第77話 〜老人〜
十二月三十一日、大晦日の朝。
目が覚めた。
枕元の懐中時計に、手を、伸ばす。
冷たい。
十日連続。
ノートに、記録した。
「十二月三十一日 冷/映像なし/十日連続」
もう、温度のことは、書かなくても、よくなっていた。
でも、習慣として、書いた。
窓の外、大晦日の朝。
空が、澄んでいた。
冬らしい、清涼な青空。
雲が、ほとんど、なかった。
コーヒーを、淹れた。
瀬川さんの豆は、もう、ない。
代わりに、銀座で、新しく買った、深煎りの豆。
深い、ロースト感。
慣れない香り。
でも、悪くない。
ソファに、座った。
*(時計が、もう、温まらないことを、確信した)*
*(受け入れて、十日が、経った)*
*(不思議と、平穏だ)*
窓の外を、見ていた。
大晦日。
東京の街は、年末の静けさが、漂っていた。
いつもの月曜の朝より、車の音が、少ない。
人通りも、少ない。
*(みんな、実家に、帰っているか、休んでいるんだろう)*
*(俺は、明後日、実家に、行く)*
*(電話の続き)*
---
ふと、頭の中に、二年半前の、ある朝が、浮かんだ。
貯金、三万二千円。
無職。
二十八歳。
ギャンブルで、4,320万円、溶かした男。
あの男が、府中の競馬場のベンチで、ぼんやりしていた、その朝。
白髪の老人と、目が、合った。
老人が、消えた後、ベンチに、翠色の懐中時計が、残っていた。
あれから、二年と、三ヶ月。
*(東京競馬場、行ってみるか)*
*(あのベンチ)*
決めた。
吉野さんに、連絡を、入れた。
「吉野さん、今日、大晦日に、お願いするのは、申し訳ないんですけど、府中まで、出してもらえますか」
「もちろんでございます。何時に、出発しますか」
「お昼前。十一時半、自宅で」
「承知いたしました」
「ありがとうございます」
---
昼前。
吉野さんが、迎えに来た。
「会長、大晦日に、お一人で、競馬場ですか」
「ええ」
「有馬記念」
「中山ですよね、有馬記念」
「東京は、別のレース、ですか」
「はい。今日は、東京競馬場で、別のメインレースが、ある」
「了解しました」
車内で、ジャケットの内ポケットに、手を、入れた。
懐中時計の感触。
*(最後に、ここに、持っていこう)*
*(あのベンチに)*
なんとなく、そう思っていた。
時計を、捨てるつもりは、ない。
ただ、最後に、あのベンチに、座って、二年半を、振り返りたい。
それだけの、つもりだった。
---
午後一時。
東京競馬場に、着いた。
大晦日の、東京競馬場。
有馬記念は、中山だから、こちらは、サブの開催。
でも、家族連れや、年配の男性たちが、それなりに、来ていた。
いつもより、人は、少ないけど、活気は、ある。
吉野さんに、待っていてもらった。
「会長、何時頃まで」
「わからない。数時間、過ごす」
「では、お待ちしております」
「ありがとうございます」
俺は、競馬場の中に、入った。
パドックの方には、行かなかった。
馬券も、買わなかった。
時計が、冷たいから、賭ける気は、なかった。
ただ、競馬場の、奥の方へ、歩いた。
スタンドの、東側。
あのベンチが、あった場所。
二年半前、俺が、ぼんやりと、座っていた、ベンチ。
あった。
ベンチは、そこに、あった。
二年半経っても、変わらない場所。
木と、鉄でできた、ベンチ。
経年の汚れと、傷。
俺は、座った。
---
しばらく、目を、閉じていた。
二年半前の、自分が、ここに、座っていた。
借金、約三百八十万円。
貯金、三万二千円。
無職。
二十八歳。
負け続けた人生の、底。
目を、開けた。
大晦日の、府中の空。
澄んだ、青い空。
冬の太陽が、傾き始めていた。
遠くで、ターフビジョンの音が、聞こえていた。
第十一レースが、始まろうとしていた。
俺は、ジャケットの内ポケットから、懐中時計を、出した。
ベンチの上に、置いた。
翠色の蓋。
針が、相変わらず、逆向きに、動いている。
握ってみた。
冷たい。
*(二年半、ありがとう)*
*(俺を、ここまで、運んでくれた)*
時計を、ベンチの上に、戻した。
しばらく、目を、閉じていた。
---
隣で、誰かが、座る気配が、した。
目を、開けた。
白髪の老人が、いた。
俺の、隣に。
二年半前と、同じ姿。
小柄。
皺の深い顔。
澄んだ目。
古めかしい服装。
俺は、しばらく、無言で、老人を、見ていた。
老人が、こちらを、向いた。
「あんた、まだ、生きてたんだな」
声が、低く、暖かい。
「……あなたも」
「私は、生きてる、というのとは、ちょっと、違うんだがな」
老人が、ゆっくりと、笑った。
