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第76話 〜ある朝〜

 十二月の第四週、月曜日の朝。


 目が覚めた。

 枕元の懐中時計に、手を、伸ばす。


 冷たい。


 しばらく、握ったまま、目を、閉じていた。

 熱が、来るのを、待った。


 来なかった。


 昨日、海外から、帰国したばかりだった。

 マカオ、シンガポール、ラスベガス。

 時計が、まだ動くうちに、と、最後の大遠征に、出ていた。

 あの旅の、終わり頃から、時計の温度は、戻ったり、消えたりを、繰り返していた。


 *(旅の、疲れかと、思っていた)*


 *(でも、東京に、帰っても──今朝も、冷たい)*


 起き上がって、カーテンを、開けた。

 十二月後半の朝の光。

 薄い灰色の空。

 冬。

 窓ガラスに、結露が、付いていた。


 時計を、テーブルに、置いた。

 翠色の蓋。


 ノートに、記録した。

 「十二月二十二日 冷/映像なし」


 ペンを、置いた。


 窓の外、街路樹は、もう、葉が、すべて、落ちていた。

 裸の枝が、灰色の空に、伸びていた。


 *(冷たい朝)*


 *(最近、こういう朝が、多くなっている)*


 でも、それ以上の感想は、なかった。

 ただ、淡々と、コーヒーを、淹れて、朝食を、食べた。

 いつもの、月曜の朝。


---


 九時。

 吉野さんが、迎えに来た。


「会長、おはようございます」


「おはようございます」


 車内で、窓の外を、見ていた。

 十二月の月曜の朝。

 通勤の人が、コートを、着込んで、急ぎ足で、歩いていた。

 年末の、忙しさが、にじんでいた。


 ラジオで、年末のニュースが、流れていた。

 今年の流行語大賞。

 来年のカレンダーの売れ筋。

 帰省ラッシュの予想。


 *(年末か)*


 *(あと、十日ほどで、元旦)*


 *(母に、電話する)*


 桑原さんとの会話を、思い出していた。

 福田さんの、言葉も。


 *(年末、母に、電話する)*


 決めていた。

 でも、まだ、具体的な日にちは、決めていない。

 大晦日に、するか、もう少し、早めに、するか。


---


 オフィスに、着いた。

 今週は、年末モード。

 月末の業務と、年末の挨拶回りで、忙しい。


 西村が、自分のデスクで、コーヒーを、飲んでいた。


「会長、おはよう」


「おはよう」


「今週、忙しいよ。年末の取引先回り、十社、入ってる」


「ありがとう、頼む」


「会長は、年明けの動きに、集中して」


「了解」


 山下が、会議室から、出てきた。


「会長、おはようございます。今週末で、年内の業務、一段落いたします。年明け以降の、事業計画の最終確認を、本日中に、お願いします」


「了解」


「あと、橘さんの初月の業務報告も、本日、お時間あれば」


「橘さんから、もう、報告が、来てるのか」


「ええ。先週末、メールで、提出していただきました。一週間分の、データ分析結果」


「すごいな、橘」


「私が、確認しましたが、内容、極めて、高水準でございます」


「了解。読みます」


 山下が、頷いて、自分の席に、戻った。


---


 午前中、橘の業務報告を、読んだ。

 KY Pet Foods のシェルター別フード消費分析。

 月二回の搬送ペースで、各団体の消費量と、ロス率を、計算していた。

 各団体ごとに、最適な搬送量を、提案していた。


 数字が、ずらっと、並んでいた。

 でも、橘の分析は、ただの数字の羅列じゃ、なかった。

 最後に、要点が、まとめられていた。


 *「現在の月二回搬送は、消費ペースに、ほぼ、合致している。ただし、関西の兵庫団体だけ、搬送量が、十パーセント、不足している。次回、調整を、提案する。北海道の札幌団体は、冬季のフード保管に、課題あり。配送頻度を、月三回に、増やすことで、改善可能。試算では、年間追加コスト、約八十万円」*


