第78話 〜春が来る〜
二〇二七年、一月一日、元旦の朝。
目が、覚めた。
窓のカーテンが、薄く、白く、滲んでいた。
元旦の、東京の朝の光。
しばらく、布団の中で、目を、開けたまま、ぼんやりと、していた。
ふと、枕元に、手を、伸ばした。
懐中時計が、ない。
*(そうだ。昨日、返した)*
空になった、ナイトテーブルの、上を、見た。
二年半、毎朝、ここに、置いていた時計が、ない。
寂しくは、なかった。
ただ、習慣が、空白に、なった感じ。
体を、起こした。
ベッドから、降りた。
元旦の朝の、リビング。
空気が、しん、と、している。
窓の外、東京の元旦の街。
車の音が、いつもの月曜より、ずっと、少ない。
人通りも、ほとんど、ない。
*(年が、明けた)*
*(二〇二七年)*
*(俺は、三十歳になる年)*
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コーヒーを、淹れた。
深煎り。
いつものように。
ソファに、座って、窓の外を、見た。
元旦の青空。
雲が、一つも、なかった。
ふと、瀬川さんからもらった、エチオピアの豆のことを、思い出した。
もう、使い切ってから、一ヶ月以上、経つ。
新しいお店が、来春、開く。
そうしたら、また、瀬川さんの豆を、買えるようになる。
*(三月だな)*
*(瀬川さんの店の、新装オープン)*
*(楽しみだ)*
スマートフォンを、開いた。
昨夜から、年始の挨拶のLINEが、たくさん、来ていた。
山下から。
*「会長、明けまして、おめでとうございます。本年も、よろしくお願い申し上げます。本年は、特別な年になるかと、存じます。お力添えを、続けさせていただきます」*
山下らしい、長めの、丁寧なメッセージ。
返信を、書いた。
*「山下、明けましておめでとうございます。今年も、よろしくお願いします。私の方こそ、いつも、感謝しています」*
既読が、ついた。
ハートのスタンプ。
山下が、スタンプを、使うのは、年に、数えるほど。
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西村から。
*「会長、あけおめ! 今年も、よろしく! 俺、年始、地元に帰省してる。三日に、東京戻る」*
*「西村、明けましておめでとう。気をつけて、帰ってきて」*
*「了解!」*
橘から。
*「会長、明けまして、おめでとうございます。本年も、よろしくお願いします。データ分析、続けます」*
*「橘さん、おめでとうございます。橘さんのお仕事に、いつも、感謝しています」*
*「ありがとうございます」*
小林、藤原、河村、宮本。
KY Holdingsのメンバー、一人ずつ、丁寧に。
中島、健太郎、松田、田島、樋口、高木、田畑、瀬川。
事業パートナー、社外の方々、一人ずつ。
アンちゃん。
*「遊馬くん、あけおめー! 今年も、よろしくね! 配信、もっと、頑張る!」*
*「アンちゃんも、おめでとう。今年、たくさんの人に、声、届けてね」*
桑原さんから。
*「桐島さん、明けまして、おめでとうございます。三月末まで、三ヶ月。桐島さんに、お会いできるのが、楽しみです」*
*「桑原さんも、おめでとうございます。三月末まで、何度か、ふくろうで」*
*「ぜひ」*
ハートのスタンプ。
里中から。
*「桐島さん、明けまして、おめでとうございます。今年も、よろしくお願いします」*
*「里中さん、おめでとうございます」*
吉野さんから。
*「会長、明けまして、おめでとうございます。本年も、よろしくお願い申し上げます」*
*「吉野さん、いつも、ありがとうございます。今年も、よろしく」*
みんなと、年始の挨拶を、交わした。
一時間くらい、かかった。
でも、楽しい時間だった。
---
午後、ふくろうに、向かった。
元旦の練馬。
商店街は、半分くらいの店が、休んでいた。
でも、ふくろうは、開いていた。
福田さんから、「元旦も、開けるよ」と、聞いていた。
扉を、開けた。
常連の、桑原さん以外の、何人かが、いた。
夕方の四時。
昼酒の時間。
「あら、遊馬くん。明けまして、おめでとう」
和代さんが、奥から、出てきた。
「おめでとうございます」
「桑原さんは、来年ね」
「ええ。年明けは、お会いできないので」
「フランス、楽しみだね、桑原さん」
「ええ」
俺は、いつもの席に、座った。
福田さんが、お屠蘇を、置いてくれた。
お正月の、特別な振る舞い。
「遊馬くん、雑煮、食う?」
「ええ、いただきます」