俺は、しばらく、何も、言えなかった。
二年半前。
あの日。
目が、合った。
そして、老人は、消えた。
今、目の前に、いる。
「お久しぶり、ですね」
俺は、言った。
「ああ。あんたから見れば、お久しぶり、だな」
「あなたから、見れば」
「私には、時間の流れ、というのが、ちょっと、違うんだ」
「……」
「お前さんの二年半は、私には、瞬きみたいなものだ」
「あなたは、何者ですか」
「うん?」
「あの時計、あなたが、置いていったんですよね」
「置いていったのか、忘れたのか。それは、わからない」
「あの時計、何だったんですか」
「うん」
老人が、空を、見上げた。
冬の青い空。
「あれは、時計だ」
「それは、わかります」
「お前さんが、思っているような、ものだ」
「予知能力」
「能力、という言い方は、しっくり、来ないがな」
「では、何ですか」
「乗り物だ」
「乗り物」
「ああ。あんたを、別の場所に、運ぶための、乗り物」
俺は、ベンチの上の、時計を、見た。
「乗り物としては、十分、機能した、ようだな」
老人が、頷いた。
「あんた、変わった、と聞いている」
「ええ」
「貯金三万二千円が、五億になった」
「あなた、知ってるんですか」
「私は、時計の、出し手だ。出した時計が、どう使われているかは、わかる」
「……」
「あんた、いい使い方を、してきた」
「俺は、みんなのおかげで」
「みんなが、いるから、いい使い方が、できた、と」
「ええ」
「それは、正しい認識だ」
老人が、頷いた。
---
「お前さん、この時計を、持って、ここに、来た」
「ええ」
「お前さんから見れば、もう、温度が、来ない、のだろう」
「九日、温度が、来ません」
「九日か」
「ええ」
「ということは、もう、お前さんのものじゃ、ないんだ」
俺は、ベンチの上の、時計を、見た。
翠色の蓋。
針が、逆向きに、動いている。
「次の誰かに、渡す時が、来た、ということですか」
「ああ」
「俺、誰かに、渡せ、と」
「いや」
老人が、首を、振った。
「私が、引き取る。次の誰かに、私が、渡す」
「あなたが」
「ああ。最初に、私が、お前さんに、渡したのと、同じだ」
「俺、自分で、選んだわけじゃ、なかった」
「お前さんが、その時、その場所に、いたから、渡された」
「では、次の誰かも」
「その時、その場所に、いる、誰かに、渡る」
「同じパターンで」
「ああ。ずっと、同じだ」
---
俺は、しばらく、無言で、時計を、見ていた。
二年半前。
あの時、ベンチに、時計が、残っていた。
偶然だった。
俺の、人生を、変える偶然。
今、時計を、返す。
次の誰かが、同じように、ここに、いるだろう。
その人が、時計を、見つける。
その人の、人生も、変わる。
*(俺は、たまたま、運ばれた)*
*(次の誰かも、たまたま、運ばれる)*
*(人生は、たまたま、で、できている)*
「あなた」
「ん」
「最後に、聞きたいことが、あります」
「どうぞ」
「時計の、針が、逆向きに動いているのは、何か、意味が、あるんですか」
老人が、笑った。
「気づいた、か」
「ええ」
「あれは、時間が、巻き戻る、わけじゃ、ない」
「では」
「乗り物の、印だ」
「印」
「ああ。前に、進む人と、過去に、戻ろうとする人。時計は、両方を、見ている。だから、針は、逆向きに、動く」
「過去に、戻ろうとする」
「お前さん、二年半前、過去に、戻りたかったろう」
「ええ」
「ギャンブルで、溶かしたお金。失敗した人生。なかったことに、したかった」
「はい」
「時計は、それを、知っていた」
「俺、過去には、戻れなかった」
「戻る必要は、なかった」
「ええ?」
「お前さんは、過去を、抱えたまま、前に、進んだ」
「ええ」
「それが、正解だった」
老人が、頷いた。
「時計は、過去を、抱えた人が、前に、進むための、乗り物だ。針が、逆向きに、動いているのは、その印」
「……」
「過去を、抱えたまま、前に進む。それは、簡単なことじゃ、ない」
「ええ」
「お前さんは、それを、やり遂げた」
「みんなのおかげです」
「みんなに、感謝、しているからこそ、やり遂げられた」
老人が、こちらを、向いた。
「お前さん、もう、時計、要らない。自分の足で、立っている」
「……」
「次は、別の場所で、別の使い方を、する」
老人が、ゆっくりと、ベンチから、立ち上がった。
「ちょっと、待ってください」
俺は、立ち上がった。
「最後に、もう一つだけ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなたも、昔、時計を、持っていたんですか」