 *(橘らしい、的確な分析)*


 *(数字の中に、現場の課題まで、見えている)*


 俺は、橘に、メールを、書いた。


 *「橘さん、業務報告、拝読しました。札幌の月三回搬送、ぜひ、進めましょう。山下と、私で、調整します。兵庫の搬送量も、来月から、調整します」*


 すぐに、橘から、返信が、来た。


 *「ありがとうございます。次月以降の、データを、注視します」*


---


 午後。

 ナカジマ精工に、寄った。

 クロイツ社との、共同開発の最終確認。


 松田、健太郎、中島さんと、面談。

 四人で、契約条件を、最終確認した。


「会長、私たちは、お受けしたいと、考えています」


 健太郎が、言った。


「父も、同意しています」


「中島さん、了解されたんですね」


「ええ。先週、長く、話し合いました。これは、ナカジマ精工の、新しい一歩、と」


「松田さんは」


「もちろん、お受けします。私の研究を、製品として、世に、出せる機会です」


「了解。年明けに、クロイツ社に、正式回答します」


 四人で、頷き合った。


 *(ナカジマ精工が、第二創業の段階に、入る)*


 *(年間二億円の、新規収入)*


 *(これで、グループは、確実に、自走できる)*


---


 夜。

 タワーマンションのリビング。


 窓の外、東京の夜景。

 十二月後半の夜は、本当に、冷たい。


 懐中時計を、テーブルに、置いた。

 握ってみた。

 冷たい。


 *(今日、結局、温かくなかった)*


 でも、まだ、明日、温かくなるかも、しれない。

 いつものペース。


 ベッドに、入った。

 目を、閉じた。


---


 翌日、火曜日の朝。


 目が覚めた。

 時計を、握った。


 冷たい。


 *(昨日も、冷たかった)*


 *(今日も、冷たい)*


 二日連続。

 よくあること。

 でも、冬になって、二日連続が、増えていた。


 ノートに、記録。

 「十二月二十三日 冷/映像なし」


 窓のカーテンを、開けた。

 火曜の朝。

 十二月。

 寒い。


 コーヒーを、淹れた。

 いつも通り。


 オフィスに、向かった。

 西村と、山下と、軽く、雑談を、しながら、業務を、片付けた。


 時計のことは、一日中、頭の片隅で、考えていた。

 でも、それ以上の感情は、なかった。


 夜、タワーマンションに、戻った。

 時計を、握った。

 冷たい。


 *(今日も、温かくならなかった)*


 ベッドに、入った。

 目を、閉じた。


---


 水曜日の朝。


 目が覚めた。

 時計を、握った。


 冷たい。


 今度は、しばらく、握ったまま、動かなかった。


 *(三日連続)*


 ぶるっと、何かが、走った。


 体ではなく、心の中に。


 *(三日連続で、温かくならないのは、初めてだ)*


 *(最近、冷たい日が、増えていた。でも、二日続いて、三日目に、温かくなる、というパターンが、続いていた)*


 *(三日連続は、初めて)*


 ノートを、開いた。

 ペンを、握った。


 「十二月二十四日 冷/映像なし/三日連続」


 書いてから、ペンを、置いた。


 ノートを、しばらく、見つめていた。


 *(これは、終わりの始まりかも、しれない)*


 窓のカーテンを、開けた。

 水曜日の朝。

 クリスマスイブ。

 窓ガラスに、結露。

 白く、滲んだ朝。


 コーヒーを、淹れた。

 手が、ほんの少しだけ、震えていた。


 *(落ち着け)*


 *(三日連続、冷たい日が、続いただけだ)*


 *(明日、温かくなるかもしれない)*


 でも、心のどこかで、わかっていた。


 *(明日も、たぶん、冷たい)*


 *(いつかの、その日が、来た)*


---


 オフィスに、着いた。

 今日は、年内最終の、月次レビュー。

 山下と、長く、話す予定だった。


 会議室で、山下と、向き合った。


「会長、おはようございます」


「おはよう」


「本日は、十二月の月次と、来年の事業計画の、最終確認です」


「山下」


「はい」


「その前に、一つ、伝えておきたいことが」


「はい」


「俺の、ギャンブルでの稼ぎ、もう、ほとんど、止まる」


 山下が、しばらく、こちらを、見ていた。


「……それは、お確実ですか」


「三日連続、温度が、来ない」


「お温度」


「俺の、仕掛けの、温度」


「ええ」


「今までは、二日続いて、三日目に、回復していた。三日連続は、初めて」


 山下が、メモを、取らなかった。

 ただ、聞いていた。


「明日も、おそらく、温度は、来ません」


「ええ」


「そして、明後日も」


「ええ」


「年末には、もう、ギャンブルでは、稼げない、と」


「そう、思います」


 山下が、しばらく、沈黙した。


 会議室の窓の外で、ビルの工事現場の音が、遠くから、聞こえていた。


「桐島さん」


「はい」


「準備は、できております」


 俺は、頷いた。


「グループ全体の月次余剰、十一月時点で、約六百万円。十二月は、すでに、約八百万円に、改善。年明けからの、クロイツ社共同開発で、年間二億円の追加収入が、確定。月次余剰は、月一千五百万円を、超える見込みです」