和代さんが、奥から、雑煮を、持ってきた。
関東風の、すまし汁の雑煮。
角餅と、ほうれん草と、鶏肉。
「美味しい」
「うちは、毎年、これね」
「いいですね」
「あんた、実家、いつ、行くの」
「明日、明後日、どっちかで」
「お正月、家族と過ごせるのは、いいことよ」
「はい」
福田さんが、横で、頷いていた。
「電話、できたんだろ」
「ええ」
「お母さん、何て、言ってた」
「『あんた、変わった?』って」
「で、何て、答えた」
「『変わったと、思う』って」
「いい答え方だ」
福田さんが、ぽつりと、言った。
俺は、雑煮を、もう一口、食べた。
---
しばらく、福田さんと、和代さんと、雑談した。
常連の何人かと、軽く、挨拶を、交わした。
みんな、元旦の、リラックスした顔。
帰り際、福田さんが、ぽつりと、言った。
「お前、ヨーロッパ、行くんだろ」
「四月の中旬」
「気をつけて、行ってこい」
「はい」
「桑原さんに、よろしく」
「了解」
扉を、出た。
元旦の夕方の、練馬の街。
まだ、明るかった。
でも、空気が、確かに、冷たい。
タクシーで、南青山に、戻った。
車内で、空のポケットに、ふと、手を、入れた。
時計が、なかった。
慣れない、空白。
*(でも、これも、慣れていく)*
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タワーマンションに、戻った。
リビングに、入った。
窓の外、東京の元旦の夕暮れ。
空が、赤く、染まっていた。
ベランダに、出た。
元旦の風が、頬に、当たった。
冷たい。
でも、清々しい。
遠くで、ヘリコプターの音が、聞こえた。
元旦の、東京。
いつもとは、違う、特別な空気。
空のポケットに、手を、入れた。
ない。
もう一度、入れ直した。
ない。
俺は、ふと、笑った。
*(時計が、ない)*
*(でも、ここに、立っている)*
*(一人で)*
*(みんなが、いる)*
ベランダから、東京の街を、見下ろした。
マンションがいっぱい。
その一つひとつに、人の生活が、ある。
元旦の、家族の時間。
*(俺の家族にも、明日、会いに、行く)*
*(四年ぶり)*
*(怖いけど、行く)*
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ベランダから、リビングに、戻った。
ソファに、座った。
ふと、机の上の、ノートが、目に、入った。
時計の温度を、記録してきた、ノート。
毎朝、書き続けた、二年と、三ヶ月の、記録。
ノートを、手に、取った。
最後のページを、開いた。
「十二月三十一日 冷/映像なし/十日連続」
ペンを、握った。
しばらく、考えてから、書き加えた。
「一月一日 ノート、終わり」
ノートを、閉じた。
机の引き出しに、しまった。
大切な記録。
でも、もう、書く必要は、ない。
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夜。
冷蔵庫から、ビールを、出した。
ソファで、一人で、飲んだ。
元旦の夜。
いつもの夜とは、違う、特別な静けさ。
スマートフォンに、桑原さんから、もう一度、LINEが、来ていた。
*「桐島さん、今年、桐島さんがどんな一年を過ごすか、楽しみです」*
*「ありがとうございます」*
*「桑原さんの一年も、楽しみにしています」*
*「私も、フランスで、頑張ります」*
*「来週末、ふくろうに、行きませんか」*
*「ぜひ」*
短いやり取り。
でも、桑原さんとの会話は、いつも、ふくらみが、ある。
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ふと、空を、見上げた。
窓の外、夜の東京の空。
雲のない、澄んだ、夜空。
星が、いつもより、よく、見えた。
*(年が、明けた)*
*(時計が、ない)*
*(でも、続いていく)*
*(春が、来る)*
*(春になったら、ヨーロッパに、行く)*
*(ロンドン、ベルリン、アヴィニョン)*
*(桑原さんに、会いに行く)*
*(みんなの場所が、待っている)*
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ベッドに、入った。
目を、閉じた。
空のポケットに、手を、入れたまま。
眠った。
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翌日、一月二日。
目が、覚めた。
ナイトテーブルの上。
空。
時計が、ない。