老人が、しばらく、考えてから、答えた。
「持っていた、時期も、ある」
「使っていた」
「ああ」
「あなたの、過去も、ですか」
「私の、過去も、複雑、だった」
「……」
「お前さんの、ように、誰かに、運ばれて、ここまで、来た」
「あなたも、運ばれて」
「ああ」
「そして、今、運ぶ側に」
「ああ」
「あなたが、運ばれた時の、相手は」
「私の前の、運び手」
「あなたは、その人に、感謝、しているんですか」
「いや」
老人が、首を、振った。
「私の前の、運び手は、私の、人生を、変えた。感謝も、しているが、恨んでも、いる」
「ええ?」
「過去を、抱えて、前に進むのは、簡単じゃ、ない」
「ええ」
「私は、まだ、過去を、抱えきれて、いない」
「……」
「だから、今でも、運び手として、ここに、いる。次の誰かを、運ぶことで、私自身も、運ばれているのかも、しれない」
老人が、ぽつりと、言った。
俺は、しばらく、無言だった。
「お前さんは、私と、違う」
「どう、違うんですか」
「お前さんは、過去を、抱えきれた」
「俺、まだ、迷っていますよ。明後日、母に、会いに行きます。会えるか、自信、ないです」
「会えるよ」
「なぜ、わかるんですか」
「会えるよ」
老人が、もう一度、頷いた。
---
「では、時計を」
老人が、手を、伸ばした。
俺は、ベンチの上の、時計を、取った。
翠色の蓋。
握ってみた。
冷たい。
でも、その冷たさが、最後の冷たさだと、わかった。
手のひらに、馴染んだ重さがあった。
二年半、毎朝、握ってきた重さ。
温かい日も、冷たい日も、ずっと、この手の中に、あった。
*(こいつと、過ごしたんだな)*
*(貯金三万二千円で、負け続けてた俺を、ここまで、運んでくれた)*
ありがとう、と、言おうとした。
でも、声が、うまく、出なかった。
指先が、ほんの少しだけ、震えていた。
老人の手に、時計を、置いた。
置いた瞬間、手のひらの真ん中に、ぽっかりと、空白が、残った。
その瞬間。
時計が、老人の手の中で、温かく、光った。
翠色の蓋が、ゆっくりと、強い光を、放った。
俺は、目を、細めた。
光が、ベンチを、照らした。
冬の府中の、ベンチを。
二年半前と、同じ場所を。
老人が、笑った。
「ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
「お前さん、いい使い方を、してきた」
「ありがとうございます」
「春には、ヨーロッパに、行くんだろう」
「ええ」
「楽しんでこい」
「はい」
老人が、ゆっくりと、立ち上がった。
ベンチから、離れていった。
群衆の中に、混じっていった。
俺は、その後ろ姿を、目で、追った。
白髪の、小柄な背中。
古めかしい服装。
数歩、歩いた後。
老人の姿が、消えた。
目の前に、いた。
数歩、進んだ。
そして、もう、いなかった。
二年半前と、同じだった。
---
俺は、しばらく、ベンチに、座ったまま、いた。
冬の府中の、午後の光。
ターフビジョンの音。
遠くで、家族連れの笑い声。
ジャケットの内ポケットに、手を、入れた。
空。
時計が、ない。
もう一度、入れ直した。
空。
*(時計が、ない)*
*(軽い)*
俺は、しばらく、空のポケットに、手を、入れたまま、いた。
立ち上がった。
ベンチを、後にした。
駐車場へ、戻った。
吉野さんが、車の前で、待っていた。
「会長、お疲れさまでした」
「すみません、お待たせして」
「いえ」
「南青山に、戻ってください」
「承知しました」
---
車内で、ぼんやりと、外を、見ていた。
窓の外。
大晦日の、夕暮れの、府中。
空が、徐々に、赤く、染まり始めていた。
*(時計を、返した)*
*(老人に、返した)*
*(次の誰かに、渡される)*
胸の奥が、一度だけ、きゅっと、鳴った。
昨日、電話で、母の声を聞いた時の、あの感じに、少しだけ、似ていた。
でも、それは、すぐに、引いていった。
後に残ったのは、悲しさでも、寂しさでも、なかった。
ただ、ふっと、何かが、軽くなった感じ。
吉野さんが、バックミラー越しに、こちらを、見た。
「会長、ご気分は、いかがですか」
「悪くないです」
「左様でございますか」
「むしろ、晴れやかな感じ、です」
「それは、何よりでございます」
吉野さんが、頷いた。
*(吉野さんに、時計の話を、する日も、いつか、来るかもしれない)*
*(でも、今日じゃ、ない)*
---
タワーマンションに、戻った。
リビングに、入った。
窓の外、東京の大晦日の夜景。