「ええ」


「桐島さんの個人資金、二億七千万円。この金額は、生活費としては、四十年以上、賄える額です。何が、起きても、桐島さんが、困ることは、ありません」


「うん」


「会社も、桐島さんも、安全に、運営できます」


「ありがとう」


「桐島さん、よく、ここまで、来てくださいました」


 山下の声が、いつもより、少しだけ、深かった。


「山下、ありがとう」


「業務上、当然のことです」


 二人で、笑った。


 *(山下が、最後に「業務上、当然のことです」と言うのが、嬉しかった)*


 *(俺が、ギャンブルで稼げなくなっても、山下は、変わらない)*


 *(CFOとして、淡々と、仕事を、続けてくれる)*


---


 午後、月次レビューを、続けた。

 数字を、淡々と、確認した。

 来年の事業計画も、確認した。


 ナカジマ精工。

 田島フーズ・KY Pet Foods。

 KY Live。

 不動産。

 FORECAST。

 KY Food Network(来年立ち上げ)。


 すべての事業が、それぞれ、成長軌道に、ある。

 桐島の個人資金からの追加出資なしで、自走可能。

 むしろ、来年からは、グループ全体で、月一千万円超の余剰が、出る。


「会長、来年の三月までに、私が、提案している、月次余剰一千万円の目標、達成見込みです」


「いいニュースだ」


「クロイツ社共同開発の効果が、出始める、四月以降は、もっと、伸びます」


「うん」


「桐島さんは、安心して、別のことに、集中していただいて、結構です」


「別のこと」


「ええ。新しい事業の構想、私的なご予定、海外への渡航。何でも」


 山下が、頷いた。


 *(山下は、俺が、新しい段階に、入ることを、認識している)*


 *(時計が、止まる前提で、すでに、すべてを、組み立てている)*


---


 夕方、オフィスを、出た。

 吉野さんの車で、南青山に、戻った。


 車内で、ぼんやりと、考えていた。


 *(三日連続)*


 *(明日も、たぶん、冷たい)*


 *(時計が、ついに、止まる)*


 *(俺は、これを、受け入れる)*


 予感は、半年以上前から、あった。

 でも、実際に、その日が、来てみると、不思議と、悲しさは、なかった。

 ただ、ふっと、何かが、降りた感じ。


 *(時計が、二年半、俺を、運んでくれた)*


 *(次は、自分の足で、歩く)*


---


 タワーマンションに、戻った。

 リビングに、入った。


 窓の外、東京の夜景。

 クリスマスイブの夜。

 街は、確かに、いつもより、明るかった。

 マンションの窓に、クリスマスのイルミネーションが、見えた。

 道行く人も、少し、嬉しそうな顔だった。


 懐中時計を、テーブルの上に、置いた。

 翠色の蓋。


 *(クリスマスイブに、時計が、止まる)*


 *(不思議な、タイミング)*


 ソファに、座った。

 コーヒーを、淹れた。


 ふと、スマートフォンを、開いた。

 母の連絡先。


 *(年末まで、あと、一週間)*


 *(電話、するか)*


 しばらく、画面を、見ていた。


 通話ボタンを、押した。


 呼び出し音が、鳴った。

 一回、二回、三回。


 *(出ない)*


 四回目。


「もしもし」


 母の、声。


 四年ぶり。


「もしもし、母さん」


「あんた」


「俺、遊馬」


「わかってる。番号、登録、消してない」


「……ええ」


「久しぶり」


「久しぶりです」


「どうしたの」


「いえ、ちょっと、声を、聞きたくなって」


 母が、しばらく、無言だった。


「今、どこに、いる」


「東京。南青山」


「南青山」


「ええ」


「あの頃と、住む場所、違うんだね」


「ええ」


「お父さん、来週、誕生日だよ」


「父さん、誕生日」


「忘れてた?」


「忘れてた」


「来週の月曜。あんた、知らないでしょ」


「いえ、知らなかった」


「電話、しなさい」


「うん」


「父さん、最近、足が、弱って、よく、転ぶの。心配だから」


「父さん、大丈夫なの」


「大丈夫。年なりよ」


「うん」


「母さんは、元気だよ」


「よかった」


「あんたは、どうなの」