でも、不思議と、寂しくは、なかった。
起き上がった。
カーテンを、開けた。
冬の青空。
今日、実家に、行く。
四年ぶり。
怖さは、まだ、あった。
でも、行く、と決めていた。
コーヒーを、淹れた。
ふと、ノートを、もう一度、開いた。
最後のページの、書き込み。
「一月一日 ノート、終わり」
その下に、何かを、書き加えたかった。
ペンを、握った。
「一月二日 実家へ」
書いた。
ノートを、閉じた。
引き出しに、しまった。
吉野さんに、連絡を、入れた。
「吉野さん、お正月に、すみません。今日、埼玉まで、お願いできますか」
「もちろんです、会長。何時に」
「十時、自宅で」
「承知しました」
電話を、切った。
窓の外、一月二日の朝の光。
元旦より、少しだけ、街が、動き始めていた。
車の音が、少し、増えていた。
人通りも、少し、増えていた。
*(新しい一年)*
*(時計の、ない、新しい一年)*
*(自分の足で、歩く)*
*(家族にも、会いに、行く)*
*(春に、ヨーロッパに、行く)*
*(夏には、桑原さんが、戻ってくる)*
*(みんなと、続いていく)*
窓の外、青空。
雲が、ほとんど、ない。
ふと、両手を、見た。
二年半、時計を、握ってきた手。
今は、何も、握っていない。
でも、開いている。
次の何かを、握れる手。
*(行こう)*
*(春が、来る)*
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**── 残高メモ(第3章末・第78話)──**
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 元旦〜1月2日 ギャンブル収益 | +0円 |
| 個人費用(ふくろう・タクシー・お年玉等) | ▲約5万円 |
| 前話繰り越し(個人) | 約27,644万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約27,639万円** |
*懐中時計、桐島の手元にはなし。ギャンブル収益、ゼロ。個人資金は、生活費としては40年以上賄える額。*
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(法人) | 約19,309万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約19,309万円** |
*年明けより、クロイツ社共同開発(年間2億円・3年計画)の正式契約準備に入る。月次余剰、3月までに月1,000万円、4月以降は月1,500万円超の見込み。*
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(KY Live) | 約15万円 |
| **KY Live 法人口座** | **約15万円** |
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(ナカジマ精工) | 約5,162万円 |
| **ナカジマ精工 口座残高** | **約5,162万円** |
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(田島フーズ) | 約1,755万円 |
| **田島フーズ 口座残高** | **約1,755万円** |
| 口座 | 残高 |
|:--|--:|
| 桐島遊馬(個人) | 約27,639万円 |
| KY Holdings(法人) | 約19,309万円 |
| KY Live | 約15万円 |
| ナカジマ精工 | 約5,162万円 |
| 田島フーズ | 約1,755万円 |
| **総資産(融資別)** | **約53,880万円** |
*融資借入残高:約23,718万円。品川ローン残高:約6,832万円。*
---
**第三章 〜秋風編〜 完**
*懐中時計を返却して、桐島は、能力を、失った。*
*でも、彼の足元には、五つの事業、二十人以上の仲間、四人の女性、いくつかの社会的な繋がりが、残っている。*
*時計は、彼を「ある場所」まで、運ぶための、乗り物だった。*
*今、彼は、その乗り物から、降りた。*
*そして、自分の足で、歩き始める。*
*春が、来る。*
*ヨーロッパが、待っている。*
*桑原彩花が、待っている。*
*みんなが、それぞれの場所で、続いていく。*
*次章「春風編」へ続く──*