街は、年末年始の、特別な空気。
マンションの窓に、いつもより、たくさんの灯りが、ともっていた。
家族と過ごす、人たちの灯り。
ジャケットを、脱いだ。
内ポケットを、確認した。
空。
いつも、そこに、あった時計が、もう、ない。
でも、不思議と、寂しくは、なかった。
ソファに、座って、コーヒーを、淹れた。
深煎り。
ロースト感が、深い。
スマートフォンを、開いた。
桑原さんから、年末の挨拶のLINEが、来ていた。
*「桐島さん、今年も、お世話になりました。よいお年を、お迎えください」*
*「桑原さんも、お世話になりました。よいお年を」*
アンちゃんから。
*「遊馬くん、今年もありがとう! 来年もよろしく!」*
*「アンちゃんも。来年、配信、頑張って」*
里中から。
*「桐島さん、今年は、お世話になりました。来年も、よろしくお願いします」*
*「里中さん、こちらこそ」*
瀬川さんから。
*「桐島さん、今年は、本当に、ありがとうございました。来年、新しいお店、楽しみです」*
*「瀬川さんも、よいお年を。美咲ちゃんに、よろしくお伝えください」*
みんなと、年末の挨拶を、交わした。
短いやり取り。
でも、それぞれに、繋がっている感じが、した。
---
ベランダに、出た。
大晦日の夜風。
冷たい。
東京のビル群が、夜景の中に、ある。
遠くで、除夜の鐘の音が、聞こえそうだった。
まだ、早い。
深夜、零時近くにならないと、鳴らない。
でも、空気が、その音を、待っている感じだった。
*(今年が、終わる)*
*(二年半、運んでくれた時計が、ない)*
*(明日から、新しい年)*
*(新しい、俺)*
ふっと、笑った。
*(新しい俺、なんて、大げさだ)*
*(俺は、俺のまま)*
*(ただ、時計が、ない)*
ベランダから、リビングに、戻った。
ソファに、座って、目を、閉じた。
外で、除夜の鐘の予感が、漂っていた。
---
**── 残高メモ ──**
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 12月後半 ギャンブル収益 | +0円(時計、温度なし) |
| 個人費用(タクシー・コーヒー豆等) | ▲約3万円 |
| 前話繰り越し(個人) | 約27,647万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約27,644万円** |
*懐中時計、12月31日(大晦日)の午後、東京競馬場のベンチにて、老人(プロローグの白髪の老人)に返却。十日連続で温度が来ない状態を確認した上での、自然な返却。時計の能力は、桐島遊馬から、完全に、失われた。*
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(法人、12月分計上済み) | 約19,309万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約19,309万円** |
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(KY Live) | 約15万円 |
| **KY Live 法人口座** | **約15万円** |
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(ナカジマ精工) | 約5,162万円 |
| **ナカジマ精工 口座残高** | **約5,162万円** |
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(田島フーズ) | 約1,755万円 |
| **田島フーズ 口座残高** | **約1,755万円** |
| 口座 | 残高 |
|:--|--:|
| 桐島遊馬(個人) | 約27,644万円 |
| KY Holdings(法人) | 約19,309万円 |
| KY Live | 約15万円 |
| ナカジマ精工 | 約5,162万円 |
| 田島フーズ | 約1,755万円 |
| **総資産(融資別)** | **約53,885万円** |
*融資借入残高:約23,718万円。品川ローン残高:約6,832万円。物語の核となっていた懐中時計は、2026年12月31日、桐島から老人へ返却。針の逆向きに動く意味(過去を抱えたまま前に進むための印)が、老人との対話で明らかに。桐島は、能力なし、自分の足で立つ、新しい段階へ。*