「俺、元気」


「仕事、何してるの」


「会社を、いくつか、経営してる」


 母が、しばらく、無言だった。


「経営、ね」


「ええ」


「あんた、変わった?」


「変わったと、思う」


「そう」


「母さん、今度、お正月、行ってもいい?」


 母が、また、無言だった。


「いいわよ」


「父さんに、聞いてからの方が」


「父さんも、たぶん、いい、って言う」


「うん」


「いつ、来る?」


「元旦か、二日か」


「二日にしなさい。元旦は、父さん、寝てるから」


「了解」


「待ってる」


 電話が、切れた。


 俺は、しばらく、スマートフォンを、手に、持ったまま、いた。


 窓の外、東京のクリスマスイブの夜。

 遠くで、教会の鐘の音が、聞こえた気がした。


 *(母と、話した)*


 *(四年ぶり)*


 *(声が、変わっていなかった)*


 *(俺の言葉も、母には、届いていた)*


 *(年明け、会いに、行く)*


 ソファに、座った。

 涙が、出てきた。

 拭いた。

 また、出てきた。


 *(俺、今、泣いてるな)*


 *(なんで、泣いてるんだろう)*


 時計を、握ってみた。

 冷たい。

 でも、何か、温かい気がした。

 錯覚かも、しれない。


 *(明日、競馬場、行こう)*


 *(東京競馬場、ベンチ)*


 *(二年半前、時計を、拾った場所)*


---


**── 残高メモ ──**


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 12月第3週後半 ギャンブル収益 | +約30万円 |

| 個人費用 | ▲約5万円 |

| 前話繰り越し(個人) | 約27,622万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約27,647万円** |


*時計、三日連続で温度が来ない。グループ全体は、すでに桐島個人資金なしで自走可能な体制。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(法人、12月分計上済み) | 約19,309万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約19,309万円** |


*年内最終月次レビュー完了。来年の事業計画確定。クロイツ社共同開発(年間2億円・3年計画)正式回答準備中。月次余剰、11月600万→12月800万に改善。来年3月までに月1,000万、4月以降は1,500万超の見込み。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(KY Live) | 約15万円 |

| **KY Live 法人口座** | **約15万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(ナカジマ精工) | 約5,162万円 |

| **ナカジマ精工 口座残高** | **約5,162万円** |


*クロイツ社共同開発、年明けに正式契約。年間2億円の開発委託費が新規発生。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(田島フーズ) | 約1,755万円 |

| **田島フーズ 口座残高** | **約1,755万円** |


| 口座 | 残高 |

|:--|--:|

| 桐島遊馬(個人) | 約27,647万円 |

| KY Holdings(法人) | 約19,309万円 |

| KY Live | 約15万円 |

| ナカジマ精工 | 約5,162万円 |

| 田島フーズ | 約1,755万円 |

| **総資産(融資別)** | **約53,888万円** |


*融資借入残高:約23,718万円。品川ローン残高:約6,832万円。時計、3日連続で冷たい状態。桐島、4年ぶりに母親に電話。正月(1月2日)に実家訪問の約束。父の誕生日も翌週月曜と判明。「あんた、変わった?」「変わったと、思う」という対話。*


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