*
*「はい」*
短い返信だった。
でも、橘さんの意思が伝わってきた。
---
窓を開けた。
冷たい夜風が入ってきた。
遠くで、十二月の夜の街の音がしていた。
*(橘さんが、戻ってきた)*
*(時計が、衰えている)*
*(同じときに、両方が起きている)*
*(戻ってくるものと、消えていくもの)*
*(人生の収支は、いつもこうなのかもしれない)*
窓を閉めて、ノートを開いた。
朝に書いた一行の下に、書き足した。
「夕 冷 / 夜 温」
一日のうちに、二度、温度が変わった。
三年分のノートの中で、こんな書き方をした日は一度もない。
時計は、朝と夜で、別の答えを出すようになった。
どちらを信じればいいのか、俺はもう、わからなくなりかけていた。
---
**── 残高メモ ──**
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 12月初旬 ギャンブル収益(温度低下のため少なめ) | +約120万円 |
| 個人費用(玉露・タクシー等) | ▲約2万円 |
| 前話繰り越し(個人) | 約26,227万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約26,345万円** |
*時計の温度が、日内変動するように。朝温かく、夕方冷たく、夜に再び温まる、ような不安定な日が出現。*
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 桐島個人より追加出資(12月分) | +5,000万円 |
| 前話繰り越し(法人) | 約14,309万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約19,309万円** |
*12月、桐島個人からの追加出資5,000万を実行(累計1.5億完了)。橘修、本日対面復帰。雇用契約締結。月給40万・在宅勤務。休職前と比べ、体重減・髪型変化はあるも、本人意思はしっかり。*
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(KY Live) | 約15万円 |
| **KY Live 法人口座** | **約15万円** |
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(ナカジマ精工) | 約5,162万円 |
| **ナカジマ精工 口座残高** | **約5,162万円** |
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(田島フーズ) | 約1,755万円 |
| **田島フーズ 口座残高** | **約1,755万円** |
| 口座 | 残高 |
|:--|--:|
| 桐島遊馬(個人) | 約26,345万円 |
| KY Holdings(法人) | 約19,309万円 |
| KY Live | 約15万円 |
| ナカジマ精工 | 約5,162万円 |
| 田島フーズ | 約1,755万円 |
| **総資産(融資別)** | **約52,586万円** |
*融資借入残高:約23,718万円。品川ローン残高:約6,832万円。橘修、対面復帰完了。総資産が初めて5億2千万円を突破。桐島個人からの計画出資(5,000万×3回=1.5億)が、本日で完了。*




